おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

いいソフト

2007-08-31 10:12:16 | Weblog
八幡市のICT研究員はいいスタッフがそろっていると実感しています(^_^;)

O先生は前からコンテンツ開発に精通していて学情研のコンクールで入選してるし、
K先生の発表能力や押しの強さはなかなかのもので、学研の教育とコンピュータに
掲載されたときはおもわず拍手でしたね。M先生は若手の努力家、
どんどんいろんなものを吸収するキャパの大きさが魅力です。

H先生、T先生との若手三羽がらすでおじさんたち引っ張ってくれます。
中学のH先生もI先生も前の某指導主事をひきついで、人柄と豊富な経験を生かしていい味になっていますね。

みんな いつもなにか楽しい取り組みがしたくて仕方がないという雰囲気がいいですね。

うちの研究員たちは「おもしろい」と思ったらすぐに参加しますし
「役に立つ、使える」と思ったら真剣に取り組みます。
そういう意味では結構わがままなんでしょうね(笑)

昨日O先生とはなしていて思い出したことがあります。
研究を始めた頃、何をしていいかもわからなくて、
とにかく大学の偉い先生の話を聞きたいと思っていろいろな人からお話を聞いていたとき
「売れるソフトがいいソフトだ」とおしえていただいたことがありましたよねって。

その先生はお金儲けをするという意味ではなく
「売れるソフトがいいソフトだ」といわれました。

なぜならユーザが大事なお金を出してまで使ってみたいと思うから
買うわけですよね

 ズーとほしいと思うからお金を払う、
これが大事なんだと。お金を出すことはユーザにとってはしたくないことだけど、
それでも役に立つ、使えるものならきっとユーザはほしくなるからいいそふとといえるんだよって。

僕たちもそんなものをつくることに参加できたらいいな
話し合ってみようかな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉でコミュニケーションをとることの難しさ・・。

2007-08-31 09:30:39 | Weblog
言葉でコミュニケーションを取ること自体が難しい時代になっているような気がする。
まして文字でコミュニケーションを取ることはもっと難しいはずなのに、
子ども達は安易に携帯のチャトや掲示板に群がる・・。

なんか恐ろしいことが起こっているような気がしてならない。
「言葉は単なるコミュニケーションの手段ではなく、その人の思想(人格)を表すものだ」という考え方に、
感じるものがある。

言葉(情報の受発信)は単なるコミュニケーションの手段ではなく、
その人(情報の発信者)の思想(人格)を表すものだ。と読み替えればいい。

他者にこういうことをやらないでくださいとか、
こういうことはしないルールを作りましょうとか・・
そんな論議も必要かもしれないけど、それは小学校で教えることではないような気がする。

「そんなことはしない」という「信念」を育てはぐくむことができるかどうか・・・。
今 「誇り」という言葉が「埃にまみれてる」・・・かな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パッチギ

2007-08-20 21:31:25 | Weblog
映画見てなくやつの気持ちなんかわからないって最近まで思ってた。
でも夏休みに何気なく借りたこの映画を見て涙が出てきた。

共感できる時代や感性を映画の中で見いだしたとき
やっぱり涙が出たのだと思うことにした。

娘にメールしたら、単に年をとって涙腺が緩くなっただじゃないの?
というつれない返信が来た。

だからこの映画のどこがよかったかを考えてみた。
イムジン河の曲を知ったのも京都市の北区の高校で同じ時を過ごしていたのも
「あのとき」なんだよな。

きっとすぐそばにいた「あいつ」は俺の友人だったろうし、
なんか取り戻せない大切なものにであったようなきがしたんのかな。

鴨川を渡る塩小路の橋も、本町通りの陸橋も、
大谷高校の横の大和大路の高架も生まれたときからの遊び場所だったし・・

あまりにも撮影場所が身近すぎて今は離れてしまったふるさとへのノスタルジアなんやろかな。

間違いなくそんな出来事がすぐそばであったし、
「あのとき」何もできなかったことへの後ろめたさなんかも
入り交じって不覚にも涙が出てしまった。

ほんま年とってしもたんかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近考えていること

2007-08-20 21:12:21 | Weblog
近年、多くの「学習用」ソフト(コンテンツ)というものが、学校現場で見られるようになってきた。
子どもたちは、その変化に富んだ動きやビジュアルの美しさに心奪われて、興味を持つが、
その姿を見つめる教師は苦虫をかみつぶしたような顔になることが多い。

