ぬえの能楽通信blog

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『砧』雑感(その4)

2006-12-14 20:35:54 | 能楽
「砧之段」の詞章はこういうもの。

蘇武が旅寝は北の国、これは東の空なれば、西より来たる秋の風の、吹き送れと間遠の衣擣たうよ。古里の軒端の松も心せよ。おのが枝々に嵐の音を残すなよ。今の砧の声添へて君が其方に吹けや風。あまりに吹きて松風よ、我が心通ひて人に見ゆならば、その夢を破るな。破れて後はこの衣、誰か来ても訪ふべき、来て訪ふならば何時までも衣は裁ちも更へなん。夏衣、薄き契りは忌はしや。君が命は長き夜の、月にはとても寝られぬにいざいざ衣擣たうよ。かの七夕の契りには、ひと夜ばかりの狩衣。天の川波立ち隔て、逢瀬かひなき浮舟の。梶の葉もろき、露、涙。二つの袖や萎るらん。水陰草ならば、波打ち寄せよ泡沫。文月七日の暁や、八月九月、げにまさに長き夜。千声萬声の憂きを人に知らせばや。月の色、風の気色、影に置く霜までも心凄き折節に。砧の音、夜嵐、悲しみの声、虫の音、交じりて落つる露、涙。ほろほろ、はらはら、はらと。いづれ砧の音やらん

この「砧之段」の詞章は、ちょっと読んだだけでは内容が今ひとつよくわからない(?)構造になっていて、ぬえも初めて『砧』の地謡を覚えた当時は苦労したものでした(うう、懐かしい)。それは、この部分の詞章が、常に反語のように肯定・否定を繰り返しているからで、夫への思慕と、その心変わりへの疑いとの間に揺れるシテの心を表現するのと同時に、これを耳にする観客にも不安定な感覚を与えて、非常に効果を上げていると言えるでしょう(ついでにそれを覚える若手能楽師(当時)にまで不安感を与えてしまいましたとさ)。複式夢幻能という、過去と現在の時空を一つの舞台に繋ぐ画期的な手法を発明した一方で、このような通時態風の、「意識の流れ」のようなものを深化させてゆけるなんて。。やっぱり世阿弥ってすごいなあ。

さてこの「反語」風に肯定・否定を繰り返す手法は、「砧之段」で、とくにその前半部に顕著に現れています。

「西より来る秋の風」に、夫の方へこの砧の音を「吹き送れと間遠の 衣打たうよ」
と、はじめは吹き来る秋風をも自分の思いを夫へ伝えるものと頼もしく思う妻は
「君が其方へ吹けや風」と言う(ここでシテは足拍子まで踏みます)のに、すぐにその思いはあらぬ方向へと向かって行きます。
「あまりに吹きて松風よ、我が心通ひて人に見ゆならば、その夢を破るな」

当時、というか王朝時代より、思う人と心が通じたならば、「夢の通い路」を通ってその人と会える、と信じられていました。『清経』のツレが「涙とともに思い寝の夢になりとも見え給へ」と言っているのも同じ思いでしょう。和歌集でも恋の歌にはしばしば夢が登場しています。ちなみに『古今和歌集』の「巻第十二(恋歌二)」の冒頭には小野小町の夢の歌が三首まとまって載っていて、そのうちの一つ「うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものは頼みそめてき」は、『清経』のシテが登場直後に謡っていますね。

さて「砧之段」のこの部分ではシテは、「君が其方へ吹け」と言ってすぐに、それをうち消すように「でも自分の言葉によって荒く風が吹いてしまったならば、夫の夢を覚ましてしまうだろう。どうか夢の通い路を破らないでおくれ」と言うのです。そして「破れる」という言葉から、いま打っている衣との連想となります。

「破れて後はこの衣、誰か来ても訪ふべき」
破れた衣を誰も着ないように、夢が破れて通い路が閉じてしまったならば、夫は二度と帰って来ないだろう。
「来て訪ふならば何時までも、衣は裁ちも更へなん」
夫が帰ってきたならば、衣を裁ち直し、契りも永遠になるのだ。
「衣は裁ちも更へなん」…衣を裁ち直す事はそのまま「衣替え」に通じて、シテの心の中の季節は夫との蜜月の日々の夏に移ろってゆきます。


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