<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ほかの何処にも行かない

2014年12月28日 19時14分37秒 | Weblog

「阿字の子が阿字のふるさと立ちいでてまた立ち返る阿字のふるさと」

今日は親戚の3年忌法事に出掛けて行った。読経が終わった後でお坊さんの説法が続いた。お坊さんは真言宗のお坊さんである。上の句が耳に残った。

阿字とは何を意味しているか。辞書をひもどく。

阿字:梵語の第一字母。密教で、「阿」字万物の根源であり、不承不滅の原理を象徴的に表現するとされる。

「阿字のふるさと」とは大日如来の仏国土のことである。大日如来は梵語でバイローチャナ、摩訶毘盧遮那仏。光明遍く照らす仏界のことだ。阿字の子とはわれわれだ。われわれは「故郷を立ち出て」何処へ行ったか。こちらの世界へ来たのである。すなわち此処へ生まれて来たということだ。「また立ち返る阿字のふるさと」とは、こちらの世界を死んで仏界にふたたび帰って行くことだ。

われわれの命の根源は仏界である。そういうことだ。他に何処へも行けない。そこを出て物質世界の娑婆世界で修行をする。ここが一番障碍が多い。障碍が多いので摩擦熱を出す。ここで魂が錬磨される。錬磨されて光輝く。光輝く命だと言うことを実証してふたたび仏界へ戻ってくる。そういう図式だ。他には行けない、大日如来の仏界を行ったり来たりするだけの話なのだ。不安はない。安心していることだ。

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大掃除

2014年12月28日 18時38分00秒 | Weblog

今日は12月28日。明日は29日。明後日は30日、そしてその次は大晦日31日。今年は残すところあと4日となった。家内は家の中の大掃除を担当し、我が輩は家の外の大掃除を担当する。といっても、家の周囲の小径中道の草取り(これは春夏秋冬いつでもしているのだが)をより念入りにしてそれから箒の目を付けて清浄正月の雰囲気をしつらえるだけである。これをするとなんだかもういつお正月が来てもいいという気持ちになる。というか、それ以上は手が回らないからである。

では見えないところの大掃除はどうか。つまりこころの大掃除だ。これはおざなりだというしかない。懺悔すべきは山ほども海ほどもあるが、それをすると深い闇を作ってしまうので、大仕事になる。闇に沈むときにもエネルギーを消費するが、ここを抜け出すときにもそれ以上のエネルギーを消耗する。それでついつい省略をしてしまう。こころの大掃除をするために、若い頃は山奥へ分け入っていって滝に打たれた。今はもう水の寒さを撥ね除けるだけのファイトは見付からない。

 

 

 

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24回繰り返して 厭きず

2014年12月28日 17時01分59秒 | Weblog

1才5ヶ月の孫(男の子)を公民館広場に設置してある滑り台に連れて行って遊ばせた。男の子はこれに夢中になった。階段をよじ登っていって見晴台に辿り着いてそこから両足を前に出して滑走する。初めは滑走台の両脇を両手で掴んで恐る恐る下りていたが、大丈夫だと言うことが分かると両手を放した。するとスピードが付いた。これが彼の愉快を引きだした。満面を笑みにして着地した。もちろんよちよち歩きだから、見守り隊がついていなくては危険だ。一度は両足より先に上半身が滑り始めてひっくり返ってしまった。手を差しだして食い止めたからよかったものの危ないところだった。冒険心に火が付いて面白くなった孫は連続24回これを繰り返した。もう止めにしよう、帰ろうよと幾度言っても聞かなかった。滑って小走りに階段口に走って行き、ステップを片足ずつを上がって見晴台に立つ。このサイクルを続けた。嬉しくて楽しくてならないらしかった。最後は小学4年生の長男が彼を抱き留めて来て車に乗せてくれた。好奇心の勝利だ。

ご老体のさぶろうはもはやこれだけの好奇心も冒険心もない。さぶろうを走らせるものがない。彼にはこれがある。彼は滑って走って駆け上って万歳をして、24回も繰り返しても厭きず、得意満面だった。

 

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「からだ」の一人働き

2014年12月28日 07時12分20秒 | Weblog

「からだ」に「さん」をつけるのは不自然だろうけど、「さん」をつけて敬い、丁重に感謝をしたくなる時がたびたびある。で、「からださん、ありがとうね」を言う。「言う」の主語は「こころ」だ。でも、「からだ」と「こころ」は別個には存在していない。同一行動をしている。二人三脚の総合体だ。分ける方がおかしいが、敢えてそうしてでも、お礼言上をしたい気持ちにかられる。「気持ち」は両者の仲を取り持つ役をする。「こころ」も「気持ち」も「からだ」のすることができない。「からだ」が一人働きをしていると感じるときがある。呼吸することも食事することもそれを消化して排出することも、「こころ」にはできない。歩いて行くことも曲がって物を掴むことも同様「からだ」にしかできない。全部、「からだ」におんぶされていることだ。

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