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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

寝たら万事がゼロになる これでよろしい

2019年01月28日 20時14分13秒 | Weblog

夕食を済んだ。久し振りにおでんだった。ぐつぐつぐつぐつ長く長く煮て、味が染みこんだダイコンがおいしかった。里芋もおいしかった。焼酎のお湯割りも飲んだ。満ち足りた。湯も浴びた。文句なし。寝る。だらしなく寝て、一日を終わる。

ほんとうは文句たらたらなのに、あれにもこれにも、文句たらたらなのに、子守唄を歌って、それを寝かし付けて、何事もなかったようにして寝る。不満も不平も人にはおくびにも出さず、消して消して、消し去って、寝る。

寝たら万事がゼロになる。己の内にも跡形もなくゼロになる。これでよろしい。

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安心をして生きて行く 生まれて死んで行く ラスト

2019年01月28日 11時26分38秒 | Weblog

理屈でもってしても、往生浄土は成らない。それは、わたしにできることではなかったのである。

恐がって恐がって悲しんで悲しんでいるけれども、本願の通りに、名号の通りに、わたしはただ安心をして生きて行けばよかったのである。

安心の一切は調えられたのである。調えてくれた主体者を「阿弥陀仏」とお呼びする。無量寿仏・無量光仏とお呼びする。

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安心をして生きて行く 生まれて死んで行く その5

2019年01月28日 11時19分11秒 | Weblog

だから無義である。ほかに義を立てる必要はないのである。それに乗っかかっていればいいのである。理屈を立てることではないのである。わたしが蟷螂の斧を振り立てて、理屈を立てることではなかったのである。

すべては阿弥陀仏の回向(えこう=回して相手に向けること)である。そのように差し向けられているからである。

 

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安心して生きて行く 生まれて死んで行く その4

2019年01月28日 11時17分02秒 | Weblog

「わたしの往生浄土が正式に決定している」、ここだけでわたしは欣喜雀躍する。しなければならない。雀になって躍り上がらねばならない。名号の南無阿弥陀仏を称えてその確認をする。納得をする。すっぽりとそのまま腹に落ちて、安心をする。

宗教はここだ。安心をして生きて行くというところだ。

 

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安心して生きて行く 生まれて死んで行く その3

2019年01月28日 11時15分33秒 | Weblog

至心というのは「一心に心を尽くして」ということである。阿弥陀仏の至心である。信楽というのは、一切衆生をお浄土に迎えて救い取ろうとする願いのことである。阿弥陀仏の誓願のことである。それらの願いの業績のすべてを、名号の南無阿弥陀仏に凝縮されたのである。だから、これがアトムである。因果の元の因である。

(これはさぶろうの解釈だから、間違いがある。曲げられているところがある)

 

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安心をして生きて行く 生まれて死んで行く その2

2019年01月28日 11時13分25秒 | Weblog

本願に込められた名号(南無阿弥陀仏)は正定の業である。これで一切衆生の救済事業=往生浄土、成仏が正しく定まったのである。法蔵菩薩の建てられた誓願の第18願「至心信楽の願」にその因(起源)がある。

 

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安心をして生きて行く 生まれて死んで行く その1

2019年01月28日 10時34分19秒 | Weblog

今日はこのことばを、醍醐として嘗めることとする。ぺろりぺろりと嘗めてみる。おいしいおいしいと言ってみる。

本願名号正定業 至心信楽願為因     親鸞聖人「正信偈」より抜粋

ほんがんみょうごう しょうじょうごう ししんしんぎょうがん にいん

本願の名号は正定の業なり 至心信楽の願をその因と為す

 

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それはそれでよかろう

2019年01月28日 10時28分46秒 | Weblog

それはそれでよかろう。次々に新しい蕾が蕾んでいてくれるのだから。それを賛美して散歩を続けていればいいのだから。

我等が住み続けるの、今年の成人はわずか2人だった。嘆かわしい。過疎がいよいよ深刻化を増して行くようだ。若者がいない。嫁いでくる者がいない。赤ん坊がいない。人の住まない古い家が増えて行く。そこに白梅紅梅が花を着けて、春を装っているばかり。

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娘でいる間が、蕾んで引き締まって、凜々しく美しい その3

2019年01月28日 10時21分28秒 | Weblog

我は老爺である。老醜の、その醜悪な老爺である。老臭がするのが、自分でも納得される。老を化学分析すれば、漬け物桶の底のような、古臭の成分に等しいのかもしれない。

白梅紅梅の内なる美の、欠片(けっぺん)も、この老爺には残ってはいない。外なる美は言うに及ばずだ。そうなればなるほど、白梅紅梅が美しくなって来る。若さを誇張して来る。

 

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娘でいる間が、蕾んで引き締まって、凜々しく美しい その3

2019年01月28日 10時21分28秒 | Weblog

我は老爺である。老醜の、その醜悪な老爺である。老臭がするのが、自分でも納得される。老を化学分析すれば、漬け物桶の底のような、古臭の成分に等しいのかもしれない。

白梅紅梅の内なる美の、欠片(けっぺん)も、この老爺には残ってはいない。外なる美は言うに及ばずだ。そうなればなるほど、白梅紅梅が美しくなって来る。若さを誇張して来る。

 

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