<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

出口を探していたのだろう

2017年07月25日 08時46分04秒 | Weblog

真夜中ふと目が覚めた。音がした。天上から何かが落ちてきたような音が。それで灯りを付けて部屋を見回してみたが、それが何であるのかは分からなかった。また目が閉じた。それから一時ほど有ってまた音がした。枕元にそれを見つけた。動いている者を見つけた。コオロギだった。昼間この部屋に侵入してきたものなのであろう。ところがここには食べるべきものがない。飲むべきものがない。お爺さんがいるばかりで、他は乾燥したものだ。しまったと思ったことだろう。部屋を出て行こうにも閉め切ってある。それでよろよろよろけながら出口を探していたのだろう。その時に窓を開けて外へ出してやれば良かったのだが、蛇ではなく鼠でもなかったので、安心してまた目を閉じてしまった。早朝6時、起きたらまた音がした。弱々しい音だった。光の射す窓際まで歩いて来ていた。今度は団扇に掬って硝子を開けて外の草藪へ出して上げた。喉がカラカラになっていたことだろう。朝露が飲めただろうか。

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道路工事の警備員さんは暑いだろうなあ

2017年07月24日 13時59分13秒 | Weblog

車の運転をしてあちこちへ行く。行く途中に道路工事があっていると、警備員さんが立って交通指導をしておられる。その姿を見かける。こっちは車の中だから冷房をしているが、彼らは炎天下でまともに日射を全身に浴びておられる。帽子はかぶっておられるが、日焼けしていかにもいかにも暑そうである。日射病にかかる危険性が高い。水分補給はしておられるだろうかと心配になる。とても真似が出来ることではない。頭が下がる。椅子に座っていられたらもう少し疲労がやわらぐだろうけれど、ずっと立ったままだ。トイレに行きたいときにはどうなさるのだろうかと思う。こっちは涼しくしているのから、なおさら気の毒でたまらない。安全のために長袖長ズボンに身をくるんでおられる。それがなおさら暑そうに見える。そういう顔をせずに我慢を続けておられるその我慢力も、こちらには真似が出来ない。偉いなあと思う。道路工事をしておられる方にももちろん敬意を払う。そのお陰でわれわれはすいすいすいと道路を走って行けるのである。

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それで聊か浮かれている

2017年07月24日 13時20分33秒 | Weblog

野菜瓜が10個ほども収獲できた。瓜畑は雑草も栄えて藪になっている。で、中へ分け入って行くのも躊躇われた。で、幾分かは肥大化していた。それを瓜畑から担ぎ出して、一輪車に乗せて、持ち帰って来た。これを台所に列べてごしごし洗った。それから包丁で割って、スプーンで種を掻きだして、今は平たい竹笊に列べて乾燥させているところ。ここまで家内との共同作業だった。明日には塩漬けにして、それから酒粕に漬ける。そのまま一定期間を経過すると奈良漬けが完成する。(上手いこと行くかどうか? これははてなマークだ)酒粕は午後から買いに行くことにする。我が家の畑にこれほど立派な野菜瓜が収穫できたのはあまり例がない。今年は順調に行った方だ。それで二人とも聊かちょっと浮かれている。老爺は浮かれることなんか滅多にないから、貴重なうふふうふふだ。それが間欠泉のように何度も口を突いて出る。いい歳をしていながら、まったく幼稚だ。

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わあ~い、わあ~い、わあ~いです

2017年07月23日 20時47分31秒 | Weblog

わあ~い、わあ~い、わあ~いです。青い縞模様の入ったタイガーマスクメロンが6個も実をつけました。畑に2株植えて6個です。多いか少ないかは分かりません。それがほぼずしりと重たくなっています。お尻の方はもう色が変わって黄色くなっています。収獲のし時が来ているのか来ていないのか見当が付きません。メロンは腐りやすいとも聞いています。今日は思い切って蔓を切って一個を抱き上げてきました。仏壇にお供えして感謝を述べました。まだ包丁を入れてはいません。家内がメロンはお尻の匂いで判断できると言います。まだのようだ、と。たしかに熟した匂いが洩れ出してはいません。暫く様子を見ることになりました。でも、わたしには初体験です。なにしろわたしのような不器用者の畑にこれだけの立派なメロンが実をつけたのですから。わあ~い、わあ~いです。

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蝶のみの唯仏与仏の世界が究まり尽くされている

2017年07月23日 20時08分51秒 | Weblog

ひらひらの蝶ふたつ飛び蝶のみの唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)究まり尽くす     薬王華蔵

「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」とは法華経方便品の中にある言葉。

その後へ「乃能究尽」と続く。そのまた後へは「諸法実相」と続く。

通して読めば、「唯(ただ)仏と仏のみが乃ち能く諸法の実相を究め尽くせり」 そういうように読み取れるようです。

仏教は仏さまの悟られたところが説かれた教えです。それが、わたしに分かるでしょうか? 仏でもないわたしに分かるでしょうか。道元禅師はノーを突きつけておられます。仏に達していないわたしに悟りに達した仏の説かれる悟りの内容が理解できることはない、と。

仏さまが一切を悟っておいでになるのであれば、そうであれば、すべては仏さまに一任していいということになりませんか。仏さまさえ諸法の実相を究めておられるのであれば、それで十分なのではないでしょうか。わたしがいかように無知蒙昧であっても仏さまによって悟られた世界に生きているわたしですから、畢竟すれば「仏に悟られたわたし」である、と。

「唯仏与我」=「仏さまがわたしに向き合っておられる」世界に生きていることになるのではないか、という推量が湧いて来ます。これはさぶろうの自己流の解釈です。

そこへ蝶々を遊ばせてみたのがこの短歌です。ひらひらと二つの蝶が飛んでいます。するとそこに「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」の世界が彷彿として浮かび上がって来た。という歌です。蝶々はひらひらと飛んでいるだけでいいのです。それが自ずからにして「究尽諸法実相」に適っているのです。

道元禅師は決してそういう人間だから仏の悟りの世界に往来することはできないとは言っておられません。むしろ、自在に出入りしていることが出来るのだと。仏が究め尽くしておられる諸法実相の世界を生きているのは紛れもなくこのわたしたちなのですから。

 

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目と口と手はみなきみに触れるための器具

2017年07月23日 18時57分49秒 | Weblog

目と口と手はみなきみに触るる器具 触れずして澄む月明の山      薬王華蔵

わたしの手はあなたに触れるための器具である。わたしの口はあなたに触れるための道具である。わたしの目はあなたに触れるための調具である。それ以外の用途ではない。しかあれども、今夜の月は煌々と照らして澄み渡っている。わたしはあなたに触れずしてこの月明の山に向かってただに立ち尽くしている。空しや。わたしの口も目も手もあってなきがごとし。

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恐怖(くふ)を遊ばせている荒野の竜胆

2017年07月23日 17時48分46秒 | Weblog

無有恐怖(むうくふ)が恐怖(くふ)を荒野に遊ばせて竜胆青し芒は白し           薬王華蔵

無有恐怖(むうくふ)とは「恐怖有ることなし」の凝縮形である。恐怖がないのだから涅槃である。涅槃の境界である。「恐怖あり」が迷界・人間界のあり方だが、しかし、それを引っくるめて裏返しすれば、無有恐怖の涅槃界、すなわち異界、菩薩界。仏界である。ここまで到達すると、これまでの世界の材質だった恐怖が一変する。自在を得る。荒野に遊ばせることが出来る。 自在に放たれた荒野に、竜胆は青く咲き、芒尾花は白い風と波を渡らせる。

恐怖は実体がない。空である。仏教はそう教えている。そこへ辿り着くと恐怖は形骸化してしまう。泡になって融けてしまう。無に帰してしまう。荒野は空の恐怖を遊ばせるところとなる。

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プロレスごっこは止みそうになかった

2017年07月22日 22時06分35秒 | Weblog

菊池川の川傍の植木温泉平山旅館に泊まっている。友人と二人で。夕食後また湯に浸かった。誰も他にはいないので、溢れる湯の室内フロワーに寝そべっていた。外の露天風呂に降り注いでいた俄雨がやんだので、外に出た。露天風呂が雨で薄まって温くなっていた。そこに長々と入っていた。長湯が効いて、友人は腰痛が癒えたらしかった。湯から上がってくると小学四年生と二年生の姉妹が広い廊下でプロレスごっこをして遊んでいた。宿のお孫さんらしい。今日から夏休み。それがうれしくってならないらしかった。宿の女将さんが制止するのだけど、プロレスごっこは止みそうになかった。面白くて楽しくて愉快でならないらしかった。もう10時を回っていたので、おやすみなさいの掛け声をして我々は部屋に戻ってきた。

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してもいい、しなくてもいいことばかり

2017年07月22日 09時51分25秒 | Weblog

今日はこれから友人と待ち合わせて熊本市まで出向く。時事講演会を聞く。それが終わったら植木温泉に行く。ここで一泊する。悠々自適だ。老いの身は必ずこうしなければならないとうことが月に一件もない。さぶろうの場合は。してもいい、しなくてもいいことばかり。で、少しでも興味が湧いたら、即座に立ち上がって行動に移す。いつもそうするのではない。今日は偶々そうする気になった。してもいいという気になった。

お天気がいい。いい空が広がっている。夕顔の大きな葉っぱを風が動かしている。油蝉が鳴いている。群落する鬼百合が開き切った。暑くなりそうだ。汗で濡れるのは必定だから、下着を2枚ずつ用意した。

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性はそれ草にもありて蘂濡れて

2017年07月22日 09時21分58秒 | Weblog

性はそれ草にもありて蘂(しべ)濡れて生きて死にゆくものらの愛(かな)し     薬王華蔵

立心偏に「生」を添えると途端にぬるぬるとした生々しい「性」になる。生々しいのは肉体の形であって心が生々しいのでもあるまいが、立心偏である。草のツリフネ草が夏日を浴びて咲いている。朝露がまだ乾いていないのだろうか、しっとりしてみずみずしく濡れた蘂には揚羽蝶が来ている。性は常にこうしてみずみずしく濡れている。こうして生き、こうして死んで行く。人もそうだ。人は形ばかりではなくこころも濡れる。性は生命体のもっとも旺盛な発露の器官なのだ。ならば時によっては感涙にしとどに濡れることもある。草はどうだろう。そういう生命体の順当なプロセスだから、いかにも自然体に推移しているようにも見える。その無表情の草たちの性がふっと哀しく愛(いと)おしくなってしまった。

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