おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

デジタル教科書で授業ですか。

2020-12-23 11:36:23 | Weblog
デジタル教科書で授業することへの不安ですか。

学校に40台だけ、タブレットをいれてしまったために使わざるを得ないとか、国の方針で使わなくてはならないとかあるようですが、とにかく「使う方向」は見えてきましたね。

何年か前にセンターサーバに小学校全教科書のデジタル教科書を使っていたときの昔話をしてみましょう。

まだ、タブレット端末は予算がなくノートPCへの配置替えを行っていた頃です。

①教師はプロジェクター(電子黒板)と黒板(ホワイトボード)と端末(タブレットまたはPC)の「すみわけ(使い分け)」ができる最低限の指導スキルが必要

②事前にデジタル教科書に付随する指導書にこだわり過ぎると平板な授業にしかならない。指導の流れの中で必要なデジタル特性(色、音、動き)や視覚効果のある動画、資料のあるコンテンツを効果的な場所で提示する「授業構成力」が必要

③タブレット端末の充電担当者、充電場所が必要。PC教室だけでも40台、普通教室で利用するなら毎日充電は必要

④校内インフラ、環境基盤としての全教室高速無線LANの環境と校内セキュリティポリシーの作成

⑤サポート体制としての市町村単位での情報CIOとヘルプデスクの設置

先生のスキルの向上のための研修も「ツール」がなければ、何も進まないのが当然で、デジタル教科書を使って指導したことのある先生が少ない状態なのにタブレットやデジタル教科書ですか。これらを導入するだけで使える環境の学校がどれだけあったかは「オンライン授業」がすぐにやれたか、やれなかったという事実がひとつの基準になりますね。紙媒体以外の教材の配布がせいぜいで、動画教材の配信もできなかったところがあったようです。「授業」ではなく「教材の配信と答え合わせ」が「オンライン授業」という風潮ができてしまったようにも、思います。

情報デバイド、いわゆる「情報格差」でこれは各学校の先生の準備不足というより、それまでに「自治体(都道府県や市町村)」が、どれだけ公立学校の「教育の情報化」に「市町村交付税」から設備のための予算を使ったかということなのです。

金食い虫と自治体の議会で言われ見向きもされなかった「学校の情報化」に国が取り組む方向になったのだから、現場の「教員の資質」「先生のスキル」を問う前に各自治体の議会の「センセイ」たちの意識がかわるといいのですが。

学校にツールさえ入れれば、「授業」が成立するという考えや学校の「先生」が学校の環境整備まで担うという考えは昭和ですよね。なら、これらのことを誰がするのかという議論がまず必要なのですが。

とりあえず、学校の先生たち、今年一年本当にご苦労様でした。来年こそ、新しい時代の教育ができるといいね。

コメント (2)
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新規採用された先生がとりあえず4月に必要なもの

2020-12-19 11:11:00 | Weblog
卒論がないのですか。
卒論がなく、単位修得も終ったら、大学生活最後の海外旅行、などというパターンでしたが、今年はコロナでどこにも行けませんね。
卒論が見えてくると、いよいよ来年からのことが気になるようですね。採用試験に受かれば、今度は4月にとりあえず必要な物がどんな物なのか気になりますですか。(笑)
去年までなら先輩にいろいろ聞いてみることができたのでしょうが、あなたたちは飲み会も打ち上げも自粛ですね。
たぶん卒業式も、昨年と同じで卒業証書郵送ですかね。

サイレントエンド&サイレントスタート、新しい生活様式なのでしょうけど、自分で「切り替え」ができないと、ズルズル新しい環境での「社会人」としての生活が始まってしまうのは、よくはないですね。

