最近、若い先生たちと話し合う機会がありました。
若いといってももう10年は先生やってるから、学年主任や早い先生なら教務主任や管理職試験も受けているようですね。
意地悪く、促成栽培とは言いませんが、定年が65とか70とか言われているのに後の先生生活長いのに、現場経験が10年で管理職や行政職員を経験すると、後からしんどくならないか少し心配してます。
小学校に限らず、現場経験はとても大事なことに思うのですが、その全てを経験するだけで時間がかかりますよね。
小学校なら担任だけで6学年+特支(3分野)の7つ
専科と呼ばれる教科指導任外や加配とよばれる生徒指導(教育相談)が主な仕事になる担任外の仕事これらを2つ、
他に管理職になるための準備機関と呼ばれる教務主任や指導教諭なんかを経験しても、それだけで10年かかりますよね
。
だから、ポジションが一定された球技のように「教科専門制」だけを推し進めることは、何か腑に落ちないのです。
幸いなことに、最短ですべての学年を一年間経験するということができたとしても、その学年の経験年数がもたらす、こどもの学齢にあった基本認識や距離感、全教科の指導スキルの獲得や行事内容の掌握ができるとは考えにくいのです。
昔よく行われていた「交換授業」例えば図工体育と音楽家庭の授業交換と専科は異質のことなのに同じように議論されてるふしがありますね。
学校の年齢構成は学校によって違うから、高学年しか持ったことがない先生や低学年しか持ったことがない先生も沢山おられるかもしれません。
その先生が管理職や主任に求めるものが、「教科指導の専門性」なら、それは構造的に無理な話になってしまうわけです。
担任、担任外で成立していた「学校組織」が違うシステムとして専科教員を受け入れるというシステムの再構築が必要になるということを行わずに、制度と教員配置だけを受け入れると学校は混乱しないかなと思ってます。
経験値でなんの根拠もない話ですが、「何年も同じ学年を持った経験のある先生」が教科専門学部を卒業したての先生より、子どもにとって魅力的な授業ができるはずなのです。
ただそれが、学力テストの結果だけに反映しているかどうかという基準で判断している誰かが学校の中や外に
いることが問題なのです。
極端な発想かも知れませんが、中学校でクラブ活動の顧問の持ち手がなく、スポーツグラフの「専門家」にアウトソーシングするという方向(教員の間違った愛の無知意識の蔓延防止という側面は確かにありますが)が決まった時、
なら、小学校では「かとう(あえて漢字にしません)な競争意識を醸成しないために」、学力テスト対策の専門家である学習塾に「学力テストの素点向上」をアウトソーシングすればいいと思ったのです(いつも言ってますが、小学校全科の免許における専門性の担保は大学入試程度のものですし、それ以外の複数免許を持っているとしたら国語か社会、最近なら英語ですかね。)が、一部の放課後デーサービスでの取り組みにしかなってないように思いす。
理科や算数の専門性がある小学校希望の学生が必ずしも「小学校教員」の適性を持っているかは未知数ですね。
「小学校教員」の適性が合理的思考だけでいいなら、特別支援教育における「合理的判断」を担える先生ももっとふえるはずなのですが。
なんか小学校の先生に何を求めてるのっていうことの曖昧さが、先生たちに負担感じや不安感を植えつけて、その事で採用試験の倍率が低くなったとしても仕方のないように思います。
「学力重視」のスローガンが独り歩きして、「人間形成」や「人間関係力」といった俯瞰的な視点で人間と人間が繋がる「小学校」がなくなり「高校受験」「大学全入」といった線路の始発駅としての役割に魅力を感じないだけのように思うのですが杞憂ですよね。
愚痴はさておき、特別支援教育においても保護者だけではなく教員もその指導の難しさは感じているようです。
介護もそうですが、福利厚生や賃金だけては、長続きしない原因のひとつが先生たちの「生きがい」との向き合いかたのように思います。
子どもたちの変化や向上に共によろこび、その中でリスペクトしあえる「学校」というパッケージがないのなら、魅力的な仕事ではないはずです。
もはや「知識を教えるだけの場」としての小学校はlCTの発展とともに遺物になりつつあるようにも思います。
特に子どもたちが日常の生活のなかで「困った感」のあることについて、教師が「教える」だけでは「身に付けられていないこと」があります。
家庭ではそれぞれの家庭にある「しつけ」という拘束意識が二分化して、子どもたちに大きな影響を与えています。
迷いがある親たちは、教員に助言を求めてきますが、対応できずに困る真面目な先生もふえているようです。
学力素点の向上方法しか学んで来なかった先生が子どもたちの人間関係に悩む親たちのサポートができなくなった時代だから、専門家である「心理学」の先生や「臨床心理学」を極めた医者カウンセラーにSOSなのだと思います。
確かに「しなさい」「してはいけません」という教条的指導と規制だけでの教師の指導では解決できないのは「大人ですら人間関係に悩んでいること」を子どもにもが目の当たりにしているという現実があるからかもしれません。
私の話すことを無条件で「受け入れなさい」はあきらめに通ずる場合があり、自分に向かうベクトルは「自己有用感」をなくしていく場合もあります。
いつしか「人に関わることへの拒否感や距離感」があることへの「違和感」がなくなり、そうしたことへ子どもたちのストレスやストレス耐性を考えた時、問いを作ることすらままならなくなっているのではと考えることもあります。
そうしたことの多くは「他者との関係スキル」や「集団(社会)の中での生き方」での困り感であり、「他者がどのように感じているか、見ているかということに関しての感性」とも関わりのあることだと考えています。
これから作るコンテンツがこうしたことの一助になればいいのですが。
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