ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

何某の院の物語…『夕顔』(その2)

2017-07-03 01:43:37 | 能楽
シテは「山の端の。。」の歌を一之松で謡うと、次いで以下のように謡いながら舞台常座に歩み行きます。

シテ「巫山の雲は忽ちに。陽台のもとに消えやすく。湘江の雨はしばしばも。楚畔の竹を染むるとかや。

言葉の意味が難しいですね。総じて『夕顔』の詞章は難解ですが。。ここの「巫山の雲。。」というのは楚国の懐王が巫山で見た夢の中で神女と愛し合い、神女は「旦(あした)には朝雲と為り、暮には行雨と為りて、朝朝暮暮、陽台の下におらん」と王の側に寄り添うことを誓った、という故事。「湘江の雨は。。」は、古代中国の伝説的な名君・舜が亡くなったとき、妃の娥皇と女英の二人が悲しんで湘江に身を投げ、彼女たちの涙雨がかかったため、斑竹の表面には斑紋があるというお話です。

どちらも女性からのひたむきな愛情を表すお話ではありますが、『夕顔』で「巫山の雲」が「陽台のもとに消えやすく」となっているのは、源氏との愛を全うできずに死を迎えた彼女の運命の故に、「雲」を移ろいゆくものの象徴として捉えて、本来の意味とは変えて、この文章の全体の意味としては恋の破綻の悲しみを謡っていることになります。

いずれにせよシテが一之松で謡う「山の端の。。」和歌は、ワキの言う「あの屋端より。女の歌を吟ずる声の聞え候」という心でしょうし、その後「巫山の。。」と謡いながら舞台に入るのは、彼女の独白でしょうし、そうしながら、どこからともなく聞こえた歌の主が ワキの前に姿を見せた、という意味でしょう。しかし実際には橋掛リを歩んでくるシテの姿からは、家の軒で歌うという風情はわかりにくいかもしれませんね。

そこで、この場面を視覚的に表現する演出として「山ノ端之出」という小書があります。この小書のときは能の冒頭に藁屋の作物を大小前に出し、前シテはその中に入っています。ワキとワキツレは道行の終わりに脇座へ行き立居、そこにシテが「山の端の。。」と謡い出して、これを聞いたワキは作物に向き「不思議やな。。」と謡う、という趣向で、ほかにもシテが「巫山の雲は。。」をこのワキの謡のあとに謡ったり、上歌「つれなくも。。」は地謡が謡ったり、と常の演出と比べて違いはいくつかありますが、要するに「家の中から歌が聞こえてくる」というワキの言葉に視覚的に合う演出でしょう。

もっとも、シテが作物に入って登場するとなると、今度はその作物から出てくるタイミングが難しくなりますね。「山ノ端之出」ではクリで作物を出ることになっていますが、能『夕顔』は居グセの曲ですから、作物から出たシテは数歩前に出ると再び着座することになります。ただでさえ動きが少ない能ですから、少なくとも橋掛リを歩むことがない分だけでも、この小書ではさらに動きが少なくなることになりますが。。

シテは舞台常座に止まるとなおサシ、下歌、上歌を謡います。

シテ「此処は又もとより所も名も得たる。古き軒端の忍草。忍ぶ方々多き宿を。紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院とばかり。書き置きし世は隔たれど。見しも聞きしも執心の。色をも香をも捨てざりし。
シテ「涙の雨は後の世の。障りとなれば今もなほ。
シテ「つれなくも。通ふ心の浮雲を。通ふ心の浮雲を。払ふ嵐の風の間に。真如の月も晴れよとぞ空しき空に。仰ぐなる空しき空に仰ぐなる。


「忍ぶ方々多き宿」とは。。まるで人目を忍ぶ恋をする人々がしばしば利用する邸であるかのように読めてしまいますが、この場合の「方々」は「さまざま」という意味でしょうね。「忍ぶ」を「偲ぶ」と考えれば、後にシテがこの邸が源融の「河原院」だ、と言うので、「さまざまな昔の栄華の有様が想像される場所」という解釈もできそうですが、「様々に忍ぶ恋のいわれがあった所」と読めば。。すなわち源氏と夕顔上の逢瀬とその後の夕顔の急死という、この能が描く事件が観客に最初に暗示されてるのであろうかと思います。

シテは続けて、「紫式部が”何某の院”と書いた場所ではあるけれど、それも遠い昔の話。しかし(それを実際に体験した私=夕顔=が)見聞きした、その恋の色香をも忘れることができない」と、現れた女が成仏できていない夕顔であることを暗示します。

「涙の雨。。」は、その恋の執心のために後生。。後の世に至る、その生涯となって、今も。という意味。

「つれなくも」は、「素っ気ない」という意味ではなく「変化がない」で、「今も昔のように(源氏との逢瀬を忘れられずにこの場所に)通っている自分の心が憂いに思う。そんな浮雲のような心に強い風が吹いて妄執を吹き払ってくれ、仏の悟りを表す月が現れてください、と願って虚しく空を眺めています」。。というような意味です。ああ、難解な詞章だ。。

これらの独白が終わったところでワキはシテに声を掛けます。

ワキ「いかにこれなる女性に尋ね申すべき事の候。
シテ「此方の事にて候か何事にて候ぞ。
ワキ「さてこゝをば何処と申し候ぞ。
シテ「これこそ何某の院にて候へ。
ワキ「不思議やな何某の山何某の寺は。名の上のたゞ仮初めの言の葉やらん。又それをその名に定めしやらん承りたくこそ候へ。
シテ「さればこそ初めより。むつかしげなる旅人と見えたれ。紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院と書きて。その名をさだかに顕はさず。然れども此処は古りにし融の大臣。住み給ひにし所なるを。その世を隔てゝ光君。また夕顔の露の世に。上なき思を見給ひし。名も恐ろしき鬼の形。それもさながら苔むせる。河原の院と御覧ぜよ。


「何某の院」が源融の河原院である、ということは『源氏物語』には明記されておらず、夕顔の邸があった五條の「そのわたり近きなにがしの院」としか書かれていません。これを能『融』でも有名な「河原院」とする説は『源氏物語』の古注に拠るもので、その古注は能が大成された室町期まで遡れるようですから、能『夕顔』の作者はこのような古注の影響の下に能『夕顔』を作ったのでしょう(現在までの研究では特定するまでに至っていないので”作者不明”。。従って能『夕顔』の成立年代も確定はされていませんが。。)

河原院を作った源融は、紫式部よりは100年近く昔の人で、光源氏のモデルと考えられています。融は嵯峨天皇の皇子で臣籍降下して源姓を賜りました。頼朝などとは別系の「嵯峨源氏」で、この家系は名前が一文字であることが特徴です。歌人の「源順(みなもとのしたごう)」や、頼光の四天王と呼ばれた渡辺綱などもみな名は一字ですね。風流人だった源融の行状が光源氏のモデルとなった、というような曖昧な印象ではなく、源光という名前が嵯峨源氏を想定したものであったのはおそらく間違いのないところでしょう。

その融が作った壮大な邸宅・河原院はいまの甲子園球場の2倍近い広さがあったそうで、融の死後は維持が難しく、いくばくもなく荒廃してしまい、『今昔物語』では物の怪が住む廃墟として描かれています。紫式部が河原院の廃墟を見たのかどうかはわかりませんが、河原院は六條にあり、夕顔が住んでいた家は五條にあったという設定ですから、「そのわたり近きなにがしの院」とも符合します。重ねて言えば『源氏物語』の中で、これは夕顔巻からはずっと後のことですが、光源氏が構えた邸宅が「六條院」。。あながち『源氏物語』の古注の説が間違いとは言い切れないのかもしれません。

何某の院の物語…『夕顔』(その1)

2017-07-01 03:22:31 | 能楽
さて毎度 ぬえが勤める能の曲について鑑賞のための見どころと、舞台進行の解説をさせて頂いております。今回の『夕顔』は詞章が難解なうえに動きが少なく、難しい能のひとつではないかと思いますが、調べるほどに人生を見つめる作者の冷徹な目が感じられて。。ぬえは『夕顔』を臈たけた「大人の能」というイメージで捉えています。こういう能もあるんだな~

さて舞台に囃子方と地謡が着座するとすぐにワキが幕を上げて登場、それを笛が「名宣笛」と呼ばれる譜を吹いて彩ります。

ワキは所謂「着流し僧」で、従僧(ワキツレ)が通常二人、ワキに引き続いて登場しますが、ワキ方福王流ではワキツレは登場せず、「一人ワキ」という場合もあるようです。

ワキ「これは豊後の国より出でたる僧にて候。さても松浦箱崎の誓も勝れたるとは申せども。なほも名高き男山に参らんと思ひ。この程都に上りて候。今日もまた立ち出で仏閣に参らばやと思ひ候。

ワキツレを従えている場合はワキは舞台中央で名乗り、ワキツレは橋掛リに下居て控えます。一人ワキの場合は通常のように舞台常座で名乗りになり、以下の謡もずっと常座で謡います。次いで「サシ」という小段をワキが謡うと、橋掛リに控えていたワキツレも立ち上がって舞台に入り、ワキと向き合って三人で「道行」を謡います。

ワキ「たづね見る都に近き名所は。まづ名も高く聞えける。雲の林の夕日影。映ろふ方は秋草の。花紫の野を分けて。
ワキ/ワキツレ「賀茂の御社伏し拝み。賀茂の御社伏し拝み。糺の森もうち過ぎて。帰る宿りは在原の。月やあらぬとかこちける。五条あたりのあばら屋の。主も知らぬ所まで。尋ね訪ひてぞ暮しける 尋ね訪ひてぞ暮しける