去年の先輩はとりあえずシューズ、ティーチャーズログノート、ハンコセットを買い、あとダークグレーのスーツも新調したそうです。トラッドな準備物は下記を参照してください。


https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://blog.goo.ne.jp/naoyatom123/e/a1c80f282685138c832413ddd3a505e8&ved=2ahUKEwiVqP3-9LroAhXnDaYKHbsGCtYQFjAAegQIAhAB&usg=AOvVaw29DP6E885dRhdWaoT0IjV9

https://blog.goo.ne.jp/naoyatom123/e/247dde6e0c1cbf5d6ecd9e49be17a559

https://blog.goo.ne.jp/naoyatom123/e/c1ad98cc78eff3586ecad38f8a6b519a

https://blog.goo.ne.jp/naoyatom123/e/9103e6f4908279defde2e59333cec74a

最近のトレンドとしては

(パソコン)ノートパソコン 
暗号化できるUSB 
少し大きめの外部メモリー 
アイウォッチ

なんかが今はやりかな
ハンコはもう要らなくなる可能性が高いからシャチハタがあれば充分だと思うけど、「修正印」はまだ必要かな。
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公立小学校35人学級決定ですか。

2020-12-18 11:14:51 | Weblog
今日の朝刊に公立小学校35人学級決定の文字が躍っている。それに続く文字は「学力」期待、「教員」課題になってます。

45人学級での経験をしたことのある元教員としては羨ましいかぎりの決定だとは思います。先生の負担軽減という側面においては間違いなく軽減されています。

軽減したから、その分ゆっくりすればいいということなら、先生にもゆとりができ、子どもたちへもより細かな手当てが可能になるのですが、軽減したから、「学力」を上げろ、教員の不十分なスキルを補填しろという「見えないしばり」があるのなら、本当の意味での先生のゆとりがなどでてこないということを理解できないのですよね。

視点のちがいは立場の違いです。先生に期待するものがある保護者や学者さんの視点とそれを実施する先生の視点は必ずしも同じではないように思います。

「学力」=オール5でなければならないという思い込み
「学力」=学歴社会での免罪符という思い込み
「学力」=市販テストの素点、アチーブメントテストによる知識の暗記量という思い込み

OECD(経済協力開発機構)の学力調査の「学力」の規定はこうした「日本的な学力規定」とは少し違うのだと思っています。

「学力をあげること」=「教員の資質」とするなら、「学力とは何か」ということへの国民的な論議が必要であり、「何人のクラスなら効果のある教育が行えるのか」という教員の側の「個別の力量」への問いかけも必要になると思います。

特別支援学級では、少人数(8人以下)の編成で、クラスを構成していますが保護者との対応や学級経営でうまく行かなくなる先生もいるときいたことがあります。

すでに一年生では、先行して35人学級が実施されていますが、副担として再任用のベテランがフォローしてる場合もあるようです。ついこの間までは二年生にも手立てがあったように思います。

都道府県や市町村教育委員会では、加配置制度の運用で、独自の少人数学級を実現して、すでに30人程度のクラス編成をしているところもあります。

生活科と総合的な学習の時間
ゆとりの時間でのカリキュラム編成
二学期制
情報教育

教育改革と呼ばれたこれらの小学校でのアプローチが「有名無実」になったのは、教員の「学力」に対する意識と「民意」と呼ばれる社会での「学力」の意識に乖離があったことが原因だと考えてきました。

「学力」は「塾」で作られ、「人間性」は小学校で作られる、というマスメディアが作り上げた定説への反発があったのかもしれません。

「塾」で作られた「若い先生」の資質の向上は、学校現場でのOJTでしかなされないのは自明の理であったのですが、「仕事ができる先生に仕事が集まる」という公立小学校あるあるの常態化が、資質の向上を阻んでいたように思います。

クラスの人数が減ることにより、先生の欠点がよく見えるようになるという保護者の視点、一人一人の子どもの課題がより鮮明に見えたり、保護者との関係がより近くなるという教員の視点、これらを考えれば、成績処理や文書配布の件数がすくなることぐらいの校務処理の負担が減るだけなんてことにならないといいのですが。

学校にパソコンが入って、結局は仕事が増えた先生もいましたね(笑)
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こんな時、不安を煽り動物に癒しを感じさせるのがマスメディアの役割なのだろうか。

2020-12-17 07:55:18 | Weblog
「専門家」への無謬性は、マスメディアが生み出す現代の神話、都市伝説みたいなものなのかな。

専門家と言われる「研究者」の方々は自らの専門的な分野で「仮説をたて」その仮説が正しいと言うことを立証しているわけで、まだ、「正しい」ひとつのことを見つけているわけではない。

