おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

300000回のpvありがとうございます。

2020-10-31 21:13:45 | Weblog
知らない間に閲覧回数が30万回を越えていました。閲覧して下さった方も15万人に間もなくなります。気まぐれな投稿で、いまだに操作もわからなくて、自分でいいねボタンみたいなやつを押してしまうことも多々あります。打ち込みも、誤字脱字がありますが、お付き合い下さった方々、ありがとうございます。
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道端の歴史遺産 本編 2

2020-10-29 14:53:25 | Weblog

泉涌寺のあたりまで来るとおなかがすいてきます。

平成の終わりごろまで日赤の横に京家というコロッケ屋さんがあり50円のコロッケを売っていました。もうつぶれているかもしれませんが、懐かしい味は消えているのでしょうか。もう一つこの辺で消えてしまったものがあります。

泉涌寺道を西に入ったところに「源氏物語」にある「夢の浮橋」の舞台となったといわれいた場所がありました。現世と浮世を渡る橋があったはずなのですが、昭和には橋のモニュメントが消え平成には石碑が消え今では看板があるだけです。マイナーな聖地は 時代とともに消えていくのでしょう。

東大路を七条に向かって上がっていく(北の御所の方向に歩くことをあがるというのですが、道も緩やかにのぼっています。)と大きな木が見えてきます。平安時代に植えられたという樟です。植えたのは後白河上皇、実はこの神社には曰くがあって花伝書で有名な世阿弥が平清盛の前で初めて能を舞った能舞台があります。

まもなく東大路とJRが交差する陸橋の上に出ます。新幹線で東京から帰ってくるとき、東山トンネルを超え、この陸橋に差し掛かった時に必ずまもなく京都ですというアナウンスが行われる場所ですが、向こうに見える大和大路通の陸橋あたりから京都駅までのあたりで僕が大好きだった「パッチギ」の撮影が行われたそうです。実際の出来事は北区、左京区での出来事を取り扱っているのですが、そのあたりのリアリティは映画には必要ないのでしょうね。この辺りに、隠れた名店があるので紹介しておきます。

一軒目は「ホットケーキの店」、今では「パンケーキ」というらしいですが、甘いものが好きな僕は、「梅花堂のホットケーキ」でした。

二軒目は漬物、柴漬けは大原が有名だし、大安や西利といったピッネームが京都では幅を利かせていますが、観光客相手の土産物の漬物をうまいと思う京都人は意外と少ないと思います。東山では赤尾とニシダ屋がツートップだと思います。その本店が大石街道を東に入ったところにあります。ちなみにこの大石街道は山科の大石神社につながっています。山科の人は西に東山三十六峰をみるのに、西山とは言わず「東山」といいます。この辺りが「山科と伏見は京都と違う」といういこじな思いを持つ京都人がいまだにいる原因なのかもしれません

さて、さらに上っていくと東大路七条の交差点につきます。交差点にある智積院の石段からの眺めはまっすぐに大路が作られたことがよくわかり天気が良ければ西山が見えます。

智積院の横を阿弥陀が峰に向かう坂道があります。京都女子大学があることから「女坂」という名前で呼ばれる坂道です。中腹の大学をさらに上って行くと五百段といわれる石段があり、その頂上に秀吉の墓石があります

時間と体力があれば五百段の階段を一気に登り頂上まで行くことをお勧めします。ただ残念なのは見晴らしはそれほど良くありません。見晴らしを優先するなら円山公園から将軍塚がおすすめのコースです。

阿弥陀が峰から降りて七条通りを西に向かいます。右側に国立京都博物館 左側に三十三間堂が見えてきます。この道も気持ちがいいほどまっすぐです。京都駅前の京都タワーが見えます。

少し国立博物館を覗いていきましょう。三十三間堂は修学旅行等でよく府外の方が来られる場所として有名ですが、意外とその反対側のあたりは見過ごしている場所のようです。

これは上野にあった「ロダンの考える人」と京都の「ロダンの考える人」です。

同じ地獄の門で悩んでいるのに少し違うように感じるのはなぜでしょう。

普段はこのアングルで無人の写真は撮れません。ラッキーな一枚です。

巨石フェチにはたまらないさわれる遺構があるのがいいですね

博物館の西側にある大和大路通りを上がると右手に豊国神社この辺りは 豊臣秀吉ゾーンで豊国神社の前の道は正面通り、伏見桃山時代はまさに秀吉の時代だと感じさせる地名がこの辺り一面にある

