小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



小田原駅周辺から山王川までの間の区域が現在の街区方式による町名に変わったのは昭和41年の4月から。旧町名から新町名へ変更するにあたり街区を表示した街区表示板などが作られブロックごとに目の着きやすい電信柱などに取り付けられた。昭和41年に街区方式による新町名へ移行する際に街区表示板が1300枚作られた。街区表示板の写真は無かったものの資料によると鉄板製で縦66cm×横12cmの大きさ。広報おだわらアーカイブの昭和41年1月号(PDF)に参考図が掲載されていたのでプリントアウトして街区表示板を探しに出かけた。街区表示板が取り付けられたのは昭和41年で、今から48年も前になる。とりあえず古い電柱には残っているかもしれないと本町2丁目交差点周辺の木製電柱を探してみる。本町2丁目交差点周辺には5本の木製電柱が残っているが、そのうちの一本に街区表示板らしき鉄板製の表示板が取り付けられていた。見たところ広報おだわらに掲載されていた街区表示板の参考図に良く似ている。昭和41年に作られた街区表示板は縦66cm×横12cmのサイズ。持参したメジャーで取り付けられていた表示板を図るとぴったり縦66cm×横12cmの大きさ。新町名に移行した際に小田原市が制作したものに間違いないようだ。駅周辺を探したところ、大工町通りと弁財天通りでも1枚づつ発見。昭和41年春にブロックごとに計1300枚も取り付けられた街区表示板も30分ほどの探索で3枚しか発見出来なかったので現存するのは結構少ないのではと感じる。昭和41年、街区表示板のほか各家庭や事業所などに配布されたのが町名表と戸番表。町名表と戸番表は1万8千枚ほどが作られ、対象地域内の約8千世帯へと配布された。写真の町名表と戸番表は自治会関連の古い倉庫に取り付けられたもので、恐らく昭和41年に配布したものだと思われる。戸番表は縦6cm×横12cmで当時の広報に記載されている戸番表のサイズと同じ。子供の頃から見慣れた青地に白抜き数字の戸番表だが、意外と歴史のあるものだと知って少しびっくりした。

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現在の三の丸小学校の敷地にはかつて本町小学校があって、その本町小学校では昭和40年代後半から児童の体力強化策の一環として毎朝、マラソンが行われていた。 1992年3月末で閉校となった本町小学校では、昭和47年の4月26日から朝のマラソンを実施。始業前の8時20分から30分までの間、ほぼ全校生徒が参加して校庭でマラソンが行われた。本町小学校でマラソンが始まったきっかけの一つが昭和47年2月に開催された札幌オリンピック。体力強化の一環としてマラソンを続けて、日々の走行距離を積み上げて卒業までには小田原から札幌までの距離を走ることも目標とされていた。マラソンが始まって8年目の昭和55年、本町小学校は創立80周年を迎えその創立記念として制作されたのがマラソンの像だった。このマラソンの像のことは以前新聞記事を読んで知っていたのだが、てっきり本町小学校の解体とともに撤去されてしまったものだとばかり思っていた。ところが先日、三の丸小学校が開放されているときに校内を散策中に発見してびっくり。現在は三の丸小学校の校庭南側の目立たない場所に置かれていた。このマラソンの像は、男の子がマラソンのスタート姿のブロンズ像で作者は彫刻家の松田芳雄氏。高さ約90cmのブロンズ製で校内の募金で集まった39万円が制作費にあてられた。マラソンの像は高さ1.1mの自然石の台座の上に立っているが、台座の石は半分ほどが埋まっている。台座にはプレートが取り付けられていて資料によると「継続は力なり」と刻まれているようだが、継続の下の文字は埋まってしまっていて読むことが出来ない。題字を書いたのは当時の三橋校長とのこと。このマラソンの像の序幕式が行われたのは昭和55年の11月30日で、除幕式のほかに創立80周年の記念式典が行われた。当初のマラソンの像は台座の上に片足をつけてスタートを切る男の子の姿だったが、老朽化のためか、現在は補強のポールが背中に接合されていた。「卒業までに札幌へ」を合言葉に続けられた本町小学校の朝のマラソン。小田原から札幌までの距離は1,254.8kmで毎年6年生の20~30名ほどが達成したとのこと。その当時の本町小学校の校庭のトラックは1周150mほどなので6年間で約8,000周ほど走ると札幌までの距離に達する計算。私も今週末から年末まで1,200km走れるように頑張ろうかな。

