<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

仏がわたしにお入りになる わたしも入って行く

2017年07月30日 07時22分13秒 | Weblog

為我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提 以仏神力 利益衆生         「舎利礼文」より

いがしんしん にゅうががにゅう ぶっかじこ がしょうぼだい いぶつじんりき りやくしゅじょう

我が為に身を現して、我に入りたまふ 我をして入らせたまふ 仏の加持したまふが故に、我は(仏の)菩提を(我が身に)証せり 仏の(この不可思議な)神力を以て、衆生を利益せむ

大日如来が修行者のわたしのもとに仏身を現してくださって、わたし(の三密)にお入りになり、わたしを(仏の三密に)入らしめてくださったので、わたしはこの通り大日如来と一体化してその仏智をこの身に頂いて加持されたのである。この上はわたしが仏の神力に動かされて(苦悩の)衆生を利益(りやく)救済していこう。

(いい加減さぶろうのいい加減な解釈)

三密とは仏の持つ三つの蜜のハタラキを言う。人間の思議の及ばないところだから蜜という。具体的には身・口・意のハタラキを言う。口にすることばとこころの思いとその実践実行とを言う。人間のそれは三業とも言う。

三密でもって仏は修行者を加持するので三密加持という。加持とは仏が不可思議な神力で衆生を加護すること。

三密加持の行がある。これは人間の三業と仏の三密を一体化させる行である。三密相応とも三密瑜伽ともいう。修行者の三業が大日如来の三密と本質的には同一であることを修行によって体験していく。(以上は辞書に拠った)

経文を舌の上に遊ばせて味わうと、さぶろうはしだいに涙になる。嬉しくなる。有り難くなる。ほかほかに体温心温が温度上昇する。修行者でもないから、本来はそうあってはならないのだが、そうなる。偲んでみるのである。ふりをして遊ぶのである。真似事である。真似事は幼児期のままごと遊びに似ている。

入我我入。にゅうががにゅう。仏がわたしに入って来られ、わたしが仏に入っていく。そうするとわたしは仏と同一することになる。こんなことがあっていいのか。逡巡するがそうなっている。仏の加護は常に密である。秘密裏である。それを布団干しのように表に出して来て、あたたかさに触れるとよろこびになる。 

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人は意思の力で生きている

2017年07月30日 07時06分23秒 | Weblog

人は意思の力で生きている。生きようとする意思の力で生きている。己の内にこれが強く働いている。これを強めることで逆境を生き延びることが出来るはずだ。西瓜の蔓が畑に長く伸びているように。西瓜の蔓は、あれは生きようとする意思の蔓なのだ。昨日見舞った友人のこころの畑に西瓜の蔓が長く長く延びていきますように。

 

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味わうのは舌だから 味わうことは出来る

2017年07月30日 06時17分41秒 | Weblog

味わうのは舌だから、舌が元気な活動をしてくれたら、味わうことは出来る。昨日は友人を見舞った。たとい身心に重い病を病んでいたとしても、今日ただ今を生きているというこのおいしさを味わうことは、舌には出来るはずだ。

病人はこのおいしさを味わってはならないという法令は発布されてはいないのだから。たといそういう法令があったとしても、自由だろう。舌はそんなことにはお構いなしだろう。今朝も僕は友人のことを思っている。

人はそれぞれに重い。重い荷物を肩に担いでいる。でもその重さを悔やまないことだろう。恨まないことだろう、我が身の不幸を嘆かないことだろう。そうした途端にこの世の一切が腐ってまずくなる。そう分かっていても引き摺られてしまうかもしれない、いざそういう境遇に落ちてしまったら。でも昨日見舞った友人は悔いなんかおくびにもしなかった。

悔いて生きるのはつまらない。一瞬一瞬はそんなことのために提供されているのではない。切り替えたら、身心の病も切り替えが起きる可能性が大になるはず。一段元気の方へ、健康の方へギアチェンジがされる可能性が大になるはず。味わうのは身心の一部分の舌なんだから。この部分が活動をしてくれていたら、今日ただ今を生きているというこの新鮮なおいしさを味わうことは許されているはずだ。

健康な人の舌と病を患っている人の舌は違う舌だろうか。もしかしたら違っているかも知れない。当てずっぽうは言えないかも知れない。置かれている境遇が舌を造っているだろうか。生きているおいしさを味わう舌はどちらの方が敏感なんだろう。

夏の朝の6時半。支柱に結ばれているトマトの幹が伸び上がって伸び上がって、溌剌としている。そろそろ3m近くあるだろう。2m半くらいのところに青い実が3個実っている。深い草藪にはさまざまな虫の鳴く声がする。コノヨニ・イキテイル・オレハ・イマヲ・ウレシク・イキテイルという声がする。トマト畑からも草藪からも。

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油蝉が夏の朝を連れてきた

2017年07月30日 05時47分39秒 | Weblog

油蝉が夏の朝を連れて賑やかな林に遊んでいる。まだ6時にもならないというのに。眼前の庭には濃紫の朝顔が幾人(いくたり)もいてはっきりと目覚めている。長い夜が去って行った。夢だらけの沼地をようやく抜けられたという感じがする。夢映画館は毎晩新作がずらりとならぶ。それをみんな見せられるのでへとへとだ。今日は日曜日だった。家族はまだ起きて来ない。蒸し暑い夜に浸っていたので汗が粘りついている。風呂場へ行って朝シャンをしよう。ところが朝シャンというのは朝シャンプーのことらしい。僕には頭髪はないから、朝シャワーしかできないけど。老いた全身を海にする石鹸の泡は清々しい。グノーのアベマリアの曲が霧の池を滑ってしずかに流れてきた。YouTubeを聞いている僕のいる窓辺へ黒揚羽が来て「わたしもお仲間に入っていいかしら」というゼスチャーをする。僕は首を縦に垂れる。さて、今日をどう生きていこうか。生きている今日をどう生きたら、それが味わえるのだろう。そのおいしさに舌鼓が打てるのだろう。夏草の生い茂る城原川の河原を横目に見ながら南下してサイクリングをするのがいいかもしれない。このところずっとやっていない。僕は猿のナマケモノ以上にだらしがないのだ。暑い夏はわけても。

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