本瓦町 鞘町 馬町等々、そしてお隣が「国家安康」で家康に難癖をつけられたことで有名になった方広寺、でも地元では、気持ちの悪い不細工な大仏があったお寺ということのほうが有名。木造で奈良の大仏より大きな秀吉に似た大仏を作らせたのだが何度か焼けてしまったことに由来するらしい。なぜ、秀吉は阿弥陀が峰に墓を作ろうとしたのか。天皇家の菩提寺、泉涌寺のある隣の峰に墓を作るということは天皇と同じだというアピールじゃなかったのかな。それともそれ以上の存在「神」だということを誇示したかったのだろうか。

さて、隣の方広寺の釣り鐘

実際に見れば家康の難癖のつけ方がいかにひどいものであったかがよくわかる。いまだに関西の人間は秀吉、秀頼びいきが激しいように思うのだが、教科書では拡大された文字しか見たことがない人にはその実感がわかないのだと思う。

あの白いところが「国家安康」の文字、どうおもうのかな。

確かに秀吉もひどいことをしている。

正面通り沿いにある耳塚 。朝鮮通信使と呼ばれた人たちは必ず日本に来た時にここに立ち寄り、

淀から江戸に向かったといわれている。今でも京阪淀駅から見える淀城跡はこの朝鮮通信使のために作られた江戸時代のものと言われている、鳥羽伏見の合戦には関係があるかもしれないが、淀姫が住んでいた城跡ではないらしい。

今度は少し七条通りまで下がって、「大仏の交番」の前を渡って三十三間堂の辺りを散策してみよう。

赤い紅色の塀と通し矢やたくさんの仏像があることで有名な三十三間堂はあまり興味がわかないのでスルーします。むしろ面白いスポットはその周りにあります。

近所の人たちが「弁天さん」と呼ぶ養源院ここは静かで人が少ないけど一度は行ってみる価値のあるところ。テレビでお江の方が取り上げられてから少し人気が出たらしい。宗達のふすま絵や桃山城遺構の血天井のある「弁天さん」、「「血天井」の文字、ここにも血塗られた京都の歴史が見える。

このすぐ横の普段は鎖が下ろされた小道の奥に

平安末期の戦う天皇 家のヒーローだった後白河天皇の墓所も法住寺というお寺の中にある。秀吉の墓所を見上げる位置にある。ほとんどの江戸時代までの京都市内にある天皇の墓所といわれるところは平地にあり、明治天皇の御陵は東山三十六峰のはずれ伏見桃山にある。東京遷都後の墓所は明治神宮なのかな?

さて、さらに下がる(南に行く)と南大門が見えてきます。昔は左右に仏像が二体あったのですが近くの子どもたちの遊び場所でもあったため、国立博物館に保管されているそうです。何気に国の重要文化財のため、クレーン車や大型トラックが門をこすると新聞に載る騒ぎになります。

比較的新しい石碑にはこの辺りに土佐藩士か住んでいた建物があった=坂本も北添も住んでいたという坂本龍馬聖地アピールがありました。駐車場を作った時に何か出てきたのでしょうか。これも観光都市Kyotoの顔です。

三十三間堂の周りには「太閤塀」と呼ばれる秀吉の作った塀の遺構が見えています。奈良に行く大和大路がそのねきを通り、塩を都に運んできた塩小路がクロスしています。

さてその大和大路にある民家の軒先にこんな古ぼけた住所標識がありました。

この住所標識の価値がわかりますか?

