ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その9)

2023-04-17 18:12:23 | 能楽
後シテの登場に演奏される囃子は前シテと同じ「一声」です。能ではあらゆる面で重複を避ける傾向が強いのですが、それに反するようにシテの出が前後とも「一声」というのは例が多いと思います。それほど「一声」は登場囃子として柔軟であることを意味し、「屋島」でも化身であり老体の前シテの登場の場合と霊体ながら勇ましい名将の後シテのそれとは、同じ「一声」でもかなり印象が違うと感じられると思います。

後シテ一声「落花枝に帰らず。破鏡再び照らさず。然れどもなほ妄執の瞋恚とて。鬼神魂魄の境界に帰り。我とこの身を苦しめて。修羅の巷に寄り来る波の。浅からざりし。業因かな。

登場した後シテ。。源義経の扮装は、いかにも勇猛な武人といった感じ。
面は「平太」を黒垂、梨打烏帽子、白鉢巻の上にかけ、紅入りの厚板の着付けに半切を穿き、その上には右肩を脱いで袷法被を着、勝修羅扇を持ち太刀を佩いています。

鎧兜の代わりに能装束でそれを表すのですが、たしかに右肩を脱ぎ白鉢巻をつけた姿は不思議に鎧を連想させますね。古人の工夫には本当に驚かされることが多いのですが、この修羅能の出で立ちはその中でも秀逸だと思います。さらに言えば、シテが敗死する運命の平家の公達の場合は扮装は「屋島」と同一でありながら、面を化粧して鉄漿をつけた「十六」や「中将」に替え、装束も強い法被ではなく薄衣の長絹を着、半切の代わりに白大口を着るなど面装束の種類や素材を替えるだけで見事に貴族化して文化的でか弱く脆弱な、およそ戦場に似つかわしくない平家の儚さを表現することにも成功している。先人の知恵には敬服します。

ところで「屋島」のほかにこれと同じ面装束を着る曲に「田村」「箙」の2曲があり、この3番を平家の負け修羅に対して勝ち修羅と称します。面「平太」はまさに日焼けした坂東の荒くれ武者といった感じですが、3番の勝ち修羅の主人公の中では「屋島」のシテの源義経だけが皇族出身で臣籍降下した源氏の子孫であり、ちょっと赤黒い「平太」の面にはやや違和感を感じます。

そこで能面の中にはあえて「白平太」と呼ばれて顔色が白い平太の面があるのです。表情は「平太」のまま、顔色だけで気品を感じます。これは専ら「屋島」に似つかわしい面だと思います。

ワキ「不思議やなはや暁にもなるやらんと。思ふ寝覚の枕より。甲冑を帯し見え給ふは。もし判官にてましますか。
シテ詞「われ義経の幽霊なるが。瞋恚に引かるゝ妄執にて。なほ西海の浪に漂ひ。生死の海に沈淪せり。
ワキ「愚かやな心からこそ生死の。海とも見ゆれ真如の月の。
シテ「春の夜なれど曇りなき。心も澄める今宵の空。
ワキ「昔を今に思ひ出づる。
シテ「船と陸との合戦の道。
ワキ「所からとて。シテ「忘れえぬ。
地謡「武士の。屋島に射るや槻弓の。屋島に射るや槻弓の。元の身ながら又こゝに。弓箭の道は迷はぬに。迷ひけるぞや。生死の。海山を離れやらで。帰る屋島の恨めしや。とにかくに執心の。残りの海の深き夜に。夢物語申すなり夢物語申すなり。


登場したシテは、生前に合戦で闘争した罪によって成仏できずさまよっている、と語ります。修羅能の定まりで、シテは地獄の修羅道に堕ちて永久に戦闘を続けなければならないと描かれるので、「屋島」のこのシテの言動もそれと同じ意味で、これに応答したワキは、人の心の持ちようによって見方も変わるのだ、と説き煩悩を捨てて成仏することを勧めます。

。。と言いたいところですが、はたしてその通りでしょうか。
たしかに「屋島」のシテは「落花枝に帰らず。破鏡再び照らさず」と自分の生前の行為を後悔したり、その結果として「我とこの身を苦しめて」「生死の海に沈淪せり」と苦しむ様子を吐露してはいるのですが、どうもその苦しみは表面的なものに思えます。

というのもこの場面ではシテは「なほ西海の浪に漂ひ。生死の海に沈淪せり」と述べてはいますが、ワキがその煩悩をたしなめて姿を刻々と変えても元の満月に戻ることで仏法の教えの象徴となる月を話題に持ち出すと、シテは「春の夜なれど曇りなき。心も澄める今宵の空」と応じながらも、すぐにその春の景観から「昔を今に思ひ出づる。船と陸との合戦の道。」と屋島合戦の思い出へと連想を転じていて、それは地謡が引き取って謡い続ける中でより詳細な物語と変わっていくのです。

たしかにシテが合戦の体験を語ることはワキ僧に対して懺悔して仏の救済を頼むという意味があり、「屋島」でも屋島合戦の昔を回想することを「恨めしい」と言っているのですが、「屋島」ではその後詳細に語られる合戦譚を語るシテの姿は懺悔する、というよりもむしろ自分の勲功を誇らしげに語るように見えます。

これが「屋島」の最大の特徴で、ほかの修羅能と一線を画している部分だと思います。そもそも修羅能に限らず広く いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる能では、化身として現れた前シテはワキ僧と出会うことで自分の救済を求めて、後半では実際の姿で現れて懺悔のために過去の出来事を語る、ということになっているのですが、「屋島」ではどうもワキ僧に救済を期待している様子が希薄なのです。

そういえばワキ僧も間狂言との問答の中で「ありがたき御経を読誦し、重ねて奇特を見うずるにて候」と発言していますが、待謡の中に「御経を読誦し」に当たる文句は見当たらないですね。謡曲には間狂言との問答は記載されておらず、現在でも開演前にワキと間狂言は問答のやり取りを必ず確認しておられますから、あるいはワキと間狂言との問答は古来固定されていたものではない可能性があり、そうだとすれば「屋島」の作者は意図的にワキに「御経を読誦」する行為をさせなかったのかもしれません。

なお余談ですが、地謡が謡う「武士の。。」以下の場面ではシテは左袖を出してワキの前まで進み、そこで袖を返すと左足を引き半身になって右手をワキの方へ出して決める型があります。これは修羅物の能の後シテ。。というか「経正」のように一場しかない能もありますから源平の武将の霊が本性で現れた場合、というのが正しいでしょうが、その場面で必ずシテが行う型です(女武者であり、小袖の装束を着ている「巴」ではさすがにこの型はありませんが)。ちょっと面白い約束事ですね。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その8)

2023-04-15 17:27:45 | 能楽
ロンギの中で「修羅の時になるべし その時は我が名や名のらん」とワキに向いて決めたシテは「たとひ名のらずとも名のるとも」と正へ向いて立ち上がり、シテ柱に行くと「夢ばし覚まし給ふなよ」とワキへ向いて念を押すようにヒラキ、返シで右へトリ橋掛りに向かい、幕へ中入します。

ついで屋島の浦人(間狂言)が登場。ワキがシテに宿を許された塩屋の本当の持ち主です。

間「かやうに候者は 讃岐の国屋島の浦に住まひする者にて候。この間 塩屋を見舞ひ申さず候間、今日は塩屋を見舞ひ、浜をならさせ塩を焼かばやと存ずる。」進みながらシカジカ
「いや、あら不思議や。塩屋の戸が開いてある。見れば人の出入りしたる跡もあり」ワキを見つけて
「いや、これなるお僧は何とて人の塩屋へ案内なしに入りては御座候ぞ」
ワキ「これは主に借りて候」
間「いやいや、左様にては候まじ。主はそれがしにて候。総じてこの所の大法にて。人の塩屋をば我が存ぜず、わが塩屋をば人に知らせぬ大法にて候が。我らはいまだ貸し申さぬに、さてはお僧は妄語ばし仰せ候か」
ワキ「いやいや妄語は申さず候。それにつき尋ねたき事の候。まづ近う御入り候へ」
間「心得申し候」
(ワキ方と狂言方の流儀によりセリフに多少の異同があります。以下同じ)

こうしてワキの所望により屋島合戦の物語をする間狂言。いわゆる複式夢幻能の常套の演出で、この語りのあとワキにより前シテとの遭遇を知った間狂言はその老人こそ義経の霊であろう、と推察し、ワキも同意して義経の改めての登場を観客とともに期待することになります。

間「まづ我らの承りたるはかくの如くにて候が、只今のお尋ね不審に存じ候」
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀にあらず、御身以前に老人と若き男の主の体にて来たられ候程に すなはち宿を借り泊りて候。源平両家の合戦の様体懇ろに語り、よしつねの世の夢心覚まさで待てと言ひもあへず、そのまま姿を見失うて候よ」
間「これは言語道断、奇特なる事を承り候ものかな。それは疑ふ所もなく義経の御亡心にて御座あらうずると存じ候。さやうに思し召さば、しばらくこの所に御逗留なされ、重ねて奇特を御覧あれかしと存じ候」
ワキ「しばらく逗留致し、ありがたき御経を読誦し、重ねて奇特を見うずるにて候」
間「御逗留にて候らはば。大法を破ってこの塩屋を貸し申さうずるにて候」
ワキ「頼み候べし」間「心得申し候」


ほかの曲にも同じ状況でほぼ同文のワキと間狂言とのやりとりがありますが、シテに宿を借りたが そのシテは本性をほのめかして姿を消し、のちに実際の小屋の持ち主が登場することによってシテが現実の世界の人間ではないことが判明する、というのは自然で効果的な演出ではないかと思います。

