ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

PCR検査を受けました

2020-11-10 01:30:54 | 能楽
ようやくのご報告になります。

この度師家では学校公演その他各地での公演の再開に向けて、主催者様や関係者様に不安を与えないよう、同門の能楽師一同でPCR検査を受けることとなり、先日 ぬえも含め全員が検査を受け、無事 陰性と診断されました。

先輩の中には教室の生徒さんに心配をかけないためにすでに自主的に検査を受けた方もありましたが、個人で検査を受けるのは費用面で大変。。こちらは助成を受けて検査を実施したものです。

助成を受けて検査を実施すると、もしも感染者が発覚したときに団体名が露わになって、公演活動ができなるなるのではないか。。? という懸念を ぬえに言った方もあって、なるほどそうなると再び舞台を失うことになり、それは大変な苦痛ですが。。 とはいえこのような状況下で公演を受け入れてくださった会場や主催者さまに安心して頂くのもまた必要。。悩ましいところではありました。

さて実際のPCR検査とはどういうものか、せっかくの機会なのでご紹介させて頂きます。





こちらが検査のための説明書です。
実際の器具の画像はありませんので想像して頂くよりほかありませんが、太めの注射器のような、樹脂製の円筒形の透明な器具に唾液を入れて提出するほか、免許証など身分証の提示も求められました。

提出する唾液の量は図のように赤い線のところまで。。 結構な分量ですよ! 顎の脇をマッサージしたり、レモンや梅干しなど酸っぱい食べ物を想像しながら、ペッペッと。。とても人に見せられる姿じゃありませぬ。。(TT)

伊豆・しゃぎりの発表会

2020-10-12 04:04:24 | 能楽

10月10日、本来であれば伊豆の教え子の子どもたちによる「子ども創作能」が当地の霊社・守山八幡宮の祭礼の場で奉納上演をする予定でしたが、例によってコロナ禍のために祭礼自体が中止になってしまいました。守山八幡宮の祭礼は去年も台風の直撃を受けて中止となったので、2年連続しての災難に見舞われたことになります。しかもこの日も台風の影響で雨模様。コロナ禍がなくてもやはり祭礼には難しい日になりました。

この守山八幡宮は源頼朝が伊豆で平家に対して挙兵したときに戦勝祈願をしたとされ、頼朝の挙兵を扱った子ども創作能「伊豆の頼朝」をここで毎年奉納上演させて頂くことはとっても意義深いことです。しかも今年は延期になってしまった東京オリンピックの年であっただけでなく、じつはその頼朝の挙兵から840年目にあたるアニバーサリーイヤーで、伊豆でもこの奉納は記念イベントの一つとなるはずでした。返すがえすも残念。

そういうわけでこの日も普通通り子どもたちの稽古になりましたが、奉納上演が中止になったから稽古に切り替えた、というような消極的なものではなく、来月には公演の代わりの発表の場としての「公開稽古」を行うので、これまでと違って子どもたちにも目標ができました!

ところが子どもたちが集まってくると、一人の児童。。我らが精鋭、6年生の のんのママさんから早退のお願いが。。

よく聞いてみるとこういう事でした。いわく、のんは子ども創作能のほかに地域の「しゃぎり」のメンバーで笛を吹いている。地域の神社の祭礼で演奏されるのだが、今年は例によってコロナ禍のため祭礼は中止になり、せっかくの子どもたちの練習が無駄になってしまう。そこで代わりにこの日に「しゃぎり」だけ発表の場を設けることになった。とのこと。なるほど ぬえが考えた「公開稽古」と同じ発想ですな!

これを聞いた ぬえは、子ども能の稽古のあと のん出演の「しゃぎり」を見に行くことにしました。

「しゃぎり」とは、能の世界でも使う言葉で、狂言の「末広」などで めでたい終わり方をするときに笛一管で演奏される、ほんの十数秒ほどの囃子のことですが、この伊豆では神社の祭礼のときなどに笛・鉦・太鼓で賑やかに演奏される、一種の祭囃子のことをいいます。

調べてみると「しゃぎり」は語源不明ながら歌舞伎や落語でも使われている囃子で、名称は同じながらそれぞれ関係性はなく内容はまったく別物のようですね。ぬえも今から20年前に伊豆の子ども能に携わって、すぐにこの「しゃぎり」の存在は知ったのですが、今回調べてみると全国でも伊豆はとくに盛んで、三島のしゃぎりが有名なようです。

さて子ども能のお稽古も終わり、ママさんの車に乗せて頂いて会場に向かった ぬえ。到着してみると会場は地域の公民館のお隣にある倉庫でした。近づいただけですぐわかる賑やかな囃子の音。雨の中、倉庫の中で立派な山車に乗って子どもたちだけが演奏しています。そういえば当地で何度か「しゃぎり」を見ましたが、やはり山車の上で演奏されていました。地域によって大人ばかりだったり、子どもが混じっていたり、いろいろなようです。ここは普段山車を収めている倉庫なのかも。



演奏は素晴らしく、曲により明らかに16ビートの曲もあって(笑)興味深いものでしたが、聞いてみると本当はお祭りのときにこの山車に乗って「しゃぎり」を演奏しながら町内を練り歩くものなのだそうです。今回はその機会が奪われ、地域の大人たちが子どもたちのために山車の倉庫の中で日頃のお稽古の成果を発表する機会を設けてあげたのです。

なるほど。。見学者は地域の役員や保護者のみ。山車の上の子どもたちは密のようでしたが、全員マスク着用、笛の担当の子はフェイスシールドの姿。。 しっかりと感染対策はしながらの発表のようでした。



なんだかなあ。。ここまで地域の伝統を踏みにじり、子どもたちにまで悲しみや屈辱感を与えたのが目に見えない小さなウイルスだなんて。

病気なんかに負けたくないなあ。。そんな話を東京の生徒さんにしたらこんなやり取りに。

ぬえ「目に見えない、ってのが困りますよねえ」
生徒「ウイルスに色でもついていればね~」
ぬえ「そうなら殺虫剤をプシュー! ってね!」
生徒「見えたらそれも怖いですけどね。あっちこっちに緑やら赤やらのものがフワフワと。。」

伊豆「子ども創作能」の公開稽古

2020-10-10 08:01:50 | 能楽
コロナ禍のために出演機会がなくなってしまったのは伊豆の子どもたちも同様でして、彼らは2月に地元の「梅まつり」で市民の前で上演して以来、発表の場を失っています。

まずは4月に予定されていた恒例の「鎌倉まつり」公演。東京からお囃子方の先生の来演も願って、子どもたちにとっては1年で一番大きな上演機会ですけれども、「鎌倉まつり」自体が中止になりました。

夏は伊豆の国市の花火大会に合わせて開かれていたイベントに出演していましたが、これは一昨年に中止になってしまって、今年はその代わりに箱根での上演の計画を進めていたのですけれども、これも中止になってしまいました。

さらには秋10月に、こちらも恒例となっていた市内の「守山八幡宮」の祭礼での奉納上演。こちらは伊豆に流された源頼朝が崇拝していた由緒ある神社で、頼朝の創作能を演じる子どもたちにとっても意味ある上演だったのですが、こちらも祭礼自体が中止に。。 しかもこの神社の祭礼は去年は台風の直撃を受けて中止になっていて、2年連続しての中止となってしまいました。

神社には江戸期に大久保長安が当地に伝えた能が郷土芸能化した「三番叟」が残されていて、これと子ども能の競演も毎年意義深いと思っていたのですが残念です。

こうして2月の上演以来、子どもたちはもう8カ月も上演の機会を奪われてしまっています。仕方なく、上演の目標もないまま、せめて上演曲を忘れないために毎回配役を替えて稽古だけは続けています。

が、これが意外な盛り上がりを見せていまして、毎度みんな楽しそうにお稽古していますw

でも、ここで我慢できなくなったのが ぬえでして。とにもかくにも、子どもたちの上演に機会を与えてあげたい! しかも新規参加の児童もいるから、彼らにとっては参加はしたけれど、一度も舞台に立つチャンスがないのです。これではいけない。

要するに、人が集まるイベントは密を避けるために軒並み中止になっているので、これらのイベントに参加することを期待してはいけない。密を避けて、宣伝もなし、保護者のママさんたちだけが見る程度の無観客での自主上演をすれば良いのだ、と ぬえは思い当たりまして、市内にいくつかあるちょっとした野外ステージでのゲリラライブを行うことを考えつきました! これなら保護者以外にも、たまたま通りかかった市民の方にも見て頂けるかもしれない!

。。が。保護者からは慎重な意見が相次ぎ。。いわく「やはりこの時期に行うのは不安」「わざわざ上演して、かえって批判の目で見られるのではないか」。。なるほどごもっとも。。(-_-;)

で、またまた ぬえは考えまして、「公開稽古」というのを提案しました。これならどうだ。
つまり、毎々続けているお稽古をもっと拡充しまして、お囃子方はナシで普段の稽古通りに ぬえが拍子盤を打ちますが、子どもたちは装束を着けて本番のつもりで稽古をする。要するに「公開リハーサル」のようなものを行うのです。

これは保護者も賛成してくださって、「会場は室内なので換気に気を付けましょう」「椅子を離して並べて密を避ける工夫を」「受付を設けて見学者の名簿を作る」「保護者はスタッフなのでマスク着用。見学者にもマスク着用をお願いする」「検温器は私が用意できます」。。と次々にアイデアが出ました。

これなら最小限度の宣伝をして市民に見て頂くこともできるかも、という所まで来ましたので ぬえがチラシを作って、これは参加者だけに配布を任せて、参加児童のお友だちなどに配ってもらうようにしました。

こうしたわけで、このブログでも簡単に宣伝させて頂きます。子ども能の上演時間は20分程度しかないので、当日は ぬえも面や扇などを展示して開演時に簡単に説明などしてみようと思っています。お近くの方はぜひお出ましください!