豊後国(いまの大分県)から石清水八幡宮参詣のために都に上った僧は、連日あちこちの寺社に詣でています。北山にほど近い雲林院、紫野。そこから東山の方面に歩いて賀茂宮、糺の森へ行き。。徒歩ではかなりな距離だと思いますが、そのうちにたどり着いたのが五條。あとの文言を見るに、ここは五條ではなく六條のはずではありますが。

ワキ「急ぎ候程に。これは早五条あたりにてありげに候。不思議やなあの屋端より。女の歌を吟ずる声の聞え候。暫く相待ち尋ねばやと思ひ候。

ワキは「急ぎ候程に」は正面。。見所に向かって謡うのですが、その後「不思議やな」は幕の方。。このあとシテが現れる方向に向かって謡います。そのところ、ワキ方下掛宝生流と高安流では「急ぎ候程に」~「ありげに候」の部分。。所謂「着きゼリフ」と呼ばれる本文を欠き、すぐに「不思議やな。。」という文句になるので、「道行」の終わりにワキとワキツレは位置を入れ替わり、ワキツレはすぐに地謡の前に行って着座し、ワキは舞台中央またはシテ柱のそばまで行って幕の方へ向かい「不思議やな。。」云々を謡ってから脇座に着座します。

ワキが着座すると、大小鼓は「アシライ」を打ち、やがて前シテが登場します。「アシライ」は大鼓と小鼓が交互に「三地」という手を打ち続けるもので、ほとんどの能の中で、たとえばシテとワキの問答や「サシ」という拍子に合わない長文の叙述の場面で彩りとして演奏され、登場音楽として使われる場合は「アシライ出し」と言われますが、例はあまり多くはありません。また「アシライ出し」で登場するのはほとんどが前シテの登場の場面で、『夕顔』のほかにはこの曲と姉妹曲のような『半蔀』、また『砧』『巴』『熊野』『草子洗小町』など。。それでも意外に人気曲がありますね。後シテの登場としては『大原御幸』が唯一の例ではないかと思いますが。。

「アシライ出し」は、ぬえは登場音楽としては人物が登場するにあたって明確な意志や性格づけが希薄なものだというイメージを持っています。ふと、いつの間にかそこに現れた、とか、茫洋とさまよい出た、といった風情。前述のように「アシライ」は問答やサシの彩りとして多用されますが、そういう時には謡われている文言の叙事的な補強というよりは、むしろ場面の雰囲気を醸成する。。言葉は悪いがBGM的な使われ方をしています。「アシライ出し」もその延長と考えられ、積極的に登場人物のキャラクターを主張する、というよりは、透明感を持ってその人物がそこに「存在」する、ということを叙情的に描写する、という音楽であろうと思います。

付言しますと、この「アシライ出し」、登場音楽でない「アシライ」では笛が参加することはないのですが、登場音楽「アシライ出し」のときにはちょっと様子が違っています。笛の流儀により、一噌流では参加しませんが、森田流は笛が彩りを添えてくださいます。ぬえは『砧』を勤めた時に思ったのですが、ここはお笛があると ぐっと引き立ちますね。もとより叙情的な登場のしかたでもあり、「アシライ」ではなく登場音楽である、という区切りがあると、演者としても出やすいということはあるのではないかと思います。

シテ「山の端の。心も知らで。行く月は。上の空にて。影や絶えなん。

登場した前シテの扮装は典型的な里女のそれで、唐織の着流し姿です。面は流儀の決まりでは若女、または深井、小面とありますが、若女よりは少し凛々しい。。増でも似合うと思います。大人の能ですから(笑)

前シテは一之松に止まると上記の詞章を謡い出します。この和歌が、そのまま『夕顔』の能の”意味”というものを体現していますね。これは夕顔上が詠んだ歌で、8月16日の夜明け、源氏が「何某の院」に夕顔を誘い出したとき、その門前で源氏が詠みかけた歌の返歌です。

一般的には「山の端」が源氏の心で、その本心も知らないままに誘われて行く夕顔が「月」と解されています。上の空で月影が消えてしまうかも。。夕顔の不安が表されているこの歌ですが、事実、この日のうちに夕顔は物の怪に襲われて落命してしまうのですよね。。

僧が聞きつけた「女の歌を吟ずる声」は、まさに死を予感したかの歌だったのです。
『源氏物語』の研究では「予感」ではありえないでしょうが、中世に作られた能『夕顔』は、当時の『源氏』の解釈の上に成り立っているわけでもありますし、また能『夕顔』の作者は この歌に夕顔の運命を読み、ひょっとしたらこの歌一首が契機になってこの能を作ったのかも。

ともあれ、この歌ひとつ取っても能『夕顔』は語句の難解が鑑賞の大きな壁ではありますね。

梅若研能会7月公演

2017-06-30 02:42:10 | 能楽
来月…7月29日、師家の月例会「梅若研能会7月公演」にて ぬえは能『夕顔(ゆうがお)』を勤めさせて頂きます。去年 能『六浦』を勤めましたが、今回も同じ序之舞ものです。ところが『六浦』とはガラッと雰囲気が違う『夕顔』。かたや草木の精で太鼓序之舞を舞うのに対して、こちらは太鼓の入らない「大小序之舞」を舞い、そして主人公は『源氏物語』の登場人物である夕顔の上なので雰囲気が異なるのは当然なのですが、「姉妹曲」とも言うべき能『半蔀』と比べてしまうからか、重厚な本三番目鬘能という印象がある能です。

九州・豊後から石清水八幡宮を詣でるために都に上った僧(ワキ)が滞在中にあちこちの仏閣を巡るある日、五條に立ち寄ると、とある家の軒端から歌を吟ずる声が聞こえてきます。現れた若い女性(前シテ)にこの場所を尋ねると「何某(なにがし)の院」と答えます。僧は不審しますが、女は「紫式部がそう書いたのがこの場所なのでそう答えたのだが、じつは古く源融の大臣が住んだ”河原院”で、その後 光源氏が夕顔を鬼に取られて失ったでもあるのです」と教えます。さては名所に来合わせたのか、と喜ぶ僧の求めに応じて女は夕顔の上と光源氏との恋物語や、それがはかなくも夕顔が命を落としたことで破綻したことを語り、その夕顔の花は再び咲くことはないことを僧の夢の中に現れて語りましょう、と言うと姿を消してしまいます。

女が夕顔の上の霊と確信した僧はその夜、月の下に法華経を読誦して弔うと、果たして夕顔(後シテ)が現れ、自らが死に至ったことを語りますが、僧の弔いにより変成男子の望みを叶え、解脱を得て雲の中に消えてゆきます。

ある調査によると、『源氏物語』の中に登場する数多くの女性の中で、男性読者に最も人気があるのがこの 夕顔の上なのですってね。従順でナイーブ、内気な女性。。『源氏』の「帚木」巻の「雨の夜の品定め」で頭中将によって”常夏の女”と評される彼女ですが、「常夏」は「撫子」の古名で、頭中将も従順な女性と説明しています。「大和撫子」と言えば清楚な中にも気丈な女性を意味するようですが、当時はそれほど強い女性を意味しているわけではなかったようです。逆に女性読者の一番人気は六條御息所だそうで。。うう、このギャップが怖い。。

そんな夕顔の上ですが、源氏が逢瀬を遂げたその夜に物怪に襲われて急死してしまいます。能『夕顔』はそんな彼女の生と死を深くえぐる曲で、姉妹曲『半蔀』がひたすら純情な彼女と源氏との愛を描いて美しいのに対して、重苦しい生死の物語であるのが大きな特長でしょう。六條御息所を描くふたつの能。。『葵上』と『野宮』とが、彼女のまったく違うふたつの性格を描き分けているのと、ぬえは何かしらの因縁を感じます。

今回は土曜の昼間の公演という条件にも恵まれております。どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 7月公演

