将棋の藤井六冠は強いなあ。化け物だなあ。100台のコンピューターだなあ。
でも、そんなにタイトルを独占しなくてもいいんじゃないかなあ、などとも思う。
人に譲って上げてもよさそうなのに、とも思うが、勝負事は勝負事。そうもいかないのだろう。
わたしのようなド素人にはそこら辺のことがなんにも分かっちゃいない。
将棋の藤井六冠は強いなあ。化け物だなあ。100台のコンピューターだなあ。
でも、そんなにタイトルを独占しなくてもいいんじゃないかなあ、などとも思う。
人に譲って上げてもよさそうなのに、とも思うが、勝負事は勝負事。そうもいかないのだろう。
わたしのようなド素人にはそこら辺のことがなんにも分かっちゃいない。
まだ降っている。いつになったら止むのだろう。畑の土はもう十分に湿った。潤っている。植え込んだばかりの畑の夏野菜たちが、これでしっかりと根を張れるはずだ。だから、彼らにとってはこれはきっと恵みの雨。それをこの辺りでは、「よかウレエなたあ」と言って方言混じりに挨拶にする。
<よい憂い>とはどういうことなのか。<憂い>じゃなくて、<熟れ>なのか。まさか<売れ>ではあるまい。<嬉(うれ)>だったら分かる。
雨は天界の憂いごとなんだろうか?
憂ってくれたから、雨になって、土が湿潤になった、という具合に、否定をうなく肯定にしたのだろうか。農家の人の深い智慧が此処に隠されているのだろうか。
ご存じの方はお教え願いたい。
忘れる。忘れることが多い。眼鏡や財布、携帯、小物入れ、保険証やカード、家の玄関のキーや車のキーをどこにしまったかを忘れる。慌てる。あちこち探し回る。すると決まって出て来ない。焦る。どこになくしたんだろうと頭を抱え込む。外出先でなくしたんだろうかと心配になる。万事休す。
やがて、ひょんなところからそれが出て来る。なあんだ、になる。ほっとする。過去に戻る。思い出す。ああそうだった、そうだったになる。
何度も繰り返す。懲りない。こんなことなら、「わたしは此処にいます」とブザーで知らせてくれるようにしていたらいいだろうに、と思う。
年齢のなせるところかなと思うが、慌てぶりがいかにもお粗末過ぎる。
*
今日もお財布騒動をした。財布の中には、お金よりもより重要な貴重品、カード類が詰まっている。なくしたら取り返しが付かないことになる。
注意に注意を重ねているつもりが、こうだ。
よかったなあと思います。
わたしが空を大空にしたのではないのに、空が大空になっています。大空になって広がっています。
ああ、よかったなあと思います。
わたしが空を青空にしたのではないのに、空が青空になっています。大空が澄み渡っています。
わたしは空をそこに見ているだけでいいのです。
煩悩のわたしは煩悩をぐしゃぐしゃにして掻き抱いたままで、空を大空にして眺めていることが可能になっています。
よかったなあと胸を撫で下ろします。
慶喜一念相応後(きょうきいちねんそうおうご) 即証法性之常楽(そくしょうほっしょうしじょうらく)
浄土真宗経典「正信偈」より
(今日はここをちょちょいと拾い上げて拾い読みをします)
*
慶喜の一念の相応してより後に、即ち、法性の常楽なるが証されぬ。
*
(これは浅学のわたしの底の浅い我流解釈ですから、読者諸氏は自らで解釈を施して下さいね)
:
<相応> 阿弥陀仏の願いに一致すること、と解釈しました。阿弥陀仏のオハカライを得て一致させられること、かもしれません。仏法を喜ぶこころは、阿弥陀様からの頂き物なのですから。
阿弥陀仏の呼吸に合う安らかな呼吸が出来れば楽ですよね、きっと。
*
阿弥陀仏の願いに一致してわたしの中に慶喜の念=信心が生まれた後には、阿弥陀仏の仏国土の、<法性之常楽>が次第に明らかになってきます。ここに安らうことができるようになります。(そうであればいいなあとわたしは思います)
*
<法性之常楽>をぶつぶつ繰り返しているだけで、いい気持ちになってきます。ここが阿弥陀仏のお与えになったところでしょうから。解釈をしないで丸呑みをしています。
「幸せな一生でございました」と呟きます。一人でいるときに。ついぽろりと呟きがこぼれます。誰に聞かせるのでもありません。軽過ぎるかもしれません。