【期 日】令和2年11月8日(日)14:00~15:00
【会 場】あやめ会館(長岡中央公民館)3F多目的ホール(静岡県伊豆の国市長岡346−1)
※観覧無料
※新型コロナウイルス感染予防のためマスク着用でご来場ください

伊豆の「観月の夕べ」は中止になりました

2020-10-05 17:38:22 | 能楽
毎年 仲秋の名月の夕に伊豆の名刹・国宝の願成就院さまで催しておりました「観月の夕べ」。今年は去る10月2日(金)に予定しておりましたが、やはり新型コロナウイルス問題の影響で中止になってしまいました。

この催しはお月見をしながらクラシック音楽と能を楽しんで頂く、というとってもロマンチックなイベントで、ぬえも楽しみにしていたし、また出来栄えに自信も持っていました。能の上演は音源を使ったデモンストレーション程度の略式ですし、音楽家のみなさんやスタッフさんも ほとんどボランティアのような形で協力を頂いてようやく開ける催しなのですが、お客さまには毎度大変好評を頂いております。

わけても伊豆で教えている「子ども創作能」の子どもたちにとっては能を見る唯一の機会で、それを狙ってイベントを続けている、という意味もあります。かつては薪能やホール能も行われていた土地なのですが、いまはどの自治体も財政難などの影響で能の公演はどんどん縮小の傾向に。。 伊豆でも例外ではなく、「子ども創作能」は、なんと「能を見たことがない子どもたちによる創作能」になってしまっているのです。。

これではいけない、ということで始めた「観月の夕べ」ですが、東北の被災地で何度か同じようなイベントを行った経験もありましたし、もともと ぬえがクラシック音楽ファンだということもって、音楽家の友人が何人かいたため そのご協力も得ることができました。音響や照明の器材については東北での活動で笛の寺井宏明さんがご自分で所持の器材を持ち込んでおられたのを見て、これは ぬえも自主的な催しのために買い揃えなければならないな、と考えて、寺井さんにもいろいろご教示を得て買いそろえていったものです。



なによりこの催しでは「子ども創作能」の参加児童がいろいろと設営や撤収を手伝ってくれますし、彼らを楽屋に招いて装束の着付けを見学させたり、子どもたちにも良い経験になっていたと思います。子どもたち、こういうクラシック音楽のイベントなのに騒ぐこともなく静かにお手伝いしてくれて、毎年 ホントに感心しています。普段の能のお稽古でも教えたわけではないのに、自然に体得しているのでしょうか。自慢の子どもたちです。とくに今年は新しく参加した児童もいるので、ぜひこの子たちに本物の能を見せてあげたかったです。

しかも今回はコロナ禍の下での上演でお客さまの減少も見込まれて苦しい運営が予想されたので、文化庁の助成金を申請していました。この助成金、ほかの助成金でも見られることですが、オンライン配信が強く意識されて推奨されていたり、感染対策のための用具の購入や客席担当係員の人件費などもかなり手厚く助成してくださるのですが。。肝心の申請者本人には一銭たりともお金を頂くことができない、という恐るべき助成金でして。。 それでも感染対策を講じるためにはありがたく、密を避けて万全の体制を持って上演に臨むべく、子ども能の主宰団体とともに共同申請を行いました。

出演の音楽家も、第1回目から参加してくださっているフルート奏者の うっちーや、去年から参加してくださっているバイオリニストの里千佳さんが今年も出演を快く承諾してくださり、今年は彼女たちのお子さんも出演させようという計画もあって、美しいお月見のほかにも楽しい上演になる計画でした。





が、チラシの印刷を始める直前に関係者に最終的な確認連絡をしていたところ、会場の願成就院さまから「やはり今年は中止にしたいと思う」とのご意見が。。

伺ってみると、願成就院さまがある地区では神社の秋祭りも中止になり、それどころか小さな子供会の催しまですべて自粛になっているそうです。そんな中で願成就院さまだけがイベントを行うのは地区の趨勢に逆らうことにもなり。。なるほど。。じつはその願成就院さまがある地区の神社の秋祭りとは、まさに子ども創作能も毎年奉納出演させて頂いているお祭りでして、しかも去年も台風の直撃を受けてお祭りが中止に追い込まれていました。地区のみなさんも満を持して今年は行わいたかったはずのお祭りも、やはりコロナ禍のいまは2年続いての自粛をせざるを得ない状況なのですね。そんな中での「観月の夕べ」の催行は、たしかにいかにも場違いな行動です。しかも主催者が東京者の ぬえだし。

そんなわけで、お楽しみになさっていた方も多いこの催しも、コロナ禍が終息することを信じて来年に盛大に行うことと致します。音楽家のお子さんたちも、子ども創作能の子どもたちにも、もちろんお客さまにとっても思い出にのこる美しい夕べにしてみせますとも!

5カ月ぶりの舞台

2020-08-26 22:21:45 | 能楽
新型コロナウイルス感染を避けて茨城県鹿嶋市に居を移して早5カ月になります。

去る8月8日に二子玉川ライズの屋上庭園で恒例の薪能が開かれました。ぬえにとっても3月11日の震災の日に石巻で能「龍田」を勤めて以来5カ月ぶりの舞台は能「石橋・大獅子」の前シテでした。久しぶりのお舞台でちょっと不安もありましたが、ミスもなかったし楽しく勤められました。

「石橋」は何度も勤めておりますがいつも半能で、前シテは初めてのお役。「大獅子」の小書がついて前シテは童子ではなく尉になるのですが、杖を突いて出るため、谷底を見込むなど気持ちを入れる場面で杖をぐっと突いて気持ちを込めやすいので、童子より有利かもしれません。それでも、「石橋」は前シテが童子の場合にも相当に重厚に勤めることになっていますので、尉となるとその上にさらに位取りを加えていくべきものであろうと思いますが、どうも。。声ばかりは元の調子に戻せず。。あまり自分でも気に入らない出来ではありました。

さて当日に会場に到着してまず、見所を見てびっくり。この、感染防止のためのいわゆる「ソーシャル・ディスタンス」を保った様子を見てください!





広い芝生の会場に2mの間隔を置いてまばらに並べられたパイプ椅子の客席。貼りだされていた座席表によれば、前後に招待席の区画が設けられていて、おそらく唯一有料の座席である「指定席」は わずか58席です。1度はこの公演も延期になったのですが、聞けばこの会場の持ち主である東急の社長さんが、こんな時期だからあえてこれ以上の延期や中止にはしないで、対策を十分にとった上で上演したい、という英断を下されたのだそうです。

しかし、これでは採算は取れない。。

この薪能は主催者が果敢な挑戦をしてくださいましたが、毎月、毎回となると難しいでしょう。ぬえの師家でも今月から感染防止対策を施したうえで月例公演を再開させましたけれども、これは公演不能となった春からの公演の延期公演という位置づけです。じつは延期公演というのは、催行不能となった公演の「やり直し」という意味だけではないのです。すでに前売り券を買って頂いたお客さまがいらっしゃるので、赤字であっても中止にはできないのです。中止すると払い戻しをしなければなりませんから。。

本当に怖いのは来年ではないかと思っています。もしもこのまま観客を定員の半分に削減しなければならない状態が続けば、能に限らず ほとんどの劇場での公演は採算が取れず、チケットの販売もできなくなるでしょう。

国や自治体は盛んに「オンライン配信」を勧め、報道も同じく有効な新しい発信方法だと伝えますが、果たして舞台芸術が本当にオンライン配信だけで生き残れるものでしょうか。少人数で上演できる狂言などは実際に有料オンライン配信を行っておられるようですが、出演者が多い能などでは出演料や会場費が配信だけで確保できるとも思いにくいですし、何より舞台芸術や音楽ライブなどというものは、映像では味わえない臨場感や、お客さまの前で演じるからこそ起きる、説明しにくいですが、高揚感とでもいうものによるのか、稽古の段階では得られない「成果」が舞台上に現れる、ということがあるものでしょう。

今は地謡の人数を減らしたり、お囃子方が少し着座位置を後ろに下げたり、またお客さまにもマスクの着用をお願いしたり、と感染対策をしながら、ようやく公演が少しずつ始まってきた段階ですが、能の長い歴史の中では今回のような疫病による危機は必ずあったことでしょう。その度になんとか乗り越えて今日のような上演の形態に戻されたのは確実なわけで、今回もいずれワクチンや特効薬が開発されれば、元のような公演に戻れる日が来ることでしょう。その日を信じて待ちたいと思います。。

喜びと悲しみと

2020-06-10 14:31:36 | 能楽
新型コロナウイルス問題で ぬえとしても、もう3カ月も舞台からも教室からも離れてしまいました。もちろんこんなに能から離れてしまうのは初めての経験ですが、師匠も先輩も初めてのことだそうです。

能楽師も「リモート稽古」で教室の維持を試みています。これも高齢の生徒さんは難しかったり、通信にどうしてもタイムラグが生じて難しい面もありますが。。そんな中、ようやく国の「緊急事態宣言」が解除され、尚早と言われながらも都が自粛緩和の「ステージ2」に移行したことで、教室だけは少しずつ再開の兆しが見えてきまして、ぬえも先日は伊豆の「子ども能」のお稽古を3カ月ぶりに復活する事ができました!

久しぶりの子どもたち。なんかちょっと見ないうちに背が伸びたような。
でも彼らも入学式や始業式だけ形ばかりやって、あとは自宅待機の日々だったそうです。そしてこの日お稽古を再開したけれども、この子たちには現在のところ出演の目標がないのです。。

いやそれどころか。。新中学生にとっては恒例の卒業記念公演になるはずだった4月の鎌倉公演が中止になったばかりか、その前にも去年の秋の地元での公演が台風の直撃によって中止になった経緯があり。あまりの不運。

この日から始まったお稽古も、次の公演の目標も不確定なまま同窓会のように集まって、上演曲目を忘れないように稽古を重ねることに致しました。





全員マスク姿で、なんとも異様な様子ですけれども。。 三密の回避にはまだ改善の余地ありですね。。

それでも中学校に進学した子には心ばかりのお祝いをあげて、稽古のあとは ぬえ所蔵の扇をたくさん持参して子どもたちに見せてあげました。上演の機会がないなら、その間にもっと能の基本的な型を教えたり、面装束に触れる機会を持つのでも良いですね。子どもたちも楽しそうで、ぬえも楽しませて頂きました!

さらに ちょうどこの時期は野生のホタルが見られるのを思い出して、夜になってから子どもたちの有志を誘ってホタルを見に行きました。少し蒸し暑いくらいが理想的なのですがこの日は夕方から涼しくなって、ホタルも ちらほらと舞う程度でしたが、なんか子どもたちとバカな話をしながら楽しみました!