あ、シテは自分の物でもない塩屋を「さらばお宿を貸し申さん」などと わがもの顔に貸したのね。まあ、屋島合戦の際も義経は自分の軍勢を大勢に見せるために高松の民家を焼き払ったりしているから、他人の小屋を勝手に貸すくらいのことは当たり前か。

さて間狂言が語る肝心の屋島合戦の内容についてなのですが、前述のように屋島合戦には「扇の的」「錣引き」「弓流し」という3つの有名なエピソードがあるのですが、このうち「弓流し」は後シテが語ることになるためか間狂言では語られず、間狂言は通常は「錣引き」を語ります(和泉流では替えとして「継信の語り」として佐藤継信の戦死の有様の語があるようです)。

そして残されたのが「扇の的」ですが、これは皆さんもよくご存じと思われる「那須語」あるいは「奈須與市語」と呼ばれる特別な替えの語りがあります。これは通常の語りとは違い間狂言が仕方話として型を伴い、それも与一と義経、さらに扇の的を射る兵として与一を推薦した後藤兵衛実基の三者を激しく、目まぐるしく演じ分けるという大変なもので、狂言方の重い習いになっています。能「屋島」に小書「弓流」「素働」がついて重厚な演出となった場合は、間狂言もバランスを取ってこの替えの語りとなることがほぼ常態となっているように思います。

さて間狂言が退くとワキとワキツレによる「待謡」となり、やがて「一声」の囃子に乗って後シテの源義経が登場します。

ワキ「不思議や今の老人の。その名を尋ねし答へにも。よし常の世の夢心。覚まさで待てと聞えつる。
待謡「声も更け行く浦風の。声も更け行く浦風の。松が根枕そばだてゝ。思ひを延ぶる苔筵。重ねて夢を待ちゐたり 重ねて夢を待ちゐたり


義経への限りないオマージュ…『屋島』(その7)

2023-04-12 01:08:44 | 能楽
シテの戦語りの最初に義経が名乗る場面がありますが、それに続いてツレが「言葉戦いこと終わり」と、大将の名乗りと同じく「言葉」による争いがあった事が語られます。

源平合戦当時の戦乱は現代のような指揮官の命令のもとでの秩序だった作戦による行動ではなくて乱戦でした。誰が一番に手柄を立てるかを競ったのです。そんな合戦でもいきなり乱戦から始まるのではなく、一応の「作法」というものがありました。

それがこの「矢合わせ」や「言葉戦い」で、矢合わせは敵味方の大将同士が合戦の前に「鏑矢(かぶらや)」を射あうもので宣戦布告のような感じです。「鏑矢」とは穴の開いた木製の矢じりがついた矢で殺傷能力はなく、矢が飛ぶ際に矢じりの穴に空気が通る事で長い音を発します。戦闘に使われる「征矢」(そや=とがり矢)とは違いまさに儀礼的に使われる矢ですが、なんと「扇の的」の那須与一はこの鏑矢で扇を射た、と「平家物語」に描かれています。重心が前重りになる上 飛距離も稼げない鏑矢を、まさに失敗が許されない場面でどうして使ったのか。。 と思いますが、「平家物語」によれば「扇の的」のエピソードは初日の合戦が一段落して一時休戦になった場面でのこと。すなわち戦闘ではなく翌日の合戦の再開に向けた儀礼的な意味合いが強いわけで、与一もそれに応えたのでしょう。

一方「言葉戦い」は両軍が接近していざ開戦という場面で相手の戦意をくじくために自軍の正統性を主張したり攻めてくる相手の不当性をなじる、などを行うものですが、それぞれ名乗った相手の出自の卑しさを罵りあったり、「矢合わせ」と比べるとちょっと低レベルな感じですが、相手の士気をくじき、自軍の勢いを高めるために有効であるならば実戦的ではありますね。

さてシテの戦語りが過去の思い出となり、シテは再びワキの前に着座すると、それまでシテの様子を見ていたワキは抱いてきた不審をシテに問います。

ロンギ地謡「不思議なりとよ海士人の。あまり委しき物語。その名を名のり給へや。
シテ「我が名を何と夕波の。引くや夜汐も朝倉や。木の丸殿にあらばこそ名のりをしても行かまし。
地「げにや言葉を聞くからに。その名ゆかしき老人の。
シテ「昔を語る小忌衣。
地「頃しも今は。シテ「春の夜の。
地「潮の落つる暁ならば修羅の時になるべしその時は。我が名や名のらんたとひ名のらずとも名のるとも。よし常の浮世の夢ばし覚まし給ふなよ夢ばし覚まし給ふなよ。


「木の丸殿にあらばこそ名のりをしても行かまし」はちょっと難解ですね。本歌は「新古今集」の天智天皇の「朝倉や木の丸殿にわが居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」に依ります。「木の丸殿」は皮のついたままの丸木で作った粗末な御殿で、これは天智天皇が中大兄皇子の時代に母の斉明天皇に従って九州に下ったときに詠んだ歌なのですが、能「屋島」ではこの御殿の警備のために出入りの人は氏名を名乗らなければならなかった、という後半の部分を使っています。「行かまし」の「まし」は古文の中でもいろいろな使われ方があって難しい品詞ですが、ここでは「反実仮想」の用法で「木の丸殿であったならば、名のって行くのだろうが(そういう由来もないので名乗らない)」という感じです。掛詞が重層的に使われているので難解さに拍車が掛かりますが、丁寧に訳せばこういう感じ。

「我が名を何と言うべきだろうか。この夕方に引いてゆく夜の汐の浅みを見るとそれに連想される朝倉の、新古今の歌に例えてみるならば、その主人公の木の丸殿であるならば名乗りもしようが。。(そうでないから名乗らない)」

「昔を語る小忌衣」も難解で、小忌衣は祭事に装束の上に着重ねる白地の浄衣ですが、ここではその前の「その名ゆかしき老人の」の「老い」と その後の「頃しも今は」の「頃」の音をつなげている程度で「老いの身が着る衣」程度の軽い意味ですが、屋島合戦の語りからただ者ではないはずとの確信を得てワキ僧から「その名ゆかしき老人」と言われたシテが、あえて名乗らないながらその実像は神に近い崇高な存在であることを想像させる効果があるのではないかと思います。

「潮の落つる暁ならば修羅の時になるべし」。。「落つる」は引き潮のことで、そんな暁ならば修羅道がこの現世に再現されるであろう、そのときは(いやでも自分の素性が分かるはずだから)名乗ろう、という意味に解しましたが、残念ながら ぬえは(引き潮の)暁に必ず修羅道が現世に再現される、という根拠を知りません。ほかの修羅能では同じように現世に立ち戻ってきたシテがしばしの懐旧に安んじていたが、やがて地獄から修羅道からの追っ手が現れて宿命的な闘争の世界に立ち戻ってしまう、と描かれているので、ここは単純に、このまま安寧な時間が過ぎるのではなく暁の頃には修羅道が立ち現れることになるだろう、と経験的に予言しているに過ぎないのかもしれません。

「たとひ名のらずとも名のるとも。よし常の浮世の夢ばし覚まし給ふなよ」のところ、師匠からは「よし」常の」と分けて謡うように習ったところで、「よし常の」、の言葉の中に「義経」という言葉が隠されていて、シテが自分の本名をほのめかすのですね。「よし」は「もしも」の意味ですから「もしもあなたが私と出会ったこの体験が永遠に続くと思って安閑として過ごしているこの浮世のままだと思うならば、そのまま夢の中にいておきなさい(その夢の中に私は現れるから)」という意味。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その6)

2023-04-08 03:11:19 | 能楽
能「屋島」で前シテによって語られる合戦の経緯はこういう感じ。
①源氏の大将・義経の名乗り、言葉戦い
②平家の軍船から景清らが降り立ち源氏からは三保谷らが応戦→錣引きへ
③これを見て義経が馬で汀に出陣
④佐藤継信が能登守教経の矢に当たって戦死
⑤平家の軍船でも菊王丸が討たれる
⑥この二人の戦死を境に源平は興覚めして陸と海に別れて合戦が終了

この順番に語られ、これはもっぱら「錣引き」についてだけ語ったわけで、「扇の的」のエピソードも「弓流し」も出てきません。ここで「平家物語」での屋島合戦の全体の経緯を確認してみると次のようになります。

①義経ほか源氏の武将が沖に逃げた平家軍に対して名乗り
②宗盛の命により教経ら五百余人が陸上に上がり合戦に臨む
③言葉戦いの末、教経は義経を弓で狙うが佐藤継信が立ちはだかって戦死
④菊王丸が継信の首を狙って走りかかるが反対に忠信の射た矢に当たり戦死
⑤これに興覚めた両軍が引き上げ合戦が中断するが平家からの挑発(扇の的)
⑥那須与一が扇に命中させ両軍が褒め称えたが義経の命により与一はさらに敵を射殺す
⑦これにより合戦が再開。→美尾屋十郎と景清の「錣引き」
⑧源氏は騎馬で海に打ち入れて戦い義経も参戦する
⑨ところが義経が弓を海に取り落とし、敵の手にかかる危険を冒して拾い上げた(弓流し)
⑩夜に入り休戦となり翌朝には志度浦で小規模の戦闘があったが平家は壇ノ浦彦島に退いた

