ふっと昔の出来事を思い出しました
「教室にいることで自分が壊れていくこともあるねん、先生。」 ある学校で出会った小学校6年生の女の子の言葉です。重たい言葉です。
長い沈黙の後、ようやく心を開いてくれた彼女が語ってくれたのは、つらかった小学校1年生の時の思い出でした。
厳格でルールを守らせることで、 保護者の間では「良い先生」と好評だった A 先生が担任でした。
彼女は新しい学校で毎日がとても楽しくて、 ついつい羽目を外す行動をしてしまったそうです。
往々にして低学年の先生は、 規則重視で、その枠の中に入らない子どもたちを 「穏やかでない子」=「悪い子」という公式に 知らず知らずに当てはめている場合があります。
当然、彼女の行動は A 先生の叱責の対象になります。
昭和の時代は「耐えること」を美徳とする時代でしたし、「良いモデル」「悪いモデル」を明確に示すことが教師の力量だと考えられていたのかもしれません。
度重なる叱責とその後の処置として、A 先生はクラス全体への周知が必要と考え、彼女の名前を出してルールの遵守を他の子どもたちに訴えます。「良いモデルになりなさい」
他の子どもたちが知らない間に A 先生の「他人に迷惑をかける子は悪い子」「みんなと同じ行動をしない子は悪い子」という 価値観をすり込まされた場面です。
こうした他の子どもたちの中に醸成されてしまった価値観は 中学年にまで引き継がれる場合があります。
昔はギャングエイジという言葉で 「荒れるのが当たり前」という感覚で捉えていた学年です。
自我に目覚め、抽象的な思考の基礎を作る段階として、最近では、とても大事な時期だという認識が必要だとされています。
この時期の子どもだからこそ「まわりに迷惑をかける子」より 「周りの比較的穏やかなこどもたち」の方が大切なのですが、 多くの教師は「まわりに迷惑をかける子」の方を気にしてしまいます。少し前によく使われていたいわゆる空気を読めない子どもですね。
新しい学年でのクラス編成を考えるとき「まわりに迷惑をかける子」の対策として 「周りに比較的穏やかなこどもたち」を入れると言うことまで 考える場合があると聞きます。
中学年では、大多数の「周りに比較的穏やかなこどもたち」は、 その子たちを受け持った低学年での担任の先生の「価値観」を 従順に受け容れ従ってきたから、「まわりに迷惑をかける子」に対して 「比較的穏やかなこどもたち」と思われているわけです。
ここでも教師が規則重視で、 その枠の中に入らない子どもたちを 「穏やかでない子」=「悪い子」と考えれば、 その子は、教師の作った「いじめの構造」の中に 組み込まれてしまう場合があります。
教師が「異質」と判断することにより 「比較的穏やかなこどもたち」は その価値観を受け入れ「異質」として扱ってしまうという構造です。
「異質」を受け入れる学級を作るには 教師にそれなりのスキルが必要となるのですが、 そのスキルは実践知とでも呼ぶもので 経験的に身に着けていくもののようです。
冒頭の重たい言葉を述べた女の子は 、こうした構造への反発から 5年生で教師への反抗を重ねました。
最初の怒りの対象は 規則を高圧的に守らせようとした若手の教師でした。 そして教師を乗り越えると「周りの子」へターゲットを移します。
「いじめられる側」から「いじめる側」へ、 そしてターゲットは「比較的穏やかなこどもたち」でした。
5年生で理由を問われたときの彼女の返答は 「ズーとみんなにいじめられてきたから仕返ししているだけ」でした。
6年生で担任した僕が 、その子の心の傷を払拭できたかどうかはよくわかりません。
とにかく話を聞ける関係にはなりました。
かつての「穏やかなこどもたち」、 もう「いじめられている子どもたち」も含め 「ちがい」について考えたことを記憶しています。
何年かののち、彼女は笑顔で宅配便会社の制服をきて元気に荷物を学校に届けにきてくれました。
これがソーシャルスキルを考え始めたきっかけでした。
人には「違い」があるのが当たり前で、 おなじことができなくても「悪い子」ではないという意識を 醸成するというアプローチが必要でした。
クラスの中で素直に自分を表現すれば 人も素直に返してくれるという安心感を作る取り組みを ソーシャルスキルトレーニングを通して行いました。
もうひとつの側面として僕自身が 自分自身の意識をニュートラルにすることを 心がけていたように思います。
その子たちの特質を「さりげなく」受け容れているのかという点です。
みんなに迷惑なことをしても、「なかま」だったら仕方がないことなのだから 「みんなちがって、みんないい」と 思い込みなさいと言う感覚にも少し違和感がありました。
小学校段階で、担任の教師の価値観が子どもたちに影響することは確かだと思います。
ただそれを正義として押しつけることに僕は 、違和感を抱いていたのだと思います。
教師自身の自然な振る舞いや言葉の中から、 子どもたちは「みんなちがって、みんないい」と感じるのであって 教師が固執する「正しい価値観」の押しつけ的なスタンスでは、 子どもたちの本音が見えてこないことが多いことは経験で知っていました 。
もしクラスの子どもたちが 「表出する行動面で判断するのではなく、 その中にある思いや感情を受け入れる」という 新しい価値観を受け入れてくれれば、何かが変わると思っていました。
そんな意識が周りの子どもに芽生えると 小さな奇跡がクラスでもいくつか生まれました。
「いじめ」は子供間のトラブルが原因だという要素は 多々ありますが、教師の持つ価値観が作り上げるという側面や 保護者の持つ価値観が作り上げるという側面もあると 考えています。
特に教師や保護者の影響を受けやすい小学校段階の子どもたちにとって、 それらは単に「道徳」を教えるという行為のみでは解消できないものだと考えています。
世間の親たちに小中高等学校に「道徳」を専門とする教師 ( 道徳の免許状を持つ教師 ) はいないということはあまり知られていません。
皆さんは気づいているかもしれませんが小学校全科の一部として道徳が使われていますが、 高等学校の「倫理社会」が近いものとしてあるだけで、 誰も免許状はないという教師の資質の問題も確かに存在するのです。
職務としての道徳教育は 「偶然、クラス担任になった教師」が行うというのが 一般的だという現状から考えると、 子どもたちが「作られた価値観」から 「自分たちの価値観」を構築する思春期に出会う教師の「価値観」はとても重要なものだと考えます。
もしそんな教師に出会うことができずに大学にきているとしたら、と考える場面もあったわけです。
一般的にいわれている経験のある教師の中でも、 「いいクラス」を作れる教師と、 そうでない教師がいるという認識はあるのですが、 経験豊かで「いいクラスを作れる」といわれる先生の多くは、 親も子も、上手に「のせる」キャラクターを持っているように思います。
ただ、一般の方が言われている、また思い描く明るくて元気というパターン化された教師像ではないようです。かといって子どもや親たちに迎合する軽さでもありません。
「のせる」ということを言い換えれば 「コミュニケーション」能力があるわけで、 こうした先生が担任になると 「違いがある」「違いがない」の意識をせずに 「クラス」が形成され 「健全な子どもたちの社会や教室のルール」が自然と醸成されてきたのだと思います。
学級カーストという言葉が何の抵抗もなく子どもたちに受け入れられ常態化しているのなら、子どもを「のせる」ことができる先生が必要ですね。