杞憂が現実になりましたね。
新聞の一面には黒煙の上がるキエフ市の写真,ネットではこの時に戦争と平和の映画がNHKで放送されたという話題。
いろいろな切り口で「侵攻」を「見ています」
もはやトルストイみたいな偉大な文学者はロシアにはいなくなった、魂の叫びを貫いてきたロシア文学が、この「侵攻」で消滅してしまうことが悲しいことだと思います。
アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィンがチェチェンの人々に大きな影響を与えたように、ロシアには文学がとても大きな影響を与えてきたと思っていました。
政治や科学がどのように発展進化しようとも,人の心は変わらないと信じたいですね。
現代のゴーリキやトルストイは「圧政に立ち向かう民衆」の中から生まれるとしたら,そうした「意志」を育む土壌としての「何か」が必要ですよね。
その土壌がなければ,政治は「権力者・独裁者」を生み出すシステムでしかないようにも思えます。
被害者と加害者にスポットが当てられ「傍観者」が安全な場所から事の善悪を叫ぶとき,被害者は加害者になさるままでしかいられないという「子どもたちの社会でのいじめの構造」によく似ていますよね。
結局は「力を持った先生」が必要だと考えたり,「強い罰やルール」が必要と考えたりするわけですよね。
「傍観者」が加害者、被害者どちらかの側に立てば今度は,多数による少数派へのいじめが始まりますよね。
だから「傍観者」でいることを子どもたちは選びます。
情報機器の発達は「発信すること」、すなわち「隠されそうなことを知る」ことはできるようになりました。
でも同時に「隠そうとしていることを知ること」や「うその情報を流すこと」も可能にしました。だからたくさんの情報が入るようになっても、「何が本物かを知る方法」(情報の真偽)が必要なのですが,それを教えてくれる学校はまだないのです。
だから,情報モラル教育もルールやマナーの教育でお茶を濁している場合があるようです。戦争の手段として「情報のかく乱」がまず行われたということが事実なら科学の敗北です。
ミャンマーなどの内戦で苦しむ国の人が「発信する情報」を手に入れる手段を持ちながら,何もしないのならいじめを見ている「傍観者」と同じですよね。
教師であったとき,考えたことの一つに「先生という立場は,アメリカの大統領と同じ立場,すなわち世界の警察官を求められているのではないだろうか」という疑問がありました。クラス運営をうまくやるには「クラスの警察官であること」が必要条件のように思えた時があったのです。遠い昔の話です。
僕たちの世代もハンガリーの動乱やプラハの春と呼ばれるヨーロッパの変化を「見てきました」、少ない情報からなので判断することは難しく「専門家や知識人」の意見に耳を傾け判断することしかできなかったのです。やがてエネルギーの利権に関わる中東での紛争やアラブの春などの情報もIT技術の進展に伴い格段に増えていきました。
カラーテレビで初めて見たのがアメリカ大統領の暗殺だったのがメディアとの関係を考え始めたきっかけですがパソコンを使い始めたころ映像として流れていた海外の内戦の動画は衝撃的なものでした。「人の命を奪う場面」が「事実」として無修正で流されているといことを知りました。
荒唐無稽の隠蔽裏社会が存在するとは思えませんが,ICT機器を「発信する」「受け取る」ことに利用する場合,伝達する「電波」を制御したり機器を制御することで「情報」を加工したり,混乱させたりすることはもはや可能な時代になっているのですが、便利さの追求は行われていても、こうした知識は「理系の知識」として小学校での学習はあまり行われていませんでした。というか教えるべき教科は小学校中学校ではなかったのです。
高校の「情報Ⅰ」も大学入試科目となるようですが,小中にも大きな影響があるかもしれません。下部組織もないのに突然「Jリーグ」を作るようなものですから。中学の技術の先生や小学校のパソコンおたくの先生が大変になるのでしょうね。専門的な知識習得に限定的な学校の整備を行うことの方が、入試問題にするより先に必要だと思うのですが。