補足すれば佐藤継信は弟・忠信とともに奥州の藤原秀衡から義経に差し向けられた秀衡の家臣です。幼少期を鞍馬寺で過ごしながら仏道修行にはなじめず天狗から兵法を習い、五条の橋で弁慶を家来にしたエピソードがあるように、平治の乱以後正統な武家の棟梁としての成長からはずれた義経には家格に似合う家臣はおらず、元猟師とか元山賊とかとされる生没年不詳の怪しげで実在も疑問視されるような者ばかり。この屋島の合戦でも教経の矢面から義経を守ろうとした家臣たちは教経から「そこのき候らへ 矢面の雑人ばら」と罵られています。こんな中で幼少期に自分を頼った義経をかわいがった秀衡が、頼朝の挙兵に際して差し向けたのが佐藤兄弟で、義経の家来の中では比較的、ではありますが出自が明らかな人物です。

屋島の合戦で平教経の矢面に立って身を投じて義経を守った継信。その首を取ろうと駆けつけたのが菊王丸で、これは教経の子どもではなく彼の身辺の世話をする侍童。童とはいいますが「平家物語」では「大力の剛の者」と屈強の若者と記されています。兄の首を討たせじと忠信に射られた菊王丸。教経はこれも剛腕で、片手で菊王丸を船に投げ入れ、継信も源氏の陣に運ばれてそれぞれ介抱されますがどちらも絶命。

「平家物語」ではこの二人の従者の死で源平両軍に厭戦気分が起こり、また日暮れも迫って合戦は休止となります。ところがそこに平家軍の中から飾った舟が現れて、十八九歳ほどの女房が扇を竿の先につけて立て、陸の源氏の方を差し招く挑発が起きます。有名な「扇の的」で、屋島の合戦の代名詞のように思われていて、能「屋島」では替えの間狂言でかなりクローズアップして演じられる事はあるものの、この替えの間狂言が演じられない普段の上演では能「屋島」ではこの話題に触れません。まあ、「錣引き」や「弓流し」と違って敵と戦う場面ではないからシテ方からすれば演じにくいエピソードとも言えます。

話は脱線しますが、この「扇の的」で射手として選ばれた那須与一は「この矢はづさせ給ふな」と神仏に祈りを込めるのですが、その神仏がまずは八幡大菩薩、さらに故郷下野の那須の神である日光権現、宇都宮と続いて最後に現れるのが「温泉(湯泉とも)大明神」。不思議な名ではありますがこれは那須高原の茶臼岳の中腹にある殺生石の史跡のすぐそばにあります。殺生石のように今でも噴煙をあげる茶臼岳の付近では火山活動の影響が大きく、この神秘への崇敬が生んだ神社なのでしょう。そして殺生石も去年 突然二つに割れる事件が起こり話題になりました。

ところで敵将・平教経は屋島合戦でもこのように欠くことのできない主要登場人物で、「屋島」ではキリでも死後修羅道に堕ちた義経が永遠の闘争の相手として名前が現れ、「平家物語」では壇ノ浦でも義経と壮絶な戦いを繰り広げるのですが。。

なんと「吾妻鏡」では教経はすでに屋島合戦の1年前、一の谷の合戦で戦死した、と書かれています。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その5)

2023-04-07 02:20:57 | 能楽
シテの合戦の語りはツレを巻き込んで屋島合戦全体の話に広がってゆきます。

ツレ「その時平家の方よりも。言葉戦ひ事終り。兵船一艘漕ぎ寄せて。波打際に下り立つて。陸の敵を待ちかけしに。
シテ「源氏の方にも続く兵五十騎ばかり。中にも三保の谷の四郎と名のつて。真先駆けて見えし所に。
ツレ「平家の方にも悪十兵衛景清と名のり。三保の谷を目懸け戦ひしに。
シテ詞「かの三保の谷はその時に。太刀打ち折つて力なく。すこし汀に引き退きしに。
ツレ「景清追つかけ三保の谷が。
シテ詞「着たる兜の錏をつかんで。
ツレ「うしろへ引けば三保の谷も。
シテ「身を遁れんと前へ引く。
ツレ「互ひにえいやと。シテ「引く力に。


このツレが何者かは判然としません。義経に付き従った郎等の一人なのかもしれませんし、考えようによっては義経自身の分身のような物かもしれませんね。ともあれ「その時平家の方よりも。。」からの一連の謡は溌溂と謡うところで、ツレとしてはかなり目立つ良い役でしょう。若武者然として謡う姿はお客さまからも印象的に見えると思います。

さてここに描かれるのは「景清の錣(しころ)引き」の場面です。屋島合戦では三つの大きな事件があって、それが有名な那須与一による「扇の的」、義経の「弓流し」、そしてこの「錣引き」です。が、別格に有名な「扇の的」以外の二つは 今となっては能の世界の外ではあまり知られていないかも。。

そもそも屋島合戦はこのような有名なエピソードがありながら、前述のように義経の奇襲に驚いた平家が海上に逃げ出し、その後義経軍が少数だと判明した平家の一部の軍勢が立ち戻って戦ったので、実際には両軍が激突した合戦とはかなり様相が違い、いわば戦闘は両軍の一部が衝突した程度といえると思います。しかし軍記物語の世界。。さらに言えば能の世界では屋島合戦は義経の華々しい栄光の場面として強調されていて、これが後世この合戦が 一の谷や壇ノ浦に匹敵する新しい地位を得る事になったと感じます。

実際のところ能では「弓流し」はこの「屋島」の後半で詳しく語られるほか、さらに囃子の難しい間に合わせて弓を取り落とし、また拾い上げる具体的な型を伴う「弓流」「素働」という難易度の高い二つの小書が作られて、このエピソードが特に強調されています。

そして「錣引き」は「屋島」もさることながら、能「景清」にさらに詳しく語られ、それは命のやり取りをする戦場に臨みながら対戦した相手の力量を互いに賛美する男同士の美学が描かれていて感動的。しかもそれは平家の残党として頼朝の命を狙いながら果たせず、誅されることもなく流罪となった恥から自らの両眼をえぐり潰したという壮絶な武者の姿であり、そこに世を捨てたと思い過ごす彼を慕って現れた、かつてみずから捨てた娘との邂逅という悲しい物語の中での物語で、この重厚な能はまさに能の中でも屈指の名作と数えられています。

しかしながら「平家物語」に描かれる「錣引き」の場面は、どうもあまり感動的ではありません。

「平家物語」によればこの「錣引き」のエピソードは「扇の的」のあとに位置していて、渚に上がった三騎の平家に対して源氏からは五騎が対抗して出陣した小戦闘でのこととなっています。まず真っ先に進んだ平家の「美尾屋十郎」が馬を射られて飛んで下り、太刀を抜いて源氏に挑んだところ、源氏からは大長刀を打ち振って男がそれに対抗。しかし武器の威力の差に不利を悟った美尾屋は「掻き伏いて逃げ」、これを源氏の男は長刀を掻い込んで右手を出して追い、ついに美尾屋の兜の錣をつかみました。美尾屋もこらえて力勝負になりましたがやがて錣は鉢付けの板からふっつと切れて、美尾屋は味方の馬の影に逃げ込んで息をつき、源氏の男は美尾屋の錣を高々と上げて「遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見給へ。これこそ京童部の喚ぶなる上総悪七兵衛景清よ」と名乗って退いた、と。

「錣」は兜の後ろ側、首の後ろを保護するスカート状の大きな部品で、鉢付の板とは鉢。。すなわち頭頂部を保護するヘルメット部分と錣との境目の部品です。

しかしこの「平家物語」の記述は、能「景清」に見える「えいやと引くほどに錣は切れて此方に留れば主は先へ逃げのびぬ。遥かに隔てゝ立ち帰り さるにても汝おそろしや腕の強きと言ひければ。景清は三保の谷が頸の骨こそ強けれと笑ひて。左右へのきにける」という素晴らしい描写とあまりにかけ離れています。「平家物語」も軍記物語としての虚構に満ちて史実に忠実とは言えないのですけれども、時代を経るに従って、とくに芸能での表現として弁慶と同じように美化されていった景清像の変遷が見えて面白いと思います。

地謡「鉢付の板より。引きちぎつて。左右へくわつとぞ退きにけるこれを御覧じて判官。御馬を汀に打ち寄せ給へば。佐藤継信能登殿の矢先にかかつて馬より下に。どうと落つれば。船には菊王も討たれければ。共に哀れと思しけるか船は沖へ陸は陣に。相引に引く汐の後は鬨の声絶えて。磯の波松風ばかりの音淋しくぞなりにける。

ここでシテは「引きちぎって」と前に組み合わせた両手を引き離す型をしますが、これは単純な型ながら本当に力を込めて型をしないと文句の通りには見えないところですね。左右を見渡して両軍が引き離れたのを表すとシテは床几から立ち上がり、佐藤継信が落馬するところを足拍子で表し、やがてその激しさも今となっては波の音、松風の音と聞こえるばかり、と遠くを見つめて静かにワキの前に戻って着座します。

「錣引き」の場面は能「屋島」では「景清」ほどの臨場感は持たず、「かの三保谷はその時に太刀打ち折って力なく」という部分を除けば、大筋で「平家物語」に忠実と言える内容で、このあたり「錣引き」のエピソードが能の中で「景清」に向けて拡大して行った過程がほの見えるようで興味深いところです。

がしかし「これを御覧じて判官。。」からは屋島合戦のエピソードとしては「平家物語」とはかなり順番が変えられています。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その4)

2023-04-04 09:41:28 | 能楽
シテが懐かしい都からの来訪者を受け入れて、自分自身の思い出にひたって涙するのに対して、ワキはまったくそれとは正反対の所望をします。

ワキ「いかに申し候。何とやらん似合はぬ所望にて候へども。いにしへこの所は源平の合戦の巷と承りて候。夜もすがら語つて御聞かせ候へ。
シテ詞「安き間の事語って聞かせ申し候べし。