【日時】 2017年7月29日(土・午後2時開演)
【会場】 セルリアンタワー能楽堂 <東京・渋谷>

 仕舞 花 筐 キリ  梅若万三郎

狂言 文相撲(ふずもう)
     シテ(大名)   三宅右近
     アド(太郎冠者) 高澤祐介
     アド(坂東方の者)三宅近成

   ~~~休憩 15分~~~

能  夕 顔(ゆうがお)
前シテ(女)/後シテ(夕顔) ぬ え
ワキ(旅僧)福王和幸/間狂言(所ノ者)三宅右矩
笛 松田弘之/小鼓 幸正昭/大鼓 亀井広忠
後見 中村裕ほか/地謡 青木一郎ほか

                     (終演予定午後4時40分頃)

【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

例によってこちらのブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~m(__)m

『一粒萬倍』ロサンゼルス公演(その11)

2017-02-17 03:25:52 | 能楽
同じ16日、ぬえのラスト・ミッションは夕方からロサンゼルスの日本人コミュニティの文化サロンでの能楽ワークショップでした。

会場となったのはこの文化サロンのホストでもある吉見(きちみ)愛子さんの邸宅。
吉見さんはロサンゼルスで茶道や着物の着付けを教えておられるほかに、このような文化サロンを定期的に行っておられ、いわば日本人コミュニティの文化面での中心的な役割を担われているお一人です。



なんでも、講談師としての一面も持っておられる、とのことですが、かつては22歳で本田宗一郎氏の協力を得て北・中南米13,000km単独オートバイ旅行をしたり、と 多才なだけでなく冒険家でもあったのですね。

この日のワークショップでは吉見さん宅の美しいホールを会場に、参加者に能面や能装束の体験をして頂いたほか、謡の体験から能の詞章の解釈、そして日本人の感性の話題にまで、かなり面白い話が出来たのではないかと思います。











参加者は日本人ばかりでなく、着物を着て参加したアメリカ人女性の姿もあって、辞書を引き引き ぬえの解説(もちろん日本語)に賢明に聞き入っておられたのが印象的でした。「もう少しゆっくり話してくださ〜い」(; ;)ホロホロ

終わってから昨日買ったタクトでちょっと遊んでみました。
ドゥダメルさんに似てるー?





かくして ぬえのロサンゼルスでの仕事は終わりました。10年ぶりのアメリカでの出演は、能ではない他ジャンルとの共演という試みの催しでした。能楽師としては師匠にお許しを頂き、流儀に届け出をして出演する実験的な試みということになりますが、結果的には能楽師としての自分に幅を与える有意義な機会となったと思っています。

。。とくに Baliasiさんとの競演は刺激的でした。ふだん、当たり前なのであまり意識してこなかったですが、「プロ意識」というものの価値をまざまざと見せられて。リーダーの千絵さんとは、昨年ぬえの教え子の子どもたちの出演もあった関係で今回も滞在中に この問題や後進の指導についてよく話し合いました。若いのに確固としたとした信念があって指導する姿は美しいと思います。

こういう試験的な試みの公演は、ぬえも若いうちにはやりたくて仕方なかったし、先輩のお手伝いという形でツレなどの役で経験したことも何度かありますが、当時の自分があのまま そんなことばかりを思って進んでいってしまったら、能楽師としては崩れてしまっていたことでしょう。いま、能を守りたいと思うようになった自分にとって、この試みは「能」であるままに、現代にあって発展する可能性がたくさんあることに気づく良い機会になったと思います。

小鼓の望月左武郎さんから、昨年の能楽堂公演の前に「今回は ぬえさんに能のカラをうち破って欲しいと考えているんです」と言われて、言下に「そんなことをするつもりはありません」と拒否した ぬえ。でも ぬえは能楽堂公演からチェロを入れた「イロエ」を舞っていました。それは、ぬえ自身は能の「イロエ」の型から離れず、能に忠実に舞っている意識はあったからで、主催者の要望によって入った谷口さんのチェロは、その能の「イロエ」に、いわば笛の代わりとなって、いや、あるいは能の笛以上に見事に ぬえが思う「イロエ」の世界観を彩ってくださったので、ぬえ自身にも違和感や拒否反応は起きず、あくまで「能を舞っている」という ぬえの意識にゆらぎがなかったからです。

ところが先日 東京でこのロサンゼルス公演の打ち上げパーティーがあったのですが、そこで望月さんからこんなことを言われました。「ぬえさんは結局チェロと一緒に舞ったでしょう? あの瞬間に僕は やったー! って思ったんですよ。能のカラから抜け出しましたね」

。。そういうことでしたか。。

望月さんが ぬえに期待していたのは、能の定められた謡や型から逸脱して奇抜なことをやってみなさいよ、という、能に対する理解や知識はないままに自分の作品に能面・能装束を着けた能役者を「彩り」に添えたいと謀る現代の演劇や映像の関係者(こういう事はよくある)からの悪魔のささやきと同じものだったのではなくて、能楽師でありたい、というぬえの信念は尊重したうえで、「多様な芸術がある現代にあっての能の可能性を、能楽師として探るべきだ」ということだったのですね。。

そういえば若い頃は勇壮な和太鼓で米国人を驚かせた望月さんは、その後「打たない間」の力強さに惹かれて能の囃子の勉強をして、現在は小鼓奏者です。そして望月さんが礎となって現代に数百もあるというアメリカ国内の太鼓集団の現状を「必ずしも和太鼓になっていない。。」と憂いている方でした。ぬえよりひと廻りもふた廻りも大きく伝統芸能を見つめる望月さん。この方に出会っただけでも ぬえにとって今回の公演に出演した意義はあったのです。

さて現地ロサンゼルスについては、日本人コミュニティの支援体制の強力さと文化の継承の確かさに衝撃。。全食事に日本食が差し入れられ、衣装デザインから着付け、ヘアメイク。。すべて現地の専門家がボランティアで参加。稽古場でも公演会場でも、楽屋の隅々にまで心の行き届いたサポートを目にしました。出演者についても、まず日本舞踊チームの大活躍は、昨年の東京での能楽堂公演に出演した専門家の演技と比して、匹敵する、とは言わないまでも、少なくとも見劣りする、ということはありませんでした。

が、わけてもメイちゃんの才能を発掘してきたのはコミュニティの共同体としての結束のなせるわざでしょう。東京公演の谷口さんの演奏が素晴らしく、ぬえとしても今回もチェロとの共演を楽しみにしていたのですが、あいにく谷口さんはスケジュールの都合でロサンゼルス公演には出演不可。主催者からは「今回はチェロなしで組み立て直すことになると思います」という宣言も聞かされていました。が、その後「すばらしい中学生が見つかった」との報が。中学生??? 未熟、経験不足を心配し、不安なまま渡航したのはBaliasiの千絵さんも同様だったそうですが、どちらもメイちゃんの演奏には大満足! メイちゃんについて詳しくは前の記事を参照ください。

そのほか ぬえに親身に面倒を見てくれた厚子さん、震災のときのアメリカ軍の活躍についてお礼を申し述べる機会を与えてくださった禅宗寺さま、稽古場から太鼓の貸し出しまで応援くださった浅野太鼓さん、そしてもちろん主催者の松浦靖さん。感謝の言葉は尽きせません。大変貴重な機会を頂きましたことを、関係者一同のご尽力に感謝申し上げます。

                               
【この項 了】

『一粒萬倍』ロサンゼルス公演(その9)

2017-02-14 19:57:43 | 能楽
公演はソールド・アウト、終演ではスタンディング・オベーションも出て大成功のうちに終わり、出演者の多くは翌朝6時ホテル出発で帰国の途に。なので打ち上げは。。夜を徹して行われました! 画像は。。自粛w

ホテルのバーがとっても安かった、ということもあって、考えてみれば出演者は毎晩深夜まで飲みましたね~。そして、出演者の大半が公演翌日に帰国する、という事情もあって、公演前日に中華料理屋さんで関係者一同が集まって、気の早い打ち上げパーティーもありました。

で、公演翌日。ぬえはもう少し当地で予定があるので残留でしたが、前夜遅くまで打ち上げをしていたので早朝には起きることができませんで~。お見送りできなかったです。。

気を取り直して、じつはこの日、1月15日(日)は ぬえはオフでして、LAフィルを聴きに行きました。

ぬえは海外公演では必ず現地の芸能を見ることにしているのですが、この度は渡航前から主催者の松浦靖さんの奥様。。ぬえと大学の同級生の真波さんを通じて現地でイベントを調べて頂きまして、このLAフィルの公演がヒットした、というわけです。

この日は公演でも稽古の段階から食事の世話などで大活躍の行木(なめき)厚子さんが送迎から鑑賞までご一緒してくださったのですが、どうやらコンサートのチケットの手配までお骨折り頂いたのも厚子さんだったようです。厚子さんにはこのあと滞在中、ずっと ぬえはお世話になりっぱなしでした。公演や稽古のときにはあまり話をしなかったのですが、厚子さんは以前はNHKのドキュメンタリーの米国での取材のコーディネートの仕事などをしておられたそうで、コンサートホールに向かう車の中でも話題は尽きず。

コンサート会場はロサンゼルスが誇る「ウォルト・ディズニー・コンサートホール」で、その前衛的な建物にびっくり。





ちょっと到着が早かったので厚子さんに昼食をごちそうになりまして、さて会場に入ってみると、ロビーでプレトークをやっていました。それが、まさかの本日のマエストロ ズービン・メータさんご本人が登場していました!