また「学習支援用IT機器」と呼ばれる種々の機能を持った危機が導入された時にも
教師がそうした表情になることがある。

理由は2点考えられる。

一つ目は、「また、ソフトやハードの操作や機能を覚えなければならないということ」
すなわち、子供たちの喜ぶ「学習用」ソフトや「学習支援用IT機器」の新規導入は新規の操作スキルが必要となり、
そうした新しい操作スキルの獲得は、高齢化しつつある教師にとっては最も苦手とするところであり、
新たな負担感が生まれるわけである。

しかし、こうした点については、教師側の習得努力も必要であり、
教師の操作スキルを向上させる支援を行うことで改善できる部分もあると考えられる。

教師という職業にコンピュータリテラシーが必要な時代になっているという認識は
十分教師間に浸透していることもあり、スキルアップ研修が増え、時間がたてば解消していく問題なのであろう。
            
しかし、もう一点については、時間の経過だけでは解消できないものだと考えている。
それは、いわゆる「学習用」ソフトというものや「学習支援用IT機器」というものが
「教師が作りたい指導場面、すなわち授業」を行う上で不便だと感じているからである。

簡単な例をあげれば授業で使いたい1枚の写真を手に入れるため、
コンピュータの電源を入れ、立ち上がるのを待ち、検索サイトをひらけ、
膨大なデータから、自分の授業に使いたい一枚を見つけ出すのに要する
労力や時間がかかりすぎる場合が多いことを挙げておく。

これは事前の教材研究の場面で、
スキルのある教師でも感じていることであり、
どこかに電話をかけ、こちらの意図を伝えれば何枚かのデータを
メールで送ってくるようなシステムがあれば瞬時に解消することであり、
そうしたICTを活用した指導方法支援システムが必要と考えている。

こうした点は実際に教壇に立ち指導を行う教師でなければ
理解しにくい点であるが、教室は教師と子供たちで作る創造の場であり、
ICT機器はあくまでその創造の場を作るための「便利な道具」でなければならないと考えている。

ソフトやハードの性能や機能はどんどん進化し
「できること」は多くなってきた。

企業も開発に力を入れ教育用ソフトの導入を進めに来る企業も増えてきたが、
そうした方々の「こんな機能があります。こんなことができます。先生も楽になります。」
といううたい文句にうなずく教師は少ない。

価格の問題以上に、目新しいソフトや機器を導入しても
現実はその年に何人かの教師が使って、
そのまま使い続けることができないできたという経験をすでに持っているからである。

「使う教師が限られているのは教師の操作スキルが低いため」
「指導方法を知らないから指導案をつくり定型化していないから」等々の意見も
否定はできないが、それだけの理由であるとは考えられない。

長年教師をしているものならこうした新しい機器の導入に伴う混乱は何度も経験している。
それは視聴覚機器においてよくみられた。

古くはスライド、8ミリ、テレビ、ビデオ、OHP、実物投影機と多くの機器が教室に導入され、
それに見合ったソフトが開発されてきた。

しかし最後まで根付いたのは、黒板とチョークでしかないのが現状であるように思える。

「学習用」と銘打たれたITテクノロジーが「機能としてできること」は
教師が自分の授業を作る時に「必ずしも必要なものでない」
むしろ「不便なもの」となっているということに気づく必要がある。

授業は生き物のでありテンポがある。
機器の操作がそうした教師と子供が作る空間や時間の流れを分断するものなら、
力ある教師ほどそうした機器を使わないであろう。

多くの教師はITが教育現場に導入されたとき、
漠然とした不安感を抱いた。
JRに自動改札口装置が導入され多くの改札員と呼ばれた人達がリストラされたように、
省力化というイメージがITの代名詞となり
「機械化によって、今までそこにあった人と人とのコミュニケーションをも含めて省力化される」方向になるのでは
という危惧であった。