。。さて。

この日、楽しみにしていた子どもたちのお稽古の前に、ぬえは伊豆でお葬式に参列しておりました。

指折り数えた子どもたちとの再会の直前に ぬえにもたらされたのは。。 もう10年も前に子ども能のメンバーだった女の子の訃報でした。

衝撃。この子のことはよく覚えています。まだ20歳すぎのはず。。亡くなった理由もわからないまま、お通夜と葬儀の日だけが伝えられたのですが、そのご葬儀は、まさかの、3カ月ぶりの子どもたちのお稽古のその日でした。

情報が少なく参列は無理だろうと諦めてはいましたが、伊豆に向かう前日に自分で検索を重ねた結果、式の場所と時間が判明して、短時間だけなら参列することができる、と気づいたのが夜中。翌朝早く起きて、この子が10年前に子ども能で活躍していた頃の画像を急いでCDに焼いて伊豆に向かいました。もう。。喪服を出す時間はなく。。

お葬式では、成人式のときのものか10年も見なかったこの子がいつの間にか美しく成長して、晴着姿で写った遺影が。。当時もちょっと大人びた感じのあった子でしたが、笑顔が素敵な写真でした。まだ23歳だったそうです。。

あ! 入口には今どきのお嬢さんらしくマスコットや仲間と一緒の写真が飾られていて。。その真ん中には子ども能で主役を勤めたときの写真が誇らしげに飾られていました。



この子が2年前から地方金融機関にお勤めをしていた事は弔辞などでようやくわかりましたが、誰に事情を尋ねることもできず、時間がきたので式の半ばで、受付に画像CDを預けて子ども能のお稽古に向かいました。

翌日、お父様からわざわざ会葬のお礼のお電話を頂きました。
気の毒とは思ったけれどご事情を伺ってみると、突然の心臓発作が原因とのこと。。前夜まで普通に家族と会話していたそうなのに。。電話口でお父様、泣いておられました。。

ぬえがどうやって葬儀のことを知ったのかお尋ねになりましたので、当時の子ども能のメンバーからお知らせが届きました、とありのままをお答えしました。ぬえに教えてくれた子は故人とは同学年ですが、子ども能に参加していた頃も違う小学校に通っていて、わずかに中学校の3年間だけは同じ中学に通っていたはずです。あとで聞けばこの子もその後高校に進んでからは故人と連絡も取っていなかったそうですが。。子ども能を卒業してもこのように ぬえと通信を続けている子も何人かいて、この度も知らせが ぬえにまで届いたのでした。

こうやって繋がりがある子のうち誰かから、いずれ結婚式のご招待を頂く日が来るかなあ、なんて楽しみにしていたのに。。まさかお葬式が先に来るとは思いませんでした。。

そういえばこの子には、同じく小学生時代に子ども能をやっていたお兄ちゃんがいて。。これも葬儀では見違えましたが、お父様によればいつの間にか結婚していて、葬儀では隣にお嫁さんも参列していたとのこと。。

いずれお孫さんができる日が来れば、ご両親にも幸せが訪れますね。。

ちーちゃん、安らかに。
あの頃しか知らないけれど、君は ぬえの宝物でした。

梅若研能会2月公演

2018-02-06 13:42:15 | 能楽
もう来週に迫ってしまいましたが、来る2月15日、師家の月例会「梅若研能会2月公演」にて ぬえは能『実盛(さねもり)』を勤めさせて頂きます。ここのところずっと序之舞を舞う女性の役ばかりだったのですが、今回は久しぶりの修羅能。。どころか流儀では「準九番習」として重く扱われる能『実盛』ぼお役を頂戴致しました。(゜;)

時宗の指導者である他阿弥上人が加賀国篠原に滞在して説法をしていると、熱心に日参して聴聞する老人がいます。不思議なことには老人の姿は上人以外の者には見えないのでした。上人は老人に名を名乗るよう促すと、老人は実盛の霊だと明かして篠原の池の汀に姿を消します。

その夜、上人が臨時の踊り念仏をして弔うと実盛の霊が現れ、阿弥陀仏を称えることにより成仏できるという教えを喜び、懺悔のためにかつての有様を語ります。

この篠原の合戦で平家が破れたとき、源氏の大将・木曽義仲の御前に畏まって手塚光盛が申し上げたことには、光盛は奇怪な武者と組んで首を討ち取りました。大将のようにも見えますがそれに続く軍勢もありません。また身分の低い侍かと思えば錦の直垂を着ております。名を問うても答えずに首を取りましたが、言葉は関東の者のようです。。これを聞いた義仲はさては実盛であろうと直感しましたが、歳のほどであれば白髪であるはずのところ黒髪なのを不審に思い、家臣の樋口次郎を呼んで首実検をすることになりました。

樋口は首をひと目見て涙を流し、この首が実盛のものだと断じます。彼によれば実盛が常に言っていたことには、六十歳を越えて合戦に出たら、若武者と先陣争いをするのも大人げない。また老武者だと敵にさげすまれるのも口惜しいこと。いざその時には鬢や鬚を墨で染めて若やいで出陣して討ち死にする覚悟だ。。樋口はこの首を洗ってみる事を提案し、近くの池の水で洗うと、果たして墨は流れ落ちて白髪の元の姿に戻りました。これを見た源氏の武者たちは、実盛の武者としての覚悟に感嘆し、みな鎧の袖を濡らすのでした。

また実盛が着ていた錦の直垂は、自身の功名心の故ではありませんでした。義仲討伐のため北国へ進軍する事になった平家軍の中で実盛は大将の平宗盛に向かってこう言います。故郷へ錦を飾る、という言葉があります。実盛は領地を賜って武蔵国の長井に住んでおりましたが元は越前の生まれ。このたびの北国での合戦は自分の故郷へ帰ることになります。この老武者は生きて陣に戻ることはないでしょう。老後の思い出のため、なにとぞお許しを願いたい。こう言うと宗盛も感じて、赤地の錦の直垂を実盛に賜ったのでした。

こうして故郷に錦を飾り、若やいで討ち死にする決意も成し遂げた実盛でしたが、やはり合戦に出たからは敵の大将・義仲を討ち果たすことが念願。それを手塚に阻まれたことは今に残る無念。そのとき実盛の前に立ち塞がった手塚に実盛は組もうとしますが、手塚の家臣は主人を討たせまいとさらに実盛に組み掛かります。これを容易く首を取った実盛でしたが、その隙に手塚は実盛に手傷を負わせ、さらに手勢も襲いかかって、ついに実盛は首を打ち落とされたのでした。

こうして篠原の土と還った、と語った実盛は上人に重ねての回向を頼んで姿を消すのでした。

 ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

能の多くの曲は作者が不明なのに対して、能『実盛』は世阿弥作であることが確実、しかも成立年代までおおよそ判っているという希有な例の曲です。世阿弥としてはやや後年に作られた曲であり、彼にとって自信作でもあったようです。

謡曲の中には明示されませんが、じつは実盛は敵将の木曽義仲の命の恩人でもあり、また後世の話になりますが、彼が遺した兜が現存していて、国の重要文化財となっていたり、この兜を見た松尾芭蕉が「むざんやな兜の下のきりぎりす」の有名な句を詠んだり、と話題も多い主人公ですね。

今回は時間がなくブログでの作品研究はできませんが、こうした話題も紹介しながら能『実盛』の見どころをお話する事前講座「能『実盛』みどころ講座」も開催させて頂くこととなりました。


どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 2月公演

【日時】 2018年2月15日(木・午後2時開演)
【会場】 セルリアンタワー能楽堂 <東京・渋谷>

 仕舞 野 宮   中村 裕

狂言 千鳥(ちどり)
     シテ(太郎冠者) 大蔵彌太郎
     アド(主人)   吉田信海
     アド(酒屋)   小梶直人

   ~~~休憩 15分~~~

能  実 盛(さねもり)
前シテ(尉)/後シテ(斉藤別当実盛) ぬ え
ワキ(遊行上人)福王和幸/間狂言(里人)大蔵基誠
笛 藤田次郎/小鼓 観世新九郎/大鼓 柿原弘和/太鼓 小寺真佐人
後見 梅若万佐晴ほか/地謡 青木一郎ほか

                     (終演予定午後4時30分頃)

【入場料】 指定席A6,500円 指定席B5,500円 学生席各席2,000円引き
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com


※事前講座※
能「実盛」みどころ講座
2月10日11:00~12:30
於:梅若万三郎家能舞台(東京都渋谷区西原1-4-2)
受講料:1,000円(研能会入場券購入者は無料)
講師:ぬえ

何某の院の物語…『夕顔』(その10)

2017-07-26 22:26:35 | 能楽
この、能『夕顔』のシテが天上して消える終曲のあたりは、同じ本三番目物の能の中でもかなり特異だと思います。多くの三番目物の能。。いや、曲柄に限らず多くの、所謂「複式夢幻能」では本性を現した後シテはワキ僧の回向に感謝しつつ、往時の出来事を仕方話として語ることによって懺悔としますが、このためについにシテが「往生を遂げた」という大団円で終曲を迎える能はそれほど多くないように思います。

『井筒』にしろ『東北』にせよ、こうした能の多くは僧の夢が覚めたところで終曲するのであって、主人公が僧の回向と本人の懺悔によって救済されたという印象は残るものの、本当に死後の安寧が主人公にもたらされたのかどうかには含みが持たせてあって、観客の想像に任されているのです。こうした能の終曲の場面は、静謐な能であるほど余韻が深まるので、能の作者は当然そこを狙ってこのような終曲を用意したのだと思われます。

一方、多くはないけれども、能『夕顔』のように主人公が成仏できた喜びを表して、浄土に? 赴く様を表して終わる曲もありまして、『江口』や『誓願寺』、『当麻』『海士』などがその部類に入ると言えると思います。じつはこれらの曲に共通した特長があって、それは主人公そのものの生死を物語るストーリーでありながら、その能のテーマが経文や、あるいは仏法そのものの礼賛にある曲で、少なくとも最後の場面ではそうした経や仏神が高らかに賛美されて終わるのです。

『夕顔』はこうした一連の能ともまた少し違っていて、あくまで僧の回向があり、シテはそれに帰依した事によって成仏するのであって、終曲部分では単純にその喜びを表現するという趣向になっていますね。僧が唱える具体的な経文の文句も『夕顔』には出てきません。しかし、シテが僧を頼りに仏の教えに帰依する、ということは序之舞の前にはっきり書かれていて、キリでは「雲の紛れに失せにけり」と、シテが昇天していく様子が描かれています。

まるでシテが菩薩に変身したかのような錯覚さえ覚える終曲部ですが、その前に「変成男子の願いのままに」とありますし、ワキも待謡でわずかに「法華読誦の声絶えず」と言っているので、ここは『法華経』に見える八歳の龍女が男性の姿となって南方無垢世界で成仏した、という説を念頭に置いているのでしょう。もっとも夕顔が男性や龍の姿に変身した、と読むよりは、やはり菩薩のような姿となったと解したいところですね。

閑話休題。

能『夕顔』については少々問題もあるようで、後シテが登場してすぐに「物の怪の人失ひし有様を現す今の夢人の跡よく弔ひ給へ」と言っているのに、実際には人。。すなわち夕顔上自身が物の怪によって命を奪われる件が舞台上で表現されない、という指摘があります。

これについて、ぬえも最初は同じような疑問を持っていたのですが、じつは後シテが登場した姿が、そのまま「人失ひし有様」。。つまり犠牲者のそれなのですよね。実際には若女の面を掛け、長絹に緋大口という優美な姿で後シテは登場しますから、印象としては凄惨な姿を想像することは出来ませんが、後シテは続けて「見給へ此処もおのづから気疎き秋の野らとなりて」と言い、ワキも「池は水草に埋もれて。古りたる松の蔭暗く」と同調すると、さらにシテが「また鳴き騒ぐ鳥の嗄声」と言い、ワキが「さも物凄く思ひ給ひし」と夕顔の心を気遣っています。

この「気疎き秋の野ら」「池は水草に埋もれ」というのは『源氏物語』の中で源氏と夕顔が「何某の院」に早朝に到着し、日が高くなった頃に起き出して格子を上げて見た庭の光景で、また「鳥の嗄声」は夕顔が物の怪に襲われて人事不省になったときに源氏が聞いた梟の声です。

すなわち後シテが登場した場面は、場所こそ「何某の院」ではありますが、ワキ僧が訪れた時から一気に時間が遡ったように、源氏と夕顔とが愛を語らいあった、そして物の怪が夕顔を襲った「あの時」の様相が現前したのでした。

これを見てワキは「さも物凄く思ひ給ひし」。。「さぞ恐ろしく思われたことでしょう」と夕顔を気遣ったわけで、そう考えてみると、じつは後シテは実際の舞台に現れる優美な姿ではなく、命を奪われた苦しみの姿で登場した、と考えることができます。実のところシテ自身も「心の水は濁り江に引かれてかかる身となれども」と言っているわけで、物の怪を遠回しに言った「濁り江」に引かれて「かかる身」。。この世ならぬ身となった姿を現したと考えるのが自然でしょう。

そうであれば定めの取り合わせに逆らう事にはなりますが、後シテの面装束には工夫の余地があるかもしれません。

が、作者の狙いは陰惨な夕顔の死の事件の再現にはありませんね。
こうしてワキ僧の前に夕顔の死は示されたわけで、「物の怪の人失ひし有様を現す今の夢人」というシテの言葉に矛盾はないことになります。

そして、そこからシテは気持ちを変えて「かかる身となれども、優婆塞が行ふ道をしるべにて。来ん世も深き契り絶えすな」と言います。これは前述の通り、夕顔邸で夜を明かした源氏が、明け方に夕顔を「何某の院」へと誘うときに詠みかけた歌で、原作では近所から聞こえてくる行者・御嶽精進の礼拝する声に自分の夕顔に対する思いを重ねて、来世も深い契りを結びたいものだ、と言っているのですが、能では御嶽精進をワキ僧に置き換えて、シテはその教えに帰依し来世に導く便りとしよう、と自らに向かって言っているのです。

すると。。このあとに置かれた序之舞はシテ夕顔がワキ僧の弔いを神妙に受けている姿なのであって、能でシテが舞う理由としてしばしば挙げられる「報謝の舞」というものよりも、ずっと精神的なものだと考えるべきだと思います。

考えてみれば夕顔が僧の弔いに感謝して。。「舞を見せる」のは不自然ですよね。ここは僧の教化をありがたく受けている姿と考えたいです。

さらに序之舞が終わるとシテが言う言葉も「お僧の今の弔ひを受けて数々嬉しやと夕顔の笑みの眉」。シテは僧の弔いによって成仏できることが限りなく嬉しいのです。ですからこの序之舞は、最初は有難く読経を聞く敬虔で静かな心であり、その後だんだんと、浄土に生まれる確信を得て喜ぶ心なのでしょう。序之舞は『夕顔』の場合10~15分も掛かりますが、これほど長い舞の場合、途中からシテの気分が変わってくる、ということは能ではままある事です。長い舞の中でシテの心情の変化を表現するのは簡単ではありませんが、そのような心持ちを忘れずに舞いたいと考えています。

何某の院の物語…『夕顔』(その9)

2017-07-21 03:30:08 | 能楽
後シテは若女の面が建前となっていますが、増を使うこともあります。装束は長絹に緋大口の姿。長絹は夕顔の花の色の印象から白地を選ぶ演者が多いと思いますが、もう少し工夫の余地はあるように思います。

後シテ「さなきだに女は五障の罪深きに。聞くも気疎きものゝけの。人失ひし有様を。現す今の夢人の。跡よく弔ひ給へとよ。とワキヘ向き
ワキ「不思議やさては宵の間の。山の端出でし月影の。ほの見え初めし夕顔の。末葉の露の消え易き。本の雫の世語を。かけて顕し給へるか。
シテ「見給へ此処も自づから。気疎き秋の野らとなりて。
ワキ「池は水草に埋もれて。古りたる松の蔭暗く。
シテ「また鳴き騒ぐ鳥の嗄声身に沁み渡る折からを。
と面伏せて聞き
ワキ「さも物凄く思ひ給ひし。
シテ「心の水は濁江に。引かれてかゝる身となれども。
とワキへツメ足
シテ「優婆塞が。行ふ道をしるべにて。と正へ向き
地謡「来ん世も深き。とサシ込ヒラキ 契り絶えすなとシテ柱にクツロギ 契り絶えすな。 と正面に向き これより序之舞

後シテも ひたすら動作が少ないですねー。ぬえの経験としても後シテが登場して舞にかかるまでにシテ柱から動かないまま、というのは初めての経験かもしれません。『井筒』が同じようにシテ柱から動かないけれど、「形見の直衣。。」あたりに型もありましたが、『夕顔』ではワキとの問答の中から舞に移ってゆく感じです。

序之舞でようやく動き出すシテ。可憐な夕顔がシテでありながら、能『夕顔』はひたすら重厚に、彼女の恋というよりは その死に焦点を当てたような曲ですね。この場面も夕顔が舞を舞う、というよりは僧の弔いに対する報謝として描かれていると思います。

やがて序之舞が終わると終曲に向かいます。

シテ「お僧の今の。弔ひを受けて。とワキヘ向き
地謡「お僧の今の弔ひを受けて。数々嬉しやと。と正へ出
シテ「夕顔の笑みの眉。とヒラキ
地謡「開くる法華の。
シテ「英も。
とツマミ扇にて扇を前へ上げ
地謡「変成男子の願ひのまゝに。 と左へ廻り、解脱の衣の。袖ながら今宵は。何を包まんと とワキの前でヨセイ、言ふかと思へば音羽山。 と正へ出、嶺の松風通ひ来て。 と脇座の上の方を見回し、明け渡る横雲の と雲ノ扇にて見上げ、迷ひもなしや。東雲の道より と脇座よりサシにて舞台を大きく右に廻り、法に出づるぞと。暁闇の空かけて とシテ柱にて正へヒラキ、雲の紛れに。失せにけり。 とトメ拍子踏み幕へ引く

夕顔が舞を舞う。。前述したように、これは報謝の舞ではありますが、それはそのまま夕顔が僧の弔いに感謝してダンスを見せた、という訳ではないでしょう。ぬえは、ここは本来「イロエ」を舞う心なのだろうと解釈しています。