なんでも「オケには土地によって独特のカラーがあって、それを見極めながら指揮をするんだ」みたいな事をおっしゃっていましたが(たぶん)、それもそのはず、この日演奏される曲目がラヴィ・シャンカールの「シタール協奏曲2番」だったのです。そしてシタール奏者はラヴィの娘さんのアヌーシュカ・シャンカールさん。歌手のノラ・ジョーンズは彼女の異母姉なんですって。

ホールの座席は安~~い天井桟敷で、なんと5階でした。でもステージはよく見える。ソリストの位置に台が据えられて、すでに黒いシタールが置かれていましたが、そのすぐ横にハープ2台とチェレスタがあるのが何とも斬新な。。曲はちょっとふざけたような、愛嬌のある曲ですが、アヌーシュカさんのシタールは超絶技巧でした! それにしてもシタールって、あぐらとも何ともいえない独特の座り方をして弾くのねえ。そうしてチューニングが狂いやすいらしい。楽章が変わるたびにチューニングしていました。それからやはりボリュームという点で不利なのか、シタールだけはスピーカーで拡声されていました。

ちょっと思ったのは、アメリカだから? みなさん結構平気で咳したりしていました。日本だとみなさん咳が出そうになっても我慢して、楽章の合間に一斉に。。という感じなのですが。

あともうひとつ、これは『一粒萬倍』公演のときに聞いた話ですが、アメリカではパフォーマンスやコンサートなど、基本的に観客は自由に撮影して良いんですって(!) これには驚いた。日本では「法律に触れるから撮影や録音は厳禁」と開演前にアナウンスするよう、ぬえの業界でも能楽協会から推奨されていますが。。

コンサートの2曲目はシュトラウスの「英雄の生涯」。ぬえにとってはこれが素晴らしかったです! 楽器がどれも音が粒立ってクリアに聞こえて。。マエストロの実力なんでしょうけれど、LAフィルってメチャウマなんですね~~。ぬえもスタンディング・オベーションのお返しだい。

この日 ぬえがコンサートホールのショップで買ったのは オモチャのタクト!! これ、欲しかったんです~~



こうしてコンサートを満喫しまして、厚子さんにホテルまで送って頂きましたが、途中で遠くに見えた観光名所の「ハリウッド・サイン」。これを見つけて「そういえばいうも観光なんてできないんですよ。空港とホテルと公演会場だけ。今回もそうです」と言ったところ、厚子さんが「ではハリウッド・サインを見に行きましょう!」と、車をハリウッドの方へ走らせてくれました。





ところが、なかなかうまく見える場所が見つからず。。

この日は陽も暮れて、仕方なくあきらめることになりましたが、厚子さん残念そう。翌日は(これが ぬえの今回の目的のひとつでしたが)仏教寺院で東日本大震災の鎮魂法要に出演することになっていましたが、「早めにホテルを出てハリウッド・サインを見に行きましょう!」と提案頂いて、翌日も厚子さんが送迎してくださることになりました。

ホテルに帰って松浦さんや、この日浅野太鼓さんで和太鼓のワークショップをしておられた望月左武郎さんとも合流して、旧市街で夕食。滞在中はずっとロサンゼルスの日本人コミュニティの強力バックアップがあったので日本食の差し入れを毎食提供頂いていたので、ピザ食べたのはこれが初めてかもー!









『一粒萬倍』ロサンゼルス公演(その8)

2017-02-11 09:50:36 | 能楽
で、やっぱり今回の出演者で特筆すべきはチェロのメイちゃんですねー。facebookで書いた記事をほんの少し手直ししただけの再掲ですが、あまり注目されていないようなので(本人の許可を得て)ちょっと記しておこうと思います。

昨秋の東京の能楽堂での同公演では はじめてチェロの谷口賢記さんと共演させて頂きましたが、あまりに能と合うので驚愕! ところが谷口さんのスケジュールが合わず、今回のロサンゼルス公演ではチェロはなしか、と思われたのですが。。現地日本人コミュニティの尽力で、かなり遅くになってから抜擢されたのがメイちゃんでした。

メイちゃんは「8年生」ということで、日本でいえば中学2年生の14歳(!)。楽譜から離れて舞台上の役者の動きに合わせて演奏したり、暗転で真っ暗になったりする中での演奏は、おそらくほとんどないでしょう。私も最初年齢を聞いたときは「大丈夫かな?」と思ったものでした。ところが推薦されて出演しただけのことはある! 現地で2日間の稽古と上演会場での2回のリハーサルだけを経て、見事に要求された演奏をこなしてみせたのでした。







この公演では2度 能とチェロのコラボがあるのですが、どちらもほとんど能とチェロの一騎打ち状態。稽古の段階では おずおず。。という感じで遠慮がちでしたが、私も「もう少し激しく弾いてほしい」とリクエストを出したり、演奏スタートのタイミングを何度も稽古しているうちに みるみる魅力的な演奏になっていきました。

リハーサルのものですが、その演奏風景の短い動画はこちら↓


この曲、谷口さん提供のもので、どなたかが即興で弾いた曲を採譜したものだそうです。メイちゃん、稽古の最初の方はちょっと緊張気味でしたが、谷口さんの演奏動画か録音は研究していたのでしょう、ぬえが注文を出してからは、ベテランの谷口さんのテイストに忠実に演奏できるように、かなり突っ込んで演奏していますね。

ましてや本番では舞台上にちょっとしたアクシデントがあって、その場面のあとチェロを聞きながら登場するはずだった私はどうなることかと。。 ところがメイちゃんがあわてず騒がす演奏をスタートさせてくれたので、私も無事に登場することができました。じつはリハーサルではこの演奏スタートのタイミングがうまくいかなくて、キッカケをメイちゃんに念押ししておいたのですが、アクシデントのおかげで決めておいたキッカケそのものがなくなるという事態に。。どうなることかと思ったのですが、これをメイちゃんが自分の判断で乗り切ってくれたおかげで公演全体の瑕疵を最小限に抑えることができました。

ともあれ大変な才能がある子なのは事実であろうと思います。この子を発掘してきたロサンゼルスの日本人コミュニティの強力なこと! メイちゃん、楽屋ではマスコット的な存在でしたが、演奏がめちゃくちゃなら誰も相手にしない。信頼がおける仲間だと思うから笑って話もできるのです。私もメイちゃんの演奏に満足しています。
 
問題があるとすれば。。日本語は話せるのに漢字はほとんど読めないんだってw。 次回コラボする機会があれば、チェロでなく Kikiさんみたいなセクシーなダンスでねー、と言っておいたのですが、どうかなあ。

「えー。。いやー。ムリかも。。 わは」













Baliasi のモモちゃんといい、最年少の中学生二人の活躍が光った公演ではありました。
あとで知ったのですが、モモちゃん、受験生だったみたい。この時期に送り出すとは親御さんの信頼も大したものです。。少なくとも英語は楽勝だね♪

『一粒萬倍』ロサンゼルス公演(その7)

2017-02-10 03:47:55 | 能楽
さて、こちらは音楽家チームのみなさん。ぬえと語り部さん(Story teller)を除いて無言劇である『一粒萬倍』では音楽が それはそれは重要です。昨年の能楽堂公演では邦楽器の中に唯一洋楽器としてチェロが参加したのですが、今回はそのほかにギターとキーボードも参加していました。

邦楽の方は、Baliasiさんと並び「一粒萬倍」公演の最初から参加しておられる小鼓の望月左武郎さんと奥様で大鼓の重草由美子さんを中心に、ロサンゼルス在住の加藤雄太さん、小鼓の堅田喜久倫さんとその一門の方々合わせて小鼓4調が加わるという豪華布陣。尺八と笛は日本から参加の原郷界山さんです。





箏奏者はロサンゼルス在住の松山夕貴子さん。なんと2011年参加したサックス奏者ポール・ウィンター氏のアルバム『Miho: Journey to the Mountain』がグラミー賞の最優秀ニュー・エイジ・アルバム賞に輝くという快挙を成し遂げた方です。



組太鼓の「因陀羅(Indra)」の由有さん、真史さん、游平さんの3人。由有さんは『一粒萬倍』で演奏される多くの曲の作曲もなさったそうですが、聞いていると7拍進行とか変拍子が多出しているようでした。7拍進行の曲で踊るみなさんってどういう気分なんだろう。。









由有さんは小鼓の望月さんのご子息で、望月さんもかつて和太鼓の演奏家だったそうです。望月さんは若い頃にアメリカで和太鼓の演奏旅行をしたり指導をして、それが現在全米に数百もあるという和太鼓団体の礎になっているというパイオニア。最近まで日本とアメリカを往復して指導していましたが、現在は米国内に教え子さんたちが育ってきて指導は任せるようになってきたとのこと。しかし今回も乞われて浅野太鼓さんで太鼓のワークショップを何度か行う予定があるそうです。

ぬえはちょっとした時間に望月さんと話す機会がありましたが、アメリカ国内での太鼓集団の広がりは嬉しいことだけれど、ややもすると和太鼓になっていない例もあるのが気になる、とのこと。ぬえには細かい点はわからない事ではありますけれども、要するに和太鼓ではなくパーカッションになってしまっている、という事でしょうね。伝統芸能というものは、口伝もあるし、師伝を離れると崩れていく、という事もある。それは能だって同じことです。伝承というものはある種「伝言ゲーム」のようなもので、簡単に崩れていくものですね。先人はその危うさも経験で心得ていて、能の場合ですが これを防ぐための驚くべきシステムを持っていますが。。それでも危機感はいつも持っています。今回の他ジャンルとの共演の公演でも、ぬえは能楽師として「崩れる」ことだけは避けようと思いながら参加しました。

さてこちらは洋楽器チーム。ぐっとくだけたメンバーで、ぬえも食事や買い物などよくご一緒しました。まずはギターの織川(おがわ)ヒロタカさん。