「ティーチングマシン」という発想はまさにそのものであったし、
そうした考え方が大きな潮流になれば「授業における教師自身の存在」が不必要なものとなるわけである。

私たちの考える授業の構成者は教師と子供たちであり、
ICT機器の活用はそうした「授業」を創造するための「便利な道具」であらねばならない。
なぜなら、「教師の目指す授業」を創造するときに不必要
また不便であった視聴覚機器は淘汰され使われなくなったからである。

現在の教育現場で見られる学習ソフトは
すぐに使えるという環境があったうえでも、
「自習の時間」「補習の時間」「宿題」「反復練習時」等
教師の不在時での利用は有効としても
「各教科における授業」で継続して利用できているものは非常に少ないし、
むしろ、実際の授業においては、個々の学校でコンテンツ作りに堪能な教師が
一部の機能に特化したものを自作したシンプルなコンテンツが長く使われている場合が多い。

こうした事例は、多機能な「学習用ソフト」が
「不便である」証左と考えられるし、
ハードに関しては「不便であるから」使わないということは
使用頻度をみれば歴然としている。

設定に手間取る機器の利用はよほどの時以外行われず、
教室で日常的に使用している機器は、
スイッチを押せば直ぐに画面が映るテレビぐらいのものである。

適切な例ではないかもしれないが、
どんなに美しく様々な景色を映せるソフトや機械ができても、
噺家の名人は扇子と手ぬぐいですべてを表現できるから
そんなものは高座では使わないであろう。
使うのはその準備の段階や、ほんの一部だけではないだろうか。

もう少し補足しておけば、
「児童のための学習コンテンツや学習支援用IT機器」と
「教師のための指導用コンテンツや指導支援用IT機器」は似てはいても、
別物であるという認識が必要であると思う。

個に応じた手だては、コンピュータがそれぞれの画面で行うものではなく、
教壇に立つ教師がそれぞれの子どもたちの顔を見ながら、
便利な機械を使って行うものだと考えている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卒論の代行???

2007-08-18 19:23:01 | Weblog
昔は・・ってフレーズでものをいうようになれば
老いのはじめだとこの間会った大学時代の友人が話していたけど、
世の中のIT化は激しいようで
とうとう大学のレポートや卒論までも
ネット上で代行してくれる時代になったって
今日の読売新聞に書いてあったよ。

僕の学生だった頃は
まじめにノートをとるやつが友達にいなくて
板書ノートの代行屋ってのがあったような気がするけど、
ノートをだしに好きな女の子にアタックするという楽しみの方を
選んでいたような気がする。

冗談はさておき、こうした教育という領域を営利目的の市場として
とらえる考え方は、時にこうした暴挙となってしまうことがあるようだ。

しかし規制によってこうした暴挙を行う連中を規制することは難しいし、
規制する側とされる側のいたちごっこが始まるだけ・・。

直接利用している学生たちの意識が変わることはないのではないだろうか。

今の大学生は、僕がはじめて情報教育に小学校で関わった世代の子供たちと同じ世代、

小学校にコンピュータが導入され、その利便性と有効性だけが強調され、
それを悪意や営利目的で利用する人間がいることも、
まして著作権やモラルなんかは誰も教えてはいないのではないだろうか?

図書室の本をコピーする感覚で他人のホームページの記事を写すのは、
コピペのスキルを獲得した子供たちにとっては当たり前の感覚だったような気がする。

ITのスキルを獲得した人間にとって
モラルが必要だと考える風潮もようやく最近になって、醸成されてきた。

これから起こるであろうITの不適切な利用や違法行為に対応するために
いろいろな予防措置や仕組みを作ることも大切だろうが、
僕たちができることはやはり小学校早期からの「モラル」指導であろう。

あえて「情報モラル」といわずに「モラル」としたのは、
ぼくのこだわりかもしれない。

教師になりたての頃、障害児学校につとめていて、なんか限界を感じて、逃げ出したくなったから、
ヨーロッパに一人旅に出た。

そのとき、一番ショックだったのがスイスのザンクトガーレンという小さな町で市街電車に乗ったときのこと。

乗り方がわからないので周りを見ていると。
停車駅で先に切符を買った乗客が買った切符を乗る前に箱に入れている?
電車がきたら切符を持たずにみんな乗っていく。
乗務員も何のチェックもしない。
人が見ていようが見ていまいがそれがあたりまえ。

