おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

準難民ですか

2022-04-16 08:34:25 | Weblog

「準難民」ですか。

準難民法」を作り政府はボランティアを続けるようですね。

「難民問題」は、「難民法」があるのに、やはり、まだ「国民的な合意ができていない事項」なのでしょうね。

対立する意見を持つ国民がいる場合、その同意を得ることに二項対立的な議論を行い多数決により解決することを「正道」とすることが間違いだとは思いませんが「熟成された民主主義」だとは思えません。なんか与党も野党も「本質的な議論を」避けているなと感じてしまいます。

参議院選挙前だからどの政党も、触れにくい問題なのかもしれませんね。「充分論議されつくしていない問題」(政治的な慣用句ですね)なのでしょう。

あまり関係ないことだと思っている「公立学校の先生」もいるかもしれませんが、実はこの問題は学校現場でも、結構大事な問題になるのです。「長期にわたり日本に滞在する人への教育」をどうするかという問題に「先生たち」が直面します。

具体的には「もし、学校へ日本語を理解できない子どもたちがやってきたら、誰が日本語を教えるのか」という「日本語教育」の課題です。

翻訳機能が付いたスマホや情報端末があるから、担当になることは、昔と違い、それほど難しいことではないかもしれません。担任から外れることがストレスになるかもしれませんね。今年度はもう始まっているので、担任ならあまり関係がないかもしれませんが、「担任外」なら「世論に肩押しされた政治家たちが決める法律により」急に「担当」になることもありますよね。ちょっと注目しておいた方がいいですね。

かつて「中国大陸に残されていた在留孤児」、「ブラジル移民」と呼ばれた方々が日本に帰ってきたとき日本の学校では「日本語教室」が開設されました。

「帰国子女」という最近は呼ばれるようになった「海外での生活が長い子どもたちとその保護者」への教育のサービスです。海外に日本人が長期に住む場合は補習校という外国語を学ぶ場所を日本政府が作っています。

こうした教室の開設に「普通の公立小学校」でかかわった経験があります。

最初の問題は「誰が担当するのか」ということでした。採用試験の項目に「中国語」も「ブラジル語」もないので、大学時代に学んだ人はいないか聞いて回りますが、誰もいません。中国が大きな国で方言がたくさんあることや、ブラジル語はポルトガル語だということも後から知ったことです。

子供は自然となじむから日本語も自然と入るだろうという感覚もあったのですが「教科の指導」は日本語で行っていた時代です。クラス担任の先生と「担当者」がてんやわんやしたことを思い出しました。

困ったこともいくつかありました。「子どもたちや保護者が生まれた国を母国として認識している場合、そこへ帰ることを期待して、母国のアイディンテティをどう維持していくか」、そう日本の教育は「日本語によって日本人化」させることでもあるわけですから、母国語による教育も必要だということです。

文化の違いを知ることは大切ですが、文化の違いが子どもたちのトラブルの原因になることもありました。小学校ではサッカーのポジショニングやボールの取り方ですらトラブルの原因になったし、意見が対立した時のおさめ方も違いました。

こうしたことが、今では長期の「日本に商用で来る中東や東南アジアの方々の子どもたち」への対応の中でも見られるということを聞いたことがあります。

当時はそうした担当者を公立学校に派遣する制度も不十分で「学校に配備する加配の確保のため」特別支援教室(当時は障がい児学級)という位置づけでの人の配置でしたが、今は整備されているのでしょうか。

「教科担任制」を声高に誇る学校体制にも不備な点はあります。「教科の専門性」を重視しているのに、教員免許に「総合的な探求の時間」「道徳」はないのです。学習を俯瞰することや「道徳性」について「得意な先生」はいても中学校や高校に「専門」の先生はいないということなのです。