織川さんは『一粒萬倍』の作者 松浦靖さんの友人で、以前からこの劇の中で作曲を担当しておられるそうです。昨年の能楽堂公演では演奏はしていなかったけれど稽古で参加しておられました。そして、箏奏者の松山夕貴子さんの実のお兄さんでした(!)。ぬえが見ていた感じでは、なんか仲の良い兄妹でしたね~。そんなことから織川さんはロサンゼルスにはよく演奏に出かけておられるそうで、ぬえも当地の事情をいろいろ教えて頂きました。

こちらキーボードの赤石(あかし)香喜さん。ぬえ、ホテルで同室でした。まー性格の良い方で、楽しく過ごさせて頂きました。夜になるとすぐ寝てしまうので、夜更かしな ぬえをめがけてしばしば ぬえの部屋が深夜の宴会場になってしまいました。ご迷惑さまでしたー。







チェロのメイちゃんはまた次回ご紹介します。



忘れてならない大道宣輝さん。



こちらは出演者ではなく音響担当のスタッフさんのお一人ですが、ギターの織川さん、その妹で箏奏者の松山夕貴子さん、キーボードの赤石さんとは盟友で、今回も公演のあともロサンゼルスにとどまって演奏などの活動を続けていました。

特筆すべきは大道さん、劇場の音響を改革したのです(!)。

どうも渡航以前から今回の会場となっているホールは「音響が悪い」と現地で言われている、とは聞かされていました。が、ロサンゼルス到着直後に会場を下見に行った際には、アコースティックの残響に何の問題も見つけられなかった ぬえ。どうしてこの会場が音響が悪いという評判なのだろう? と思っていましたが、じつはこれ、スピーカーを通したPA機器に問題があったらしいのです。

今回もギターやキーボードなどアンプで拡声する楽器があったし、アコースティックな楽器でも和太鼓など大音量の楽器に箏やチェロが負けるので、一部マイクで拾って拡声する場面もあったのですが、どうやらその接続機器の配線に問題があったようです。大道さんはそれに気づいて配線の修正をしたらしく、これで音響の問題は解決しました。言うなれば劇場の評判もこれで修正されるはずで、今回の公演の中でも劇場に対する貢献はダントツだったでしょう。

ほかにもヘアメイクで手腕を発揮したアキコさんとか、舞台監督? として見事な腕前を披露し、写真撮影までこなした寺内健太郎さんとか、紹介したい人はたくさんあるのですが画像がなく。。

マネージャーとして一行のスケジュール管理など多方面に渡って活躍した美里さんをご紹介しておきましょう。



じつは彼女、公演当日は和装だったのですが、黒い着物に黒いインカム。あ、それコーディネートですか? なるほどー、コーディネートはこうでねえと。

ところで、ギターの織川さん、キーボードの赤石さん、音響の大道さん、箏の夕貴子さんは、そろって関西出身だそう。それが楽屋で話題になったら、マネージャーの美里さんや、Baliasiの千絵さんまで、みんな関西人だとわかりましてん。そしたら、みんな一斉に楽屋で関西弁でしゃべりまんねん。どないなってんのやろ? 儲かりまっか? ぼちぼちでんなー

『一粒萬倍』ロサンゼルス公演(その5)

2017-02-06 02:43:41 | 能楽
アマテラスが天の岩戸から出てきたことで世界に光が戻り、さて騒乱を起こしたスサノオは高天原を追放されることになります。一人きりになったスサノオはオオケツヒメのもてなしを受けて食事を得ますが、それはオオケツヒメが鼻や口や尻から取り出した食材を調理して提供されたものでした。これを知ったスサノオは穢れた物を食べさせられた、と怒ってオオケツヒメを斬り殺してしまいます。







オオケツヒメ役はやはりロサンゼルス日舞チームの坂東秀十美さん。『一粒萬倍』で面白いのは、オオケツヒメはお酒を勧めたり、どうもスサノオを誘惑するイメージで描かれていることで、これは『古事記』や『日本書紀』には見えないので作者・松浦靖さんの創作でしょう。

が、二人が仲睦まじい場面があるからこそ、食物を体内から取り出したことを「穢れ」と見たスサノオの怒りが引き立って見えるのもたしかです。孤独になったスサノオをもてなす女神であれば、その程度の飛躍はかえって効果的かもしれません。

さてオオケツヒメの死骸からは頭に蚕、眼に稲種、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生い出でました。カミムスビの神(天地開闢のとき天御中主〈アメノミナカヌシ〉に続いて2番目に生まれた神)はこれを取って種としました。これが五穀のはじまり。。すなわち農業の起源とされています。




カミムスビの神は再び登場の優艶ちゃん。 かわゆい。



。。ところで。アメリカでの公演で『古事記』の物語を上演するとき、本当に原典にある通り「口や鼻や尻から食物を取り出した」と、これをそのまま言うことは正しいやり方かなあ? と ぬえは考えます。身体を張って働くときの尻っ端折り。ここぞという時にもろ肌脱ぎ。ソバは音立ててすする。小鼓は鳴らすために唾をつけて湿気を与える。これらは日本の文化だから。

身体から出るものを「不潔」と日本人は必ずしも考えませんね。身体は神様からもらった賜物だから。。というのは どちらかといえば西洋的な発想の現代的すぎる捉え方で、それよりはむしろ、日本人が言霊(ことだま)というものを信じてきたからだと思います。万物に霊が宿ると信じていた日本人にとって、身体はいずれ空しくなる物体だけれど、そこから様々に形を変えて生じる物は霊力を持っていたり、その残滓だと考えてきました。身体から出て相手の心に影響を与える言葉の神秘は、まさに体内にある霊がなせる技と思えたでしょう。ところがスサノオがオオケツヒメに「穢れ」を感じたのは、彼女が体内から出した物が自分に供された食物だったからであり、彼が言霊に思いをいたさない粗暴な人物(。。神物、か。)だったからでしょう。

でもこの日本人の感性をそのまま外国人のお客さまに提示するのは ちょっと厳しいかなあ。グロテスクに思われてしまったら神話に共感を持って頂けなくなり、劇のストーリーにもついて来て頂けなくなるから。「身体の中から取り出した」。。くらいに表現をやわらげても良かったかも。

さて舞台はこれより『古事記』に描かれた世界を再現するのではなく、そのイメージをふくらませてゆきます。この辺りは舞台芸術が本領を発揮するところでしょう。

舞台には華道の専門家・本庄さんが巨大な「投げ入れ」の生け花を作っていきます。ほどよく形になってきたところで さきほど影絵でシルエットを見せたアマテラス。。 Baliasiのモモちゃんが登場、稲穂を本庄さんに渡して、これを加えることで生け花が完成。



モモちゃん、中学生なのにこの気品はなんだろう。







この場面、すなわち巨大な生け花が オオケツヒメの死骸から生い出た五穀をカミムスビの神が採取し、これをアマテラスが孫のニニギを葦原中国に下すときに与えたことにより農業が始まり、長い年月を経て大きく豊穣を見ることになった、という意味です。

ニニギのひ孫が神武天皇であり、ニニギが地上に降り立ったことを「天孫降臨」と言います(つまり『古事記』はそういう意図を持って書かれた書だということ)。『日本書紀』にこのときアマテラスがニニギに稲穂を伝えた、とあり、すなわち神が人類に農業を伝えたのですね。

『一粒萬倍』ロサンゼルス公演(その4)

2017-02-03 20:38:37 | 能楽
スサノオは粗暴のあまり度重ねて事件を起こし、これを恐れたアマテラスは岩戸の中に隠れてしまいます。すると高天原は暗闇になり、葦原中国も暗黒になりました。昼のない世界に邪神の声が満ち、幾万もの妖しい災いが起きました。

待ってました! 有名な「天の岩戸隠れ」ですが、ぬえはこの場面がだ~い好きー。この場面を見るためだけに ぬえはわざわざロサンゼルスにやって来ました!(うそ)

Baliasiの「暗闇さん」こと奈々さんと「ホワイトさん」こと美緒さんの二人が光と闇を表します。

最初、光と闇は仲良し。二人はいつも一緒です。



ところが段々に闇が光を覆い隠して。。





闇が光を覆い尽くしたとき、「暗闇さん」がニヤッと笑うんですよねー

『古事記』の「天の岩戸隠れ」の段は日食を表しているとも解されますが、まさにそういう感じに見えます。むしろ、岩戸に隠れるアマテラスそのものが登場するのではなくて、闇が世界を支配してゆく様子をダンスで表す、という手法がよく出来ていると思いますね。現に、この一連の場面では主役たるアマテラスはシルエットとしてしか登場しないのです。千絵さんが考えたんだろうか。面白い発想だと思います。

これに続く場面。。世界が暗黒につつまれて困惑した神々が一計を案じて相談し、アメノウズメに岩戸の前で舞を舞わせました。この騒ぎを聞いて不思議に思ったアマテラスがそっと岩戸の扉を開けると、たちまち世界に光が戻った、という「天の岩戸隠れ」の神話は日本人なら誰でもご存じでしょう。

アメノウズメ役はロサンゼルス在住で浅野太鼓の加藤雄太さんの推薦によって参加したKikiさん。





この場面、『古事記』では神々の相談では「長鳴鳥」(ニワトリ)を集めて一斉に鳴かせて朝の到来を祈ったり、鏡や勾玉を作って榊に飾り付けて御幣にしたり、鹿の肩骨を焼いて占いをしたり、と神社の祭祀や三種の神器の起源のようなことが書かれていて興味深いことではありますが、やはりアメノウズメの舞が眼目。頭に葛をかざし、笹を持ち、桶を踏み鳴らし、乳房を露わにして神懸かりして舞うと、八百万の神々はどっと笑い、アマテラスは暗闇のはずなのに楽しそうな喧噪を不審に思って岩戸から姿を現したのでした。

今回そのアメノウズメ役の衣裳を担当したのは押元末子さんという、ロサンゼルスで映画などの衣裳も手がける高名な方でした。着物をアレンジして、脚が見えるセクシーな衣裳をまとって激しく踊るアメノウズメ。Kikiさんの踊りは光り輝いていました。楽屋ではなかなか話す機会がなかった Kikiさんでしたが、公演当日かな、ようやく話すことができたので「良かったですよ~」と話しかけたら。。日系人ですが日本語は話せないのだそう。(@_@;)