本三番目物、鬘物の能の定石として能『夕顔』にも序之舞が置かれており、ここまで動きの少ない能であれば、この序之舞が唯一 この能の見どころという事になりますが、この舞は夕顔上が実際に舞ったのではなく、僧の弔いに感謝を述べ回向を受けている、ということを舞台芸術として視覚的に表現した、と解するべきだと思います。

夕顔の感謝の気持ちと、僧による教化を敬虔な気持ちで受けているはずのこの場面であれば、この舞はこの夕顔の心の動き、と読むべきでしょう。とすれば実際には ゆったりしたテンポでノリのない囃子、動作の方が似合うはずです。拍子に合わない囃子による舞というものは能の中にはないと思いますが、これに一番イメージが合うのが「イロエ」なのです。

イロエはごくゆったりと地を打つ大小鼓と、拍子に合わずに演奏される笛による舞ですが、いまひとつ定義が定まっていません。ときに太鼓が参加する「イロエ」もありますが、シテ方では太鼓が入った場合は「イロエ」と称せず「立廻り」と言う方が多いのですが、『歌占』や『百萬』のそれには太鼓は入らないのにシテ方でも「立廻り」と唱えますし、『巻絹』は太鼓が入るのに「イロエ」。このように同じ舞をシテ方と囃子方とでは呼び方が違う場合さえあるのです。

上に「舞」と書きましたが、「イロエ」でのシテの動作には 積極的な意味はない場合がほとんどです。静かに舞台を一巡する程度で、多くは主人公の心の揺らぎとか、茫洋とさまよう動作を表します。これに対して「立廻り」には動作に積極的な意味がある場合が多く、前述の『百萬』では母親が生き別れた我が子を探す動作です。シテ方はこの動作に意味があるかないかで「イロエ」と「立廻り」を区別している、とも考えられますが、その基準に合わない場合もあって、結局このふたつの定義は曖昧だと言わざるを得ません。

能『夕顔』でこの場面に「イロエ」ではなく「序之舞」が舞われるのは、台本全体の中では後場が短いので「イロエ」ではバランスが取れない、ということもありましょうし、やはり格式を備えた本三番目物の能として、重量のある「序之舞」が必要だった、ということもあるでしょう。

しかし、序之舞が置かれているから、と言って舞踏としての舞を舞うのは、この曲の場合そぐわないはずです。あくまで僧に対する感謝と、仏法に帰依する敬虔な気持ちの表現であるべきでしょうね。

もうひとつ、ここに序之舞が置かれた理由として ぬえが考えることがあります。それは10分近くにおよぶ序之舞の長さ。この中でシテの心情は変わってきています。

それを如実に語るのがキリの冒頭。。つまり序之舞を舞い上げたシテが発する最初の言葉です。「お僧の今の弔ひを受けて、数々嬉しやと夕顔の笑みの眉。。」 シテは弔いに対する感謝だけではなく喜びを表していて、これが能『夕顔』のひとつの特長であると思います。

それどころか夕顔のシテは成仏までをも果たしているのですね。地謡「変成男子の願いのままに解脱の衣の袖ながら今宵は何をつつまん」。。シテがワキ僧に対して包み隠すことがありましょう、というのは、その回向によって成仏できた喜びのことで、この曲の終盤は主人公が成仏する清浄な世界と、その法悦にひたるシテの喜びに満ちあふれています。終曲は「雲の紛れに失せにけり」という文句で、主人公は昇天して消え失せるのですよね。

何某の院の物語…『夕顔』(その8)

2017-07-19 04:15:14 | 能楽
中入で前シテが幕に入ると間狂言の里人が登場してワキと問答します。

(注)以下の詞章は大蔵流に拠る「かやうに候者は。都五条辺りに住居する者にて候。この間は久しく何方へも出で申さず候間。今日は東山の辺りへ参り心を慰まばやと存ずる。いやこれに見慣れ申さぬお僧の御座候が、何処より何方へ御通り候ひて。この所にて休らふて御座候ぞ。
ワキ「これは豊後の国より出でたる僧にて候。御身はこの辺りの人にて渡り候か。
間「なかなかこの辺りの者にて候
ワキ「左様に候はゞ。まず近づ御入り候へ。尋ねたい事の候。
間「心得申して候。さて御尋ねありたきとは、如何様なる御用にて候ぞ
ワキ「思ひも寄らぬ申し事にて候へども。光源氏の古。夕顔の上の御事につき。様々子細あるべし。御存知においては語って御聞かせ候へ。
間「これは思ひも寄らぬ事を御尋ねなされ候ものかな。我等もここには住ひ候へども。左様の事詳しくは存ぜず候さりながら。およそ承り及びたる通り、物語り申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候。
間「さる程に。夕顔の上と申したる御方は。三位中将殿の御息女にて御座ありたるが。さる仔細ありて。人目を包み深く忍びてこの五条辺りに御座ありたると申す。あるとき源氏、六条の御息所へ通ひ給ひ。この辺りを御通りありしに。何処ともなく上臈の歌を吟ずる声聞こえしかば。源氏不審に思し召し。しばらく佇み給ひけれども。定かに所も知れず候間。そのまま帰らせ給ひ、またある夕暮れに。惟光の方へ御出あり。門前に御車を立てられ。辺りを御覧ずれば。小家に夕顔這い掛り。花も盛りなるを御覧じて。御随身にあの花取って参らせよと宣へば。御随身小家に立ち寄り。花を折りて帰らんとすれば。内よりも童を出し。暫く御待ち候へとて。白き扇のつま いとたうこがしたるに歌を書いて。是に添へて参らせ給へとありければ。御随身請け取って惟光へ渡されければ。惟光源氏へ参らする。源氏御覧ずれば。一首の歌あり。
心あてにそれかとぞ見る白露の 光りそへたる夕顔の花
とありしかば。源氏の御返歌に
寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見ゆる花の夕顔
と遊ばされ。夫よりとかく言ひ寄り給ひ。深く御契りなされたると申す。頃は八月拾五夜の御事なるに。源氏この所へ御出であり。夕顔の上に宣ふ様は。この辺りは何とやらん物凄敷く見え候とて。何某の院へ誘ひ給ひ。あけの夜不思議なる御事ありて。夕顔の上は空しく成り給ひたると申す。是と申すも御息所の御業の様に皆人申し習はし候。惣じて源氏などの御事は、上つ方に御沙汰ある御事なれば。委細は存ぜず候。
間「まづ我らの承りたるは斯くの如くにて候が。只今の御尋ね不審に存じ候。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀に非ず御身以前に。女性一人来たられ。夕顔の上の御事只今御物語の如く懇ろに語り。何とやらん由ありげにて。そのまま姿を見失ひて候よ。
間「これは言語道断 不思議なる事を承り候ものかな。それは疑ふ所もなく。夕顔の上の御亡心にてあらうすると存じ候。夫れを如何にと申すに。筑紫より御上りと承り候へば。玉鬘の御縁にひかれ顕れ給ひたると存じ候。左様に思し召さば。暫く御逗留ありて。有難き御経をも御読誦なされ。重ねて奇特を御覧あれかしと存じ候。
ワキ「近頃不思議なる事にて候ほどに。暫く逗留申し。有難き御経を読誦し。かの御跡を懇ろに弔ひ申さうずるにて候。
間「御用の事候はば。重ねて仰せ候へ。
ワキ「頼み候べし。
間「心得申し候。


源氏と夕顔のなれそめが、まず源氏がたまたま五條を通りかかった時に家の内より歌を吟ずる声が聞こえてきた、というのは能『夕顔』の中で前シテが登場するときにワキが言う言葉とも一致し、間狂言の語りでは、その時は「源氏不審に思し召し。しばらく佇み給ひけれども。定かに所も知れず候間。そのまま帰らせ給」うた、となっていますが、これは『源氏物語』には見えない話です。

もうひとつ、源氏に命じられて随身が夕顔邸に咲く花(夕顔)を手折ると、家の中より童が出て扇を参らせますが、この扇の描写を能では「白き扇のつま いたうこがしたりしに」と書いていますが『源氏』では「白き扇の いたうこがしたりしを」という表記です。

細かいことですが、前者。。能では「つま」が追加されているわけで、「つま」とは「褄」。。すなわち「端」を意味する言葉です。これは着物の褄など現代でも使う言葉ですが、扇の場合は広げた扇の角を言い、我々の世界では普通に使う言葉です。

ところが意味の上では「褄」の語の有無はかなり違ったものになり、「白き扇」を「こがしたる」のであれば、これは香を焚きしめた、という意味になり、「褄こがしたる」のであれば、これは白一色の扇なのではなく、広げた扇の左右(あるいは一方の)の角が赤く染められた。。というように解釈され、そのまま想像すればその扇には褄だけでなく扇面に雅やかな絵が描かれているという印象を観客に与えると思います。

『源氏物語』の扇の描写は、あくまでも純白の扇であり、これは清楚で可憐な夕顔の上を象徴する小道具として用意されたものでありましょう。ところが能の作者はこれを極彩色の、とまでは言わないものの、にぎやかな図が描かれた扇と解釈して、「褄」を追加しました。これは能の作者にとって、もとより扇を主要な小道具とする能に登場する扇が白一色の無地の扇という設定にするのに抵抗があったのかもしれませんね。

間狂言が橋掛リの狂言座に退くと、ワキとワキツレは「待謡(まちうたい)」という謡を謡い、月下に読経して夕顔を弔う法事を行います。

ワキ/ワキツレ「いざさらば夜もすがら。いざさらば夜もすがら。月見がてらに明かしつゝ。法華読誦の声絶えず。弔ふ法ぞ誠なる 弔ふ法ぞ誠なる。

これに付けて囃子方が「一声(いっせい)」という登場音楽を奏し、やがて後シテ・夕顔の霊が現れます。

何某の院の物語…『夕顔』(その7)

2017-07-15 00:15:17 | 能楽
惟光は夕顔の遺骸を東山の知りあいの寺に預け、翌日には葬儀をする手配を済ませたこと、右近は絶え入るばかりに嘆き悲しんでいることなどを伝えます。源氏はもうひと目だけ夕顔の遺骸に対面したいと願い、惟光は困ったことだとは思いながら仕方なく、急いでお出かけになって夜更け前にお帰りください、と言ってお供をするのでした。

東山の寺に着くと源氏は夕顔の遺骸の手を取って「我に今一度、 声をだに聞かせたまへ」と嘆き悲しみ、同じく悲嘆に暮れる右近には二条邸に身を寄せるよう言うと、惟光にせき立てられて二条邸に戻ります。途中、悲しみのあまりに馬から落ちるほどだった源氏は惟光に助けられながらようやく二条邸に戻ると、そのまま床についてしまいました。

源氏重病の知らせは内裏はおろか天下の人の大騒ぎとなり、帝はじめ左大臣家などでもお祓いや祈祷が行われ、これを聞いた源氏は強いて気を強く持ち、これが功を奏したのか次第に回復してゆきます。ようやく源氏が床を離れたのは、ちょうど夕顔の三十日間の忌が明ける日でした。源氏は宮中の宿直所まで出かけますが、このときも左大臣は源氏の参内のためにわざわざご自分の車を用意したのでした。

さてすっかり回復された九月二十日頃、気分ものどかな夕暮れに、源氏は二条邸に留まっている右近を側近く召して、夕顔について語り合います。