先生は自分が教える範囲を決められています。分掌という「担当」はありますが必ずしも「専門ではありません」だから、専門外という意識をもてば負担になるわけです。

会社には「担当」になれば「専門外でもやることが当たり前」という部分もありますが、学校と会社には、ある意味での文化の違いがあります。

それすら会社に入ったことがない先生は理解できない場合がありますが、「自分が持つ免許のスキルを向上させること」をまじめにやると視野が狭まる場合もあるのです。

会社と学校、これですら文化の違いによる意識の齟齬があるのに、日本と外国この意識の違いを認め合うことができる子どもをつくる「グローバリゼーション」という考え方はとてもむずかしいですね。

日本人である僕が外国との文化の違いを知ることができたということは、今だから言えますが、とても難しいことでした。

若かったから乗り越えられたと思います。

「難民問題」の向こうにこうしたとがあることを意識して「自分のこと」として議論を深めることも、大切なことのように思います。

観念的、理想的なことを追い求めるだけの感情的な議論ではなく、何ができるのかという具体的な行動に結び付く議論が今こそ必要なのだと思います。

景気がよく日本が世界経済の中心にいた時代には、「日本国民が選んだ政府が金ですべてを解決」したかもしれませんが経済が疲弊し景気が良くない今だからこそ「国民一人一人がどう解決するのか」を真剣に考えられるようにも思います。

政治に動かされることを恐れるのではなく、政治を動かすことができる議論の在り方を教えるのは「先生」たちの職務だと思うのですが。

知識として「共生」や「難民法」をどう教えるかという指導法の問題ではなく(生きるために)議論することも大切なのではないでしょうか。

大国が隣国の領土を攻め取るという行為を経験しているヨーロッパの国々の「中立」という考え方と日本の考え方の違いは「(生きるのこるために)必要になればその立場に固執しない」という柔軟さがあるようにも思います。

「一貫性」「継続性」「普遍性」を重視しすぎるあまり、目の前に起こっている現実から目を背けているってこともありますよね。

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2人目の孫が小学校に入学しました

2022-04-12 14:30:25 | Weblog

二人目の孫が今年から小学校に入学しました。
息子は入学式のあと、孫が入学した都会の小学校の入学説明会にいった時の驚きを話してくれました。

都会の小学校ではPTAが任意参加になっているといいます。

時代が変わったといえば、そうなんだろうけど、もはや男義を振りかざして役員に立候補しなくてもいいらしいといいます。
PTAは先生と保護者が交流するカルチャーセンター、スポーツクラブに変わっていくのだろうね。

子どもや学校のために行う活動は随時、学校がボランティアを募集し
その都度「保護者や地域の人」が意欲的に参加してくれることを前提にしているらしいです。

登下校の担当「地域係」は別の持ち回りとして「地域の子供会」などが担っているらしい。

「PTA」は学校が子供を守るために必要な「保護者のボランティア」という側面が強く
「先生」は何もしないで参加するだけという耳の痛い話も昔もあったようなのですが、
「保護者の方に対する感謝」は「先生たちも持っていた」ように思う。

「保護者が自分たちの楽しみや交流のために行うPTA活動」なら
「先生たち」も任意参加すればいいのにそうではないのはなぜだろう?と思ったそうです。

昔からPTA活動という時間外の勤務を伴うイベントへの参加に関しては、負担に感じていたのは「保護者の方」だけではなく「先生たち」も負担だと思っていたんだけどと結局は就職には必要がなかった「教育実習」の経験をうんちく垂れています(笑)。

その話をしながら「子どもたちのため」という視点がどこか消えていくことが何かおかしいと思うのは、私が田舎の学校で教員をしていたからだろうかとふっと考えました。

教員免許を持っているのに10年で失効することを知らなかった息子は結局PTAに参加しないというの判断したのですが時代の変化を感じるひと時でした。

もう一つ入学準備物の話


「入学説明会」では「例年、本校では」という言葉に続く文脈で、「学校ではほとんど検討がされていない」ことを露呈してしまう定番の「お道具箱」をはじめとする教材や教具に関しての「一括購入」の説明があります。