そうして、舞台上に巨大なスクリーンが下ろされると、そこにシルエットになったアマテラスが登場します。アマテラス役は Baliasiのモモちゃん。雛ちゃんの妹で、なんと中学生です(!)



この子は中学生ながら、衣装を着けると とたんに気品が出てきますね。身長も高いし、アマテラスに見える。



ステージの後方から見るとこんな感じ。ライトに照らし出されてスクリーンに巨大な丸い光と、その中に稲穂を持ったアマテラスが現れます。丸い光は太陽を連想させ、そこでアマテラスが稲穂を持っているのは、孫にあたるニニギを葦原中国を治めさせるために降臨させたときに三種の神器とともに稲穂を伝えた、という『一粒萬倍』の根幹をなす神話を表します(じつは稲穂を伝えた、というのは『古事記』ではなく『日本書紀』に見えるお話ですが)。

去年、能楽堂での公演では舞台の構造上このスクリーンを持ち出すことができませんでした。なので ぬえはこの場面だけ、どうしても納得がいかなかったのです。暗闇さんが登場して暗黒の世界になり、そのあと激しいダンスがあって。。ぬえは楽屋でこのダンサーさんに失礼を顧みず「あなたは何のお役なんですか??」と聞きに行きました。アメノウズメです、と答えがあって。。さて? 踊り手がいるのに、それを見ているはずのアマテラスの存在がなければ踊り手がアメノウズメともわからない。。今回ようやく台本の意味が理解できました。


『一粒萬倍』ロサンゼルス公演(その3)

2017-02-02 12:09:55 | 能楽
ぬえの出番の次はイザナギ・イザナミによる婚姻と国生み神産み。イザナギは Baliasiの雛ちゃん。まだ高校生です! そしてイザナミは同じく Baliasiの梨恵さん。





この場面で雛ちゃんは梨恵さんをおんぶする型があるのですが、そのあと雛ちゃん、両手を離すのです。去年最初にこれを見たときは、どうやってるのかよくわからなかった。今回梨恵さんに詳しく聞く機会があって、やっぱりおぶさる側の体重の載せ方にコツがあって、あとは脚力でがんばるらしい。いたいけな高校生・雛ちゃんを締めつけて成立しているわけですな。。



円満な夫婦生活をしていた二人の神ですが、火の神カグツチを産んだとき、その熱によってイザナミは死んでしまいます。





黄泉の国に去ってしまった。イザナミ。イザナギは彼女を忘れられず彼女に会いに黄泉の国へ赴きます。イザナミの制止にもかかわらずその中に入ったイザナギは、変わり果てた妻の姿に驚き逃げ、姿を見られたイザナミは怒り、そのあとを追います。

怒りのあまり形相が変わったイザナミの役を勤めるのは Baliasiのリーダー千絵さん。イザナミは夫のあとを追いかけるのですが、黄泉の国と地上とをわける黄泉比良坂(よもつひらさか)でイザナギが大石で道をふさぎ、ついに逃げおおせることが出来ました。









この暗黒の黄泉の国から出ることができないイザナミを、二枚の黒く長い布で表すのが斬新ねえ。



ちなみにこのあと千絵さんは布を手放して、イザナギを逃がした恨みを狂おしく舞うのですが、ここは本当に体力勝負らしく、舞台袖に退場するときには倒れ込むようで、Baliasiのメンバーが毎度、ガシッとそれを受け止めて肩を貸すように楽屋に連れ帰っていました。ひゃー

さてイザナギは黄泉の国から生還できたのですが、みずからの身の汚れを清めるために川に入って禊ぎをします。このとき左の目を洗ったときにアマテラスが、右目を洗ったときに月読命が、そして鼻を洗ったときにスサノオが誕生しました。

スサノオは荒ぶる神。高天の原で大暴れ。この役はロサンゼルス在住の成美さんです。まあ、よくここまで激しく動けるものだと思うほど。。





ん~、ぬえだけ運動量が少ない。。ホントは ぬえも激しい 切能の方が好きなんですけれども、まあ、こういう他のジャンルの芸能と競演する場合には、能には静かな動作の役が期待されることが多いし、またその方が効果が高いですね。

それと、ぬえの出番は劇の冒頭と最後だけなので、稽古の段階でもヒマでした。稽古2日目、浅野太鼓さんの稽古場から外に出てみたら、この日は朝からロサンゼルスでは珍しく(ほんの少し)降っていた雨がやみ、空に虹がかかっていました!



急いで写真を撮って稽古場に持って行ってみんなに見せたら。。

「どうも。。ほっこりしましたー」と、汗だくのちょっと疲れた顔で答えられました。
だってー。ヒマなんだもーん (・_・、)

『一粒萬倍』ロサンゼルス公演(その2)

2017-02-01 02:49:33 | 能楽
空港からホテルへ、すぐにそこを出て劇場の下見、そして浅野太鼓さんのご好意で貸して頂いているというお稽古場へ。どこへ行っても空港とホテルと劇場しか知らない、というのは役者の常でありましょうが、今回もその例に漏れず。



ひと足先にロサンゼルス入りして独自の活動をしていた Baliasiさんたちも劇場で合流して、浅野太鼓さんに向かい、稽古の開始。10時間だからヨーロッパなどと比べれば短いフライトとはいえ、到着してすぐ稽古というのもなかなかなスケジュールではあります。普段からほとんど睡眠時間というものがない ぬえには苦痛ではなかったですが、みなさんも意外にお元気にお稽古に突入していきました。

ここでまずはロサンゼルス在住の出演者さんたちとご対面しました。ここでは主に日本舞踊の方々、あとで邦楽囃子の方々、それから後日になりますがモダンダンスの方。ここは厳密に言えばロサンゼルス「郡」ではありますがトーランス市という、ロサンゼルスとは別の市でして、トヨタはじめ日本企業が多くあるため日本人コミュニティが発達しているとのこと。日本の文化もある程度伝わってるとは思いましたが、これほどまでとは。。単に趣味として日本の伝統芸能を稽古されているだけではなくて、今回出演された方々の中には日本舞踊や小鼓などでは相当の地位にあったり、あるいは流儀を背負っておられる方までおられました。まして、それぞれの方が教室を開いたりするのみならず、芸事とは関係なく日本人コミュニティの中で中心的な役割を果たしておられたり。

さて浅野太鼓さんをお借りしてのお稽古が2日間あり、それから公演会場に場を移しての稽古が1日。そうして公演当日にもリハーサル。およそ能楽師にとっては考えられないスケジュールですが、なんといっても上演曲目は新作。そうして出演者は日本から参加する者とアメリカ在住の方々の混成。そのうえ前回 東京の能楽堂での公演の経験者にとっても舞台の違いはあるし、まして楽器の編成も替わっているし、ぬえの登場場面の共演者まで変更されたので、ぬえにとっても前回と同じようにはいきません。

また ぬえの謡う詞章も今回に合わせて改変が必要だったし、その文案を練ってはいましたが、最終的にはロサンゼルスに渡航する飛行機の中で完成させる有様でした。このくらいの稽古量はあって然るべきでしたね。

お稽古の様子はこんな感じ。2日間の浅野太鼓さんでの稽古と、会場に場所を移してのドレス・リハーサルと、画像を取り交ぜながら物語の進行を見て頂きましょう。



こちら作者で主催者の松浦靖氏。この方の奥さんが ぬえの大学時代の同級生で、大学では文学研究会でも一緒の仲間でした。卒業以来まったく会っていなかったけれど、去年突然連絡がありまして、なんと「25年間アメリカで暮らしていた」「夫は別の大学の同級生で映像作家。ぬえ君とも会っているはず」「今度能楽堂を借りて劇をやるんだが出演してくれないだろうか」と、びっくりするような内容でした。こうして昨年の秋に梅若能楽学院会館での『一粒萬倍』公演に出演させて頂くこととなり、この度はロサンゼルスでの再演となったわけです。

さて物語は『古事記』の世界を表現する無言劇(ぬえは謡う場面あり)ですが、『古事記』に馴染みのないアメリカ人の観客のために、能楽堂での公演ではなかった「語り部 Story teller」という役が今回追加され、日系のマーフさんとケイコさんがその役を勤められました。劇の場面の合間、合間に『古事記』の物語を要約して伝えます。





このお二人、「Grateful Crane Ensemble」という日系2世を中心とする劇団のメンバーでして、日本語はほとんどしゃべれないにもかかわらず、東日本大震災の被災地を慰問する活動をしておられます。最初それを聞いた ぬえはどういう活動ができるのか疑問だったのですが、映像を見せてもらって納得! 日本語で演歌ショーのような事をしてみせるのです。抱腹絶倒! これなら東北の仮設住宅のおばあちゃんたちも大喜びだったでしょう。今回も楽屋でのムードメーカーで、みんなから「Daddy」「Mom」と呼ばれてました。

さて原文で「天地初めて發けし時、高天原に成りし神の名は」と始まるところ。『古事記』には最初にすでに「高天原」が存在するわけですがその描写はないので、ここは旧約聖書の「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(『聖書 [口語]』日本聖書協会)というイメージを持ち込んで、ぬえが登場して謡う文句も「夫れ天地開けしその始。寂然たる大海に波立ち起こり。三柱の御神現れ給ふ」としてみました。

この ざわつく海を表すのが純白の衣装をまとった Baliasiさんたちの群舞。美すぃです。





この「ざわめき」を表すのが組太鼓のみなさんで、石塚由有(ゆう)さん率いる「因陀羅(インドラ)」のみなさん。カッコ良いです。





やがて巫女(優艶さん)が現れて無言で鈴を振り、神の到来を予感させます。優艶ちゃん かわゆい。