一つのことがそのように受け止められると、あれもこれもがそれに該当します。傾斜ができて零れ落ちる砂粒のように、呟きが転がってきます。
*
雨の日。これだけ年を取りながら、それでもオレはポピーを見にポピー園まで来ることが出来た。雨に濡れるポピーはそれはそれで結構な美しさだった。この幸福に遭遇できたのはオレ様。オレサマハ・タイシタモノヨ、と思います。
そうすると、そこで、いま死に時が来ているように、「幸せな一生でございました」がぽろりと口から零れて出ます。
*
ものは思いようです。どう思ってもいいのです。そうなら、思って気持ちが軽くなるようにした方が得なのです。老人は狡いかもしれません。重たくなる発想を回避してしまいます。
*
いざほんとうに死ぬときが来て、しかし、そこで、同じように「幸せな一生でございました」を述懐して一生を締め括ることが出来るかどうかは甚だ怪しいのです。
まったく逆の捉え方をしてしまうかもしれません。そういうところに立脚しているかもしれません。
だったら、言える内に、幸福な一生締め括りを、すませておく。済ませておいた方がいいのかもしれません。
好きだなあ、この雨の中を、空港近くの広大なポピー園に行って来ました。雨に濡れる色とりどりのポピーを、見て来ました。車の中から眺めるだけでしたが。雨に濡れるポピーの風情も独特で、楽しめました。
この雨ですから、訪問客はわたしの車一台だけ。なのに、透明なレインコートに身を包んだ警備員の方が、立って誘導をして下さいました。風邪を引かれないといいのだが。いささか気温も下がっています。有り難うございますのお声を掛けて来ました。
家の中にじっとしているのは退屈。外出をして退屈を減らすことが出来ました。傘を差していましたが、それでも雨に濡れてしまいました。来ている衣服が編めに濡れると、寒いです。
仏様の願いは、わたしを仏様にすることです。
*
わたしが仏様の目をして世界を見ることが出来るようになることです。
*
わたしの智慧を仏様の智慧にすることです。
*
一日駅長さんのように、一日仏様をしてみたらどうなるんだろう、とわたしは思います。
*
仏様の涼しい目をお借りしてきて、それで世界を見渡してみる。
1時間ほどそうしていたら、わたしのこころは新緑の5月の山のように清々しくなっているかもしれません。
*
1時間仏様、もしくは1分仏様、もしくは1秒仏様。
さ、そろそろ。そろそろ着替えようかな。余所行きの服に。外出着に。
*
余所行きって、何処へ?
*
うううん。それが決まらない。
*
新聞に、県内にあるポピー園の写真が載っていました。此処だったらどうかなあ?
車に乗ってままでも眺められるかもしれない。車を降りて傘を差して園内を歩いてもいいじゃないか。
*
外出着っていったって、僕はオシャレじゃない。普通のズボンに足を通し、長袖シャツに両手を通すだけ。
*
何か行動を起こしたい。ヨイショと。
そんなことはないかもしれません。ですが、もしかしたら、<それもあり>かもしれません。
もしそうだったとしたら?
わたしはいきなり涙を滝にするかもしれません。
*
花壇のゴテチャがきれいです。真っ赤です。ゆらゆら揺れて咲いています。
わたしはそれを眺めています。もうなんときもなんときも。それで元気を湧かせます。
*
わたしに元気を湧かせるために、ゴテチャの花がそこにそうして雨に濡れながら咲いている。ただただわたしに元気を湧かせるために。
そういう仮定をしてみました。
*
そういう仮定をしてみると、わたしが一挙に嬉しくなってしまうのです。元気を二倍にも三倍にもするのです。
*
ゴテチャの花が咲いているのは、ゴテチャ自身のためであるのに違いはありませんが、それが結果させているのは、そこに限定されていないのです。わたしにも波及しているのです。
*
もしももしももしも、ゴテチャに<その意思ありき>だとすれば大変なことです。
わたしがそれを見落としてしまっていたということになってしまうからです。
*
あの小さな花のゴテチャの命が、<わたしを元気にさせようとする意思を持っていた>とすれば、わたしは涙を華厳の滝にするでしょう。
*
事の真偽を問い質してみても、ゴテチャが答えを出してくれそうもないのですが。