夕顔が名乗らなかったことについて、夕顔はふとした機縁で結ばれた源氏との仲を夢のように思い、また源氏が名乗らなかったので、戯れ事にしか過ぎないのかもしれない、とお悩みの様子でした、と右近は話します。源氏は自分も名を隠すつおりはなかったのに、つまらない意地の張り合いだったと後悔し、改めて夕顔の本名を右近に問います。

しかし右近は、隠すつもりはありませんが、あの方ご自身が包み隠されたことを、その亡き後に軽々しく申し上げるのが憚られまして。。と言葉を濁して、その代わりに夕顔の、前述したような生い立ち。。三位中将の娘で、両親には早くに死別し、ふとした事から三年ほど頭中将と契ったが、右大臣家から厳しい言葉がかけられたため、夕顔は恐ろしさに姿をくらましてしまった。遺された子は西の京の夕顔の乳母に預けてある。。が語られ、源氏は薄々は感じていながらも、ここでついに頭中将が言った「常夏の女」こそ夕顔であったことを確信するのでした。

空が曇って冷たい風が吹くのを寂しそうに眺めていた源氏は

見し人の煙を雲と眺むれば 夕べの空もむつましきかな

と詠みますが右近は返歌も差し上げられません。あの五条の夕顔邸で朝に聞いた庶民の喧噪もいまは懐かしく思い出されて源氏は伏せってしまいました。。

。。

久し振りに『源氏物語』をじっくり読んでみましたが、いやはや読みにくい。。
謡曲を読める人なら鎌倉時代以降の文章はまずほとんど問題なく読めると思いますが、中古国文学は読解からして難しいですね。

さて長々と『源氏物語』「夕顔」巻を紹介したのは、能『夕顔』の多くの部分。。とりわけクセの文章が、この「夕顔」巻の描写を多く取り入れている。。というよりは、「夕顔」巻をすでに読んでいることが前提になって書かれているからです。

あらためて能『夕顔』のクセの詞章と現代語訳をご紹介しますが、「夕顔」巻を知らないと、到底理解できる文章ではありません。

地謡「物の文目も見ぬあたりの。小家がちなる軒の端に。咲きかゝりたる花の名も。えならず見えし夕顔の。折すごさじと徒人の。心の色は白露の。情置きける言の葉の。末をあはれと尋ね見し。閨の扇の色異に互ひに秋の契りとは。なさゞりし東雲の。道の迷ひの言の葉も。この世はかくばかり。儚かりける蜉蝣の。命懸けたる程もなく。秋の日やすく暮れ果てゝ。宵の間過ぐる故郷の松の響きも恐ろしく。
シテ「風にまたゝく灯の。
地謡「消ゆると思ふ心地して。あたりを見れば烏羽玉の。闇の現の人もなく如何にせんとか思ひ川。うたかた人は息消えて。帰らぬ水の泡とのみ。散り果てし夕顔の。花は再び咲かめやと。夢に来りて申すとて。ありつる女もかき消すやうに。失せにけり かき消すやうに失せにけり。


【現代語訳】
地謡「分別もない卑しい者たちの小さな家が並ぶその軒に咲く花の名もこの上なく見えたその夕顔を手折らせると、その折を逃さずに浮気性な女が心ざしは浅いが情けのこもった歌を詠みかけたのを面白いと思い、通うようになったが、班女の閨の扇とは違って深い契りを誓って東雲の道の歌を詠み交わしたところ、この世はこのように蜉蝣のように儚いもので命をかけて契った甲斐もなく秋の陽は早く暮れ、宵を過ぎる故郷の松が恐ろしい音を立てて
シテ「灯が風にまたたいて
地謡「消えたかと思うとあたりは闇となり、今まで生きていた人もはかなくなり、どうしようかと思い惑っているうちに川面の泡のように息を引き取った。その水の泡と消えた夕顔の花は二度と咲くことはないのだ、と夢の中に参って申しますと言うと女はかき消すように姿を消した。


夕顔上が「浮気性」とは、ちょっとイメージと違うかもしれませんが、「折すごさじと徒人の」の主語は源氏ではないですね。そもそも源氏と夕顔のなれそめというのが、夕顔から源氏に「心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花」と歌を詠みかけたのが最初で、能『夕顔』の表現も この積極的な夕顔の行動を念頭に置いているのでしょう。

ところで内気でナイーブな夕顔が本当に自分から源氏を誘ったのか? については古くから論じられてきたところで、たとえばこの歌は頭中将の来訪と誤解して詠まれたものだ、とか(この説はこのあとの「夕顔」巻の展開から考えて不自然ではありますが)、この歌は夕顔自身ではなく、彼女を取り巻く女房たちが、頭中将の代わりに自分たちの女主人が頼りにすべき男と見定めて、その仲立ちのために贈ったのだ、とか。。

ともあれ、能『夕顔』。。の全般的に言えることではありますが、特にこのクセは「夕顔」巻の言葉を散りばめて王朝文学のニュアンスを醸しだすように工夫して作られているように思います。そしてシテはクセの前半は着座したままの所謂「居グセ」で、まさに『源氏』を物語る。。考えようによれば『源氏』の舞台化を意図して作られているのではないかとも思えるのです。

とは言いながら、この能は本三番目としては略式に作られていて、クセの後半ではシテは立ち上がり、ワキに向かって「夕顔の花はもう咲かない」と悲劇的な彼女の結末を、僧の夢の中に現れて申したのだ、と言うと姿を消します。

このあたり、ちょっと他の能とは違う行き方で、シテはワキに弔いを頼みませんね。執心を残しているという感じもなく、断定的に「(死んでしまった)夕顔はもう戻らない」と、いわば吐き捨てるかのように言って消えてしまう。。お客さまには、クセで語られた詳細な夕顔の物語が、激しい言葉で突然打ち切られたかのような印象を与えるのではないかと思います。

本三番目能の定式では、クセで語られた物語のあとにロンギが置かれ、シテはじつは私こそ この物語の本人なのだ、と明かすと、弔いを願って姿を消す、という段取りを踏むのですが、『夕顔』では主人公は変死したのであり、いわば源氏との愛の絶頂の瞬間に彼との愛も、自分そのものの命も、突然失うという急転直下の不幸に突き落とされました。

この曲にロンギがなくクセで中入になるのも、ひとつには重厚なこの能が無駄に長大になるのを避ける目的が作者にあったのかもしれませんが、もうひとつ考えられるのは、このように突然に幸せを断ち切られた夕顔の数奇な最期とその悲しみを表現するために、シテとワキが言葉を交わす落ちついたロンギを避けて、夕顔の恋から死へ至る物語をあえて急停止させるように仕組まれているのかもしれません。

何某の院の物語…『夕顔』(その6)

2017-07-14 01:59:08 | 能楽

源氏は次第にこの女が頭中将が言った「常夏の女」なのかもしれない、と考えるようになり、それならばこのままお互いに素性もわからないままで逢瀬を続けると頭中将の場合と同じように夕顔が自分の前からこの女が姿を消してしまうかもしれない、と不安を感じるようになりました。一度は自分の邸宅へ迎えることも夕顔を誘いますが、夕顔ははぐらかすようにこれを断ります。

八月十五日、満月の光も隈なく照らす夜、もう暁が迫って周囲の貧しい家々から生活の物音が聞こえ始めると、源氏は騒々しさに閉口して、夕顔を「いざ、ただこのわたり近き所に心安くて明かさむ」と誘います。やはり急なことで夕顔も困りますが、源氏が自分の事を真剣に思ってくれていることを感じて、頼りに思っても良いのかと不安を感じながらも、今度は誘われるままに右近を召して源氏の車を邸内に引き入れました。

折ふし近くの家で御嶽精進(吉野の金嶺山神社に参籠する前に行う精進修行)の声が「南無当来導師」と弥勒菩薩を称えるのがしみじみと聞こえてきます。源氏はこれにたとえて

「優婆塞が行ふ道をしるべにて 来む世も深き契り違ふな」

と、来世まで契ることを夕顔に約しますが、なお夕顔は不安な気持ちを「前の世の契り知らるる身の憂さに 行く末かねて頼みがたさよ」と返歌をします。

明け方の美しい空の下、源氏は躊躇する夕顔を軽々と車に乗せ、右近もこれに同乗しました。こうして源氏と夕顔は「そのわたり近きなにがしの院におはしまし着」くことになります。能『夕顔』に「紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院と書きて。その名をさだかに顕はさず」と言うのがこれですね。

荒れた門には忍草が生い茂り、また茂った木によって邸は薄暗い様子です。霧も深く露けき中、門の前で邸の管理人をを呼び出す間に源氏は夕顔に「いにしへもかくやは人の惑ひけむ 我がまだ知らぬしののめの道」と詠みかけますが、夕顔は恥じて

「山の端の心も知らで行く月は うはの空にて影や絶えなむ」

と、なお源氏の真意をはかりかねる様子です。ほのぼのとあたりが見えはじめる頃に御座所が整えられ、源氏と夕顔は邸に入ります。

。。日が高くなった頃 源氏は起きあがると格子を上げて庭の様子を見ました。ひどく荒れて人影もなく、木立は気味悪く鬱そうと茂っています。まるで秋の野らと変わるところがなく、池も水草が覆ってしまって恐ろしげな有様です。

夕顔も怯えた様子ではありますが源氏を頼った風で、これを見て源氏は夕顔に名を問います。しかしそこは夕顔も心を許さず「海人の子なれば」と言葉を濁してしまいます。源氏も自分を「われから(藻に住む虫)」に擬して、二人はあるいは恨み、あるいは語らい、一日をそこで過ごします。

夕方。。たとえようもなく美しい空を眺めながら、二人はずっと添い伏しています。夕映えが照らす顔をお互いに見つめて、幸福を感じる二人。しかし。。

宵が過ぎて二人が少し眠りかかった頃、ふと枕元に美しい女が座っているのを源氏は見咎めます。

「私がこれほどお慕いしていますのに、こんなどうともない女を寵愛なさるとは悔しくつらい」と女は言うと夕顔を引き起こそうとします。源氏はすぐに起きると灯も消えています。源氏は太刀を抜くと魔除けのために枕元に置き、それから右近を起こしました。

右近も怖がっていて、渡殿にいる宿直人を起こして紙燭を持って来させるよう源氏が言いつけても役には立ちそうもなく、右近に夕顔のことを託すと源氏は自ら西の妻戸に出て渡殿を見ると、そこも灯が消えています。

風が少し吹き、仕える者はみな眠っている様子。源氏が呼ぶと管理人の息子の若い男が起き出してきたので、紙燭を点して来ること、また随身にも弓を打ち鳴らして絶えず音を立てるよう言いつけました。夕方に源氏の行方を尋ね当ててこの邸に来ていた惟光も、お言いつけがないので暁にお迎えに参ります、と言って帰宅したようです。

人々も起き出してきて、源氏は寝室に戻ります。夕顔ばかりか右近までもが恐ろしさに伏せっている有様。暗がりの中で源氏が夕顔を探ってみると、息をしていません。管理人の息子が紙燭を持ってきたので近くに取って見ると、枕元に先ほどの女が幻のように現れて、ふっと消え失せます。

