<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしが生きていた証拠が死んだ後にも要るか

2017年07月27日 11時38分17秒 | Weblog

形見とて何か残さむ春は花山ほととぎす秋のもみじ葉       良寛禅師

わたしが生きていたということ。わたしが死ぬということ。その間の空間にはっきり残るものが何かあってほしい。何にもないのか。ないかもしれない。わたしがこの世に生きていたことも、それからまもなくして死んだということも、跡形としてはなんにも残ったりはしない。山を蔽っていた雪が解けて流れて水になるだけのような気もする。なんだか空しくもある。証拠になるものを、何か残しておけないか。わたしは確かに此処に生きていたのだから。苦しんで悲しんで憎んで愛して、だらしなくして、しかしまた懸命に生き長らえて。夜中ふと目覚める。まだわたしがいる。呼吸をしている。わたしを偲びたいときがわたしに来るだろうか。そうやってあくせくして汗を垂らして歩いた道を懐かしく思い出したいときが来るのだろうか。わたしにそれを偲ぶだけの意識が維持されているのだろうか。そんなことはありそうにもない。

良寛禅師はわたしに辿り着くもの、形見は残しておかなくともいいとされたのだろう。わたしが此処にいなくとも、春には花が咲くだろう。夏の山にはホトトギスが渡って来るだろう、いつものように。変わることなく。秋になればもみじ葉は赤く色づいて野山を美しくするだろう。それでいいではないか。悠久の自然が残っているではないか。わたしへの無限の執着を放下しさえすれば、この問題は解決する

さぶろうは執着の沼地にいる。そして思っている。また此処へ戻ってくるのだろうか。だったとしたら、そこに印が要る。わたしへ辿って行くときの道しるべが要る。しかし、その時が来たとしてもそれはその時に委ねていいことだ。わたしを新しくしさえすればそれで済むことだ。

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり  

道元禅師にはこの歌があった。歌の真意は俗人のさぶろうには分からない。邪推するしかない。

花が咲く春も、ホトトギスの鳴く夏も、月の明るい秋も、雪の降り積む冬も、年中、我が心のありよう次第で、心涼しくして暮らせるところに人は生きている。生死は流転をしても、尚且つ現在も未来もこころ涼しくしていることができるように、仏陀の法は造成されているはずである。生死の条件はことにすることがあっても、我々は安心の世界を生きているのである。・・・・そんなことこんなことを当てずっぽうに思って見た。

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何度でも見たい夢を見た

2017年07月27日 08時54分08秒 | Weblog

もう一度みたい夢だった。いや、何度でも見たい夢だった。舞台は数カ所のお寺。登場人物は数人の高僧。悟りの境地を味わうことが出来るような、静謐な穏やかな舞台設定だった。ここに我が輩が居合わせていた。もちろん、我が輩の波動レベルも急上昇していた。落ち着いていて安らかだった。具体的にこのシーンを物語れないのがもどかしいが、とにかく目を瞑って今すぐにでもここへ再訪問をしたいものだ。何度でも何度でも。

今日は7月27日。木曜日。爽やかな空が広がっている。里芋の葉っぱが昨夜の強風に煽られて、今朝になっても白い葉裏を見せている。そこへ朝の日射しが射してきて光が眩しく跳ねている。庭には鳳仙花が咲いて楽しい美しい花園を作っている。

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我に我が空あり夏の

2017年07月26日 19時36分05秒 | Weblog

我に我が空あり夏の 風放ち風放ちつつはろばろとして                薬王華蔵

わたしの空だのあなたの空だのとあるわけはない。しかし、見ている分の空は、我が空のように見えて来る。不思議だ。此処までがわたしの空で、その向こうからはあなたの空である、なんてことはないのだが、決してないのだが、わたしが見ていない空はそこに存在していることはできないかもしれない。それで、わたしは存在させるための役割を担って空を見ている。夏空を見ている。爽やかな。爽やかでありうるために、夏空は風を放ち風を放ちして、何処までも何処までも広がっている。それがみんなわたしの空である。それを許容してくれている。空がそうであるならば、わたしもそれに倣おうではないか。

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まったく何をやってんだか とろりとろり

2017年07月26日 13時48分48秒 | Weblog

さっき俄に一天掻き曇り大粒の雨が降り出してきた。しばらくでそれも上がった。今はいつもの通りのかんかん照りになっている。

お昼は一人。鍋にお湯を沸かして冷凍うどんを煮込んだ。外から青紫蘇を摘んできて刻みに刻んで、卵とともにスープに入れた。袋の中には乾燥したゴボウ天がどっさり。よく煮たつもりだったが食べるとやや堅く感じた。冷房を能く効かした部屋に持ってきて食べたが、汗が溢れた。

いつもの通り音楽を聞いて雑誌を読んで、だらしがない。しなければならない畑仕事はしない。しようとも思わない。畑も庭も庭の小径も草茫々。それでも愚図っている。

さあて、と。ランチタイムから2時間経ってうつらうつらしだした。午睡の時間の到来だ。時に己を委ねよう。まったく何をやってんだか。

我が家の庭には鹿の子ユリが花園を作っている。真っ赤なのとピンクなのと黄色と。鹿の子斑が花弁を蔽っているところは共通している。これに鬼百合がまざる。ユリ屋敷だ。

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簡単に気分上々になるのだから目出度い

2017年07月26日 01時06分16秒 | Weblog

帆立貝のバター焼きをしてもらった。鮑のそれに引けを取らなかった。鮑は高価だ。滅多には食べられない。帆立貝は二個で450円だった。2日間にわたって酒の肴になった。ナイフで切り分けて家内と半分ずつして。大事に大事に味わって。周囲のビラすらも醍醐の味がした。夏場は食欲が落ちる。箸を取る手が鈍りがちになる。しかし、昨日今日はおいしいおいしいを連発した。一椀の白ご飯では足りないくらいだった。目出度し目出度し。ニコニコ顔になれた。現金なものだ。旨い物を喰えば簡単に気分上々になるのだから。