この場所は「東山区」なのです。京都に区制度がひかれたのは明治時代「上京区 中京区 下京区」の3つしかなかった時代があったのです。右も左も南も西も、まして山科や伏見は「京都」ではなかった時代のレプリカではない住所標識が今でも現役なのです。僕はこの町内で生まれました。

チンチン電車が走っていたところが最初の京都だと祖母たちは話していました。今でいう東堀川通のことを言っていたように思います。

七条通り東大路通北大路通西大路通りに囲まれた旧市電の六番が走っていたところ今の市バスの206の走っているところが京都だと言い張る昭和生まれの連中はまだたくさんいるようです。鷲田先生の「京都の平熱」はこの市バスの206が循環する内側を「京都」だとされています。

さて最後に七条通りを西に京都駅に向かいます。本町通の七条、懐かしい味の蒸しパン。井上のパン屋の蒸しパンはまだあるのでしょうか。小腹がすいたときに思い出すのは子どものころ食べなじんだ味ですね。

七条通りから塩小路通りに抜け、とりあえずビールとすじ肉のお好み焼きで乾杯しましょう。結構歩いたはずですから、帰りの電車はゆっくりしてください。それと八条口裏のチヂミの王様でサムゲタンにしますか。

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道端の歴史遺産 本編 1

2020-10-28 14:05:08 | Weblog

それでは本題の「東山プチ歴史探訪 東福寺から一駅の旅」を始めましょう。

集合場所はJR東福寺駅前 京阪電車の乗車口が見えているのに看板はJRのほうが大きいという少し変わった場所ではあります。

すぐ前は狭い道幅の本町通で、そのまま行けば次の駅が「Inari」駅になります。(いつの間にか英語表記の似合う駅になりました)この辺りを遊び場にしていた昭和30年代には外国人など見ることがなく、正月に人が集まる場所、駅の前で雀の焼鳥屋がある場所としてよく知られていました。

とりあえず飲み物とおにぎりをすぐそばのコンビニで購入して本町通を北に進みましょう。左側に大きな石碑で「東福寺」の入り口、中を拝観する気はさらさらないので、とりあえず塔頭を横切りながら京都五山の一つ臨済宗大本山 東福寺、日本最古の最大級の伽藍を眺めてください。

境内にある百雪隠という場所の近くには穴や窪地か大きな石があって近くの子供たちの格好のかくれんぼの場所でした。そこが修行僧たちのトイレであったということを知ったのはずーと後のことでした。

最初の見学スポットは通天橋、ただの木造の橋ですが秋には人がわんさかやってきます。モミジの名所です。季節外れは無料で通れるはずです。

秋にはモミジの名所ですがそれ以外の時にはさほど人も来ず静かな風情があるはずです。境内の塔頭ではお茶やお花を教えているなど意外と商売上手なところもあります。また、雪舟が書いたとされる絵もどこかの塔頭で公開されているはずです。教科書に名前が出るような人たちの作品に身近に出会える街、それが京都なのかもしれませんね。

さて、東福寺を突き切ったら、いよいよ東山トレイルに向けての上り坂を上がっていきます。途中、府立日吉が丘高校を横に見ながらさらに奥の南日吉町を目指します。この辺りから東山三十六峰という京都盆地を囲む山並に上る道がいくつかあります。中世や近世において山の民(サンガとか土蜘蛛と呼ばれた人たち)が通った稜線の道がありました。小さなころはそうした山道に入りアケビや時にはマツタケをとることができ、山の中に霞網を仕掛けて雀をとって、稲荷の屋台に売りに行ったこともありました。

東山トレイルと呼ばれる道はそうした京都の周りを囲む道を再整備してつくられているようです。稲荷山の茶店から清水の舞台の下を通って吉田山までは行ったことがあります。あまり教えたくはないのですが吉田山の中腹にはとても素敵な喫茶店があるのです。

さて東山トレイルの入り口です。右に行けば稲荷山、左は今日の二番目の見学スポット「御寺」です。

この階段の向こうに今では金網の塀がありますが、この金網の向こうは「宮内庁」の管轄の土地になっています。

なぜならこの山全体が御陵になっており天皇家に深い関係がある場所なのです。歴代の天皇は即位の時その御陵に即位の報告をするという儀式を行います。そのためこの御陵に近い小学校の児童たちは沿道に並び小旗を持って通り過ぎる天皇や皇后陛下を迎えることがあるのです。そんなことを当たり前のものとして受け入れていた僕にとって、「天皇は神様だから」という大人たちの言葉はそれほど違和感のあるものではなかったのです。何も知らない子どものころは。何も知らないことはある意味で幸せだと思います。疑問を持たないで、大人たちのいうことを信じているほうがずっと楽な生き方ができそうだと思います。残念ながら僕はそうではなかったのです。「えー、神さんがなんでお寺に行くの?」と思ってしまったのです。さて、なぜでしょう?