これはショックだった。

人が見ていなかったら守るべき規範をもてないのが僕の知ってる多くの日本人だったから。
人が見ていようが見ていまいが守るべき規範を「モラル」とするなら、
大学生の卒論やレポートを売る代行屋も頼む学生も「モラル」の欠如した典型的な日本人なんだろうな。
こうした日本人を作っている教育の現場に携わるもの責任は大きい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりにホームページの部分改修をしました

2007-08-18 01:07:22 | Weblog
急に思いついてホームページを四年ぶりに部分更新
、まるで放っておいたのに90000アクセスを超えていて、
100000まであと少しになっていたのには驚いた。

いつになったら10000アクセスになるだろうと、
毎日ホームページをのぞいていた頃が懐かしい。

今では仕事に追われて、自分のホームページの更新など考えられない毎日になっている。
ブログもじゃまくさいし、
なんかITを使うことで余計に仕事が増えているような気がしている。

ぼちぼちができないテスト前夜貫徹派の五十代にはきつい時代になってきた。。かな?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悲しい記事

2007-08-05 22:41:16 | Weblog
なぜか悲しい記事を思い出した。
いつだったけ「校長、学力テスト中の児童に指で正答教える」
テスト中に児童の答案用紙を見て回り、
誤った解答を指で示すなどして正解を誘導したらしい。

校長は、「本来なら正答できる児童の誤答に気付き、
そのままだと力が正確に測れないと考えた」らしいけど、
たしか平成十五年度に学校選択制を導入し、
一昨年からは区独自の学力テストを本格的に始め、
学校別の成績と順位を公表し、
今年度からはテストの成績の伸び率を
各校の予算配分に反映させている東京の足立区だからこそ
起こった出来事なのかもしれない。

教育改革は時代の流れだと思うし、
新しい取り組みを行う必要があることも十分理解できる。
けど、そんなことをやってしまった管理職や
先生たちの気持ちもわかるからなぜか悲しい。

結局は成績なのだという論理に甘んじていていいのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少し、考えてみました。

2007-08-03 19:54:13 | Weblog
今年は「コンテンツとシステムのパッケージ化」について研究してみようかと思っています。

「ネットワークで動かす教育用コンテンツの条件」みたいな感じですね

研究所の研究員会も巻き込んでやってみようかなという感じです。

少し骨子を作ってみました。

1そのコンテンツにたどり着くまでに「簡単に」「安全に」認証されること。
(ログインID パスワードの入力からコンテンツ利用までのクリック回数をすくなくすること)

2コンテンツの利用が個々の習熟課題に対応し、
次のステップへの意欲を喚起できるものであること。
(ゲーム性 とりわけランキングやぺー棒の発想、音、ビジュアルへのこだわり、キャラクターは年齢層に応じたものが必要)

3コンテンツへの信頼性は「現実に学力が上がったかどうか」で問われるものであるという認識が必要
(実態調査及び利用比較 大学棟を含めた専門性のある分析などの検証システムがあること)

4コンテンツはユーザがカスタマイズできる部分を多くし、
それ自体の操作性はシンプルなものであること。
記録は即時にユーザへフィードバックすることができ、他のユーザとの対比や比較が視覚的に可能なこと。

5各コンテンツ利用者の一括管理(ユーザ管理、データ管理、ヘルプディスク)を行えるアドミニシステムがあること。

6アドミニシステムにおいては個々のユーザへの次のステップにつながる情報提供と意欲喚起を行う工夫がなされていること。
(表彰状や対戦システムや上級者大会などのイベントを1名程度のの専従者で運営執行できる必要がある)

7クライアントシステムは個々に利用可能な状況が構築されるものなら
PCに限らず積極的にゲーム端末も含めPDFの利用を視野に入れる。
個々の端末を一人一人のユーザが利用可能な環境が大事
(ゲーム端末の場合はネットワーク化が課題、オンラインゲーム的なものになる?)

8個々のユーザが同時利用しているユーザや同じコンテンツを利用したユーザとの意見交流等が即時
または任意の時間にできる環境が「簡単に」手にはいること。
(チャットや会議室の併設だけど、そこへたどり着くまでの手間のかからない環境が大事)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする