僕は、肉体と精神の複合体になっている。どっちも僕だ。
その割合は?
5対5? それとも偏りがある?
さて、どっちの方により多く僕は僕を感じているだろうか?
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目も鼻も耳も口も皮膚も肉体である。見ているのも聞いているのも肉体の作用だ。痒いというのも痛いというのも肉体だ。病むのも老化するのも死ぬのも肉体だ。そうすると肉体の方が生きている本体のように思われるが、そうでもない。その一つ一つ反応して反応して苦悩しているのは寧ろ精神の方だ。
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精神は僕の肉体の苦悩を一手に引き受けている。損な立場だ。しかし、引き受けたその苦悩を歓喜に変換する能力を持つのも精神だ。得られた歓喜は、当然、肉体にも分け与えられることが多い。両者は不可分なのだろう、たぶん。
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老いて病んで壊れて死んで行くのは肉体の方だが、では、不可分の精神もそこで死滅してしまうのだろうか? いささか疑問が残る。
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僕は、僕の本質は不滅だと思っている。思うのは自由だから。
老いて病んで壊れて死んで行くのは肉体であって、本質はいささかもそれに患うことはない、と思っている。超然としている、と思っている。禅の教えではそれを「無」と表現している。無拘束の「無」だ。
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物質の肉体はドラマを終える。さまざまなさまざまなドラマを見せてくれたお陰で、僕は一歩も二歩も前進することになる。その前進を働きかけていたのは、現象面を担当した僕の肉体だったということにもなる。
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僕はやがて死ぬことになるが、死ぬ現象を引き受けた肉体を、精神は分離するのだろうか? 分離して単独になるのだろうか? これも疑問が残る。元の分子にして宇宙に返還をしてしまうのだろうか。どちらもいっしょに手を携えて元の1に戻ってしまうのだろうか?