この山の奥に行くと鳥辺山、今日の街が疫病や戦乱で死者がたくさん出ると「鳥葬」にしたというエリアです。今は東山ドライブウェイができましたが、火葬場や大谷廟という大きな墓地が京都の街を見下ろしています。

階段の坂を上がると、お墓がたくさんあります。どれも立派なお墓(陵墓)ですが、ある特徴があります。

親王とか皇子とか天皇の親族のお墓なんです。当然天皇はどの時代にも一人にすることでその正当性を維持してきたのですが、その裏には当然「天皇になれなかった人たち」がたくさんいたのですよね。そうした人たちが一堂に集まっているエリアなんですよね。どんな親王が祭られていて、どんな経緯でここに葬られたのかなんてなんか「長屋王」のストリーみたいなことがここに葬られている人たちも持っているのかもしれないという妄想がわくスポットです。

ここを通り過ぎれば天皇家の菩提寺「泉涌寺」が右手に見えてきます。鎌倉時代に創建されたといわれてますが、天皇家の菩提寺というより『楊貴妃観音像』が有名なのだそうです。楊貴妃観音像...美人祈願という女性に嬉しい、ありがたい像なのだそうです。

参道を降りていく感じで歩いていくと泉涌寺の山門が見えてきます。途中には京都市立東山泉小中学校やいくつかの塔頭があります。最近なんか注目された「大仏」があるお寺もあるのでのんびり見ながら降りていきましょう。森林浴が楽しめる緩やかな下り坂です。

山門のすぐ横には「平家物語」壇ノ浦の合戦で一躍ヒーローになった那須与一の墓がありますが、近くに住んでいてもお金を払ってまで中に入ったことがないので、なぜここにあるのかという理由がもうひとつ腑に落ちません。

それはとにかく山門の右側にトレイルのコースはあるのですが、ここから眺めるとこの泉涌寺が意外と高台にあったということに気が付くと思います。実はこの辺り太古の時代は琵琶湖の底であったり、日本海と大阪湾を結ぶ海の底であった時代があって洪積世の大阪層群という地層からは化石が出ていました。会談の右側の露頭が僕が初めて化石と出会った場所です。

ここを下って少し行ったところがちょうど京都女子大学に出ます。通称「女坂」のてっぺんに出る道ですが、今回は、そちらにはあとで行くことにして、九条通と東大路が交差する泉涌寺道周辺を歩いてみます。

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道端の歴史遺産4

2020-10-27 10:30:07 | Weblog

やっと京都の話が始まると思われるかもしれませんが、その前に山背の話を少ししておきます。なぜなら少し前になりますが面白い発掘に参加したのでそのお話をさせてください。つい最近ですが関裕二さんの京都古代史謎解き機構「大乱の都」京都争奪という文庫本を読んでいたら偶然その発掘に関する事柄が書いてあったので、少し紹介します。

現在僕がすんでいる町八幡はエジソンの竹が有名ですが、もっと前から「延喜式」には朝廷に山城と大和から矢に使う竹を献上させたという記述があり、すでに豪族が集落を形成していたと考えられています。そしてその本の中では、その豪族が実は九州の「隼人」の流れをくむ人たちらしいというのです。九州で力を持っていた豪族がヤマトとして奈良にまで行く途中で住み着いたのが僕のかつて勤務していた小学校の校区で行われた発掘と関係がありそうでした。

確かに八幡やその隣の京田辺市には車塚や蛇塚古墳などが多くあり、地元の農家の方と話すと須恵器の破片など田んぼからよく出てきたという話を聞きました。「大住」という地名が隼人の故郷である九州の大隅地方に由来すると考えられていて大隅から天皇とともに大和に来た大隅隼人がすんでいて、その人たちの墓が発掘されたのです。神武東征は神話の世界だと思っていたのですが、ある部分では史実を誇張して描くという技法が用いられてはいるがそのもととなる事実があるという、なんかトロイの遺跡を発見した歴史家のような気分を共有できました。

