今日は、朝から青空が拡がっているこちら長野です。でも、今朝はいつになく冷え込んでいて寒い朝になりました。
相変わらず、中国の新型コロナウイルスは、猛威が衰えず、中国でも約1万4千人の感染者で、死亡者は300人を超えたと報道しています。一日も早く沈静化して欲しいと思うのですが、日本国内でもどの程度の患者がいるか正確には掌握出来ていない為、難しい問題になっていると思います。
ニュースでも、先頃日本に来られていた香港からのお年寄り(80代男性)が、香港に戻られてからお亡くなりになられたようで…、日本で肺炎をうつされたとか、と報道しています。
人が大勢集まる場所へ行かない事が最良かと思います。マスクだけでは不十分で、目を守るためゴーグルも着けないと……と云った話もあるようで、日本も中国の武漢市などの様に、ゴーストタウンにならないようにしたいですね。
さて、今日の画像ですが、信州・松代、松代城から直ぐ近くの「真田邸」の元日午後の様子をご紹介したいと思います。
元日ですので、お休みになっていると思いましたら、受付嬢もいらっしゃって、黒門も開いていました。
photo 1
photo 2
photo 3 表門(冠木門)
photo 4 式台付玄関
ここまでは、いつもの通りの感じで外観を撮ってみましたが、入場料を払ってお屋敷内に入っても、ただ閑散としているだけですので、諦めて外回りの白壁などを撮って来ました。
だが、それですと「真田邸」の良さが分からないと思いますので、以前に撮った雪景色の庭園などをご紹介したいと思います。
photo 5
photo 6
photo 7
photo 8 真田邸・主屋(御殿)
今年は暖冬で雪が全くないので、このような雪景色は今年も見れるかどうか分かりません。
その後、外回りの白壁などを撮って来ました。
photo 9
photo 10
photo 11
信州・松代の元日は、先月1月3日にこのblogでもご紹介した「象山神社・初詣」では地元住民が大勢集まっていましたが、観光名所の場所には、殆んど人影が見えませんでした。
それでも、数人がおみえになっていて、有り難いと思いました。
この「真田邸」は、パンフによると江戸時代の後半に参勤交代制度が一時的に緩和され、藩主の妻子が国元へ帰ることが許されたおり、松代藩九代藩主・真田幸教公は、義母の貞松院の為にこの新御殿を建て、義母が少しの間、ここを住まいとしたようですが、また江戸に戻るようになり、その後は幸教公のご隠居所として使われ、明治時代には真田家の別邸となっていましたが、昭和41年に松代町に譲られたようです。
この「真田邸」の敷地は約2400坪、建坪は約400坪の広さを誇っているようです。
相変わらず、中国の新型コロナウイルスは、猛威が衰えず、中国でも約1万4千人の感染者で、死亡者は300人を超えたと報道しています。一日も早く沈静化して欲しいと思うのですが、日本国内でもどの程度の患者がいるか正確には掌握出来ていない為、難しい問題になっていると思います。
ニュースでも、先頃日本に来られていた香港からのお年寄り(80代男性)が、香港に戻られてからお亡くなりになられたようで…、日本で肺炎をうつされたとか、と報道しています。
人が大勢集まる場所へ行かない事が最良かと思います。マスクだけでは不十分で、目を守るためゴーグルも着けないと……と云った話もあるようで、日本も中国の武漢市などの様に、ゴーストタウンにならないようにしたいですね。
さて、今日の画像ですが、信州・松代、松代城から直ぐ近くの「真田邸」の元日午後の様子をご紹介したいと思います。
元日ですので、お休みになっていると思いましたら、受付嬢もいらっしゃって、黒門も開いていました。
photo 1
photo 2
photo 3 表門(冠木門)
photo 4 式台付玄関
ここまでは、いつもの通りの感じで外観を撮ってみましたが、入場料を払ってお屋敷内に入っても、ただ閑散としているだけですので、諦めて外回りの白壁などを撮って来ました。
だが、それですと「真田邸」の良さが分からないと思いますので、以前に撮った雪景色の庭園などをご紹介したいと思います。
photo 5
photo 6
photo 7
photo 8 真田邸・主屋(御殿)
今年は暖冬で雪が全くないので、このような雪景色は今年も見れるかどうか分かりません。
その後、外回りの白壁などを撮って来ました。
photo 9
photo 10
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信州・松代の元日は、先月1月3日にこのblogでもご紹介した「象山神社・初詣」では地元住民が大勢集まっていましたが、観光名所の場所には、殆んど人影が見えませんでした。
それでも、数人がおみえになっていて、有り難いと思いました。
この「真田邸」は、パンフによると江戸時代の後半に参勤交代制度が一時的に緩和され、藩主の妻子が国元へ帰ることが許されたおり、松代藩九代藩主・真田幸教公は、義母の貞松院の為にこの新御殿を建て、義母が少しの間、ここを住まいとしたようですが、また江戸に戻るようになり、その後は幸教公のご隠居所として使われ、明治時代には真田家の別邸となっていましたが、昭和41年に松代町に譲られたようです。
この「真田邸」の敷地は約2400坪、建坪は約400坪の広さを誇っているようです。