おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

ギガスクール構想ですか。

2021-03-18 20:36:00 | Weblog
新しいコンピューターが学校現場にどんどん入るということですよね。

それも最新のものなのでしょう。
何も先生たちが、困ることなどない、すぐに子どもたちは活用できるようになるし、最新の機械が入って先生も楽になるはず(笑)ですよね。

これが一般的な世論で、あなたたちがブラックだと思ってしまう側面なのですよね。小学校の先生って文系の先生が多いのですよね。

新しい技術を、それも子どもたちに教えられるだけのスキルを「すぐに」身につけなくてはならないという状況が「ギガスクール構想」って感じてしまうのかもしれませんね。

コロナ禍だから教科指導に使う部分はなんとかなるしと思っている先生も多いかも、ですが、厄介なのは、これからの時代は、セキュリティとモラルの時代だと言われていることです。

小学校、高校は総合と情報科で対応できる余地はありますが、ネックになるのは、中学のカリキュラムに情報教育を、どう位置づけ、誰が行うかですよね。

教科がない、位置づけがなければ誰も余分なことはやりたくない、働き方改革の時代ですから。専門家を入れて欲しいと考えるわけですよね。

例えばセキュリティ指導用の教育コンテンツを企業が無料配信しても、受け取る側の学校にその担当者も専門的な知識を持った先生もいなければ、ギガ構想も絵に描いた餅になりますよね。

こうした情報がすぐに学校現場にフィードバックできない状況のなのに、パソコンは一人一台すぐに配られていきます。

中学では技術の先生を除くと、教科担任のなかで、操作スキルの高い先生が情報担当になることが多いといわれていますが、そうした先生の負担や負担感は大きいと思います。

公立の中学が日本の情報教育のデッドロックになっていると言われる理由がそこにあります。公立の中学の技術科の先生の採用枠はほとんどないのです。

構造的な課題で、「ズーと前から中学校には技術の先生はいても情報の専門の先生は少ない」のです。

公立の小学校でも「道徳」の担当の先生はいても、教科道徳の専門の先生は少ないのですが、学級担任が「道徳」を持つことが普通なので見えにくいだけなのです。免許は「小学校」というくくりで「小学校社会」というかたちではないのです。中学や高校は「中学国語」とか「高校情報」と細かくわかれてます。

「中学情報」という免許がないので、専門家はいない、ということなのです。「高校情報」の免許を持っていても、「中学技術」の免許がなければ、ということになります。

教科担任制では、その教科の先生が「専門性をいかす」ので、公立の中学校の情報教育は、本来技術科の先生が行うはずなのですが、できる人がいない場合もあるわけです。

慢性的な構造課題とは、専門的な知識や技術が必要な状況になれば、まず、ツールを導入するから、今の人数のままで、個の教師の力量やスキルを上げろという体質や教師間でのcommunicationの希薄化あたりなのでしょうか。

無言でタイピングの音だけが聞こえる職員室。。。怖いですね。

基本的に管理する、されることに拒否反応を示すことが多い教育現場で、管理するためのツールがネットワークであり、その端末がコンピューターやタブレットだということを理解できるまではもう少し時間がかかるのでしょうね。
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まだ、10年。もう、10年。

2021-03-11 14:38:22 | Weblog

時間が過ぎ去ることと記憶が消えていくこととは

必ずしも相関しないと思う。

共感することが必ずしも理解することではないと気付いたことがある。

淡々と語るあなたの言葉に、涙が止まらなかったことがある。

思い出さなければいけない記憶があると気付いたことがある。

生きているものの責務ってあるのだと思います。

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ちょっとした不安

2021-03-06 21:31:15 | Weblog
 文科省で新しい時代の学校施設検討部会が始まりましたね。

 ようやくコロナ禍で遅れていた情報端末をひとり一台の環境するための検討が始まったというかんじですか。

 新しい情報端末はタブレットであれ、ラップトップパソコンであれ、電気で動きますよね。

 何も大量の電力消費による脱炭素の問題などと大袈裟なことの心配をする気はこれっぽっちもないのですが、もし、小学校の全クラスで一斉にひとり一台の情報端末が動いたら、どうなるか、という基本的な疑問が生まれました。

 かつてコンピュータ教室に40台のPCが入ったとき、全部の端末を一度に動かすことはできませんでした。

 ISDNという電話回線を使った通信だったので、インターネットにつなぐと途中でカタカナと動かなくなることがありました。
 これは通信回線が専用の光ファイバー回線でなかった為に起こった問題でした。今はこの問題は、多くの学校で、クリアーできているはずです。

 でもその時、僕の勤務していた学校の職員室ではもうひとつ、大きな課題がありました。
 教師用のパソコンを先生ひとりに一台ずつ配置したのですが、コンセントがなかったのです。
 笑い話のような出来事でしたが、天井にレールを貼り付けそこから電源をぶら下げるという、離れ業の工事を行ってもらいクリアーできました。
 
 ただ、その時電気工事をしてもらった業者の方が、「電気の容量が持つかな?」と言っていたことをふっと思い出しました。

 文科省の示す新しい時代の学校施設のイメージとてもはいいのですが、具体的には、
「一斉にパソコンを使って授業したら学校のブレーカーが落ちないだけの電気容量の確保」をどうするのだろう。「各教室にコンセントがないために誰かがどこかで毎日充電しなくてはならない」のではないだろうか。
と思ってしまいます。

 全クラスで一斉に使われるとただでさえ予算がない公立学校では電気代が増えると困るので使用制限やシフトを組んでの利用などを管理職が指示し、情報端末がスムーズに使えないという事態なもなりかねません。
 また、利用する先生が減るという事態にもなりかねないよね。

 どうするのかな。
 僕の情報教育との関わりのスタートが、床下のLANケーブルの配線だったけど、今度は誰かが床下にコンセントが一杯ある部屋を使って充電室にするのかな。

 教室にモノをいれるだけでは授業はできないと考えてきました。モノを、動かせる環境も作ってこそ、授業ができる。どんなにスペックが高かろうが、電気がなければただの箱だよね。
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