右近が泣き惑うなか、身の危険も省みず源氏は夕顔を起こしますが、夕顔の身体は「ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果て」ています。源氏は夕顔をかき抱いて「あが君、生き出でたまへ。いといみじき目な見せたまひそ」と嘆きますが、先ほどの男に命じて惟光やその兄の阿闍梨を呼ぶよう命じます。

いつの間にか夜中も過ぎたようで、風が荒々しく吹き、松風の響きも木深く聞こえて、異様なしわがれ声の鳥の声は これが梟というものかと思われます(このあたりの描写は能『夕顔』にも反映されていますね)。右近は源氏にひしとしがみついたままで、こうしてようやく夜が明けてきたところに惟光が到着すると、源氏もようやく安堵して泣き出します。

惟光の兄の阿闍梨は前日に比叡山に帰ってしまっていて読経は果たせず、惟光は醜聞から逃れさせるため源氏を二条邸に帰すことにします。夕顔の亡骸は上等な敷物に包んで車に乗せて、右近も同じ車に付き添いますが、このとき源氏は遺骸をくるんだ敷物の端から夕顔の髪がこぼれ落ちるのを見て目がくらみ惑って、最後まで付き添いたいと思いますが、惟光が馬を参らせて二条邸に帰りました。

二条邸の女房たちは帰宅してそのまま伏せってしまった源氏を不思議がり、一方内裏からは前の日に姿が見えなかったのを心配した帝の使いが源氏を訪れ、左大臣家からも公達の御子たちが次々に見舞いに訪れる騒ぎ。これらには「ふとしたところで穢れに遭ったので」と言い訳をして、日暮れになってようやく惟光が参上しました。

何某の院の物語…『夕顔』(その5)

2017-07-12 11:19:07 | 能楽
『源氏物語』「夕顔」巻では、ここでいったん話題が変わって、「夕顔」巻のすぐ前の「帚木」「空蝉」で描かれた、空蝉の物語になります。

有名な「雨の夜の品定め」の翌日、左大臣邸を訪れた源氏は本妻の葵上とどうも打ちとけ難く、方違えと称して紀伊守の邸宅に泊まります。そこに紀伊守の父・伊予守が迎えた若い後妻が来合わせており、夜に紛れて源氏はこの後妻。。空蝉の部屋に忍んで「年ごろ思ひわたる心のうちも聞こえ知らせむ」と言って強引に契りを持ったのでした。

そのうえ源氏は空蝉のまだ幼い弟・小君を自分の邸の召使いとして召して、空蝉との仲を取り持つよう命じます。ある日、小君は紀伊守が任国に下った隙を見て、源氏邸に通うための自分の車に源氏を乗せて紀伊守邸に誘います。折節来ていた紀伊守の妹の軒端荻と碁を打つ空蝉の姿を垣間見た源氏はその夜 小君の手引きで寝室に忍び込みますが、それと気づいた空蝉は薄衣の単衣だけを着たまま寝室を抜け出します。

それと知らずに女と添い寝をした源氏でしたが、その相手は先ほどの軒端荻でした。どちらもそれと知って驚き、源氏は空蝉を恨めしく思いますが、「この人の、 なま心なく若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情け情けしく契りおかせたまふ」と。。軒端荻とも契る源氏。 それでも空蝉が脱ぎ捨てて寝室に残された小袿を持ち帰ると、自邸でこの小袿を寝床に入れて眠るのでした。

。。ああ、なんだか疲れてきた。ここまでは「夕顔」巻のすぐ前にある「帚木」「空蝉」の段のお話で、「夕顔」巻では夕顔の素性を知るよう惟光に命じたあと、この空蝉の事が再び語られるのです。

なんとここで空蝉の夫である伊予守が都に帰ってきました。伊予守はすぐに源氏に挨拶に参上し「娘(軒端荻)をしかるべき人に嫁がせて、自分は家内(空蝉)と一緒に任地に下ろうと思っています」と言います。源氏は心乱れて。。そりゃそうだ。一方空蝉もこのまま源氏に忘れ去られるのも悲しく思って、源氏の手紙に細やかな返事を書きます。。ええっ? 源氏もこれを見て「つれなくねたきものの、忘れがたきに思す」そうです。さらに軒端荻については、たとえ夫が決まっても源氏に心を許しそうに思えたので「とかく聞きたまへど、 御心も動かずぞありける」。。

。。現代であればこの浮気性の源氏は女性の敵と思われるのでしょうが、『源氏物語』は紫式部。。つまり女性が書いたのよねえ。

さてさて、これらの空蝉の挿話のあと、「夕顔」巻は再び夕顔上の物語に戻り、そして彼女と源氏の恋から、その翌朝に物の怪に襲われて夕顔が命を落とす、能『夕顔』の中心的な物語でもあり、「夕顔」巻のクライマックスに話が進んで行きます。ああよかった。

秋になり(旧暦ですから7月から秋)、左大臣邸では葵上へ源氏が通うのが途絶えがちになっているのを恨めしく思っています。一方 六條御息所も思い詰める性格で、源氏との年齢の差なども気にして煩悶を続けていました。それ、見たことか。

それでもある夜、源氏は御息所に通っていました。夜が明ける頃、深い霧の朝、御息所にせかされて源氏が寝室から出ると、御息所に仕える女房の中将の君がお帰りのお見送りのために従います。源氏は眠たげでしたが、中将の君と一緒に渡廊を歩いていると、ふいに足を止めて中将の君の姿をしげしげと眺めて「鮮やかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり」と見ると、そばにある高欄に腰を掛けさせました。黒髪のかかる有様も美しいと感じた源氏は中将の君に恋の歌を贈り。。

。。さあ、きりがないので先に進みましょう!

さて惟光は例の夕顔の家の女主人について源氏に報告しました。「あいかわらず主人については家人もひた隠しにしていて、その正体は知れません。牛車が近づくと若い女房たちが誰が来たかとのぞき見をするようですが、あるとき頭中将が通られる、と女房たちが騒いで、右近と呼ばれる大人びた女房が呼びにやられました」

右近は夕顔上の側近くに仕える女房で、のちに夕顔の死の際もそれを目撃することになります。一方ここであの日源氏の車が近づくと女房たちが簾越しにのぞき見していた理由がだんだんと分かってきます。女房たちは女主人に通うべき男が来るのを心待ちにしていたのです。そして、どうやらその男は頭中将であるようです。

ネタばれですが、ここで夕顔上が何者であるのかを見ておきましょう。夕顔が亡くなった後に源氏は右近に問うて、次のような事情を聞かされることになります。

夕顔は三位中将という方の娘で、娘を大変に可愛がった両親は早くに亡くなってしまいました。その後夕顔はふとした事から三年ほど頭中将と契りましたが、その事実は頭中将の妻の知るところとなり、妻の実家である右大臣家から夕顔に厳しい言葉がかけられたため、夕顔は恐ろしさに宿を引き払い姿をくらましてしまいました。一昨年には子もできていたのですが、それは西の京に住む夕顔の乳母に預けてあるのです。。

これを聞いて源氏もようやく頭中将が「雨の夜の品定め」(「帚木」巻)で言っていた「常夏の女」というのが夕顔のことだったのだと知ることになります。頭中将は「雨の夜の品定め」で夕顔のことを、こう話していました。。親もなく心細い様子で、自分を本当に頼りにしている様子はいじらしいものだった、右大臣家から厳しく言われたことは知らないままで久し振りに通っても音信のなさを恨むでもなく、しかし悲しげな様子で「涙をもらし落としても、いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して」いた、そうしてある日突然女は姿を消してしまった。幼い子もできていたため頭中将は心乱れますが、つらさを表に出さず平気な装いであった彼女の本心を見抜けなかった頭中将は「益なき片思ひなりけり」と思い、今でも彼女を捜しているが、ようとして行方は知れない。。

「夕顔」巻のこの場面ではまだ、夕顔は頭中将を心待ちにしているらしい、という事が源氏にはぼんやりと見えてきただけですが、先に惟光が「物憂げに手紙を書いていた」と源氏に報告したのも、また源氏が大弍の乳母邸の門前に車を寄せたときに隣家の夕顔邸から簾越しに女房たちがのぞき見たのも、じつは心ならず別れることになった夕顔が、いまだに頭中将を想い続けているからでした。

ともあれ、惟光も夕顔邸の女房に言い寄って家の様子もわかっており、いろいろと算段をして、ついに源氏を夕顔の許に通わせることに成功します。

このあたりも不思議な場面で、自分の許に通いはじめた源氏が女の素性を尋ねても、女は一切自分のことを語ることをしません。それで源氏も自分の顔を隠して、素性がわからないようにわざとみすぼらしい格好で、惟光のほか少ない従者だけを連れて、自身は馬に乗って通う有様。夕顔の方でも源氏の素性を知ろうと、文を持ってきた使者の跡をつけさせたり、暁に帰る源氏のあとを追わせたりしましたが、これも途中で見失って果たせぬ始末です。

こうしてお互いの素性はまったくわからないままに源氏は頻繁に夕顔を訪れ、二人の不思議な恋は燃え上がるのでした。

何某の院の物語…『夕顔』(その4)

2017-07-09 01:27:44 | 能楽
能『夕顔』では要所しか描かれていないものの、源氏と夕顔の出会いから別れまでの経緯を、ここでちょっとおさらいしておくと。。

源氏が五条の大弍の乳母の家に到着すると、門は閉ざされていました。そこで供の者を門内に差し向け、源氏の腹心の家来である惟光(これみつ)を呼びます。惟光は大弍の乳母の子で、源氏とは乳兄弟の間柄。この惟光を待つ間に源氏は牛車の中から ふとその隣家を見ると、かたわらに新しい檜垣をしつらえ、半蔀を吊り上げた内には美しい額の女たちが何人もの涼しげな白い簾を透かしてこちらを見ているのが見えます。

源氏はお忍びの渡りなのでみすぼらしく、お供もない車に乗っていましたので、少し気を許して車の簾からさし覗いて見たところに。。彼の目に白い花が飛び込んできたのでした。

「えならず」。。尋常でない美しさで「おのれひとり笑みの眉開けたる」。。その咲く花の名を源氏は知りませんでした。そこで『古今集』の「うち渡す遠方人に物申す我そのそこに白く咲けるは何の花ぞも」と口ずさむと、お供をしていた随身がひざまづいて「あの白く咲ける花を夕顔と申します」と教えました。そうと知った源氏は「口惜しの花の契りや」。。気の毒な定めの花だ、というと随身に「一房折りて参れ」と命じます。

さて随身が門の中に入ってひと枝を手折ると、邸の内からかわいらしい女童が出てきて随身をうち招き、香を焚きしめた白い扇を与えて「この扇に載せて参らせなさい。枝も風情のない花ですから」と、主人の言葉を伝えます。

そのとき大弍の乳母の家からちょうど惟光が出てきたので、随身が手折った花と隣家の女主人から贈られた扇は惟光の手によって源氏に渡されました。惟光の登場により、源氏が本来ここにやって来た用件。。大弍の乳母の見舞いが優先されることになり、源氏は扇を持ったまま、その車は大弍の乳母邸の門内に引き入れられることになります。

