「準難民」ですか。
「準難民法」を作り政府はボランティアを続けるようですね。
「難民問題」は、「難民法」があるのに、やはり、まだ「国民的な合意ができていない事項」なのでしょうね。
対立する意見を持つ国民がいる場合、その同意を得ることに二項対立的な議論を行い多数決により解決することを「正道」とすることが間違いだとは思いませんが「熟成された民主主義」だとは思えません。なんか与党も野党も「本質的な議論を」避けているなと感じてしまいます。
参議院選挙前だからどの政党も、触れにくい問題なのかもしれませんね。「充分論議されつくしていない問題」(政治的な慣用句ですね)なのでしょう。
あまり関係ないことだと思っている「公立学校の先生」もいるかもしれませんが、実はこの問題は学校現場でも、結構大事な問題になるのです。「長期にわたり日本に滞在する人への教育」をどうするかという問題に「先生たち」が直面します。
具体的には「もし、学校へ日本語を理解できない子どもたちがやってきたら、誰が日本語を教えるのか」という「日本語教育」の課題です。
翻訳機能が付いたスマホや情報端末があるから、担当になることは、昔と違い、それほど難しいことではないかもしれません。担任から外れることがストレスになるかもしれませんね。今年度はもう始まっているので、担任ならあまり関係がないかもしれませんが、「担任外」なら「世論に肩押しされた政治家たちが決める法律により」急に「担当」になることもありますよね。ちょっと注目しておいた方がいいですね。
かつて「中国大陸に残されていた在留孤児」、「ブラジル移民」と呼ばれた方々が日本に帰ってきたとき日本の学校では「日本語教室」が開設されました。
「帰国子女」という最近は呼ばれるようになった「海外での生活が長い子どもたちとその保護者」への教育のサービスです。海外に日本人が長期に住む場合は補習校という外国語を学ぶ場所を日本政府が作っています。
こうした教室の開設に「普通の公立小学校」でかかわった経験があります。
最初の問題は「誰が担当するのか」ということでした。採用試験の項目に「中国語」も「ブラジル語」もないので、大学時代に学んだ人はいないか聞いて回りますが、誰もいません。中国が大きな国で方言がたくさんあることや、ブラジル語はポルトガル語だということも後から知ったことです。
子供は自然となじむから日本語も自然と入るだろうという感覚もあったのですが「教科の指導」は日本語で行っていた時代です。クラス担任の先生と「担当者」がてんやわんやしたことを思い出しました。
困ったこともいくつかありました。「子どもたちや保護者が生まれた国を母国として認識している場合、そこへ帰ることを期待して、母国のアイディンテティをどう維持していくか」、そう日本の教育は「日本語によって日本人化」させることでもあるわけですから、母国語による教育も必要だということです。
文化の違いを知ることは大切ですが、文化の違いが子どもたちのトラブルの原因になることもありました。小学校ではサッカーのポジショニングやボールの取り方ですらトラブルの原因になったし、意見が対立した時のおさめ方も違いました。
こうしたことが、今では長期の「日本に商用で来る中東や東南アジアの方々の子どもたち」への対応の中でも見られるということを聞いたことがあります。
当時はそうした担当者を公立学校に派遣する制度も不十分で「学校に配備する加配の確保のため」特別支援教室(当時は障がい児学級)という位置づけでの人の配置でしたが、今は整備されているのでしょうか。
「教科担任制」を声高に誇る学校体制にも不備な点はあります。「教科の専門性」を重視しているのに、教員免許に「総合的な探求の時間」「道徳」はないのです。学習を俯瞰することや「道徳性」について「得意な先生」はいても中学校や高校に「専門」の先生はいないということなのです。
先生は自分が教える範囲を決められています。分掌という「担当」はありますが必ずしも「専門ではありません」だから、専門外という意識をもてば負担になるわけです。
会社には「担当」になれば「専門外でもやることが当たり前」という部分もありますが、学校と会社には、ある意味での文化の違いがあります。
それすら会社に入ったことがない先生は理解できない場合がありますが、「自分が持つ免許のスキルを向上させること」をまじめにやると視野が狭まる場合もあるのです。
会社と学校、これですら文化の違いによる意識の齟齬があるのに、日本と外国この意識の違いを認め合うことができる子どもをつくる「グローバリゼーション」という考え方はとてもむずかしいですね。
日本人である僕が外国との文化の違いを知ることができたということは、今だから言えますが、とても難しいことでした。
若かったから乗り越えられたと思います。
「難民問題」の向こうにこうしたとがあることを意識して「自分のこと」として議論を深めることも、大切なことのように思います。
観念的、理想的なことを追い求めるだけの感情的な議論ではなく、何ができるのかという具体的な行動に結び付く議論が今こそ必要なのだと思います。
景気がよく日本が世界経済の中心にいた時代には、「日本国民が選んだ政府が金ですべてを解決」したかもしれませんが経済が疲弊し景気が良くない今だからこそ「国民一人一人がどう解決するのか」を真剣に考えられるようにも思います。
政治に動かされることを恐れるのではなく、政治を動かすことができる議論の在り方を教えるのは「先生」たちの職務だと思うのですが。
知識として「共生」や「難民法」をどう教えるかという指導法の問題ではなく(生きるために)議論することも大切なのではないでしょうか。
大国が隣国の領土を攻め取るという行為を経験しているヨーロッパの国々の「中立」という考え方と日本の考え方の違いは「(生きるのこるために)必要になればその立場に固執しない」という柔軟さがあるようにも思います。
「一貫性」「継続性」「普遍性」を重視しすぎるあまり、目の前に起こっている現実から目を背けているってこともありますよね。