dancyu11月号の「食の革命家たち」で、自分が「ご飯文化を支える米のコンサルタントとして」紹介されていて、その記事の中で「生産農家やJAなどの関係者と意見交換し、問題点を洗い出す。時には激励。時には叱咤する。かつて志望していたコンサルタントの仕事を、米の世界で行っているようなものだ。」という文章がある。
自分としては、当たっているようで、何かが違っているように感じていたのだが、今日、栃木に行く途中に読んでいた本の中に、その言葉が書かれていた。
自分がしようとしていたものは、個性を持った日本のお米でアルペジオを奏でようとしていたのだ。
アルペジオとは、和音を構成する音を一音ずつ低いものから(または、高いものから)順番に弾いてゆくことで、リズム感や深みを演出する演奏方法。
アルペジオは分散和音の一種であるが、発声が上昇もしくは下降の音高順に一回ずつと規定され(例:ドミソド)、ランダム発声や同音反復を含むパターン(例:ドソミソ)はこれに該当しない。
実際の演奏においては、初音を記譜位置に合わせ全和音の演鳴は遅らせる奏法と、初音を前倒して記譜位置に最終音(全和音)を鳴らす奏法の両者が認められている。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
難しくて判らないと思うので、簡単に言ってしまえば、和音の各音を、同時にではなく、下からまたは上から順番に演奏する奏法のことだ。
「お米なのに音楽の表現?」と思うかもしれないが、もともと自分のお米の説明の中には、ソロパート・ハーモニー・フォルテシモ・メゾピアノという表現が含まれていた。
なぜかというと、中学時代ではギターを、高校時代では吹奏楽部でトロンボーンを吹いていたこともあって、文字として、または言葉として表現しにくい場合に、イメージしやすい音楽用語を使って説明していたのだ。
アルペジオといっても、表現方法はひとつではなく、繊細であったり、力強かったり、衝撃であったりもする表現が可能なことから、自分の中では好きな表現方法のはずだったのに、なぜ今まで忘れていたのだろう。
最初は、日本中のお米を使ってアルペジオを奏で、そこに、ひとつずつ楽器が加わり、そのたびごとに複雑に音が重なり合い、折り重なっていき、最後は壮大なオーケストラとなっていく。
これが自分が求めている、お米の新しい時代だ。
自分としては、当たっているようで、何かが違っているように感じていたのだが、今日、栃木に行く途中に読んでいた本の中に、その言葉が書かれていた。
自分がしようとしていたものは、個性を持った日本のお米でアルペジオを奏でようとしていたのだ。
アルペジオとは、和音を構成する音を一音ずつ低いものから(または、高いものから)順番に弾いてゆくことで、リズム感や深みを演出する演奏方法。
アルペジオは分散和音の一種であるが、発声が上昇もしくは下降の音高順に一回ずつと規定され(例:ドミソド)、ランダム発声や同音反復を含むパターン(例:ドソミソ)はこれに該当しない。
実際の演奏においては、初音を記譜位置に合わせ全和音の演鳴は遅らせる奏法と、初音を前倒して記譜位置に最終音(全和音)を鳴らす奏法の両者が認められている。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
難しくて判らないと思うので、簡単に言ってしまえば、和音の各音を、同時にではなく、下からまたは上から順番に演奏する奏法のことだ。
「お米なのに音楽の表現?」と思うかもしれないが、もともと自分のお米の説明の中には、ソロパート・ハーモニー・フォルテシモ・メゾピアノという表現が含まれていた。
なぜかというと、中学時代ではギターを、高校時代では吹奏楽部でトロンボーンを吹いていたこともあって、文字として、または言葉として表現しにくい場合に、イメージしやすい音楽用語を使って説明していたのだ。
アルペジオといっても、表現方法はひとつではなく、繊細であったり、力強かったり、衝撃であったりもする表現が可能なことから、自分の中では好きな表現方法のはずだったのに、なぜ今まで忘れていたのだろう。
最初は、日本中のお米を使ってアルペジオを奏で、そこに、ひとつずつ楽器が加わり、そのたびごとに複雑に音が重なり合い、折り重なっていき、最後は壮大なオーケストラとなっていく。
これが自分が求めている、お米の新しい時代だ。