「何とやらん似合わぬ所望」というのは殺生を戒める仏法の教えを広める立場の僧が戦場の有様を尋ねるのが不似合い、ということ。

能「融」にもありますが、シテが昔を懐かしんで涙する場面のあとにワキに所望されて一転、シテが嬉々として主人公(化身の前シテにとっては自分自身)の栄光の様子を語る場面になるのは少々唐突な感を抱かせますね。一見すると涙するシテが急に気持ちを変えたようで不自然には思えます。

ここについて謡曲の注釈本の中には、打ち沈むシテをワキが鼓舞するように話題を転換した、と言われることがありますが、ぬえが思うのはそうではなくて、シテが涙する場面は脚本としてシテの内情にクローズアップした場面なのであり、涙はシテの心の中でのこと、実際にワキがシテの涙を見たのではない、と考えれば ワキの話題転換も自然に見えるのではないかと思います。

さてこうして当地、屋島での源平合戦の語りの場面になります。
塩屋の主人として床几にかかっていたのがワキを招じ入れて床に着座したシテは、ここで再び床几にかかります。

当地の人の昔話にわざわざ居住まいを正す演出は上手な手法です。卑しい漁師が語るには不似合いなほど勇壮で、その場に居合わせて刃を交えた当事者が語るかのような合戦談。その不自然さを、語りが始まる前にすでに視覚的に観客に訴えかけるのがこの床几での語りです。

シテ「いでその頃は元暦元年三月十八日の事なりしに。平家は海のおもて一町ばかりに船を浮べ。源氏はこの汀に打ち出で給ふ。大将軍の御出立には。赤地の錦の直垂に。紫裾濃の御着背長。鐙ふんばり鞍笠につゝ立ち上り。一院の御使ひ。源氏の大将検非違使五位の尉。源の義経と。名のり給ひし御骨がら。あつぱれ大将やと見えし。今のやうに思ひ出でられて候。

勇壮な「語り」ではありますが、じつは多くの問題があります。

ここで屋島の合戦についておさらいをしておくと、この屋島の直前には播磨の一の谷の合戦があるとされていますが、実際にはふたつの合戦の間には約1年の間が開いています。平家が清盛以来瀬戸内海の水軍を味方につけており、そこで一の谷で破れた平家は船を頼りに海を渡って四国に渡り、屋島に本拠を置いたのです。これに対して関東から下向した源氏は海を渡ることができない源氏はなすすべなく、水軍や軍船の用意に時間がかかったのが大きな要因で、後に伊予や熊野の水軍を味方につけて壇ノ浦での決戦に臨むまでは源氏は常に海に阻まれて平家との合戦に苦労しています。

さて一の谷の合戦のあとすぐに屋島の攻略に出られなかった源氏側は、範頼はいったん鎌倉に戻り、義経も都に戻り後白河法皇から都の警備のために検非違使の尉に任じられ、と様々な展開があり、鎌倉でも頼朝が一の谷で生け捕りにされた平重衡と三種の神器との交換を平家と交渉して決裂し、都では後白河法皇は安徳天皇を廃しその異母弟・尊成親王(後の後鳥羽上皇)を神器がないまま天皇に即位させ、義経は近畿での三日兵士の乱の平定に当たったり、範頼は山陽道に進軍したりと。。目まぐるしく状況が変転しています。

こうして一の谷の合戦から約1年後に屋島の合戦が行われ、能「屋島」で前シテは「その頃は元暦元年三月十八日」と言っているわけですが。。 源平の合戦の中でも壇ノ浦、一の谷に並んで有名な屋島の合戦ではありますが、じつはその正確な期日ははっきりしていないのです。

一の谷の合戦が起こったのが寿永3年2月7日のことで、この年の4月に元暦に改元しました。安徳天皇を擁する平家はこれを用いず寿永の元号を使い続けたため複雑で、義経は当然新帝・新元号を擁する側なので元暦を使っているのですが。。 さらに複雑なのは日本の改元の概念が現代と少し違うということ。一の谷の合戦の直後の寿永3年4月に改元。。元暦が始まったのですから能「屋島」でシテが語る「元暦元年3月」という日付は存在しないように思えますが、日本では明治以前は改元した場合はその年の元日まで遡って新元号を使う習慣がありました。

なので一の谷の合戦は寿永3年のことですが、直後に改元したそのあとから見れば元暦元年2月の出来事であったことになります。もっともこの考え方を能「屋島」でいう「元暦元年3月18日」にあてはめれば、屋島合戦は一の谷の合戦の翌月ということに。。 実際には「平家物語」など物語や記録もすべて屋島の合戦が起こったのは元暦2年とされていますので、これはどうも能だけが元号を間違えているか、もしくは意図的に変えたもののようです。

どうも現代人からすると一の谷の合戦と屋島の合戦は期日が近くて、壇ノ浦の決戦はそれより少し期日が隔たったあとの出来事、というような印象があると思いますが、壇ノ浦が海上での合戦だったのに対して一の谷と屋島のふたつの合戦がどちらも海辺での地上戦で、名将同士の一騎討ちのような場面が似通っているので共通性を感じるほかに、案外この改元が与える複雑な事情がその印象に影響を与えているかも。

実際には 前述のように一の谷と屋島の合戦の間には1年間の空隙があるのですが、屋島以降 水軍を味方につけた源氏の進軍は迅速で、壇ノ浦の決戦は屋島の合戦の翌月のことになります。

また日付の方もちょっと問題で、能では「3月18日」となっていますが、上記の諸本ではみな「2月」のこととなっています。一の谷の合戦からちょうど1年後となりますね。前述の期日がはっきりしていない、というのは「日」のことで、「平家物語」の中でも本により「2月18日」「19日」と記述の異同があり(「20日」と解釈できる本もあり)、「吾妻鏡」「源平盛衰記」では「19日」となっていることから、19日が最も有力候補でありながら正確な期日は不明、ということになるでしょう。

能「屋島」のシテの語りで義経が「大将軍」と称されているのは正しい表記で、当時の合戦では戦力は大手・搦手(からめて)の二つに分けて敵を挟み撃ちにする戦法が取られ、必要な二人の指揮官は、大手のそれは大将軍、搦手は副将軍と呼ばれました。源平合戦では本来の総指揮官は頼朝ではありますが、彼は鎌倉に残ったためその名代が軍を率います。そして多くの源平合戦では兄にあたる範頼が大将軍、弟になる義経が副将軍となっています。ところがこの屋島の合戦では範頼は九州攻勢に出ていて義経一人が大将軍として源氏軍を率いたのです。

が、大将軍と呼ぶにはこの屋島の合戦で義経が率いた軍勢は貧弱だったようで、平家討伐の源氏の軍勢は、まずは前述のように九州攻勢に出た範頼軍と義経軍の二手に分かれていたうえに、ようやく船を調達して摂津の渡辺・福島に勢ぞろいした義経軍も折節の嵐によって船出ができず、有名な「逆櫓論争」の末に梶原景時と袂を分かって嵐を押し切って船出した義経軍は「平家物語」によれば200余艘のうちわずか5艘、乗せた軍馬は50匹で、平家の屋島陣を急襲した手勢も「七八十騎」とされています。

少ない手勢ではありましたが義経の計略は緻密で、まず嵐をついて四国に上陸したのが屋島がある讃岐ではなく阿波国で、夜通し山越えをして平家の屋島陣を背後から急襲したのでした。しかも襲撃の直前には高松の民家に火を放ち、軍勢を小グループに分けて襲うことで大軍勢に見せかけたのでした。一の谷で義経が平家軍を背後から襲った「鵯越え」の記憶もあった平家はこれに驚いてすぐに陣を捨てて、また船を頼って海に逃げ出しました。「平家は海のおもて一町ばかりに船を浮べ。源氏はこの汀に打ち出で給ふ。」とあるのは、じつは海に逃げた平家の陣地を義経軍がおさえ、ようやく相手の軍勢が少数であると気づいた平家が海の上から源氏に対峙した、という場面になります。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その3)

2023-03-29 01:32:01 | 能楽
シテとツレは漁の仕事から帰った体で釣竿を捨て塩屋に戻ります。

シテ「まづまづ塩屋に帰り休まうずるにて候。

両者は釣竿を捨て、後ろに挿した扇を抜き持って、シテは床几にかかり、ツレはその右後ろに着座します。

この着座位置は能「松風」と同じ演出ですね。二人が海での仕事に従事する漁師であり、場所は塩屋であり、「松風」の影響を考えないわけにはいきません。そのうえシテとツレの登場の仕方。。橋掛りで向き合って謡い出し、囃子のアシライに乗って舞台に入り、さらに舞台で向き合ってサシ・下歌・上歌を謡う様は脇能の前シテの登場と同じ型です。まあ、脇能が「真之一声」で登場するのに対して「屋島」では前シテの登場音楽としてはごく一般的な「一声」であり、橋掛りで謡い出す体裁も脇能の「一セイ」「二ノ句」ではなく「屋島」では「サシ」「一セイ」なのであって、脇能と比べれば略式に作られているのは間違いないのですが。

しかしながらご存じの通り能「松風」は脇能以外では唯一「真之一声」でシテとツレが登場する曲で、アシライに乗って舞台に入り、「松風」はその後二度に渡る地謡の上歌、続いてロンギまで備えて長大な場面が続く点で脇能とも「屋島」とも異なった独特の展開ではありますが、この長大な文章でシテとツレが海辺で従事する仕事とそれに携わる心情を深く掘り下げたそのあとは仕事を終えて塩屋に帰るのであり、その点では「屋島」と趣向は同一でしょう。その塩屋に安住したシテとツレの姿が同一である事を考えると、やはり「松風」と「屋島」には共通した演出があると考えることができると思います。

