ぬえの能楽通信blog

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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その1)

2023-03-25 00:50:37 | 能楽
さて毎度 ぬえが勤める能の曲について鑑賞のための見どころと、舞台進行の解説をさせて頂いております。今回の『屋島』は「修羅物」と呼ばれる源平の武将の生き様を描いた一連の能の曲の中でも人気曲と言われています。この屋島や一の谷、壇ノ浦での活躍に対して平家滅亡後は一転して兄・頼朝から追われる身となり、ついには奥州で非業の死を遂げた義経。能の「屋島」では不幸な最期には微塵も触れず、一貫して英雄として描かれています。

さて舞台に囃子方と地謡が着座して囃子方が床几に腰かけると「次第」と呼ばれる登場楽が演奏され、やがてワキとワキツレが幕を上げて登場します。ワキは所謂「着流し僧」で、従僧(ワキツレ)が通常二人、ワキに引き続いて登場します。

橋掛リから舞台に入ったワキとワキツレが舞台中央で向き合うと、これまた「次第」呼ばれる謡を謡います。

ワキ「月も南の海原や。月も南の海原や。屋島の浦を尋ねん。

続いて地謡が同文を低吟します(繰り返し部分は一度だけ謡う)が、これを「地取り」と呼びます。

これは「次第」という登場楽で役者が登場する場合の定型で、また「次第」はシテの登場時も演奏されるものの、多くはワキの登場に用いられ、じつはかなり特徴的な登場の仕方をします。

前述の通りワキ(あるいはシテ)がワキツレ(シテの場合はツレ・子方など)を伴っている場合は登場した役者は舞台で向き合って七五・七五・七五が定型の三句を謡いますが、シテの場合はまれに橋掛かりで向き合って謡う場合もあり、もっと特徴的なのはワキ(あるいはシテ、ツレの場合もあり)が一人で登場する場合は役者は舞台シテ柱前(橋掛リ一之松のこともあり)で客席に背を向け、囃子方の方。。鏡板の方向に向いてこの三句を謡うのです。

さらにこの役者の謡の直後に地謡が「地取り」を低吟するのも大きな特徴。次第の囃子で登場すれば必ず役者は「次第謡」を謡い、地謡が「地取り」を謡うのですが、じつは登場音楽としてではなくクリの前などに地謡が「次第謡」を謡う曲もあり、そのときも「地取り」は謡われます。つまり地謡は大声で「次第謡」を謡ってから、今度は低い声で「地取り」も謡うことになります。

「次第」と同じくらい多く用いられる登場音楽に「一声」がありますが、こちらは「次第」と比べると演奏の速度も登場の演技のバリエーションも格段に広く、この自由度の高さからの比較では「次第」は「静的」で「儀式的」な印象が強いと思います(激しい次第もまれにありますから、あくまで印象ですが)。能ではワキが「次第」で登場して、その後にシテが「一声」で登場する、という形式に作られていることが多いように思いますが、ワキの登場を儀式的に行うことである種の「実在性」が担保され、これにより舞台に安定感を与える効果があるのではないか、と ぬえは考えています。

その後じつは人間ではない化身の前シテが現れるときこの安定感が一気に崩れて、シテに注目を集める効果もあるでしょうし、舞台に緊張感を与えて舞台の経過に観客を集中させることを狙ったのではないか。。? ちなみに「屋島」では前シテも後シテも「一声」で登場しますが、その印象はかなり違っていて、「一声」の柔軟性を感じます。

ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。我いまだ四国を見ず候ほどに。この度思ひたち西国行脚と志し候。

さて地取りで正面に向き直ったワキは自己紹介の文を謡い、その最後に「立拝」とも「掻き合わせ」とも呼ばれる両手を胸の前で合わせる型をして、これよりワキはワキツレと再び向き合い、紀行文である「道行」を謡います。

ワキ/ワキツレ「春霞。浮き立つ浪の沖つ舟。浮き立つ浪の沖つ舟。入日の雲も影そひて。其方の空と行くほどに。遥々なりし舟路経て。屋島の浦に着きにけり 屋島の浦に着きにけり。

京都に住む僧(ワキ)一行が四国・讃岐国の屋島に行くので、もちろん交通手段は難波か摂津あたりからの海路ですね。じつは道行はかなり具体的な行路を記してあることが多くて興味深く、作者の意図がこめられていることも多いのです。「鉄輪」ではシテは京都市内から貴船神社までの「道行」で、京都の人ならば知らぬはずはないはずでしょうが、これを京都の人に聞かせたら「あんな道を通っていかはったんか。。」と言っておられました。なんでも通常の貴船神社までのルートではなく、今でもその道はあるけれども獣道程度の道しかない、とのこと。。身を潜めて「丑の時詣で」をする恨みを持った女ですから、その道順を聞いただけで観客は震えあがる効果を狙ったのでしょう。逆に「楊貴妃」のように想像上の場所。。常世の国に行く道行もあって、これはさすがに道行の描写も抽象的ですねw。

「屋島」の「道行」は平明な文章で、しかも地名が一切登場しません。海がない都からしても当時は讃岐までの道のりは自明だったのか、平凡な地名の列挙を避けて、春のほのぼのとした旅路を情緒的に描くことに徹したのかもしれません。

ワキ「急ぎ候程に。これははや讃岐の国屋島の浦に着きて候。日の暮れて候へば。これなる塩屋に立ち寄り。一夜を明かさばやと思ひ候。

「塩屋」とは製塩のために浜辺に建てられた作業小屋のことですが、この後登場する前シテとツレは漁翁と漁夫。。つまり釣りをする漁師です。まあ、釣ってきた魚を加工する作業小屋をも同じく「塩屋」と呼んだのかもしれませんが、じつは ぬえはこのあたりから「屋島」の作者(世阿弥と確実視)が能「松風」を念頭に置いて能「屋島」が作った、その片鱗が早くも現れているのではないか、と感じています。

ともあれ塩屋への宿泊を志すワキ一行は塩屋の主人の帰りを待つ体で舞台脇座に着座します。(続く)