息子は参加する側ですが、開催する側で経験したことがあるので、息子が疑問に思うこと「なぜ今どき」に続く文脈の話をしました。

一年生の子どもの教材は個別に購入も可能なのだろうが「一括購入」は強制で「違うものを排除する体質」が学校にあるということは必要悪かもしれないということを前に話したのですが

そんなことより金額だといいます。

「保護者の手間を考えて一括購入」するのだろうが
「想定していたより、結構これにかかる費用が高かった」と息子は言います。

確かに昔とは違い指定された店で購入しなくてはならない水着やヘッドキャップだけではなく
任意で「ラッシュガード」や「ゴーグル」などの「安全に配慮して」いるグッズが増えているしいのです。本来廉価なものを提供するはずの公立学校が「安全」や「衛生」などの時代の要請に伴い増えてくのは仕方のないことだろうけど、大型量販店が地域に定着したことで「学校ご用達の小売店」が倒産し
「シャッター商店街」が増えたことを学習させる田舎の小学校で育った息子は都会の学校のシステムが
もう一つしっくりこないようです。

小学校で体操服に名前を書かせるのはなぜ?
1クラスの子どもの数が減っているのにクラスの子どもの名前を先生が覚えられないから?

全校で活動するときに役に立つからだよ。
「密な状態で監視するために必要なんだ」なかなか鋭い(笑)

集団で行動することを教える学校で、コロナは「密になること」を禁じた。

密な状態にならないことが「当たり前」になるなら学校も「例年どおり」では意味がなくなることも多くなるのだろう。それをすぐに対応できる学校は少ない、というか「やらなければならないこと」が多すぎると機能不全に陥る場合もあるだが「例年通りやることが時間もかからず、一番楽」だから、なんて話しても「改善」を常に求められる「会社」に努める者には理解できない論理らしい。

ただそれを「保護者が学校にストレートにいえばクレーマーと思われ学校側の心証は悪くなる」場合もあるから「学校も大変なんだ、わかってあげないといけない」考えろといった。

たしかに、「かずの勉強」で「おはじきや立体タイルを使うか数え棒を使うかは学校の使う教科書により違いがある」のにもし、最初から「どちらかの教具で購入されてた場合、教える先生が転勤などで自分の修得していた以外の指導方法が必要になることにストレスを感じること」はあったし

「一年のお絵かき」は「クレヨン・クレバス」で行うことが多いのに「絵具セット」で使い方を教えることが、三原色を教えることより優先されたりすると「色を作ることの喜び」より「お作法」としての「12色の絵具と筆の使い方」を教えているのじゃないかと考えた時もあった。

公教育は最低限のマニュアルに従わないといけないということは「先生」にならないと理解しにくい部分だと思います。

でも、たしかに同じものをみんなで使っているのでなくしたときに「自分のものがないので困るから」全部に、名前を書いてくださいという発想もわかるのですが、この辺りを「自分のものがない」ときに「どのようにして解決するか」という「社会性」を育むチャンスとしてとらえさせたいという思いのある「先生」もいなくなったのだろうか。

「シェアすること」が新しい通念として根付き、「共生」という価値が尊ばれている時代に、クレパス一本一本、鉛筆一本一本に名前を書くことの意味を問い直す時期になっているのはないだろうか。

個別に同じものを持たせることが「公教育」の責務だという考え方が「子供の個性」を埋没させていることに、まだ気づかないのだろうか。ひとり一台の会社の違う情報端末を子どもに「貸与」であれ「購入依頼という強制購入であれ」、自治体の「財政状況の違い」により「同じサービスが」受けられていないとすれば、「親の生活力」が「子どもの学力」に影響しているという論理と同じことが起こっているわけですよね。