さらには「松風」と「屋島」は同じ作者。。世阿弥による作品です。「松風」は「五音」「申楽談儀」「三道」の世阿弥自身の記述により古曲「汐汲」が観阿弥・世阿弥父子によって次々に改作された曲とされていますが、ぬえは以前から、確証はないながら「松風」はその文体や印象によって世阿弥によってほとんど全面的に書き直されていると考えていまして、後日ドナルド・キーンさんが「これは世阿弥が作りました」と断定的におっしゃっているのを聞いたこともあります。「屋島」もまた確実な証拠はないものの、各種の文献によって世阿弥作が確実視されている曲です。ふたつの曲が同じ作者の作品であるならば、やはり両者には何らかの関係があるのかもしれません。

もっとも橋掛りに登場したシテとツレなどがアシライで舞台に入る演出はじつは脇能の専売特許ではなくて、四番目や五番目の能である「玄象」「葵上」「当麻」、意外なところでは「第六天」「摂待」でも用いられているので、「屋島」のシテの登場の演出はより複雑な影響関係を考えなければならないかもしれません。

ワキ「塩屋の主の帰りて候。立ち越え宿を借らばやと思ひ候。いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。

塩屋の主人の帰宅を見た僧は一夜の宿を所望します。ツレがそれに応対してシテに判断を仰ぎ、シテは「見苦しい」ことを理由に一度は断りますが、僧の重ねての所望についに彼らを受け入れます。このあたりも「松風」そっくりの演出ですが。。

ツレ「誰にて渡り候ぞ。
ワキ「諸国一見の僧にて候。一夜の宿を御貸し候へ。
ツレ「暫く御待ち候へ。主にその由申し候べし。いかに申し候。諸国一見の僧の。一夜のお宿と仰せ候。
シテ「安き程の御事なれども。あまりに見苦しく候程に。お宿は叶ふまじき由申し候へ。
ツレ「お宿の事を申して候へば。余りに見苦しく候程に。叶ふまじき由仰せ候。
ワキ「いやいや見苦しきは苦しからず候。殊にこれは都方の者にて。この浦初めて一見の事にて候が。日の暮れて候へば。ひらに一夜と重ねて御申し候へ。
ツレ「心得申し候。ただ今の由申して候へば。旅人は都の人にて御入り候が。日の暮れて候へば。ひらに一夜と重ねて仰せ候。
シテ「なに旅人は都の人と申すか。ツレ「さん候。
シテ「げに痛はしき御事かな。さらばお宿を貸し申さん。


この場面も「松風」とほとんど同じ展開ですが、じつはシテが僧を受け入れる理由が「松風」とまったく異なっているのです。

「松風」ではワキの来訪をツレに知らせるツレは「旅人の御入り候が。。」としか伝えないのですが、その後のワキとツレとのやり取りを家の内から漏れ聞いたシテがワキが僧であることを知ると、シテの謝絶を忠実にワキに伝えるツレを制して僧を家に招じ入れるのです。

ところが「屋島」でシテが敏感に反応してワキを招じ入れた理由は、ワキが僧であるかということではなくワキが都人だったからなのです。後に地謡が「旅人の故郷も都と聞けば懐かしや。我等も元はとてやがて涙にむせびけり」と謡うので判明するように、シテは自分が帰ることができない故郷。。都の人と知って、懐かしさにワキを家に入れたのです。

単純な違いのようですが、「松風」ではシテは自分が死後も妄執のために成仏できず苦しんでいて、ワキ僧を招いたのも、僧との邂逅によって自分の救済を期待したからにほかなりません。これが「屋島」ではシテは同じ現世に迷う亡者でありながら、ワキが僧であることに興味を示していませんね。じつはこれは「屋島」の能全体に通じている特色で、シテがワキ僧に対して自分を弔うことを求めない事は演者などからもよく指摘されることなのです。

ぬえは、これまた証拠はないけれども「松風」も「屋島」も、世阿弥の作とすれば比較的若い時代に書かれた脚本だと思っています。「敦盛」はさらに若い頃。。ぬえは世阿弥が10歳代で書いたのではないかなあ、と漠然と考えているのですが、その後「高砂」「屋島」と続いて「松風」がもう少しあと、「砧」の境地はその数十年後のずっと先。。と勝手に考えています。これはシテの人物の人間像の描かれ方の深さについて ぬえが感じるところなのですが、この場面でもシテはワキの(シテ自身に対しての)存在価値を、自分が失った故郷の人として共感し、しかもそれはツレからの報告によって知る「屋島」に対して、ワキの言葉を側聞して、これを自分の救済者と認めた「松風」との間に、考えすぎかも知れませんが作者の人間洞察のための人生経験の時間差を感じています。

ツレ「もとより住み家も芦の屋の。
シテ「たゞ草枕と思し召せ。
ツレ「しかも今宵は照りもせず。
シテ「曇りも果てぬ春の夜の。
シテツレ二人「朧月夜に敷く物もなき海士の苫。
地謡 下歌「屋島に立てる高松の。苔の筵は痛はしや。
地謡 上歌「さて慰みは浦の名の。さて慰みは浦の名の。群れゐる田鶴を御覧ぜよ。などか雲居に帰らざらん。旅人の故郷も。都と聞けば懐かしや。我等も元はとてやがて涙にむせびけり やがて涙にむせびけり。


さてシテがワキ僧を家の中に招き入れて、一同が車座になって和む場面です。シテは下歌「屋島に立てる高松の」と床几から立ち上がり、ワキに向いて着座、ワキもシテに合わせて着座します。このあたり、能「安達原」や「一角仙人」などなど枚挙にいとまがないほど能によく出てくる場面ですが、これまた能舞台の特質をよく生かした演出です。理屈から言えばシテは屋内に居てワキを招き入れたのですから、シテは不動で待ち受け、多少なりとも移動するのはワキのはずなのですが、実際の舞台はその逆。しかしここでシテが立ち上がりワキに向くことで、単純にワキが屋内に入ってきた、という動作ではなく、僧をもてなすシテの気持ちに焦点が当たりますし、なにより役者がほとんど移動しないままで能舞台そのものが一瞬にして塩屋の内外の応対の場面から一同がひと部屋に介する屋内の場面に変わるのです。書き割りや大道具などで具体的に塩屋を視覚化する方法ではこの一瞬の舞台転換は不可能で、観客の想像に多くを任せる能の手法の真骨頂と言えると思います。

ここでもまた能「松風」との対比が際立ちますね。「松風」ではシテは立ち上がらず床几にかけたままワキに向くのみ。ワキはほんの二~三歩シテの方へ歩み寄って着座します。これは、「屋島」と違ってシテが動かない以上ワキが最低限の移動をしないと家の中に入ったことが表現できないからだと思いますが、「松風」でここでシテが立ち上がらないのは他にもいろいろな理由があるからだと思います。「屋島」のシテの庶民の老人であれば今まで床几にかけて一国一城の主のような威厳を見せていたのが、ワキとともに着座することで胸襟を開いて僧をもてなす体になり、一座の和やかな様子が活写される効果が生まれるのに対して、「松風」ではワキと同座しないことで、僧からの救済を期待しながらも、シテの心の中にある孤独が彼女の心をワキに打ち解けるところまで至っていない事が想像されます。またワキと離れて、しかも床几に座ることでシテの姿は着座するワキの位置とは高低差までも生じ、この場面のあとシテとツレが姉妹の悲しい物語を独白する場面でシテの心情の揺れ動きに観客の焦点を集めることができます。

さてシテとワキ一行がまといして語り合うこの場面、シテの心は都を懐かしむ気持ちでいっぱいですね。思えば都は義経にとって生まれ故郷でもあり、鞍馬での天狗との邂逅、五条の橋での弁慶との対決、木曽追討、平家追討の出陣、検非違使の任官。。と思い出の尽きない地。「屋島」で唯一、シテが涙を流すシオリの型をする場面です。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その2)

2023-03-27 10:29:09 | 能楽
塩屋の主の帰りを待つ僧たち。果たしてやがて漁翁(前シテ)と若い漁夫(ツレ)が登場します。

卑しい身分の二人の漁師の登場でありながら、能では常套手段でありますが前シテは生きた人間ではなく神霊の化身であって、その微妙に不確実な存在感というものを、この登場の場面で表現できるか、という事がシテやツレだけでなくお囃子方にも求められますね。これは「屋島」に限らず化身としての前シテの登場には欠かせない役者としての心得だと思います。

余談になりますが、能の前シテの登場の仕方にはいくつかの方法があって、たとえば「なうなう」とワキを呼び止める「呼び掛け」という登場のやり方があります。「羽衣」のシテもこの「呼び掛け」で登場するように、かなり多くの曲で用いられる演出なのですが、ぬえはこの「呼び掛け」が、能舞台の独特の構造から生み出された究極の演出ではないか、と思っています。

どこかに向かおうと舞台の脇座の方へ歩み始めたワキを、幕を揚げたシテがその中から呼び止める、という演出なのですが、その「なうなう」と呼び掛けるシテの姿はまだ観客の目には見えません。揚げられた幕の中から声だけが聞こえてくるわけで、シテはワキがそれに応じて返答するのを聞きながら、はじめて橋掛りに歩みを進めるのです。それも、ようやく姿を見せたシテは観客からは横顔しか見えません。ワキとの問答を続けながら、ずっとその表情は露わにならない。。

