聞いた時にはにわかに信じられませんでしたが、、、
流石、神々の国出雲、出雲圀風土記所載の神社は399社もあるんですね。
ところが、国宝である神魂神社(大庭神社とも)は、そこに記載されていないというのです。
え~~!!うそ~~!と、知人が置いていた「出雲神社探訪 出雲圀風土記所載神社 全399社」の記載神社一覧を見てみると、確かに載っていない。
こんなことがあるんですね(@@
それでか!司馬遼太郎の先日紹介したエッセイ集に収められた、昭和36年の「生きている出雲王朝」の中で、神魂神社の社家の秋上さんと話をした時、「秋上さんは話が終わってから『出雲大社はけしからん』といって、こまごまとした現実の話をした」と書かれています。
読んだ時には、何事だろうと思ったのですが、にわかに信じられない話とリンクするのでしょうか?
神韻ヒョウビョウたるたのしさ
出雲国造についてこんなことも書かれています。
大和朝廷と対抗する出雲王朝の帝王であった大国主命を斎(いき)祀る出雲国造が、いつかつての敵の大和政権から国造の称号をもらったかはあきらかでない。この話は実にややこしい。とにかく『国造本紀』には、宇迦都久怒(うかつくぬ)命という出雲人が国造職になったとされている。このミコトが、西紀何年に誕生し何年に死没したかがわからないところに、日本史の神韻ヒョウビョウたるたのしさがあるのだ。同時に、その国造家の神代以来の家来であったところに、W氏の家系の出雲的エラサがあるようである。
豊の国初代国造宇佐池守公から57代目の宇佐公康氏は、宇佐池守公は出雲国造と一緒に国造になったと書かれていましたが、、、
W氏の末・斎木雲州氏は著書の中で、物部王朝が3代でついえた時、秋上家は自家の祭神を新たな社を作って遷座し、自家を神社にしたと書かれていました。
風土記が書かれたのはそれよりずいぶん後、皇統的には25代程度後で、天穂日命の後裔で国造出雲臣広嶋が書いたとされているんですけどね。
あっ、Wikiに記載された神魂神社の記事を読みましたが、僕には、風土記不記載の理由としては得心できる説明にはなっていないように思われました。
ただ、世間的にはそういうことになっているのだから、僕のような軽輩の者が騒ぎ立てるようなことではありませんね。
まあ、司馬遼太郎も書いているように、古代の話って神韻ヒョウビョウとしたものがあり、あれこれ読んだり現場に足を運ぶとぼんやりと見えてくるような気になるもので、面白いものです。
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