そうして ようやく ぬえの出番です。ぬえは「天の御心(あめのみこころ)」という役で『古事記』には登場しない架空の役柄。『古事記』にいう天地開闢のときに現れたという三柱の神々よりも先に登場して神の出現を言うのだから、神、とも言いにくい役ですね。人物というよりは神々の創世を目撃している宇宙そのもの、という感じであろうと思います。だから神々の出現を言祝ぐ、という意味で榊を持ち、イロエを舞いました。



イロエは能楽堂公演でもご一緒した小鼓(望月左武郎さん)と、今回特筆すべきチェロ奏者のメイちゃんです。メイちゃんは当地では「8年生」というらしいですが、なんと中学2年生の14歳!





メイちゃんについてはあとで詳述しようと思いますが、ともかく『一粒萬倍』の ぬえの出番の中ではこのチェロを入れた「イロエ」が素晴らしいと思います。これは能楽堂公演のときのチェリストの選曲のセンスと技術に負うところ大きいのですが、チェロと能がこれほどまで合うとは思ってもみませんでした。

メイちゃんは能楽堂公演のビデオなどを見てよく研究していて、この若さで見事に大役を果たしてくれました。拍手。わは。

『一粒萬倍』ロサンゼルス公演(その1)

2017-01-29 06:59:23 | 能楽
1月14日(土)、アメリカ・ロサンゼルスにて新作舞踏劇(?)『一粒萬倍』公演が催され、ぬえも出演して参りました。

『一粒萬倍』は昨年11月、東中野の梅若能楽学院会館で上演され、ぬえも出演させて頂きました。『古事記』を題材にした無言劇で、神が人類に種籾を与え、これが農耕の起源となって豊かな実りを人間にもたらしたという『古事記』の記述を賛嘆する、というような内容です。

能楽師の出演は ぬえだけで、ほかに演技をするのはBaliasi (バリアージ)という舞踏の女性たちと日本舞踊の方々。劇に重要な役割をする音楽には邦楽囃子のほかに組太鼓、箏、そして なんとチェロの出演がありました。いずれも一流の腕前の演者さんばかりで、かなり良質の舞台になったと思っています。

無言劇ではありますが、作者で主催者の松浦靖さんの希望で、劇の冒頭とエンディングだけに登場する ぬえだけは謡を謡ってほしい、とのことで、能『巻絹』のクリの部分を謡ったほか、新作の詞章を作って謡うことにしました。

ぬえの役は「天の御心(あめのみこころ)」というもので、『古事記』には現れない創作の役。冒頭に登場して創世の三神の出現さえも見届け、そして最後の場面では豊穣の象徴の巨大な生け花を見上げて満足し、観客を祝福する、という役目を持っています。

面白いのははじめての試みとしてチェロの演奏による「イロエ」を上演したのですが、まあ見事に雰囲気が合います。チェロ奏者の谷口賢記さんの選曲と技量に負うところが大きかった。

今回はこの舞台をロサンゼルスで上演しようという試みで、それというのも主催者の松浦靖さんが25年間もロサンゼルスに住んでいたからで、日本人も多く住んでいるこの街の、その日本人コミュニティの強力なサポートを受けての上演になりました。

LA在住日本人コミュニティのすごさは、滞在中の全ての食事や交通が差し入れや協力によってまかなわれただけでなく、日本舞踊や邦楽囃子などの音楽家、またモダンダンスの踊り手として出演者の主要な一角を担ったり、衣裳のデザインから縫製、着付け、さらにはヘアメイクまで、それも完全にプロの仕事としてこなす人々が集結できることです。もちろん舞台の設営や楽屋でのお手伝いまで、興味本意で集まったような素人くさい人がいなかったのは驚くべきことでしょう。

特筆すべきはチェロ奏者で、今回のLA公演では東京で素晴らしい演奏をしてくださった谷口さんではなく、なんとLA在住の中学生の女の子が勤めてくれました。この話はいずれ詳しく。。いずれにせよこれほどの協力体制が組まれたのも主催者・松浦さんの人望のなせるわざでしょう。

さて ぬえは師家とは無関係に単独で、アメリカではこれまで3回、大学でクラスを持って2週間教えたり、略式の公演を行った経験はありますが、それも今から10年も昔の話。ましてやこれまでの渡航は東海岸ばかりで、西海岸は初めて訪れる地でした。東海岸とは風土も人もまったく違うそうで、それだけで興味は尽きません。

公演の3日前の1月11日、羽田空港から10時間かけてロサンゼルスに到着。この日は東日本大震災の月命日。じつは公演のあとにも ぬえは現地に居残って、寺院での鎮魂法要に出演する予定となっていました。この話もまた後日に。。

空港に到着すると松浦さんが出迎えてくれ、友人やホテルの車に分乗してホテルへ。チャックインもそこそこに、ホテルからほんの2軒となりにある「Asano Taiko U.S.」へ。

浅野太鼓さんは国内でも有名な太鼓や邦楽器の製作・販売店で、ここはロサンゼルス支店ということになります。和太鼓の教室もあるのですが、あとでわかった事ですが、年末に和太鼓の発表会があり、そこには150人の生徒さんが出演したのですって (/ロ゜)/‼

毎度海外公演では感じる事ではありますが、日本文化に対する関心は海外では恐ろしく高いですね。質疑応答なんかすると、こちらが答えに窮するほどよく勉強した質問が出たりします。今回の公演もすでにソールドアウトとのこと。日本で、とくに能楽が観客の減少悩んでいるのとは対称的です。国内でも関心をたかめていかないと。。

無色の能…『六浦』(その10)…番外編「称名寺探訪記」

2016-11-17 00:34:07 | 能楽
前述しましたが ぬえは今年の6月に六浦の称名寺に参詣して参りました。能の舞台となった名所旧跡は関東には数えるほどしかなく、東京からすぐに行けるのは『隅田川』とかこの『六浦』とか。。あ、『放下僧』は『六浦』の近所なんですよね。

そんなわけで ぬえも自分が能を勤める前に その舞台となった場所に行って感慨にふける、なんてことは ほとんどした事がありません。ああ、京都の能楽師がうらやましいなー

で『六浦』の舞台となった称名寺ですが、神奈川県横浜市金沢区金沢町にあります。京急本線の「金沢文庫駅」か金沢シーサイドラインの「海の公園柴口駅」が最寄り駅になりますが、今回は車で行ったので駅からどれくらいの距離かわかんにゃい。。 歩くとちょっとありそうです。
また京急本線も金沢シーサイドラインも乗ったことがほとんどなく、どの駅から連絡してるのかさえ よく知らないです。地理的には「海の公園」「八景島シーパラダイス」の近く。あ、この方がわかりやすいや。

で、その称名寺ですが、住宅街の中にあって最初の山門に到るまでの道がなかなかわかりづらかったです。



ところが いざ山門をくぐってみると、広大な境内。。というよりもう付近がすべて境内で、裏山の一帯は「称名寺市民の森」という公園のようになっていました。



山門には北条家の三ツ鱗の紋あり。

そして第二の山門~仁王門は閉鎖されていたので ぐるっと生け垣に沿って右側に廻り込むと、いきなり本堂の前に出ました。



まずは広大な池にびっくり。能『六浦』に「東の山里の人も通わぬ古寺の庭」というのとはかけ離れた大伽藍です。そして称名寺という寺号といい、どう見ても浄土庭園の池といい、これは浄土系のお寺なのかと思いきや、ここは真言律宗の寺でした(あとでわかったことですが、創建は不明ながら金沢北条氏の持仏堂が起源とされ、その持仏堂は「阿弥陀堂」と呼ばれていたそうですから、やはり当初は浄土系のお寺だったのかも)。



反橋が架けられた広大な池、仁王門から入ればこの反橋を越えてたどりつく壮大な本堂、その傍らには茅葺きの禅宗様の釈迦堂、鐘楼。







そして池の前に問題の青葉の楓がありました。



これ、楓?





そこにたまたま竹箒など清掃の道具を満載したリアカーを引いて作務衣姿のご老人が現れました。たぶんご住職でしょう。そこで ぬえはご老人に楓について尋ねてみました。

うん、ここは能であれば楓の来歴を延々と語り、じつは私は楓の木を守る神、とか言って消え失せるのでしょうが。

「あ、楓? これは市が植えたんだよ。もう何代目かになるけどね」

んー。。大変 風流なお答えでした。。
青葉の楓が紅葉しちゃ困るから、紅葉しない品種を植えたのかなあ。

ところで有名な「金沢文庫」はこの称名寺に隣接してあります。というか称名寺の寺宝を納めているのが金沢文庫で、その起源は古く、鎌倉時代に金沢北条氏が収集した書籍・典籍類を納めた私設文庫に端を発します。鎌倉幕府とともに北条氏が滅びると文庫は称名寺に移管されましたが、多くの収蔵品は徳川家康らの有力者に持ち出されてしまい、現在の金沢文庫は神奈川県立の博物館として昭和初期に復興されたものですが、称名寺所蔵の多くの国宝の典籍類が納められています。


                                   【この項 了】

無色の能…『六浦』(その9)

2016-11-16 22:01:49 | 能楽
シテ「秋の夜の。千夜を一夜に。重ねても。 と上扇 地謡「言葉残りて。鳥や鳴かまし。 と 中左右、打込、ヒラキ

こちらも舞のあとの定型の型です。これは『伊勢物語』の第22段に出てくる歌(小異はあり)ですね。「鳥や」の「や」は通常は疑問形の係助詞として使われますが、ここは推量の助動詞「まし」の補助的な意味で間投助詞的に使われているのでしょう。「鳥が鳴いてしまうだろう」という意味で、全体的な意味は「秋の長い夜を千夜集めてこの一夜にしても、(その美しさは)言葉にはとても尽くせず、時を告げる鶏が鳴いて暁になってしまうだろう」という感じです。

シテ「八声の鳥も。数々に。地謡「八声の鳥も。数々に。鐘も聞ゆる。 と右ウケ面伏せ聞き シテ「明方の空の。 と脇座の方へ向き雲ノ扇 地謡「所は六浦の浦風山風。 とシテ柱へ行き乍扇左手に持ち 吹きしをり吹きしをり とハネ扇にて正先へ出 散るもみぢ葉の。 と右ウケ乍扇折り返しヒラキ 月に照り添ひてからくれなゐの庭の面。 と大小前よりサシて正へ出右ウケヒラキ乍見廻し 明けなば恥かし。 とワキヘ向き下居面伏せ 暇申して。帰る山路に行くかと思へば木の間の月の。 と角から脇座へ行きシテ柱へサシツメ 行くかと思へば木の間の月の。 とカザシ扇 かげろふ姿と。なりにけり。 とヒラキ、右ウケ左袖返しトメ拍子

