最近のマイブームはミニチュアセダムの栽培
涼しい部屋で楽しめるのがいい。
小さな部屋なので置き場所に少し工夫が必要になってきた。
昔、人を育てることを花を育てることに例えて話す先輩がいたけど
比較できるものではないように思う。
この間、教え子に誘われて久し振りの高校野球観戦した時、とにかく暑かった。
暑さや寒さに耐え身体を鍛え、試合をすること自体は全く否定する気持ちはないのだが、そうしたことを巡る議論がシンボリックな「高校野球」を題材に行われていることに少し違和感がある。
準決勝の母校の対戦相手は、伝統的なミリ単位の丸刈り、一方母校の野球部は自由な髪型笑。
プロ野球の選手とプロサッカーの選手を比べてもサッカー選手の髪は色とりどり。
その場にふさわしい服装や髪型って言葉かあるけどスポーツに相応しい服装や髪型ってあるのかな?
スポーツが「見る」ものではなく「行う」ものなら主催する人たちや指導する人たちの意識が変われば、
まだまだ変わることができる部分があるように思える。
戦略や戦術で楽しむ集団スポーツの場合、プレイヤーのスキルはその集団の求めるところにより色々あるとおもうけど、個々のプレイヤーが楽しめていないとチーム(集団)としての「勝ち」はないようにも思える。
集団スポーツにおいて「勝ち」に「価値」を求めないのならスポーツとして成り立たない部分があるはずであり、昭和の先生たちがこだわりすぎた部分は、「勝ち」に「価値」を置きすぎて、個の楽しみを奪ってもいいとしてきた「滅私奉公」という考え方だと思う。
規律や集団としての行動を重きに置く場合「滅私奉公」という個を捨てる覚悟を必要とした時代もあった。いまや「覚悟」が必要になるのは、個としての生き方に「プロ意識」が必要となるものを選択した場合ぐらいで、アマチュアとして個としての生き方を模索するときにはそれほど重視しなくてもいいはずなのだが精神論を大切にする指導者の中にはまだ脈々と生き続けているようだ。
集団スポーツにおいての指導は修正すべき点があると思うけど、民間にクラブ活動をアウトソーシングしたからと行ってこうした「滅私奉公」という考え方がすぐに是正されるとは限らない。
ラグビーでよく言われる「one for all,all for one」という言葉が嫌いだという若者の言葉を聞いたことがある。
よくにたイメージでとらえれば同じなのだろうが、個人にとっても集団にとっても「楽しむ」という「win win」の関係があるかないかという視点で見れば別のものだと考えられる。
要するに、そうしたゲームをすることが「好き」なのか「嫌いなのか」という「見る側」の個人の感情の問題で、プレーヤーがその生き方を模索しているスポーツそのものを否定することはあまりいいことではないようにも思える。
まちがいなく子どもたちの体力は落ちている。異常気象で暑さ対策、寒さ対策が必要だ、だからクーラーで冷やし虫のこない安全な屋内に閉じ込めて「隔離」することが少子化対策だとするなら少し変な気がする。
戦うことアレルギーは戦わない子を育てることはできたが、戦えない子や戦いに気づかない子どもを生み出したのかもしれない。
大切なのは他者との関係のなかで、「殺さない」「殺されない」という「命の尊さ」を大切にすることであり、「競うこと」「争うこと」「戦う」ことを学ぶことはあってもいいのじゃないかな。
そんなことを言う先生は今どきバッシングを受けるかな笑
夏休みだけ髪色を変えるのではなく、いつでも髪色や服装を自由に縛られないで小学校で勤務できる時代がくればいいね。ジーパンやスポーツウェアで授業参観すれば叱られたり、プール指導の時、派手な水着やサングラス、競泳用水着が不適切だといわれたりするかもしれないけど、「見る側」ではなくプレーヤーの意識を大切にする時代が教育現場にも来るはずですよ。
儀式の時、礼服に運動靴というセンスはまだあなたの学校に残ってますか?
残念ながら母校は決勝戦にはたどり着けなかったけど、
とても熱い一日を過ごすことができました。
遠い昔、母校の制服が嫌で「自由化」を得ることができたのに、今どきの母校はスマートで可愛い制服になってました。
ちょっと「多様性と自由」について考えてみました。