組織的犯罪は例外であって大半は個人による犯罪だ。それにも拘わらず日本では、言い掛かりに近い形での連帯責任が問われ勝ちだ。
人は社会から分離して存在できず何らかの形で繋がりを持っている。しかし繋がりは必ずしも因果を意味しない。この2者を混同すべきではない。不祥事があればすぐに組織の責任が問われるが大半は理不尽なものだ。
凶悪な犯罪が行われた場合、親族など関係者の多くが道義的責任を感じる。この感情に付け込んで責任を追及することは卑劣な行為だろう。子供の犯罪で親の責任が問われるならともかく、親の犯罪で子供が罪を負わされるべきではない。親には子供に対する保護責任や教育責任があるが子供にそんなものがある筈が無い。
企業などの組織の責任はどうだろうか。個人的な犯罪に対して企業が社内で処罰することは正当だが、社会には企業を罰する権利は無い。もしあるメーカーの従業員が凶悪犯罪を犯した場合、「犯罪が起こったのはあの工場があるからだ。工場の存続を許すな」という主張に賛同できる人は殆んどいないだろう。企業は人を集める。人が集まればその中から一定数の犯罪者が生まれるだろう。それを企業の責任にはできない。非難されるべきなのは犯罪者個人であり工場の責任を問うことはできない。
警察官や裁判官であれば事情は異なる。犯罪を抑止すべき立場の人による犯罪であれば組織としての責任が問われる。
米軍は警察でも裁判所でもない。だからその所属員による犯罪は一民間企業の従業員の犯罪と同等に扱われるべきだろう。今回の暴行殺人事件を根拠にして米軍基地の撤去を主張することは無理筋だ。増してや今回の犯人は軍人ではなく基地に勤務する民間人に過ぎない。公人ではなく明白な私人だ。
原爆投下は組織による犯罪だ。ルーズベルトとトルーマンは国民によって選ばれた公人でありその指示に基づいて原爆は投下された。これは公人としての戦争犯罪だからアメリカ国民はその責任を負わねばならない。
個人の犯罪を組織の犯罪に摩り替えるためには無理な理屈が必要だ。「米軍は本質的に悪い。悪い組織には悪人が集まる。だから米軍基地の存在そのものが悪の温床だ」という理屈は通用しない。米軍を暴力団や暴走族と同一視しない限りその存在を否定できない。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという感情は理解できる。しかし感情は個人的なものだ。中国人による犯罪の被害者が中国人を毛嫌いしても許容される。個人的感情を咎めることは難しい。しかし彼が「中国人を地上から殲滅せよ」などと主張するなら許容できなくなる。それは公私の混同だ。
今回の事件において日米地位協定は捜査の妨害をしなかった。だから日米地位協定とは無関係であり、今回の事件を根拠にして地位協定を否定することは不可能だ。日本側として可能なことはせいぜい綱紀粛正の要請までであってそれ以上の要求は米国側の反発を招くだけだ。
人は社会から分離して存在できず何らかの形で繋がりを持っている。しかし繋がりは必ずしも因果を意味しない。この2者を混同すべきではない。不祥事があればすぐに組織の責任が問われるが大半は理不尽なものだ。
凶悪な犯罪が行われた場合、親族など関係者の多くが道義的責任を感じる。この感情に付け込んで責任を追及することは卑劣な行為だろう。子供の犯罪で親の責任が問われるならともかく、親の犯罪で子供が罪を負わされるべきではない。親には子供に対する保護責任や教育責任があるが子供にそんなものがある筈が無い。
企業などの組織の責任はどうだろうか。個人的な犯罪に対して企業が社内で処罰することは正当だが、社会には企業を罰する権利は無い。もしあるメーカーの従業員が凶悪犯罪を犯した場合、「犯罪が起こったのはあの工場があるからだ。工場の存続を許すな」という主張に賛同できる人は殆んどいないだろう。企業は人を集める。人が集まればその中から一定数の犯罪者が生まれるだろう。それを企業の責任にはできない。非難されるべきなのは犯罪者個人であり工場の責任を問うことはできない。
警察官や裁判官であれば事情は異なる。犯罪を抑止すべき立場の人による犯罪であれば組織としての責任が問われる。
米軍は警察でも裁判所でもない。だからその所属員による犯罪は一民間企業の従業員の犯罪と同等に扱われるべきだろう。今回の暴行殺人事件を根拠にして米軍基地の撤去を主張することは無理筋だ。増してや今回の犯人は軍人ではなく基地に勤務する民間人に過ぎない。公人ではなく明白な私人だ。
原爆投下は組織による犯罪だ。ルーズベルトとトルーマンは国民によって選ばれた公人でありその指示に基づいて原爆は投下された。これは公人としての戦争犯罪だからアメリカ国民はその責任を負わねばならない。
個人の犯罪を組織の犯罪に摩り替えるためには無理な理屈が必要だ。「米軍は本質的に悪い。悪い組織には悪人が集まる。だから米軍基地の存在そのものが悪の温床だ」という理屈は通用しない。米軍を暴力団や暴走族と同一視しない限りその存在を否定できない。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという感情は理解できる。しかし感情は個人的なものだ。中国人による犯罪の被害者が中国人を毛嫌いしても許容される。個人的感情を咎めることは難しい。しかし彼が「中国人を地上から殲滅せよ」などと主張するなら許容できなくなる。それは公私の混同だ。
今回の事件において日米地位協定は捜査の妨害をしなかった。だから日米地位協定とは無関係であり、今回の事件を根拠にして地位協定を否定することは不可能だ。日本側として可能なことはせいぜい綱紀粛正の要請までであってそれ以上の要求は米国側の反発を招くだけだ。