だから、学説と呼ばれるものはたくさんあり、メディア(放送機関や報道機関)が自分たちにとって都合のいいものを「選択」しているわけで、必ずしも視聴者や講読者にとって、それらが示す方向が正しいとは限らないし、間違っているとも言えない「情報」なのだ、ということを今の大人たちの状況を見ていると子どもたちに認識させることが必要だと痛感している。

たくさんの選択肢があるがゆえ、真逆の意見も当然ある。いつも真逆の意見だけを主張して、対立の構造に持ち込むという手法や、自らの行動をメディアの流す多くの情報から自ら選択することを放棄して、大きな話題という触れ込みの枝葉の些末な事柄に身を任せ知識として知っていることに満足して行動は無関心、専門家や国、政権を取った多数派の政党、民主主張国家や社会主義国家に任せることで、分断も弾圧も起こらないと信じている感覚がどこかにあるように思う。

ダーウィンの進化論は優性学を生み、ワイマール憲法下の民主的な選挙制度がナチス党を生んだことを小学校の先生は何の教科で教えているのだろう。政治批判するメディアのコメンテーターは、自らが「情報発信」しているリーダとしての自覚が必要なのではないのかな。国民の言葉を代弁するという役割を演じている「恵まれた社員」なのだという批判は当てはまらないのだろうか。

かつて彼らが行った「先生バッシング」「公務員バッシング」でやり玉にあげられることで、先生ブラック論が生まれ、3k意識の醸成が勤労意欲を薄めたとしたら、何てことを考えるのは負け犬の遠吠えかな。

常にアンチ的な立場に身をおくことができる職業がメディアという職種なのかもしれない。
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悩んでいるんですね。

2020-12-16 15:49:37 | Weblog
寒いですね。

ミドルリーダの悩みですね。

それもあなたのように力があり、雑誌や、専門書での発表もできる機会が増えてきた立ち位置でのある意味羨ましいと思われる立場での悩みですよね。

ステップアップとライフステージですね。

僕もあなたぐらいの歳の時に悩みました。

結局は「家庭」と安定した生活をその時選びましたが、後からでも「研究」の道は歩めると思ってます。

博士号をもつ正統派「研究者」になるには30歳台が限界と思うのですが、「実務家研究員」になるのには年齢制限はないとおもいます。

むしろ臨床経験が長い方がいいとおもいます。誰でも一度は考えるターニングポイントですね。迷うことなく、しっかり悩むことが大事です。

先生するのか、学者をめざすのかあたりが見えると以外と簡単に答えはでるように思います。
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教育実習を座学で代行できるはずはないですが。

2020-12-01 10:03:35 | Weblog


教育実習をしないままに来年教壇に立つ先生がでるかも知れないですか。
受け入れる側の「負担感」はやってくる学生への不満ではなく「制度そのもの」への不満が蓄積しているのかもしれません。
学校内の「力ある先生」の減少によってミドルリーダと呼ばれる中間管理職候補と位置付けされた10年前後の経験者への職務の集中があるなかでの受け入れには、課題があるように思います。かといって「力のない」経験主義だけのベテランや授業実践に不安のある若手に任すことに不安があるのかもしれません。
何のための、誰のための教育実習なのかをもう一度考える必要があるのではないでしょうか。
免許習得の1プロセスとしか捉えていない学生、教員育成より教員採用試験合格数にシフトする大学、成熟していない新規採用教員を送り込まれて四苦八苦する学校現場、そこにコロナがやってきたのですよね。
医師は医療従事者と共に「医療崩壊」と戦っていますが、教師は子どもを守るために孤立した「教育崩壊」の戦いを強いられているように思います。
塾があるから大丈夫だと考えているならもはや「教育崩壊」は始まっているのかもしれませんね
子どもたちの教育を受ける権利は、単にネットやAIで行う知識の獲得を保障するだけで担保出来るものだとは思えないのですが。
この本は絶版になっているとおもいますが、僕が教育実習をするとき、恩師がくれた本です。もう一度教育実習に関わる人たちに読んで欲しい本です。



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