ワキとの会話がその曲の重要なモチーフに触れたとき、はじめてシテは橋掛りの中ほどでワキに向くわけで、それまでのシテの登場は それだけですでに得体のしれない神秘的な印象を観客に与えます。橋掛りという独特の能舞台の構造を生かし切る、先人のすぐれた知恵によって獲得された演出で、だからこそ ぬえも師匠から最初の「なうなう」の謡い方は厳しく教えて頂きましたし、はじめて見所(客席)に向くところを大切に扱うように指導されました。

このように優れた「呼び掛け」ですが、この演出が用いられるのはシテが同伴者を伴わずに一人で登場するときだけで、また一人で登場しなければ神秘性を表現するのは難しいでしょう。能「屋島」では前シテはツレを伴っているので「呼び掛け」ではなく、二人の役者が前後して幕から登場して定められた位置で止まって体裁を調えてから演技を開始するためには登場音楽が必須であると思います。

こうしたわけで「屋島」の前シテとツレは「一声」の囃子で登場するのですが、これが前述のように儀式的な「次第」ではなく「一声」なのは、まずはワキの登場との重複を避けるため、ということもあるでしょうがそれ以上に、整然とした「次第」よりも正体のわからない漁師の出現という印象を与える効果があるためであろうと思います。

「一声」によって登場した二人は、ツレが一之松、シテは三之松でともに橋掛りで止まって正面を向き、謡い出します。

シテ「おもしろや月海上に浮んでは波涛夜火に似たり。
ツレ「漁翁夜西岸に添ふて宿す。
二人「暁湘水を汲んで楚竹を焚くも。今に知られて芦火の影。ほの見え初むるものすごさよ。
シテ「月の出汐の沖つ波。
ツレ「霞の小舟。漕がれ来て。シテ「海士の呼び声。二人「里近し。


前シテは「朝倉尉」または「笑尉」という尉面をかけますが、ともに口ひげが植毛されて、また上下の歯を剥き出した面です。ちょっとした違いのように思われるかもしれませんが、口ひげが彩色で描かれて上の歯だけが彫刻された、脇能で神の化身として登場するシテがかける「小尉」と比べると舞台効果はまったく異なっていて、「小尉」の品格よりも身分は劣る、いわば市井の人物ながら力強く逞しく、まるで古武士のような風格があります。

ツレは直面(素顔)で登場し、二人ともに着流しの姿で身分の低さを表し、また上に着る水衣の両肩を上げることで労働をしていることを表します。二人はともに腰蓑をつけて釣竿を肩にして登場することで漁師であることがわかります。

それにしても。。前シテの登場の文句は重厚ですね。冒頭はサシと呼ばれる散文を謡うので情緒的な進行かと思えば、さらに一セイというきらびやかな節付けがある短文の小段が続きます。じつはこれでも終わりではなく、ここまで謡うとシテとツレは橋掛りを歩み舞台に入り、再び向き合ってさらにサシ、下歌、上歌を謡うのです。

冒頭の「暁湘水を汲んで楚竹を焼く」というのは唐代の柳宗元の漢詩の引用で、夕方に湘江の西岸に停泊すると見えた老漁師は翌朝に見ると漁翁は湘江の水を汲み、楚地方の篠竹を焼いて朝食を作っていたが、いつの間にかその舟は漕ぎ出して見えなくなった、というもの。この漢詩では遠景に見えた漁師の小舟が自然と一体となって溶け込んでいく様を詠んでいて、その情景を今の自分たちの姿を感慨深く重ねています。

月の出とともに上げ潮となり漕ぎ出す舟。春の霞に景色は見えにくいけれども、呼び交わす釣船の声から陸地や里も近いことがわかる。。と、ここまで謡ってシテは釣竿を肩から下して右手に提げて持ち、ツレを先立てて二人は舞台に入り、ツレは舞台中央、シテはシテ柱に足を止めて再び謡いはじめます。

シテ「一葉万里の船の道。たゞ一帆の風に任す。
ツレ「夕べの空の雲の浪。
二人「月の行方に立ち消えて。霞に浮ぶ松原の。影は緑に映ろひて。海岸そことも不知火の。筑紫の海にや続くらん。
下歌「こゝは屋島の浦づたひ海士の家居も数々に。
上歌「釣の暇も波の上。釣の暇も波の上。霞渡りて沖行くや。海士の小船の。ほのぼのと。見えて残る夕暮れ。浦風までも長閑なる。春や心を誘ふらん 春や心を誘ふらん。


一枚の木の葉が水に浮き、そこに蜘蛛が乗ってともに流れ下るのを見て舟が発明された、という話は能「自然居士」や「遊行柳」に出てきますね。最初は原始的な発明だったかも知れませんが、いまや万里を進む交通手段。しかしそれも帆に受ける風まかせという儚さも併せ持ったもので、おそらく自分たちの境遇と重ねているのでしょう。その後の文章も、春といえばつきものの霞にぼんやりと霞む情景の美しさと、多くの漁師の家があるけれども生活のために釣りをするのに追われる境遇や、その中であってもやはり長閑な春は心を浮き立たせる、と複雑な心境を謡っています。

不知火は「筑紫」の枕詞で、有明海などで夜に見られる怪異な火のことだそうです。ここでは霞によって松原の緑も海の色に交じり、海岸さえよく見分けられない中で、家の灯か釣舟の灯りがその怪火のようで、先の見通せないこの海がいつの間にか九州・筑紫にまで誘い込まれるようだ、というような意味でしょうか。

なお枕詞「しらぬひ」は上代から使われていますがその意味はずっと不明のままで、近年になって上代での使用例は「不知火」という説はほぼ否定されて「白縫い」だという説が提出されています。中世文学ではもっぱら「不知火」なのですが、これは上代の使用例の誤解なのだとか。(+_+)

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その1)

2023-03-25 00:50:37 | 能楽
さて毎度 ぬえが勤める能の曲について鑑賞のための見どころと、舞台進行の解説をさせて頂いております。今回の『屋島』は「修羅物」と呼ばれる源平の武将の生き様を描いた一連の能の曲の中でも人気曲と言われています。この屋島や一の谷、壇ノ浦での活躍に対して平家滅亡後は一転して兄・頼朝から追われる身となり、ついには奥州で非業の死を遂げた義経。能の「屋島」では不幸な最期には微塵も触れず、一貫して英雄として描かれています。

さて舞台に囃子方と地謡が着座して囃子方が床几に腰かけると「次第」と呼ばれる登場楽が演奏され、やがてワキとワキツレが幕を上げて登場します。ワキは所謂「着流し僧」で、従僧(ワキツレ)が通常二人、ワキに引き続いて登場します。

橋掛リから舞台に入ったワキとワキツレが舞台中央で向き合うと、これまた「次第」呼ばれる謡を謡います。

ワキ「月も南の海原や。月も南の海原や。屋島の浦を尋ねん。

続いて地謡が同文を低吟します(繰り返し部分は一度だけ謡う)が、これを「地取り」と呼びます。

これは「次第」という登場楽で役者が登場する場合の定型で、また「次第」はシテの登場時も演奏されるものの、多くはワキの登場に用いられ、じつはかなり特徴的な登場の仕方をします。

前述の通りワキ(あるいはシテ)がワキツレ(シテの場合はツレ・子方など)を伴っている場合は登場した役者は舞台で向き合って七五・七五・七五が定型の三句を謡いますが、シテの場合はまれに橋掛かりで向き合って謡う場合もあり、もっと特徴的なのはワキ(あるいはシテ、ツレの場合もあり)が一人で登場する場合は役者は舞台シテ柱前(橋掛リ一之松のこともあり)で客席に背を向け、囃子方の方。。鏡板の方向に向いてこの三句を謡うのです。

さらにこの役者の謡の直後に地謡が「地取り」を低吟するのも大きな特徴。次第の囃子で登場すれば必ず役者は「次第謡」を謡い、地謡が「地取り」を謡うのですが、じつは登場音楽としてではなくクリの前などに地謡が「次第謡」を謡う曲もあり、そのときも「地取り」は謡われます。つまり地謡は大声で「次第謡」を謡ってから、今度は低い声で「地取り」も謡うことになります。

「次第」と同じくらい多く用いられる登場音楽に「一声」がありますが、こちらは「次第」と比べると演奏の速度も登場の演技のバリエーションも格段に広く、この自由度の高さからの比較では「次第」は「静的」で「儀式的」な印象が強いと思います(激しい次第もまれにありますから、あくまで印象ですが)。能ではワキが「次第」で登場して、その後にシテが「一声」で登場する、という形式に作られていることが多いように思いますが、ワキの登場を儀式的に行うことである種の「実在性」が担保され、これにより舞台に安定感を与える効果があるのではないか、と ぬえは考えています。

その後じつは人間ではない化身の前シテが現れるときこの安定感が一気に崩れて、シテに注目を集める効果もあるでしょうし、舞台に緊張感を与えて舞台の経過に観客を集中させることを狙ったのではないか。。? ちなみに「屋島」では前シテも後シテも「一声」で登場しますが、その印象はかなり違っていて、「一声」の柔軟性を感じます。

ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。我いまだ四国を見ず候ほどに。この度思ひたち西国行脚と志し候。

さて地取りで正面に向き直ったワキは自己紹介の文を謡い、その最後に「立拝」とも「掻き合わせ」とも呼ばれる両手を胸の前で合わせる型をして、これよりワキはワキツレと再び向き合い、紀行文である「道行」を謡います。

ワキ/ワキツレ「春霞。浮き立つ浪の沖つ舟。浮き立つ浪の沖つ舟。入日の雲も影そひて。其方の空と行くほどに。遥々なりし舟路経て。屋島の浦に着きにけり 屋島の浦に着きにけり。