印字した鉛筆を使わせることが「親の責務」を果たしたと勘違いしているようにも思うのは、鉛筆をちびるまで削らされた昭和のじいじの思い違いなのだろうな。

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細かなことが気になるのは僕の悪い癖です。

2022-04-06 11:08:24 | Weblog

細かなことが気になるのは僕の悪い癖です。

ウクライナの戦火から逃れて20人の「避難民」が日本に来られました。
ただ、日本の法律を正しく運用するなら在留資格は「短期滞在」で3か月という期間があるはずです。
そして「短期滞在」は「知人や親せき」がいた場合に限られていたはずで「就労」はできなかったはずです。

難民」であるなら国連難民条約に則り、外国で「就労」できる一定の期間(1年程度で継続可能)の在留資格(IDといわれるもの)があり国民年金や児童福祉手当を受けることができるはずなのです。

「避難民の受け入れ」と表現することは「日本の国民が選んだ政府が行ったボランティア」
「難民の受け入れ」と表現することは「日本の国民が税金を使って外国人を日本に住まわせることを認める行為」になります。

日本の国民が税金を使って何をするかは「日本の政府が法律を作り、国民が合意」しなくてはなりません。三権分立した民主主義国家ですから、当然ですね。。

日本は昭和56年6月の通常国会において、難民条約・議定書(1967年の難民の地位に関する議定書)への加入が承認され
昭和56年10月3日に難民条約に、昭和57年1月1日に難民議定書に加入しています。

当時の日本は世界の条約に加入したにもかかわらず、現実に起こることではないと想定していたため
どこどこの政党がいい悪いではなく「日本の法律としての運用に手間取っている」「国民の合意ができていない」状態だったのかもしれません。

世界やアジアで起こった戦争で「難民」が日本に、来るなんてことを想定しても誰も受け入れなかったのかもしれませんね。

これから

「難民」を受け入れることで「あなたの職場が奪われ、給料が減る」という論議や
「人口減少でおこる人手不足を補うことができる」とかいう論議が起こる可能性がありますが

それらはもっと前から中学や高校の社会科公民の授業や総合の「学習」の中でシュミレーションや討議が行われていなければならなかったことなのです。

だから近年世界の国から、「難民鎖国」と揶揄されることも、仕方のないことなのかも、と思うこともあります。

では「なぜ、日本は難民の受け入れに慎重だったのでしょう?」

テレビのコメンター風に考えれば

「国民が合意しなかったから」なのかも、と考えてしまいそうですね。

専門家といわれる人のように

「かわいそうだという心情はあるけど具体的な行動を起こす場合に合意形成を求めるのだが、考えを停止して大多数の意見に従うという国民性だ」とかいうことは簡単なのですが

そうではないと思いたいのです。

日本では昭和57年1月1日から同条約・議定書が我が国について発効しています。

ただこんなことは高校の現代社会の授業で教えてはいると思うのですが、あまり入試などでは出題されない範囲ですね。

内戦の続く世界で日本の緒方貞子さんが高等難民弁務官として活躍された国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のことを中学校か高校で習っているはずなのですが、忘れていますよね。

大学入試のために「知識」を暗記しているだけの学習をしてきた人たちはこうした時に「誰かのせい」にしそうですが

今、求められているのは

「一人一人が自分の問題として、社会に起こっていることを考える」というスタンスだと思います。

「教育が国の未来に関わっている」という思いが深まりました。

今年の教員採用試験の一次では出る可能性はありますが。

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あたらしい年度のスタートですね

2022-04-05 13:48:35 | Weblog

管理職になられた方も何人かおられるようですね。おめでとうございます(本気で言ってます 笑)。
学校現場に帰れず地獄の日々を送ることが決まった人も、上と下のはざまで苦労する毎日が始まる人も、
そんなこと何も考えず、楽しい明日だけを考えられる人にも、春は同じようにやってきましたね。

 国が通常学級担任に特別支援学校での2年間の勤務経験をさせるという、ちょっと気になるニュースがありました。そこに見え隠れする「先生は学校の世界しか知らないからスキルがない」ので、経験すればなんとかなるという経験主義的なものになにか違和感を感じるのです。

