秋はイベントが多くなります。先週は町民展、その前の週は町民体育祭でした。
体育祭の方は行きませんでしたが、町民展は最終日に覗いてきました。
串本町とトルコとの友好関係は100年以上続きいて、こんなブースも毎年。
そして今日は【ふれあい いきいきまつり】でした。
毎年のことですが、公民館の生涯学習講座でお茶を習ってる 私たちはお茶席を開きます。
学園祭のノリとお考えください。
昨日の午後、準備に行き、今日は朝の用事を済ませ、
空模様が怪しいので、お洗濯はハハ(姑)の分だけ、を納屋に干し、
着替えまして、、時間が余ったら、PCで時間つぶし・・・
毎度のことですが、他のブースを見ることは出来ません。11時の開場を少し早めて
200名あまり、、、いらっしゃいました。大盛況です。 裏に回ると汗だくです。
我々はイラストのような。↑と、ご想像くださって差し支えございません。
「美味しい」と、一服と言う方も、
終わったのが、お昼過ぎ、、片付けてたら、1時をとうに回って、食いしん坊のん太が、
「先生、先にお昼にしましょう~~」と、直訴^^;
それに会場の片付けの係りの方の都合もあります。水屋の取り壊しに来られる前に
済まさないと、食事の場所が無くなります。着替えて、食事をして、片付けて
そして、買い物をして家にたどり着いたら、3時前、暑いくらいの上天気です。
午前中にちょっと降ったようですが、、、、ハハ(姑)の洗濯物を日に当てて、
ついでに残りの洗濯物を済ませたら、風でほとんど乾いてしまいました。
串本町のみなさんのおかげで トルコの方たちが日本を好き と言ってくださるんですね。
お茶まで習っていらっしゃるのですか。
時間を無駄なく使っている、のん太さんを見習わなくては!
頑張ります。
よその国の人たちと仲良くすることは世界平和のためでもありますね。
トルコを旅行時に添乗員から聞いた話です。
時代は明治 串本沖でトルコ船が嵐で遭難し
多数の死者を出しました。
助かった船員は灯台下をよじ登り串本の漁村に
助けを求めました。
貧しい暮らしの漁村でしたがどの家も遭難者を
助け大切に飼っていたニワトリを潰しご馳走したそうです。
体力も回復した船員は日本の護衛艦に守られ
オスマントルコへ帰っていきました。
このことはトルコの小学校の教科書にも載り
以来トルコは大の親日家になりました。
小泉政権時起きたイラク戦争の時 当時イラクには日本企業の
駐在員が多数おり 〇〇時間内に出て行かないと攻撃する
とフセインが声明し 困った首相はトルコ政府に
助けを求めた時 日本人救出の為2機の飛行機を
出してくれ それに乗り日本人は全員無事イラクを
出ることが出来たそうです。
トルコ人も多数イラクに駐在しておりましたが
自国民には歩いて出国せよ と命が下りたそうです。
明治時代の日本人に助けられた事柄が教科書に
載っているということは 小さい頃から日本人に
対し親愛の情を持っており どこの観光地でも
遠足に来ていた現地小学生が私達を見ると
ジャパン ジャパン と言ってハイタッチです。
100年以上前のことを今でも 日本人に助けられたと教えられる子供たちは当然日本が大好きです。
このような友好の基礎を作ったのは串本の人達です。
のん太さん 鼻が高いですね。
大いに威張ってもいい事柄ですよ。
200名ってお茶席のようなゆったりとした所作でお茶を点てるの大変だったでしょう
ご苦労さまでした。
裏方で頑張って お点前はなさいませんでしたの?
のん太さんのお手前で一服頂きたいものですね
お疲れが出ませんように 休み休みでお願いします
せっかくの先祖が作った絆を大事にしていきたいです。
そして近年、小学生のホームスティの交流もあって、
その子達がお茶の体験をした事がありました。苦いお茶は大丈夫かしら?と思ったら、
甘いお菓子のほうが、馴染めなかったようです。(≧m≦)
でも、お仲間が良くって、たのしいのです。^0^
と、また、、午前の2時間ほどのことですが、、
テーブルと椅子の席へ、お茶を運びます。そこは静々と、
中では、大急ぎでお茶を点てます。^^;
その下の海で座礁したそうです。見ると、坂というか岩場の足場の悪いところを這い上がって、灯台へ助けを求め、
灯台職員が村人に急を知らせたそうです。
大きなトルコ人を背負って上がってきたなど信じられないほどのところです。
体温の下がった人を抱きかかえて暖めたとか、
食料も村人が掻き集め大切な鶏をつぶしてとか、、
それでも沢山の方が亡くなったようです。
今、樫野の灯台近くにトルコ人の方が絨毯とトルコアイスのお店を開いています。
来られる事があったら、食べてみて、、そして、そのまた近くに、特産の金柑アイスのお店もあります。