京都に住む僧(ワキ)一行が四国・讃岐国の屋島に行くので、もちろん交通手段は難波か摂津あたりからの海路ですね。じつは道行はかなり具体的な行路を記してあることが多くて興味深く、作者の意図がこめられていることも多いのです。「鉄輪」ではシテは京都市内から貴船神社までの「道行」で、京都の人ならば知らぬはずはないはずでしょうが、これを京都の人に聞かせたら「あんな道を通っていかはったんか。。」と言っておられました。なんでも通常の貴船神社までのルートではなく、今でもその道はあるけれども獣道程度の道しかない、とのこと。。身を潜めて「丑の時詣で」をする恨みを持った女ですから、その道順を聞いただけで観客は震えあがる効果を狙ったのでしょう。逆に「楊貴妃」のように想像上の場所。。常世の国に行く道行もあって、これはさすがに道行の描写も抽象的ですねw。

「屋島」の「道行」は平明な文章で、しかも地名が一切登場しません。海がない都からしても当時は讃岐までの道のりは自明だったのか、平凡な地名の列挙を避けて、春のほのぼのとした旅路を情緒的に描くことに徹したのかもしれません。

ワキ「急ぎ候程に。これははや讃岐の国屋島の浦に着きて候。日の暮れて候へば。これなる塩屋に立ち寄り。一夜を明かさばやと思ひ候。

「塩屋」とは製塩のために浜辺に建てられた作業小屋のことですが、この後登場する前シテとツレは漁翁と漁夫。。つまり釣りをする漁師です。まあ、釣ってきた魚を加工する作業小屋をも同じく「塩屋」と呼んだのかもしれませんが、じつは ぬえはこのあたりから「屋島」の作者(世阿弥と確実視)が能「松風」を念頭に置いて能「屋島」が作った、その片鱗が早くも現れているのではないか、と感じています。

ともあれ塩屋への宿泊を志すワキ一行は塩屋の主人の帰りを待つ体で舞台脇座に着座します。(続く)

梅若研能会4月公演

2023-03-20 14:44:01 | 能楽
来月…4月20日、師家の月例会「梅若研能会4月公演」にて ぬえは能『屋島(やしま)』を勤めさせて頂きます。「修羅物」と呼ばれる源平の合戦を描いた一連の能の作品の中でも屈指の人気曲であり、主人公も悲劇のヒーローとして古来日本人に大人気の源義経です。しかしながら能に描かれる義経像はその「悲劇のヒーロー像」とはちょっと違っていますね。ぬえはこの曲が舞台にかかるたびに思うところがあったので、今回は例によって上演の参考となるよう舞台経過をご紹介しながら、そういった ぬえがこの曲に感じる「違和感」について考察をしてみようと思います。

都四国行脚に志す僧(ワキ)が讃岐の屋島を訪れたところで日暮れを迎え、見つけた塩屋(製塩などの作業のために浜近くに建てられた小屋)に宿泊しようとします。やがて現れた老若二人の漁師(前シテ・ツレ)。長閑な春を満喫するように現れた漁師に僧が宿を乞うと、漁翁(前シテ)は小屋の見苦しさに一度は断りますが、若い漁師(ツレ)を通じて僧が都の人と知るといたわしさを感じて宿を貸します。「都と聞けば懐かしや。我らも元は。。」と涙する漁翁。僧は不審しながらもこの屋島での源平合戦の有様を語るよう頼みます。「易き間のこと」と応じた漁翁ですが、その軍語りの有様はまるでそれを体験した武者のよう。詳細な物語りに不審を深めた僧が漁翁の素性を問うと、「暁には修羅の時となるだろう」「その時は我が名を名乗らん」「よしつねの憂き世の夢ばし覚まし給ふな」と言い捨てて姿を消します。

老人が義経の霊と確信した僧がその夜月の下に待つと、果たして義経(後シテ)が現れます。生前の合戦での怒りの心のために成仏できず今に苦しんでいる、と言う義経。屋島での合戦、とくに義経が取り落とした弓を敵陣近くまで取り返しに行った有名な「弓流し」の有様を物語ると明け方に消えてゆきます。

兄の頼朝が非情で冷酷な人物という印象なのに比べて義経は「悲劇のヒーロー」として日本人には親しみ深いですね。実際、源平の合戦では頼朝は実際の戦闘には参加せず鎌倉におり範頼と義経の二人の弟を派遣したのであって、この二人の活躍によって平家は滅亡を迎え、三種の神器の奪還にも成功したのでした(剣は失われましたが)。ところがその後頼朝は弟たちの野心を疑い、ついに二人とも自害に追いやったり攻め滅ぼしました。

まあ。。権力を持った者の孤独が自分の地位と命を狙われていると妄想させるのはよくある事ですが。。義経は山伏に変装して追っ手を逃れた逃亡生活をしたり、再三自分の無実を兄に訴えながら受け入れられなかったり、平家討伐の軍功に引き換えて哀れな運命をたどったために彼を記した軍記物語の読者の同情を引きました。

実際、能の中で義経はこの「屋島」のシテのほか、「正尊」「船弁慶」「安宅」などの曲でツレや子方として登場し、幼少年期時代のエピソードが「鞍馬天狗」「橋弁慶」「烏帽子折」「熊坂」などに数多く描かれているのに対して頼朝が舞台に登場するのは現行曲ではわずかに「大仏供養」の子方と「七騎落」のツレ(他流では「調伏曽我」のツレもあり)のみで、義経がいかに古来から人気があったかがわかるように思います。

そんな義経ですが、能「屋島」では兄弟の確執や悲劇的な最期には一切触れず、屋島の合戦だけに的を絞って勇猛果敢、名を惜しむ武士の誇りが描かれています。これがこの曲の一番の特徴でありましょう。合戦での殺人を生業とし存在意義ともする武士は、その誇りと栄光の影で、常に仏法の戒めに反する生き方をしているわけで、死後に修羅道に堕ちなければならない自立背反の宿命を背負ってもいました。

こうしたわけでいわゆる修羅物と呼ばれる源平の武将を扱った能ではほとんどシテは死後に修羅道に堕ちた苦しみを表現し、ワキはもっぱら僧であって、シテの苦しみを受け止め、その救済をする役目を担うように物語は設定されています(その結果救済が成功してシテが成仏を果たせたかどうかは別問題ではありますけれども。。)。

能「屋島」もワキは僧であり、シテは「瞋恚の妄執」による苦しみを吐露はしていますが、どうも他の曲とは少し描かれ方が異なると思いますね。これについても本ブログで考えてゆきたいと考えております。

どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~



梅若研能会 4月公演

【日時】 2023年4月20日(木・午後1時開演)
【会場】 セルリアンタワー能楽堂 <東京・渋谷>

 仕舞 杜 若 キリ  伊藤 嘉章
    柏 崎 道行  青木 一郎
    鵜 飼 キリ  遠田  修

狂言 寝音曲(ねおんぎょく)
     シテ(太郎冠者) 善竹十郎
     アド(太郎冠者) 野島伸仁

   ~~~休憩 15分~~~

能  屋 島(やしま)
前シテ(漁翁)/後シテ(源義経) ぬ え
ツレ(漁夫) 萩原郁也
ワキ(旅僧)殿田謙吉/間狂言(屋島の浦人)善竹大二郎
笛 栗林祐輔/小鼓 幸正昭/大鼓 柿原弘和
後見 梅若万三郎ほか/地謡 青木一郎ほか

                     (終演予定午後3時25分頃)

【入場料】 指定席A 6,500円 指定席B 5,500円 学生各席2,500円引き
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

例によってこちらのブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~m(__)m

二子玉川ライズ薪能、本日です♪

2022-10-08 16:43:31 | 能楽
本日は二子玉川ライズ薪能に出演しております。
ビルの屋上庭園に建てられた仮設舞台での上演で、今日だけ雨が降らないみたいでありがたいです!

チケットは完売だそうですが、下記で配信もするようですので、お時間の合う方はぜひご覧くださいませ!

二子玉川ライズ薪能 10/8(土) 18:30開演

【狂言】呼声 シテ・山本泰太郎
【能】小鍛冶 前シテ・ぬえ/後シテ・長谷川晴彦

https://www.youtube.com/channel/UCYt3d335w5qPi5vE62Mxy8g

トライアル公演舞囃子を見る会

2021-03-08 02:21:24 | 能楽
令和も3年に入って、まさかの新規感染者2500人という状態の東京では2度目になる緊急事態宣言が出され、先日これまた2度目になる期間の延長が決定されました。

私たちにとってはどんどん舞台が遠くなるようで。。なかなか明日が見えない気が滅入るばかりの日々ではありますが。。

そんな中、かねて ぬえが文化庁に申請していた「感染対策を施したトライアル公演」の企画が採択されて、伊豆で「舞囃子を見る会」を催行しました。

時期的にはどうかと思われるところもあり、ぬえも悩んだのですが、東京で ぬえが見ている範囲では感染が起こる危険性がありながらそれを気にしない行動も実見しているので、感染対策の周到な準備を整えたうえで、「withコロナ時代」での上演活動の再開の方法を模索し、実践することを決断しました。

まずは出演者やスタッフとは主にオンラインで対策について話し合い、公演自体も大々的なな宣伝はせず観客は ぬえが指導する「子ども創作能」の参加児童やその保護者・関係者、そこからの口コミ程度に限定し、声を出す場所はオープンエアであることを前提として実演会場は神社の境内に建つ神楽殿とし、実演時以外はマスク着用。座席は少数にして間隔をあけ、さらに密を避ける注意喚起をする会場係員は「子ども創作能」の保護者を中心に12名も配置。終了後は近所の公民館で簡単な能楽体験会も催したのですが、こちらは室内でもあり参加者を制限したうえで検温・参加者名簿の作成も行いました。

こうして上演対象は限定的、内容は本格的な能ではなく舞囃子だったとはいえ、囃子方や地謡の能楽師も出演するもので、当地にとってはまたとない公演であったと思います。本当は子どもたちの上演も行いたかったのですが、子ども創作能の稽古も年始から停止を余儀なくされていて、稽古不足のため断念しました。しかし子どもたちにとっても指導講師の ぬえの舞台を見る機会となり、刺激を与えられたかな、と思っております。

実際。。ぬえも久しぶりの舞台で純粋にうれしかったし、お囃子方も楽しそう。。 あとでお囃子方に聞いてみたら、薪能も絶えて久しいこの頃だからでしょうか、「屋外で風に吹かれながら、なんて久しぶりで気持ちがよかったですね」なんて言っておられました。

こうして上演した ぬえの舞囃子「敦盛」の動画は youtube で公開配信しております。
期間は3月いっぱいの限定公開と致しますので、よろしければご覧ください。

トライアル公演舞囃子を見る会

伊豆の子ども能、今年最後のお稽古

2020-12-21 10:29:30 | 能楽
いまは ぬえは学校公演のために長崎に来ております。

そして土曜日は伊豆の子ども能の今年最後のお稽古でした。

演目は新作(と言っても10年以上上演してるけどw)の「伊豆の頼朝」。伊豆に流された頼朝が平家の目代の山木兼隆に対して挙兵した当地の歴史的事件を扱った曲です。

兼隆はこの曲では悪者になるわけですが、小学生の女の子なので服には大きなスヌーピーの絵がw



兼隆の家来も(よく見ると)「すみっこ暮らし」のプリント入りw



一方の頼朝役は同じ女の子だけど6年生で身長も高いからカッコいいです!



さてお稽古が終わってからは会場備え付けのピアノを使って年末のお遊びに、ピアノ習ってる子しかできないけれども、臨時の「かくし芸大会」にしました。







高学年の子はさすがに上手いねー。
ピアノを習って0年の ぬえも「猫ふんじゃった」を弾きました。0年ですからねえ。。子どもたちから「やめて〜!」の大合唱がw

最後にはなぜか落語を発表する子まで登場。すごい。



なにかと大変な1年でしたが、子ども能も無事にお稽古を再開することができました。
来年春には立派な公演ができるように文化庁に助成金も申請中です。

よい1年になりますように!

伊豆・子ども創作能の公開稽古(まさかの感染騒動つき)その2

2020-11-13 21:50:49 | 能楽
子ども創作能の公開稽古の前夜、突然もたらされた出演者の子どものクラスメイトの感染発覚。。まさかの展開です。

公開稽古では入口で検温したり座席の間隔をあけて密を避けたり、と感染予防の対策はかなり考えていたのですが、まさか出演する側の身近からウイルスが忍び寄っていようとは。。

クラスメイトの感染がわかったのは中学生の参加者で、この子は出演を切望していましたが、さすがに参加は見合わせてもらいました。中学生なのでお役は地謡だったので、欠席でもまあ上演不能にはならない。最近は参加者の減少に悩む子ども創作能ですが、最後には ぬえが一人で地謡を謡う覚悟でもありました。

さらにもう一人、小学生の参加者にも同じように学校に感染者が出たとのこと。まさかの一度に2件の発覚とは。。ただ、こちらは参加児童と同じ学年ではあるけれども違うクラスの子とのことなので、児童の扱いを慎重にして参加してもらうことにしました。

もちろん公開稽古そのものの中止も熟考しましたが、中止するにしても観覧のお客さまにそれをお伝えするすべもなく、結論は出ず。保護者には一応上演する用意をしたうえで、開演2時間前に集合して、その場でみなさんで話し合うことにしました。感染を心配されるご家庭は欠席も可で判断はお任せしました。その結果上演不能となった場合は ぬえが即席の能楽講座を行うつもりで、展示のための面装束を用意して。

その後近所のホームセンターかどこかで感染予防のためのパーテーションなどを買い求めることも考えましたが、どこで売っているのか見当はつかず(疎開先の茨城県のホームセンターで一度パーテーションを売っているのを見かけたことはあったのですが。。)すでに21時をまわっていて検索の結果どこも閉店している模様。これで万策尽きて翌日の出発を迎えることになりました。感染予防パーテーションなどの購入は文化庁の助成金をすでに7月に申請していたものの、採択が知らされたのはこの1週間前で間に合わず。

さて公開稽古当日、伊豆に到着してママさんたちと話し合ったところ、あまり心配している方はなく、かえって久しぶりの上演で子どもたちは楽しみにしていた、友人などがたくさん見学に来ます、とのこと。

なので公開稽古は決行することにしましたが、子どもたちには よくよく次のように言い含めました。
・今日だけはお友だちに絶対に触れない。お菓子を分け合ったりするのもダメ。
・上演時も含め、常にマスクを着用。
・今日だけは楽屋ではお友だちではなくママのそばにいなさい。
・今日だけはみんなで恐れよう。今日だけ我慢すれば明日は普通の生活に戻れる。

この日に市内で感染者が一気に6人も判明したこともわかりましたが、一部の地区に集中している傾向も見え、それだけに子ども創作能で集まった子どもたちから他の地区への感染拡大や、ましてやクラスターなどは絶対に発生させるわけにはいかない。着替えも狭い場所を避けて広いロビーに換えて、窓を開け放して。。

こうして公開稽古は始まりましたが、意外や20名以上のお客さまが集まってくださいました。ぬえが一人で謡おうかと思っていた地謡も、中学生の子ども能OGが急遽応援参加してくれて解決。ぬえの能楽講座に引き続いて子ども創作能の上演を行いました。

やれやれ、いや、それでも良い舞台だったと思います。上演前日からの騒ぎのせいか、ちょっと間違った子もあって、この時は落ち込んでいたけれど、夜になって頂いたママさんからのメールでは「でも楽しかった!」とうれしそうにしていた、とのこと。そういえば子ども創作能に入会したけれど、出演する機会がなかった子どももあって、その子も無事初舞台を踏むことができました!

(画像撮影;内田隆久さん)

伊豆・子ども創作能の公開稽古(まさかの感染騒動つき)その1

2020-11-11 11:24:40 | 能楽
去る11月8日、もう20年も稽古を続けている静岡県・伊豆の国市の「子ども創作能」の公開稽古を行ってきました。

今年のコロナ禍で、やはり困難を強いられている子どもたち。じつは去年から不運に見舞われてきました。「伊豆の頼朝」という作品を上演している子ども創作能ですが、毎年10月、当地で源頼朝が挙兵したゆかりの守山八幡宮の秋祭りで神社に奉納上演をしているのですが、去年の上演当日、まさかの台風直撃で秋祭りそのものが中止に。。ぬえの能楽師としての経験の中でも、催しが中止になって、来演をお願いしていたお囃子方の出演をキャンセルしたのは初めての経験です。

その後今年の2月に大仁地区の「梅まつり」イベントに出演することができましたが、その直後に新型コロナウイルス問題が勃発して、4月にこれまた恒例で鎌倉市からお招きいただいて上演する「鎌倉まつり」公演が中止に追い込まれました。またまたお囃子方にご迷惑をお掛けしてしまいましたが、出演の子どもたち。。とくに6年生にとっては卒業記念としての公演でもあったので、かわいそうな事になりました。

さらには笛の寺井宏明先生のご尽力によって、今年は箱根神社での子ども創作能の奉納も決定していたのに、これまた中止に。そして今年の10月の守山八幡宮の秋祭り奉納上演も中止になりました。。

ああ。。

仕方なく、子どもたちが上演曲目を忘れないために稽古は続けていましたが、それも上演の目標はないまま。。

ま、それでも毎回配役を換えての稽古は意外な盛り上がりを見せておりました。聞けば学校のクラブ活動やらお稽古ごとも自粛の空気が蔓延して、子どもたちは なかなか身体を動かす機会も少ないのだとか。。

ああ。。

ここで ぬえはとうとう我慢できなくなりまして、無観客・無宣伝でゲリラライブ的な上演をママさん方に提案することに。会場は市内にある小さな野外ステージで。近くには密を避けて広い着替えができる広い和室を備えた公民館もあるし。よし! これならいけるぞ!

。。が、ママさん方からはやはり慎重論が出ました。いわく「この時期に無理にやる必要はないのでは?」「通りがかりの人が上演を見て、はたしてこの時期、喜んでくれるのでしょうか? むしろ反感を覚えるのでは。。」 。。ごもっとも。。orz

なおも我慢できない ぬえ。今度ははじめから予約されていた稽古会場が公民館のホールだったのに目をつけて、普段の稽古を本格的にして、装束を着けて公演のリハーサルのように行うことを再度提案。これはママさん方も賛成頂きまして、それどころか「それなら限定的に公開できるのではないか」「椅子をあらかじめ間隔をあけて並べて」「受付を設けて見学者の名簿を作って」「私、検温器を用意できます」と、どんどんアイデアが出されて、ついに「公開稽古」になりました。宣伝は ぬえがチラシを作って、子どもたちがお友だちなどに配る程度に、小ぢんまりと行います。

そして翌日に満を持しての公開稽古を控えたその前日の夜、ママさん方の一人から連絡がありました。

「。。子どもが通う学校の、同じクラスの子が感染していることがわかりました。。」

え。。

(続く)
(画像は夏の頃のお稽古のものです)