 プログラミングが必要になれば「理系のスキル」、「特別支援(発達障がい)教育」が必要なので「特別支援教育のスキル」、新しい教育的課題と呼ばれるものが出ればそのことに対応することの大切さは理解できるのですが、ただでさえ「資質不足」だといわれている若い先生たちにすぐに対応することを求めるのは、なんか酷なことに思えます。

 今年から高校に入る子供たちは、18歳で成人になるのが当たり前の子どもたちになるわけですよね。今年から高等学校の学習指導要領も完全実施になるわけで「新しい時代の教育元年」が始まりますね。

 特別支援、情報教育、英語が全校種の教員の必要スキルとなる時代の幕開けですね。全部できるスーパーマンのような先生をお偉いさんたちはもとめているし、社会の方々も当然と考えているのなら、ますます先生希望者は減っていきますよね。

最近採用の高い倍率で採用された高校や中学の若手はできるかもですが、団塊の世代の大量退職の後採用されたベテランは大変だろうな(笑)でも、10年も20年も時間があったのなら出来てあたりまえですよね。

 間違いないのは3つともできる「管理職」に若い先生が出会うことは、とても難しいという現実をどう受け入れるかですね。
 もうすでに管理職試験に受かっている「貴方は特別支援の経験がないから2年間支援学校に行ってください」と言う側は、比較的楽なのですが、言われる側は大変ですね。マニュアルなしでの個別化支援対応です。

発達障がいの子どもたちが増えたという記事もありますね。

学校現場の特別支援を必要とする子どもたちへの対応の混乱は、教員をはじめとする「学校」というシステムへの問いかけがなかったことに起因しているのかもしれません。

かつての障害児教育を経験していない人たちにとって(先生も保護者も委員会も文科省も)公立学校で、
言い方は悪いですが「他の子とちょっと違う子に、特別のサポートする」ことの大変さを理解していなかったことが原因のひとつだと思います。みんな同じ教育を受ける権利があると思っている場所で特別なサポートを「えこひいき」とされないで受け入れてもらう土壌づくり、個々の人権意識が反映されるのが「学級」という器なのです。

 それまでは、そんなことより「学力」「教科学習」が中心だったから「他の子と違って変だと言われたら高校や大学にいけなくなるのでは」という「進学や成績を最優先にした学歴社会にどっぷり浸っていた親たちのねがい」ばかりが前に出てしまっていたわけですよね。

 いい意味でも悪い意味でも「学校は学力(成績、点数、教科指導)の世界、先生は生き方を教えてくれる人」という価値観がまだあったからなのかもしれませんね。知識量や受験スキルは塾の先生に負けても「理想」を語るのが先生の仕事だったのかもしれません。

 だから「学歴以外の生き方」にも価値があると思ってた僕のような「バカな先生」は「少数派」の「ちょっと変わった先生」だったのでしょうね(笑)、

 特別支援に関しては上野一彦学芸大学名誉教授を会長とした「特別支援教育研究実践委員会」の構成員となり、2007年から教材をリリースしてきました。
https://e-kokoro.ne.jp/ss/1/
去年は「生活ことば事典」、今年も子ども夢基金の支援を受け漢字学習コンテンツ開発を行います。

 勤務していた街で「特別支援教育研究会」を沢山の先生と立ち上げたのですが、ほとんどのメンバーが退職しました。もう15年です。継続して「特別支援教育デザイン研究会」と名前もアップデートしながらボツボツと教材を開発してきました。コロナ禍で最近急に、いろいろな問合せが増えてきました(笑)

 大学入試に情報という教科も入るし、小中学校でも始まる「特別の教科 道徳」や「総合的な探求の時間」という表記が用いられるようですね。

 特別活動も特別支援も新たな学習指導要領に準拠してカリキュラム等の見直しが始まるはずですが、
ただ看板だけが変わるということなのではないはずですよね。今までの「道徳」と「特別の教科 道徳」の具体的な学習イメージの違いが判らないと理解しにくいのです。