邸内には惟光の兄の阿闍梨などの親族も集まっていて、往生を願って尼の姿になっていた大弍の乳母と対面した源氏は、養育してくれた礼を言い、乳母はそれをもったいない事と畏れて互いに涙ぐみます。

重ねて祈祷などを行うよう言って、やがて源氏は乳母邸を辞しますが、そのとき惟光に紙燭を持って来させて、源氏は先ほどの扇をご覧になります。

 心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花

なんとその歌は、車に乗って現れ、姿こそやつしているものの、貴公子は紛れない姿を推量して「光さまではありませんか?」とそれとなく問う内容でした。それも「そこはかとなく書き紛らはしたる」。。自分の素性は判らないように わざと筆跡を書き紛らわせている、というのです。

隣家の主人に興味を覚えた源氏は惟光に隣人のことを問いますが、惟光はなにも知らなかったので、なお乳母邸の者に聞くように命じると、「地方の役人の家で、その主人は田舎に行っています。この家に住むのはその若く派手な事が好みの妻で、女房勤めなどをする姉妹がよく出入りしています」との答えでした。

源氏は先ほど簾越しに外を見ていたのはこの女房たちであるかと納得します。それにしても自分を見透かしたような歌をよこした女主人を憎からず見過ごし難く思った源氏は、さらに主人の素性を探れと言いつけ、懐紙を取り出して、こちらもわざと字を紛らわせて返歌を詠みます。

 寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見つる花の夕顔

もっとお側に寄らないとお互いによくわからないでしょう。。 さすがっス。源氏兄貴。

これが源氏と夕顔のファースト・コンタクトですが、しかもアニキは、先ほどの随身に命じてこの返歌を届けさせると、「御心ざしの所」。。お目当ての場所。。乳母の病気見舞いよりも本来の目的の場所。。六條御息所の家に通いに行ったのでした。さすがっス。

ちなみにアニキは。。当時まだ17歳っす。夕顔がこのとき19歳。六條御息所が24歳。。みなさんお若いのに、なんと利発な。。

御息所の家で少し寝過ごして、朝日が射し入る頃に退出した源氏は、帰る途中に夕顔の家の前を通りかかりました。すると、昨日の歌の贈答の一件で心惹かれて、「どんな人が住んでいるのだろうか」と、その後はこのあたりを通るたびに源氏はこの家に目がクギヅケになるのでした。。そうですか。もう何も言いますまい。。

数日が経って惟光が源氏のもとに参上し、乳母の見舞いへのお礼を申し述べると、言いつかっていた隣家の女主人のことを話しました。どうやらこの五月頃から滞在しているらしい女主人の素性は、その家に仕える者たちにも知らせない有様とのこと。それでも惟光が心をつけて見ていると、この前の日の夕方、なにやら手紙を書いている主人の横顔が見えました。物憂げな横顔はとても美しかったです。

あ、言っちゃったね。惟光。

惟光はさらに、周囲の女房たちも忍び泣いている様子でした。と報告します。なにか不幸なことが女主人のもとに起こったに違いないのに、源氏は。。

うち笑みたまひて、「知らばや」と 思ほしたり。

もっと彼女の事が知りたい、と微笑んだのでした。

。。

さらに惟光は「なにか分かることがないかと存じ、ちょっとした機会を作って恋の歌を贈ってみました。優れた女房がついているらしく、すぐさま返歌が来ましたよ」

。。ええっ!?

源氏はそれを聞いて「そうか。もっと言い寄れ。尋ね寄らないでは(求めて得られないのでは)物足りない気持ちになってしまう」

。。ああ、もうよく分からなくなってきました。

何某の院の物語…『夕顔』(その3)

2017-07-04 12:09:32 | 能楽
シテが言う「何某の院」とは融の時代とは隔たった後の世に『源氏物語』に書かれ、光源氏が「上なき思ひ」。。この上なく恐ろしく悲しい思いをした夕顔急死事件の現場に来合わせたと知り、興味をかき立てられます。

ワキ「嬉しやさては昔より。名に負ふ所を見る事よ。我等も豊後の国の者。その玉鬘のゆかりとも。なして今また夕顔の。露消え給ひし世語りを。語り給へや御跡を。及びなき身も弔はん。

ワキが「玉鬘のゆかり」というのは、玉鬘が夕顔(と頭中将の)娘であり、母の死後、乳母に従って筑紫に下ったこと。。豊後ではないにしろ、九州で育ったことを、ワキが豊後の出身であるために「ゆかり」と言っているのでしょう。あえて関係を求めれば、美貌に育った玉鬘が肥後の大夫監(たゆうのげん)に求婚を強いられたとき、乳母の長男である「豊後の介」が、自分の家庭をふり捨てて乳母や玉鬘を都に逃がした事も関係しているかも。

いずれにせよワキはこの場所が『源氏物語』の「夕顔」巻の舞台であることに感慨を覚えて、シテに夕顔の物語を語り聞かせることを所望し、僧の身として亡き夕顔を弔うことを約します。。かくして複式夢幻能の常套。。すなわちワキが主人公の詳しい物語をシテから聞き、その語り手たるシテこそ実は主人公その人であることが明かされるや消え失せ、ワキはその主人公の成仏を願って弔いをし、やがてそれを感謝して主人公が後シテとして 在りし日の姿で現れる。。という図式が成立することになります。

シテ「そもそも光源氏の物語。言葉幽玄を本として。理 浅きに似たりといへども。
地謡「心菩提心を勧めて義 殊に深し。誰かは仮にも語り伝へん。
と、シテは舞台中央に着座し
シテ「中にもこの夕顔の巻は。殊に勝れてあはれなる。
地謡「情の道も浅からず。契り給ひし六條の。御息所に通ひ給ふ。よすがに寄りし中宿に。
シテ「たゞ休らひの玉鉾の。
地「便りに。立てし御車なり。


語釈を進めながら舞台進行を見てゆくために、少し本文をこま切れにしなければなりませんが。。それにしても動きが少ない能ですね。シテはワキとの問答が終わると、ようやく動き出したかと思うと、夕顔のことを語るためにすぐに着座して動かなくなってしまうのです。

『源氏物語』が「言葉幽玄を本(もと)として理浅きに似たり」だというのは、要するに叙事的ではなく叙情的な散文というような意味だろうと思いますが、古くは「優」「艶」と評されていた『源氏』が盛んに「幽玄」と評されるのは中世になってからのようで、「心菩提心を勧めて」というような中世的な表現を見るにつけ、やはり能『夕顔』は中世の作者の視点から描かれていることが窺えます。

とはいえ文章そのものは『源氏』から採っている部分が多くて、中古文学の世界を舞台に表現しようとする作者の意図が見え隠れします。『源氏』の「夕顔」巻の頃、光源氏は十七歳くらい。その当時は2歳年上の六條御息所のもとに通っていました。その六條のもとに通う「よすがに」は「ゆかりに、ついでに」という程度の意味、「中宿」は休憩場所で、「たゞ」は「ほんの」、「玉鉾」は「道」の意味(道の枕詞だったのが道そのものを表すように転じた)、「便りに」はやはり「ゆかりに」、「立てし御車」は牛車を停めることです。はあ、難解な文章だ。

それにしてもこの部分。。<クリ><サシ>と呼ばれる小段は興味深い文章ですね。『源氏物語』を題材とする能は多いと思いますが、それらの曲は『源氏』が虚構の小説であることは無視して、あたかも登場人物が実在している現実の物語として上演したり(『葵上』『住吉詣』など)、それどころか小説を離れて、主人公の幽霊が昔物語をする(『野宮』『半蔀』など)という趣向で作られています。

これは『源氏』に限らず、『平家物語』などほかの古典文学から題材を得ている能でも同じことで、基本的に舞台芸術というものは、本説を持っていても、それが虚構であるかどうかには触れずに、その物語世界を「現実」であるかのように舞台化し、その上で主人公の言葉や動作を通じて新たな解釈を付け加えてゆくものでありましょう。その意味で前述の『野宮』『半蔀』などの能も『源氏』の登場人物を現実の者として描いているわけで、『葵上』『住吉詣』などの「現在能」と本質的には替わるものではなく、その延長上に位置していると言えるでしょう。

ところが『夕顔』は、『野宮』などと同じように『源氏』の登場人物を登場させていながら、一方ではこの<クリ><サシ>で『源氏』を文学作品として捉えていて、なおかつ「夕顔」巻を「勝れてあはれ」と批評しています。ちょっと観客を煙に巻くような文言で、その後は何事もなかったように夕顔を現実に現れた人物として描いているので、少々混乱を招く表現でしょう。

この<クリ><サシ>は作者の筆が滑っただけなのか? いや、そうではないかもしれません。総じて能『夕顔』は大変難解な文章表現で、それが多く『源氏』本文の引用を巧みに能の文章として翻案してあるのが大きな特徴です。作者は『源氏』に傾倒して愛読していた様子が想像されますし、また作者が文学的に大変高い教養と才能を持っていることを窺わせます。そんな作者だからこそ、不用意にこの<クリ><サシ>を書いたとは考えにくく、あるいは『源氏』が小説であることを知っている観客の気持ちに添った一文を書き足したのか、また逆に虚構と現実との狭間にわざと観客を誘い込んで混乱させる意図があったのかもしれません。

地謡「物の文目も見ぬあたりの。小家がちなる軒の端に。咲きかゝりたる花の名も。えならず見えし夕顔の。折すごさじと徒人の。心の色は白露の。情置きける言の葉の。末をあはれと尋ね見し。閨の扇の色異に互ひに秋の契りとは。なさゞりし東雲の。道の迷ひの言の葉も。この世はかくばかり。儚かりける蜉蝣の。命懸けたる程もなく。秋の日やすく暮れ果てゝ。宵の間過ぐる故郷の松の響きも恐ろしく。

現在では京都駅がかつての八条にあるので、五条や六条は大変なにぎわいですが、かつて御所を中心とした時代の都ではこのあたりは下賎な者が多く住む僻地でした。「物の文目(あやめ)も見ぬ」とは「分別もわからない」、「小家がち」とは貧しい小さな家が建ち並ぶ様子で、『源氏』にも「いと小家がちに、 むつかしげなるわたりの、このもかのも、怪しくうちよろぼひて」と書かれています。余談ですが「何某の院」。。融の「河原院」があった場所とされている現在の「枳殻邸」は鴨川より少し西側。。鴨川と東本願寺との中間あたりにありますが、京都市内を東西に横切る「六条通」というものは現在は残っていません。ほんの短い、そして東西に正しく向いていない小路が「枳殻邸」の北側にある程度。

そんな「むつかしげなるわたり」に源氏が行ったのは、もちろん六條御息所に会うためでしたが、偶々源氏の乳母であった「大弍(だいに)の乳母(めのと)」が重い病に伏せっている見舞いのために五条の家を訪れたからで、夕顔の家はその大弍の乳母の隣家でした。