奈良県はかき氷にも力を入れているようです。
容器も紙コップ、エコにも配慮ですね
素麺がショーケースに入ってます。
くるみで素麺を食べてみました。
最近、生成AIの利用における議論が新聞紙上を賑わせています。
その多くがクリエイターと呼ばれる製作者の方たちの権利「著作権」に関するものなのですが、
時折り、教育における「思考力」の育成に影響があるのではという論を見かけることがあります。
「影響があるのでは」という表現は非常に微妙ですね。
「影響がある」という断定ができないところがマスコミの限界なのでしょうね。
私のように、かつて教育の現場に携わったものに中には、そんな不確実な想定ではなく明らかに影響があり、すでにその危惧が現実になっているという恐れを持つ者もいるのです。
ただし、一部の意見なのは確かなことだと思います。なぜなら「ChatGPT」というアプリだけに関わらずそれほど多くの先生たちが生成AIの活用を行れた経験があるとは考えにくいのです。
むしろICT機器の活用経験のない先生たちにとっては、そのうち政府が方向性を出してくれるから、その時に対応すればいいという気持ちでいる先生も意外と多くおられるのではと危惧しています。
子どもが思考を定着させるための学習から遠ざかる可能性のあるツールが生成AIだとテレビや新聞化で議論されていても、
若手のICTスキルにたけている先生以外は、ベテランもミドルと呼ばれる中堅の先生たちが家庭でどれだけ最新のAIコンテンツが実装されている整備されたコンピュータを持っているのだろうと思うことがありました。
意外と盲点なのですが、一般企業と違い先生たちに貸与されるコンピュータやタブレットは自宅で持ち帰っての利用はできません。
学校の中でのみの利用が一般的です。自宅にネット環境を作り、そこに機器を配備するかどうかは個々の判断に任されているのです。
ネット環境を整備することもノートパソコンやタブレットを用意することも、確定申告をすることが少ない先生たちにとっては
「必要経費」で落とすことはできないのです。
若い独身の時代はともかく、子どもができ家庭を持ち何かと費用がかかるミドルやベテランの先生たちにそうした情報機器が利用できる環境が必ずしも整備されているわけではありません。賃金が低い高いの議論はありますが、家庭で教材研究や資料作成をしなくてはならないこともあるのに「必要経費」で落とすことができないし、機材も環境も貸与されていないということの議論は意外となされることがないのです。
機器や装備されているソフトのバージョンアップはそれに伴う操作スキルの獲得だけではなく、職場で使うツールと家庭で使うツールに違いをやソフトのギガスクール計画で最新機器が導入された職場の基本ソフトのバージョンが違うことで職場で作った資料が使えなかったりOSの違いにより利用できなかったりというトラブルなどもベテランの先生には起きているかもしれないのです。
当然多忙な業務の中で若い先生たちとベテランの先生との乖離は生まれることもあるわけで、教育技術の伝達もうまくいかない職員室では管理職を目指すミドルの先生も減るわけですが、特に気になることは世代間の乖離が「意識の乖離」でもあることです。
学校で最新のネット環境でバリバリ「ChatGPT」を使う先生たちと同世代の若者たちの中には、小学校の宿題より入試のための受験勉強を重視してアルバイトの学生に学校の宿題や夏休みのドリルを依頼することを当然と考えた子どもや保護者がいました。
塾というサポートを受け受験戦争を乗り越えアルバイトや部活で忙しい学生たちの中には、大学の講義ノートをメールでシェアし、卒業論文も書かずに単位履修で大学を卒業することができた者もいました。
SNSにおけるコミュニケーションは長文を排除し、2倍速3倍速の動画に対応できる合理的な若者が増えていると感じるベテランの先生にとって、若手との乖離は指導方法の伝達を希薄化させ静かな職員室が増えているということを聞いたことがあります。
かつての小学校における学習では、文章を書く基本は国語での「作文」で、「自分が思考したことを文字に表す」という表現であり、自分が思考したことを言葉として表すことと言葉と並ぶ言語活動の中心テーマだったはずです。
長文を書けるまでのプロセスの体系化が小学校の学習であり「自らの考え(思考)」は必須条件であったはずです。
もし、ゴールのためにプロセスをショートカットすることが合理的だとしたら自らの考えで文章を書くという行為は成立しないはずです。
情報リテラシとしてのICT機器活用スキルの習得はできても「自らの思考を育む土壌」は枯渇していくことは自明の理です。
もし今、各家庭において、子どもたちがスマホやコンピュータでネットにつながることができたら、すでに「宿題」という問題に対しての解決方法として「生成AI」の活用スキルを習得している小学生もいるはずです。
ChatGPTで「題材のテーマ」と形式、モデルとなる作者名さえ打ち込むスキルがあれば
秋の景色を題材とした5・7・5文字の「芭蕉風の俳句」を六年生の子どもが作ってきても
その結果を判別することのできる教師はどれほどいるのでしょう。
4年生の子どもが10行程度の「輝く笑顔」という素敵な詩を作ってきたら・・・。
「宿題」というひとつの日本の教育文化が、生成型のAIの出現で消えることがあるかもしれません。
日本の小学校の国語教育では綴り方や日記という伝統的な指導方法があります。
「あのねノート」はだれもが知っている指導方法でしょう。
しかしこうした指導方法は生成AIの出現で大きく変化しなくてはならなくなるはずです。
ただどのように変化させるかは「まだ危惧の段階」という人たちにとっては
大きな問題ではないようです。
小学校では「総合的な学習の時間」で、コピー&ペーストという「スキル」は教えたこともありましたが、
レポートの作成には「コピペ」は「著作権」等のためその出典やURLを明らかにして引用することを「モラル」のルールとして教えてきました。
でも、小学校の先生たちは、いつの時代でもルールを守らない子どもたちと向き合うことを知っています。
廊下を走ることが危険だとわかっていても子どもたちは遊びに夢中になれば廊下を全速力で走ることをやめません。
言葉での規制に限界のあることを知る先生の対応は様々ですが、規制をしても事故は起こることがあることは知っています。
教える側が自ら良き範を示すことは道義的な問題としていつの世でも教師に求められてきたことなのですが、
その前提が崩れていくなら「見つからなければ何をしてもよい」世の中の到来を感じてしまいます。
これも筆者の年よりの冷や水なのでしょうね。