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小学生の頃、新学期が始まってまもなく級友が、家からグッピーの入った水槽を持ってきてクラスで飼育することになった。水槽の中を見ると綺麗な尾ビレをゆらゆらとさせて小魚が泳いでいた。グッピーを見たのはこのときが初めてだったが、級友に聞けばグッピーが獲れる小川が小田原市内にあるとのこと。グッピーがいる小川が市内にあると知ってどんどんと行ってみたい気持ちが大きくなり、その年の夏休みに級友と連れ立って出かけたのが明治製菓裏の排水路だった。酒匂川右岸の富士道橋から上流方向へを300mほど進むと、サイクリングコース脇に明治製菓のバイオサイエンス研究所が見えてくる。研究所裏手には排水路があり、かつてその排水路にはグッピーが生息していた。酒匂川サイクリングコースはランニングやポタリングなどで現在も良く通っているが、先日、明治製菓の裏手を通った際に、ふとグッピーの事を思い出して、明治製菓裏手の土手下へ降りた。以前はフェンス沿いの結構長い区間に排水路があったように記憶しているのだが、現在では土に覆われていて排水路らしきものは見当たらない。現在の排水路は研究所南側から敷地に沿って数十メートルほど下流へ流れた後に、他の水路と合流している。熱帯魚のグッピーが生息している小川なので、さぞかし綺麗な水草が生い茂った清流なのだろうと期待していたのだったが、実際は工場裏手の殺風景な排水路だったので初めて現場を訪れた時に、かなりがっかりしたのを覚えている。その当時、明治製菓からは温排水が排水路へと流されていたので、熱帯魚のグッピーがこの排水路で野生化して繁殖。工場敷地内ではうなぎやティラピアの養殖も行っていたようで、ティラピアもたまに捕らえることが出来た。現在の排水路は水深10cmほどだが、グッピーが生息していた頃はもっと水量が多かったように記憶している。以前は、薬品の匂いのする生温かく茶色っぽい排水が流れていたが、今は無臭で透明な排水が流れている。試しに排水路に手を入れてみたが冷たかった。これではグッピーは生息出来ない環境だ。このグッピーが生息していた排水路をグッピー川と呼んでいた。小学生の頃は何度も訪れ、最後に魚獲りに訪れたのは高校1年の時。その時、このグッピー川で一緒にティラピアを釣った同級生は若くして亡くなり、グッピー川の思い出話も出来なくなってしまった。今でも酒匂川サイクリングコースの明治製菓近くを通ると、ふとグッピーを獲った昔のことを思い出す。生温かな排水の感触。茶色の水の中に棲むグッピー。なんとも不思議な場所だった。

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かつて城内小学校の敷地だった二の丸広場には、城内小学校当時の建造物の一部が現存している。講堂だった建物は歴史見聞館として利用されているが、その歴史見聞館の裏手には岩石園が残されている。木造校舎だった城内小学校が解体されてから20年近くになるが、かつての学校敷地だった現二の丸広場内には城内小学校の建造物がいくつか残されている。二の丸広場内にある歴史見聞館裏手の一画が、かつて旧城内小学校の岩石園だった場所。現在も岩石園の名残の大きな石が置かれたままになっている。城内小学校に岩石園が完成したのは、東京オリンピックに沸いていた昭和39年のこと。岩石園の中の植込みに隠れるように岩石園と掘られた自然石が残されている。城内小学校に岩石園が作られたきっかけは、児童たちが地学の勉強に興味を持ってもらおうと身近にある石を集めて美しい庭園を造り情操教育と理科教材に役立てるため。昭和39年8月の夏休み中に教員とPTA関係者が協力し、箱根をはじめ東丹沢と三浦半島の3ヶ所からダンプカー約10台分の岩石を収集。当時の見上横浜国大教授の指導により岩石を配置した。岩石園の大きさは約300平方メートルで、収集した岩石は3トンもあるものから小石までと様々。地区別・種類別・利用状況などに分けて並べられた。種類別では火成岩・堆積岩・変成岩で分けて置かれているようなのだが、地学には疎いので岩石の種類や名前は分からず。この岩石園には低学年用の遊び場も造られたとのこと。岩石園中央にある石のサークルが遊び場だった場所なのかもしれない。小田原市内の小学校では昭和40年代に何校かに岩石園が造られた記録が残っている。芦子小学校の岩石園は近くの少年院の院生も勤労奉仕して造られたようなので機会があれば探索に出かけたいと思う。

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小田原市扇町を中心とした5自治会が扇町防犯モデル地区を結成したのは昭和50年の4月。地区内では様々な防犯活動が行われたが、その中の一つの取り組みとして昭和50年の12月に防犯灯に標語のプレートが取り付けられた。先日、昭和50年に取り付けられた標語プレートを探しに扇町地区へと出かけた。扇町は1丁目から6丁目まであり、飯泉橋の右岸側から小田急線までの結構広い範囲が探索エリア。とりあえず昭和時代の店舗や古い家並みが残っている旧道周辺を探索。防犯標語は扇町地区内にある足柄小学校・芦子小学校・白山中学校の児童生徒から募集し、400人の標語が地区内にある330本の防犯灯に取り付けられたとのこと。旧道から細い路地裏を探索するもなかなか見つからない。今から38年前に取り付けられたので、そもそも防犯灯自体が新しい物に置き換わっていた。探索から20分あまり、半ば諦めかけたときに富士フイルムの工場近くの路地に古い防犯灯があるのに気が付いた。その防犯灯のポールには錆びついたトタンのプレートが針金で固定されていた。書かれている文字はほとんど読めなかったがプレート左側にはうっすらと学校名と氏名。プレート下部には42区防犯協議会の文字。探していた昭和50年に取り付けられた防犯標語のプレートだ。さらに探索すること5分。国道255号近くの路地の防犯灯にも残されていた標語プレートを発見。このプレートもかなり錆びついていたが何とか標語が読める。「どろぼうさん みんな見ている 太陽も 星も」足柄小学校の生徒の標語だ。国道255号を渡り井細田駅方面へと探索を続ける。八幡神社近くの防犯灯にも防犯標語プレートを発見。「どんなことでも話し合い よりよい町を育よう」このプレートも足柄小学校の児童の防犯標語。プレートを探索しながら気が付くと芦子小の前まで来ていた。校門横には標語の立て看板が古い防犯灯にくくりつけてある。時代は変われど、標語を防犯灯に設置するのは昔も今も変わらない。その立て看板の裏を見ると、なんと古い防犯標語のプレートが残っていた。このプレートは意外と良い状態で文字の赤いペンキも残っている。この防犯標語のプレートはすべて地区の自治会やPTA関係者などによってカラートタンにペンキで記入し防犯灯に設置したとのこと。耐久性の無さそうな素材で、しかも40年近く前に設置されたものなので発見は難しいかと思っていたが40分ほどの探索で4枚見つけることが出来た。また散策の合間に探してみたいと思う。

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