為我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提 以仏神力 利益衆生 「舎利礼文」より
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いがしんしん にゅうががにゅう ぶっかじこ がしょうぼだい いぶつじんりき りやくしゅじょう
我が為に身を現して、我に入りたまふ 我をして入らせたまふ 仏の加持したまふが故に、我は(仏の)菩提を(我が身に)証せり 仏の(この不可思議な)神力を以て、衆生を利益せむ
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大日如来が修行者のわたしのもとに仏身を現してくださって、わたし(の三密)にお入りになり、わたしを(仏の三密に)入らしめてくださったので、わたしはこの通り大日如来と一体化してその仏智をこの身に頂いて加持されたのである。この上はわたしが仏の神力に動かされて(苦悩の)衆生を利益(りやく)救済していこう。
(いい加減さぶろうのいい加減な解釈)
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三密とは仏の持つ三つの蜜のハタラキを言う。人間の思議の及ばないところだから蜜という。具体的には身・口・意のハタラキを言う。口にすることばとこころの思いとその実践実行とを言う。人間のそれは三業とも言う。
三密でもって仏は修行者を加持するので三密加持という。加持とは仏が不可思議な神力で衆生を加護すること。
三密加持の行がある。これは人間の三業と仏の三密を一体化させる行である。三密相応とも三密瑜伽ともいう。修行者の三業が大日如来の三密と本質的には同一であることを修行によって体験していく。(以上は辞書に拠った)
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経文を舌の上に遊ばせて味わうと、さぶろうはしだいに涙になる。嬉しくなる。有り難くなる。ほかほかに体温心温が温度上昇する。修行者でもないから、本来はそうあってはならないのだが、そうなる。偲んでみるのである。ふりをして遊ぶのである。真似事である。真似事は幼児期のままごと遊びに似ている。
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入我我入。にゅうががにゅう。仏がわたしに入って来られ、わたしが仏に入っていく。そうするとわたしは仏と同一することになる。こんなことがあっていいのか。逡巡するがそうなっている。仏の加護は常に密である。秘密裏である。それを布団干しのように表に出して来て、あたたかさに触れるとよろこびになる。