なぜこの話をしたかというと「隼人」の信仰は「月読神」で、大住にも「月読神」を祀る「月読神社」があり、八幡にはあの「徒然草」で有名になった高良神社も「月読尊」という「神」を祀っており、豪族たちは「神」を「天皇とは別の存在として認識していた」ということなのです。

最初から天皇は「現人神」ではなくある時から「現人神」になった。もしくはさせられたのかもしれないわけなのです。

それがいつなのか。

どうですか、歴史って面白いですよね。

その謎を解くカギが京都の町にあるわけです。平安京に遷都する前から京には渡来した豪族がいて、その協力を得ることができなければ長岡京から遷都はできなかったと考えられていますがその豪族が秦氏であり、半島からやってきて、九州に住み着きやがて京の地に住み着いた人たちとされていますよね。治水や養蚕に秀でていた人たちで、京都検定で難読文字の一つとされる「太秦」は秦氏がうずたかく絹を積んだ場所ということが地名の由来だといわれています。太秦には大きな古墳跡があるのですが、映画の撮影所で有名になりたのはずーと後のことです。

とにかく京都周辺には道端に歴史遺産がゴロゴロしてる、ただその自慢がしたくてすこし横道にそれたようです。

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道端の歴史遺産3

2020-10-26 10:23:41 | Weblog

まずは古代のお話から。

古代における天皇(いつから天皇と呼ばれたのかは知りませんが)とそのほかの豪族たちとの権力争いが今の奈良県であったことは歴史の勉強で学んだと思います。邪馬台国がどこにあり卑弥呼がどこに住んでいたかは別にして(最近の研究では箸墓古墳が卑弥呼の墓だとか)奈良にあった「都」が京都に移ったことは間違いのない事実ですよね。

古代の飛鳥時代において多数の豪族から大王としてのポジションを獲得し、大和朝廷を奈良で立ち上げた時、天皇家はまだまだ不安定でそのほかの豪族たちや天皇家内部での権力抗争などとても面白いものがある時代ですよね。

物部氏と蘇我氏との対立は仏教が原因といわれていますが聖徳太子は蘇我馬子とタッグを組み物部守屋と大阪府の八尾市付近で戦い、戦勝を四天王に祈っています。聖徳太子がすでに天皇だったという説もあるのですが四天王への祈りは仏教徒の証ですよね。

そう古代から仏教徒だから菩提寺があっても何の不思議もないはずなのです。

でも明治大正昭和に生まれた世代はある違和感があるのですよね。

神道という「神社」と深い関係のある「古事記」や「日本書紀」に書かれている神話の部分が、何かすっきりしないのですよね。

八尾の宗教戦争は「神」を信奉する物部氏と「仏」を信奉する天皇側が勝利し、以後の奈良時代にも大仏を作ったりしていますよね。なのに敗れた物部氏が主張していた「神」に天皇が祭り上げられているという構造が、彼らが生まれた時代には出来上がっていたのですね。

でも、奈良時代には、大仏は立てても天皇家の菩提寺は奈良にはなぜなかったのでしょうか。飛鳥時代は古墳なのは理解できますが、大陸から仏教思想が入ってきたてからも、寺院の建設は行われるのに菩提寺という考え方がなかったのでしょうか。これも面白いテーマなのですが、宗教的なことやあまり奈良には興味がないので、先に進みます。

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道端の歴史遺産2

2020-10-25 10:13:01 | Weblog

今は京都府と大阪府の境目にある洞ヶ峠近くの八幡市に住むことになって、早くも30年、すでに「京都に行く」という言葉も何の抵抗もなく話せるようになりました。

洞ヶ峠といえば山崎の合戦、あの明智光秀に援軍を頼まれた筒井順慶が日和見を決め込み光秀が合戦に負けた後秀吉についたという「洞ヶ峠を決め込む」という有名な言葉を生み出したといわれていますが、八幡市史では、それらは伝承であり筒井順慶が洞ヶ峠まで出陣したという史料は見当たらないと書いてあります。まっ、今でいうフェイクニュースのようなものでしょうか。歴史というのはそういうものかもしれません。