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自己嫌悪が渦を巻く

2017年07月25日 21時49分25秒 | Weblog

人のいるところには行きたくない。行っているんだけど、行きたくはない。行っても一人がいい。交わらない方がいい。交わっているんだけど、後でひどく惨めになる。悔いが残る。自己嫌悪が渦を巻く。この渦巻きが止められない。自分のつまらなさが、浮き彫りにされる。もともとつまらないのだけど、一人でいるときは波が立たない入り江だ。出て行くと白波が立つ急流の瀬戸になる。小舟ごと一飲みに飲まれそうになる。人のいるところには行きたくない。寂しさが昂じてついつい禁を犯して行っているんだけど、穏やかに帰って来られたことがあまりない。さぶろうという老爺は心的障害者なのかもしれない。人の偉大さだけが目に付く。人が偉大であることはいいことのはずである。それが非難の高い峰を為していて連なっていることに耐えられなくなってしまう。ほんとうは沈黙を守っているにきまっているのだが、こちらの独り合点では、非難の目を吊り上げているように見えてしまうのである。もう少し楽な生き方があるはずである。深呼吸をしてみる。

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劣等感に苛まれる日々

2017年07月25日 14時22分54秒 | Weblog

その人に会っている内に、彼の日常の暮らしぶりを耳にして、「ああ、おれはそんな風には暮らしていない、もっと低俗だ、怠け者だ。学問も積んでいない。向上心もない」などというところへ追い込まれる。自縄自縛の圧が強まって来る。圧迫感に絡みつかれる。そこから次第に劣等感に苛まれる。それで泥沼に落ちて三日が経った。やはり苦しい。「いいさ、いいさ」とも思って見る。「こちらが劣等感を抱いた分は相手に優越感を提供したことになるじゃないか」などと、泥沼を掘り返してみる。人はいつも比べて生きている。そしてさぶろうの場合は決まって、その度に自己評価を低くさせられる。それが嫌だから、できるだけ人から遠離っていたくなる。浸透圧を受けないように、受けないようにと自己防衛している。そういうところがある。さぶろうにはある。困ったものだ。

いよいよ怠け者である。そういう暮らしに没頭している。浸透圧を受けないで済むくらい、誇り高い水圧にすればいいのに、その努力は一向にしない。

夕立が来た。そして通り過ぎた。夏の夕立は一過性である。その後の空はからりとして蝉を鳴かせている。アカママの大きな葉っぱがわずかに風に揺れているのが見える。からりとした空へ向かって、さぶろうは大きく溜息をついた。

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仄甘い連想だけが取り残された

2017年07月25日 14時11分15秒 | Weblog

秋深し母の垂乳根ひっそりと藪のふたつのこれは瓢箪             薬王華蔵

垂乳根と瓢箪とは似ているだろうか。母の垂乳根も、しかし、下の方に重くなっていた。それと秋になったときの瓢箪はもはや青々としてはいない。母のは柔らかく瓢箪は堅い。人間の肌つやのように変色している。藪に侵入して蔓を這わせたのだろう、同じくらいのが二つぶら下がっていた。それがたまたま母を連想させたのかも知れない。しばし連想の領域に入り込む。そして、現実に戻る。混同をしていたことに気づく。是は唯の瓢箪に過ぎなかったのだ、と。秋が深くなってもはや葉も枯れ茎も枯れ、ひっそりとしているばかりで、見るべきものはなくなっていた。仄甘い連想だけが、そこに小さく取り残された。

 

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山里周辺は人情が厚い

2017年07月25日 11時34分55秒 | Weblog

近くの方、といっても隣の集落の方だが、今朝早く農業用小型トラックで、西瓜を届けて下さった。でかいのを。熟れてないといけないからというので、半分に割ってあった。残り半分はきっとお隣さんに差し上げられたのだろうと思う。よく熟れていた。これだとおいしいだろう。お優しい心遣いだ。有り難い。やっとやっと一週間前に友人が持参してくれた西瓜をあらかた食べ終わったところ。大きい西瓜は食べ甲斐がある。三度三度の食事に、食べやすいように細かく切って硝子の器に盛って、フォークに刺して食べているのだけど。なかなか減らない。冷蔵庫もあれこれ野菜類が詰め込まれていていっぱいしている。腐ったら申し訳ない。何処で保存しておこうか。昔はバケツなどに容れて深い井戸の底に釣瓶で下ろして冷やしてあった。井戸水は冷たかった。冷蔵庫などがない時代だ。腐らせてはいけないので急いで、なるだけ急いで、食べていたように思う。分け合って分け合って暮らしていた。それがまだ維持されている。ここらの山里周辺はまだ篤い情けの里である。

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大輪の朝顔の大きな「おはよう」の掛け声

2017年07月25日 08時56分51秒 | Weblog

書斎の外に一列、濡れ縁がある。そこがベランダにもなっている。洗濯干し場にもなっている。自転車置き場にもなっている。濡れ縁には鉢植えが置いてある。朝顔を植えた鉢が3鉢列んでいる。今朝は、それが数多く咲いている。どれもが色が薄い。上品に見える。赤い系統、青い系統がある。一つは際だった濃紺である。みな大輪で、大きな声の「おはよう」の挨拶をしているように見える。今日は7月25日だ。夏休みのこどもたちが6時半のラジオ体操に出掛けて行く足音がしていた。おしゃべりの声もしていた。幾分か眠そうな声にも聞こえた。

 

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