10
猫のことを考えながら、僕は僕のことを考えている。「僕である」ことの意義を考えている。「僕でなくなる」ときのことをも、あわせて考えている。
僕は「僕でなくなる」ときが必ず来るのだが、その瞬間に、僕はもう一つ先の「ある」に変わってしまって、僕を認識しないかもしれないのだ。
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猫のことを考えながら、僕は僕のことを考えている。「僕である」ことの意義を考えている。「僕でなくなる」ときのことをも、あわせて考えている。
僕は「僕でなくなる」ときが必ず来るのだが、その瞬間に、僕はもう一つ先の「ある」に変わってしまって、僕を認識しないかもしれないのだ。
9
仏教は「仏に成る」という教えなのだろうか。或いは「仏である」という教えだろうか。その曖昧な中間なのだろうか。
「仏ではない」から、「仏ではない」ことを認めて、そこから「仏に成る」ことを目指して行くのだろうか。
わたしの疑問。あくまで来世でのみ、「仏に成って、仏である」を実現するのだろうか。
「仏に成る」という一本道は、来世のボーダーまでは、しっかり切断されているのだろうか。
8
「仏である」と「仏に成る」について考えてみよう。
「仏になる」ということは、どういうことか。いまは「仏ではない」という否定形を含んでいるのだ。「仏である」を実現していないのだ。
来世を待って「仏に成る」のなら、つまりこの現世には誰一人として「仏である」人はいないということでもあるのだ。
仏ではない者が、仏を理解して、仏の教えを伝えて行く、などという芸当ができるのだろうか。
7
「人間になる」「人間である」という「なる」と「ある」の2進法で、すべては進んで行くのだ。「なる」「ある」「なる」「ある」「なる」が無限連鎖になって、連なって、連続していくのだ。
6
「猫である」というのは、猫の途中経過地点の形態である。変化を辿って辿って行くのだ。「猫になるぞ」という一地点を経過して猫は「猫である」の定点着地を果たしたのだ、きっと。
5
「ある」の前に「なる」があったはずだし、「ある」の後にも「なる」が付いて回るはず。すべては変化をしているのだから。「人間である」の前には「人間になる」のステップを踏んでいたはずである。
4
「ある」は「なる」なくしては存在が出来得ないはず。すべては次へ動いて行っているときに、<梃子でも動かない><定点をキープし続ける>なんてことが、できるだろうか。できないはず。
3
じゃ、猫はこのままずっと「猫である」を続けて行くんだろうか。嫌にならないだろうか。嫌になった場合にはどうするんだろうか。「猫である」ことを止めたら、「猫であった」ことだけになるのだろうか。
2
なんでも順序があるよね。後先があるよね。何かがあってその次にまた、何かがあるんだよね。後先なんてまったくなくて猫はいきなり「猫である」に収まったのだろうか。
1
「猫である」ということは、「猫になる」の過去形なんだろうか。それとも過去も未来もサンドイッチしないで、いきなりぽんとそこにそうして「猫である」ことを実現したのだろうか。