これからのプチハイクをより面白くするため、少し横道にそれてみようと思います。

今回の探訪のテーマですが「なぜ 天皇家に菩提寺があるのか」というものです。今でこそ「象徴としての天皇」ですが「神様」だったはずの「天皇家」がなぜ「仏教に帰依していたのか」というけっこう京都らしいテーマですよね(笑)当然「問い」は僕が作りますが、答えはあなたたちが作り、事後の省察会という名の下に行う飲み会で議論するのが僕のルールです(笑)

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知らなかったことを知るということ

2020-10-24 18:09:08 | Weblog

スマートフォンに送られてくる「通知」が煩わしくなることがある。

実際にスマートフォンの裏側で行われている通信(情報のやり取り)を知らせてくれるので「事実」を伝えてくれているのだが、その多さに辟易することがある。

ただ、この中に「本来は見過ごしてはいけない事実」があったとしても、私の「理解度(知識)」が少ないため知らない間にスルーしていることもあるのかもしれない。

 機器の操作という「経験」だけに頼ってしまう落とし穴がそこにはあるように思う。かといって「知識」は多くなれば多くなるほど「不安」を醸成する。

まもなくアメリカの大統領選挙が行われる。「情報」大国のアメリカの選挙だけに「情報」操作がいつも話題に上がる。

「情報」を政府が一元管理統制する中国と「情報」をGAFAと呼ばれる巨大企業が分析管理するアメリカという構造的な対比がよく行われている。どちらにしても「管理するために生まれてきたネットワーク」という部分では同じなんだけど。

政治体制の問題やイデオロギーの問題にいつの間にかすり替わっていることがある。

「管理すること」それは「監視すること」、政府が各分野においてその意思でコントロールする仕組みが「情報管理」と呼ぶなら、政治体制もイデオロギーもそれほど大きな問題ではないように思うことがある。

童話の中に出てくる強い王様が強い兵隊を手に入れて国を治めたように強い「情報ネットワーク」を手に入れた「王様」が国を治める時代がやってくるのかもしれない。

ある知人の言葉、「ネットは便利ですが依存すると魂を抜かれますよ」。もう「便利」という悪魔との魂の売買が知らないところで始まっているのかもしれない。

 教育に携わってきたものとして監視するシステムの学校への導入がもたらすネオ管理主義教育の出現に不安を覚えます。

政治の世界ではすでにデータマイニングの手法が当たり前になっているし、それがトランプというアメリカの大統領を生み出して、今度の選挙ではそのことの是非が問われているのだろうと思う。

データ(情報)を分析して、対応方法を見出し、その対応方法の有効性が高い方法を実施することにより、データを提出した人々の制御(コントロール)を行うというシステマチックなデータマイニングという手法(私論です。)は一見トラッドな教育手法のように見えるのですが行政手法になれば先生たちの足かせにもなる手法だと思います。

データマイニングの恐怖に対抗するフロンティアは先生たち(人間の中)にある「魂」ですね。

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道端の歴史遺産 1

2020-10-23 09:09:37 | Weblog

もともと京都市出身ということもあり、元の職場の同僚と京都探訪をもくろむことにしました。

三人合わせるとほぼ200歳になる年齢ですが、のんびり一日をkyotoで過ごしたいと思います。

東山プチ歴史探訪 東福寺から一駅の旅 京阪東福寺から京阪七條までを中心にぶらぶらしてみようと考えています。

このコースは京都の大学に来た学生たちがアルバイトや学業に追われ、のんびり京都の街をぶらつくこともなく、それぞれの故郷に戻ることや大学時代の友人たちからゆっくり京都の街をもう一度歩きたいんだけどという問い合わせを受けることが多くなったので数年前に当時の学生たちと作ってみました。

学生たちには奈良本辰也先生の「京都の謎」や鷲田清一先生の「京都の平熱」などを読むことを求めておきました。京都の散歩をしたいとき、この二冊の本はとても参考になると思います。

台風やコロナの影響もあるのでいつになるかはわかりませんが、三人が病院に行かない天気のいい土曜日に実施することにしています。

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