「八声の鳥」は暁に数を尽くして何度も鳴く鳥、という意味で、やはり鶏のこと。
「吹きしをり」は「吹きなびいて」という程度の意味ですが、「しをる」には植物が萎れる、という意味も含ませてあって、紅葉が散る様子を表しているのだと思います。

この場面、型は本当に忙しいのです。派手な型がわざわざつけられていますね。このあたりは『芭蕉』にも大変よく似ている。。閑寂な世界を描く場面でありながら、型は派手で忙しい。。それはすなわち、バタバタとあわてて舞うことにならず、静寂の雰囲気を持続させて舞うべき、という作者の演者への挑戦と ぬえは捉えています。

さて、この終盤の場面に至って ぬえは思うのですが、ここでは シテは「紅葉した木々の葉」を愛でていますね。「散るもみぢ葉の月に照り添ひて 唐紅の庭の面」。。歌を詠んでもらった栄誉に紅葉を止めてしまった楓の心境の変化は何に基づいているのでしょう。

思うに、これは やはり仏の教えに導かれて成仏の道に赴くシテの心の投影ではないかと思います。考えてみれば藤原為相に歌を詠まれた栄誉はどこまで行っても現世のもので、いま僧の弔いを受けて「草木国土悉皆成仏」の教えを受けたシテには、もっと高次元に目指すものがあるのです。ここに至って、為相によって受けた栄誉を誇りとし、それに執着することなく紅葉を止めた楓は、それがまだ現世への執着の範囲を出ないことに気づいたのではなかろうかと思います。もとより二度と紅葉しなくなった楓の高潔さは、そのまま僧の教えによって、さらに高い世界を目指すことに無理なく移行することができたはずです。

ここからは ぬえの妄想ですが、ここに至って楓は、二度と紅葉することを止めた自分の思いにさえ執着を感じたのではないか、と感じています。つまり。。ぬえはここでシテはほかの楓と同様に、ついに紅葉したのではないかと思っています。それが自然の摂理に逆らわない自然な生き方ですし、現世への執着を捨てる行為でもあるから。。

そうして最後の場面では楓の精は僧に暇を告げて去ります。「帰る山路に行くかと思へば木の間の月のかげろふ姿となりにけり」。。山道に行くかと思って見ていると、その姿は木の間から見え隠れする残月の光の中に薄れて消えてしまった。能の文句はそのように書かれていますけれども、ぬえには、今は紅葉した楓の精が、ほかの多くの紅葉の中に紛れて行く姿が想像されます。

そうして、その姿は月の光の中に薄れてゆく。。どうも彼女の姿は地上からふわっと浮き上がって、木々の梢の中に紛れて行ったようにも読める文章です。うがって考えれば成仏を成し遂げて浄土への道へ飛翔していった、とも捉えられるでしょうが、まあ、そこまで飛躍して考えなくても、現世からさらに高い世界へ導かれてゆく姿、という印象は充分に舞台から感じられると思います。

うん、名曲ですね。最初は「能に習熟した作者があまり力を入れずに作った」と思った ぬえでしたが、シテを中年女性に配する渋さ。。これ、やはり『芭蕉』が念頭にあるのだと感じますが。。が、それを敢えてコンパクトに作り、じつは秋の紅葉もちゃんと愛でている。いわば作者の自然賛歌でもありましょうし、また仏の教えを難解にならずに自然体で受け止めて舞台面に美的に再現した、仏への賛歌の曲でもある、と ぬえは考えています。

今回の上演にあたっては、装束を途中で替えるわけにはいかないけれども、最後の場面で紅葉する楓、そして現世を離れて月の光の中に姿が薄れてゆくイメージを舞台に出せるように少しく工夫も加えてみました。成功すればよいのですが。。

無色の能…『六浦』(その8)

2016-11-15 01:33:44 | 能楽
シテ「さるにても。東の奥の山里に。 と上扇
地謡「あからさまなる都人の。
 と大左右 あはれも深き言の葉の露の情に引かれつつ。 と正先へ打込 姿をまみえ数々に。 とシテ柱へ行き正面へ向きサシ 言葉を交はす値遇の縁。 とカザシ扇 深き御法を授けつゝ。仏果を得しめ給へや。 と大小前にて左右、ワキへ向き
シテ「更け行く月の。夜遊をなし。 と正へ向き謡い 地謡「色なき袖をや。返さまし。 と扇をたたみながらシテ柱へ行き これより序ノ舞

上端から先の型もごく簡単な型の連続で、型を追うだけなら初心者の稽古の課題曲になるほどですね。もちろん、中年の女性の姿をした草木の精の役を表現するのは簡単なことではないと思いますが。

クリから始まってクセの前半までは四季折々の花々。。梅・桜・卯の花がそれぞれに咲き誇る美しさを讃えていて、言うなれば自然の賛歌のような文言ですが、さてここに至って、シテがワキ僧の前に姿を現した理由がようやく明らかになります。

「あからさま」は「短い時間」「かりそめ」を表す語で、「都人」は為相のこと。たまたまここを訪れた為相と、先立って紅葉した楓の木との偶然の出会いがあり、そこで詠まれた風情のある歌の縁によって、いまここであなた(僧)と出会い、言葉を交わすことが出来た。どうか深遠な仏の教えを授け、成仏の道へ導いてください、というような意味です。

『六浦』の楓の精は、みずから山に先立って紅葉したおかげで為相の感動を呼び、歌を詠まれるという栄誉を得ました。そうしてその後は、それを誇るでもなく老子の教えに従って紅葉を止めてしまいます。が、歌に詠まれた見事な紅葉を毎年見せるのではなくても、明らかに楓は歌を詠まれたことを誇りにしていますね。

そのような、いわば成功者は能のシテとしては珍しく、この世に未練や恨みを残していない分、僧に回向を頼むために現れたり、恨みを晴らしたいという執着を持って登場する動機がない、つまり戯曲として成立しにくい性格のシテであろうと思います。

ところが、能『六浦』は、楓と人間との出会いを、為相だけでなく僧と結びつけたところに作者の新しい視点があると思います。

すなわち、為相の歌によって現世の栄誉を手に入れた楓ではありましたが、和歌の機縁によって、楓はいま再び僧との出会いに遇うことになりました。これは現世の喜びを超えて仏の教えに触れ、成仏という永遠性のある衆生の最大の望みを得ることになったのです。

ここまで読んで、ようやく観客も気づくことになります。なぜワキが日蓮あるいは日蓮宗の僧として描かれているのか。なぜ為相のことを聞いたワキが彼と同じように楓に歌を手向けたのか。。

ワキが後シテに語りかける文言の中にも「草木国土悉皆成仏の。この妙文を疑ひ給はで。なほなほ昔を語り給へ。」と言っている如く、日蓮宗が奉戴する法華経による「山川草木悉皆成仏」の思想によってシテの楓の精は成仏の機会を得るのであり、そのきっかけとなる楓と僧の機縁こそ、為相の歌に触発されてワキが歌を手向けたことによるのです。日蓮宗の僧らしきワキの設定といい、その僧が歌を手向ける破格の展開といい、じつは作者によって綿密に計算された仕掛けだったのです。(注)

そのうえこのときワキが詠んだ歌「古り果つるこの一本の跡を見て。袖の時雨ぞ山に先だつ」(下掛では初句が「朽ち残る」)ですが、これは古歌ではなく『六浦』の作者によって新作された歌。『六浦』の作者は ぬえが最初に想像していた「能に習熟した作者があまり力を入れずに書いた」のではなくて、ある種の強い思い入れをもってこの作品を書いたのだということがここで はっきりすると思います。

となれば、このクセのあとに舞われる序之舞は、僧の読経によって法味を得た楓の精の喜びの舞であり、また同時に僧への報謝の舞なのですね。

う~ん、しかしながら『六浦』では、どうも喜んで軽やかに舞っている、という感じには舞いにくい序之舞ではありますが。。

これは想像にしか過ぎませんが、ぬえはこの序之舞はシテが感謝を表したり、成仏の喜びを表現している、というよりは、法悦の境地にシテが恍惚として遊んでいる、という感じではないのかと思っています。

戯曲のうえでは、ワキに「なほなほ昔を語り給へ」と乞われたシテは、四季折々の自然の中で咲き誇る草花の美しさを愛でながら、さて秋の季節に話が及んだとき、為相の歌が機縁になって いまみずからが仏の教えに触れることを喜び。。さてここで眼目といえるシテの舞を入れるのが能の常套手段であり、その通りに『六浦』も書かれています。

が、仏果を得たシテが「喜びの舞」を軽やかに舞うのは、まず無紅のシテの装束からして無理があります。

そこで能の作者が用意したのが舞に導入する 次のような詞章です。

シテ「更け行く月の。夜遊をなし。地謡「色なき袖をや。返さまし。

もう ぬえはこの一文の美しさに本当に感激しておりまして。。

「色なき袖をや。返さまし」。。「や」が疑問の係助詞で「まし」は特殊な助動詞で、決断できない様子を表して「返すべきだろうか。。」と言っています。

「色なき袖」。。美しい言葉ですね。能の常套とすれば色(紅)が入っていない装束、という意味になるのですが、それは想定しつつ、無色透明な境地にシテが到達し、恐る恐る舞の一歩を踏み出したということをこの文言は暗示させる。。作者の非凡が見事に表現された一句だと思います。

(注)
もっとも、能では「草木国土悉皆成仏」という文言が多用され、これが『法華経』に書かれた釈迦の教えだということが常識のように描かれていますが、実際には『法華経』には「草木国土悉皆成仏」などという記載はありません。一番近いのは「一切衆生 悉有仏性」という、これは『涅槃経』の文言なのだそうですが、「仏性」と「成仏」じゃエライ違いです。どうやら「草木国土悉皆成仏」という言葉は観念として日本で独自に発展していった思想のようですが、そのうえその文言が能では常識のように描かれながら実際には『法華経』にない、となると。。意外に往古の先人たちもすべからく仏典に長じていた、という訳ではないようで、その点 現代人ともそれほど遠くない。。なんだか親近感を持ってしまいました。