こだわり米専門店スズノブ 西島 豊造(五ツ星お米マイスター)の豊かに造ろう

様々な現実を見つめらがらも、日々を前向きに考えて進んでゆくためのブログです

新展開に向けて

2016年06月11日 14時42分42秒 | Weblog
スズノブ(本店・千葉店)として、新しい展開を考えている。
その1つが、昨日から始まっている。
 
公開はされているものの、まだ自分たちが上手く利用できない。
「これしか出来ないのか」と、気に入っていない部分もある。
それは、まだ思い付きだけでやっているから。
 
上手に利用出来るようになれば、使いにくいものではないと感じている。
でもそのためには、やはり、シッカリとした計画を立てないと駄目だと分かった。
 
なのでこれから、そこで使用するための、専用画像を作成する。
既に完売しているお米についても、今年の新米で必要となることから、一緒に作成する。
 
スズノブとし、これでよいということは考えていない。
出来ることがあるのであれば、色々と試していく。
 
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強要と言う苦痛

2016年06月11日 04時14分07秒 | Weblog
自分のFacebook、ブログ、Ameba、Twitterなどを読んでいる人なら、いやというほど聞かされていることだろう。
「Facebookを書くように」と・・・
 
今回も島根の石見銀山・隠岐・島根おおちの3地区にに対して、Facebookを書くことを宿題にしたりした。
他の産地にも、「書きなさい」と言っている。
ある意味、既に脅迫に違いと、自分でも理解している。
 
なぜ、書かせようとしているのか。
 
お米が主力と言う産地で、「黒字である」と言い切れるところは、少ない。
そんな産地を消費者に知ってもらうためには。
お米を買ってもらえるようにするためには。
 
自分が考えられる範囲で、小さな産地を、1人でも多くの人に知ってもらうためには、「発信すること」なのである。
 
簡単に「発信」と言っても、チラシ1枚でもお金はかかる。
HPやリーフレットを作るとなると、予算計上をしなければならない。

しかし、小さな産地で、予算を作ったとしても、たかが知れている。
それでも、発信をしなければ、誰も知らないままの産地で終わってしまう。
 
そこで提案しているのがFacebookなのである。
 
実際、産地に作ってもらって「いいね」を沢山もらえている産地は、900人を超えている。
米屋や米業界が「いいね」をした件数は、たかが知れている。
なので、「いいね」をしているほとんどの人は、一般の消費者という事になるのだ。
 
Facebookを作ってもらえなければ。
Facebookに書いてもらわなければ。
それだけ多くの人に、完全に消えてしまうはずだった産地を、知ってもらう事は出来なかった。
 
なので。
Facebookを書くように」と。
半ば強制となるほどに言っている。
 
でもそれが、産地にとって重荷となっていることも理解している。
自分も1回言うたびに、精神的なダメージを受け続けている。
 
だから、以前にも言っているが。
後の判断は、各産地に任せる。
 
産地として、いらないというのであれば、重荷はなくした方が良いだろう。
他に、消費者に自分たちの産地を知ってもらう方法があるというのなら、切り替えてもらって良いと思う。
 
しかし、Suzunobu Project Riceは、SNSを使っての発信が必須となっている。
なので、それを使わないというのであれば、自分はブランド化計画を作ることが出来ない。
「出来ない」のなら、産地にとって自分は、必要な存在ではない。
だから、SNSを使用しないという産地から、今自分は離れようとしている。
(自分のいう事を聞いてもらえなくなった産地からも、離れていっているが・・・)
 
なぜ「発信」を言い続けるのか、なんとなく判ってもらえるのではないだろうか。
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合わせて4.5時間

2016年06月11日 03時14分01秒 | Weblog
20年以上にわたって、3時間睡眠しかできなかった自分が、少し前までは3時間+2時間で5時間寝られるようになっていた。
しかし今年に入ってから、2時間+1.5時間+1時間で4.5時間となってしまっている。
 
確かに合計すると4.5時間なので、それなりに寝ている感じはある。
しかし、1回目が、昔よりも1時間短くなってしまっているため、短く深く、寝ることが出来ていない。
おまけに、起きて直ぐに寝ている訳ではなく、20~30分は起きていて、また眠くなるのを待つという感じなのである。
だから、元々寝る時間が遅いと、最後の1時間が無いまま、朝となっている。
 
考えていることが多すぎるというもの、1つの要因にはなっているのだろう。
1度に3つのことを同時に考えられるという、自分のプラスの特技が、今は完全に裏目となっているみたいだ。
 
今27時を過ぎている。
今回は1回目が1時間だった。
 
目は疲れてショボショボしているのだが、神経が音が聞こえるくらいにピリピリとしている。
このままだと、2回目は無いまま、朝だろうな。
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縮まる時間

2016年06月11日 02時47分28秒 | Weblog
昨晩は、人の話をよく聞いてくれて、常に優しく温和だった親戚のお通夜であった。
 
自分が40代の頃であれば、たぶん式場では、大泣きだったろう。
しかし昨晩は、静かな気持ちで最後の顔を見ることが出来た。
 
50歳に手が届くようになったころから、今まで年が離れていると感じていた人たちとの年齢差は、無くなっている。
 
20歳前半の頃であったら、30歳離れている50歳代というのは、自分の中では、別の次元の人のように感じていた。
30歳台になると、30歳という歳の差は、まだ、かなり年上に感じていた。
40歳台になると、30歳という歳の差でも、40歳という歳の差でも、年上と言う感じになっていた。
そして50歳代になった時から、年上に対して、歳の差というものは、ほとんど感じなくなっている。
 
実際には30歳という歳の差があったとしても、感覚としては数年違いという程度にまで、縮まっているのだ。
 
若いころであったら死は恐怖であった。
考えることすら怖いと思っていたし、死というものは、自分には無いことだと思っていた。
 
でも今の自分は、死というものに対して恐怖は無くなった。
逆に、自分の資というものを、自分の終焉というものを、ほぼ毎日のように考えている。
つまり、死を受け入れる準備という事だ。
 
果たして、自分の最後は、どうのだろう。
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