バルト三国と呼ばれる国々に行ってみたいと思ったのは、その街並みが美しいからだけではなかった。
ナチスとソ連に国土を蹂躙され、ようやく独立した東欧と呼ばれる地域の人々がどんな事を考えているのかを知りたかった。
リガの街の中にある博物館で最初に見たのは、うず高く積まれた紙幣だった。
ナチスとソ連に国土を蹂躙され、ようやく独立した東欧と呼ばれる地域の人々がどんな事を考えているのかを知りたかった。
リガの街の中にある博物館で最初に見たのは、うず高く積まれた紙幣だった。
国の支配者が変わるたびに、その価値を失うのが紙幣であり、それが何度も繰り返されると膨大な量になると言うことを音声記録が絶えることなく物語っていた。
また、兵士のヘルメットは、支配されれば支配者が徴兵し、戦場に送られるという事実を示していた。
戦争により、巻き込まれた領土とそこに住む住民は、酷い生活を送らざるを得ないという現実を、ナチス支配下の服装やソビエト支配下の服装がそれほど変わらないことを示すことで体験できるコーナーもあった。
あの旅での学びはひとつ、
戦争に正義はない。
「戦争」と当事者が言わなければ「戦争」と認めない国際政治に政治的解決を期待するのは、世界大戦前夜の世界に似ている。
「事件」も「事変」も「紛争」も、目の前で起これば、紛れもない「戦争」だ。
「侵害」も「攻撃」も「侵略」も、目の前で起こるなら、紛れもない「戦争」だ。
文字の向こうに見える事実はひとつ。
なのに、テレビの中で映れば「映像」になり、清濁込みの情報に一喜一憂する自分が見えてしまう。
戦場も日本の茶の間も同じ時が刻まれているのだろうか。
歴史が繰り返されるものなら、それを追視できるのが今だ