 特別の教科道徳では「情報モラルでいうところのモラルの部分」と「倫理で教える価値の部分」や「心の教育」という言葉もあってそれらとの「違い」がよくわかりません。ただ、「評価」も必要でその基準(規準)を示すから「教科扱いする」なんてことではないと思います。道徳のテストが行われるなんて茶番ですよね。

 「公共心」や「愛国心」「〇〇を愛する心」を教えることに躊躇していた国が「正義の物差しの基準を示す」というのならそれはそれで恐ろしいことだとも思うのですが、どうでしょう?

 総合的な学習の時間(高校などでは大学受験のための時間確保に使われていたといううわさもある時間)の表記が「学習」から「探求」になることで「大学入試対策用の時間枠」から「教科学習の深化の時間」に代わり「論議や討議」という時間がかかる学習スタイルに変化できるのなら、看板が変わることにも意味があると思います。

 ただ、「情報機器のスキル学習」や「STEM」という「科学技術偏重になりやすい学習スタイル」を重視しすぎると「探求」から「知の創造」は起こらないようにも思います。「学びに向かう力や人間性」とのバランスを考えたカリキュラムデザインが必要になるのですが、カリキュラムデザインなんかは教員採用試験にはない項目なので、また二項対立的な議論が経験主義的な権威の上に立つ人たちから始まるとお先真っ暗ですね。

 特別支援学校に在籍するギフテッドの子どもと通常学級に在籍するギフテッドの子どもへの対応を一元化して論議することは少し危険だと思います。
 「学力だけが秀でている」個性と「学力だけ不足している」個性が共存する学校という器の在り方の論議がないと、「特別支援学校と通常学校」が乖離した「違う個性をもつ」からその「違う個性が同質の子供たち」だけに特別な教育的支援やサポートを行うことを是として、サポートを受けられないものや支援されることに戸惑いの意思がある者たちとの乖離を生み出し、そのような危険性を防ぐために分離させることが最良の対応という、僕にはちょっと納得できないインクルーシブ教育」(笑)を作ってしまいそうですね。

 僕は特別支援学校からスタートした教員生活でしたが「普通の子ってどんな子だろう?」っていう疑問の答えは、まだ見つかりません。成績成績分布をグラフ化した時「フタコブラクダ型」になると平均的な学力の子というのは一番少なく見えますよね。

「健常児」という言葉もありますが、「他者が見える障がいを持っていない」という意味では理解できますが、「他者が理解できない行動や発言をしなくて、他者とのコミュニケーションをもつことができる」という意味を持っているとは思えないように思うのです。

他者とのコミュニケーションをもつということはだれでも難しいと感じているように思うのです。

医学的用語、心理学的専門用語、教育用語が混在して「何が問題なのか」をわかりにくくしています。
教室にサポートできる環境もないのに、合理的配慮は「ほかの子どもと同じように扱ってはいけない」というイメージだけを教師に与え
保護者には「通常学級で特別のサポートを必ず行ってくれる」というイメージを与えてしまったため、
「特別支援学級」「通級支援教室」という公立学校における「緩衝地帯」が出来上がったのかも、知れませんね。

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ポンポン舟に乗って花見ですね

2022-04-03 11:06:23 | Weblog
桜満開の季節になりました。花見は近くの背割り堤が有名になりましたが、少し足をのばして、穴場に行くことにしました。



USJが開場して、人の動きがありますが、桜島まで来ると人は少なくなります。
まして、ポンポン舟に乗って対岸まで行くなんてことは余りしないようですが、対岸には日本一低い山で有名になった天保山があり、桜満開の公園があります。



意外と人がいなくて穴場なのです。
海遊館やレゴランドで近くは賑わいますが、海の匂いがして楽しいですね。



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