今朝(18日)は冷え込みました。
赤塚植物園ではシモバシラの氷華が出来ました。
シモバシラ(霜柱)と言う植物の枯れた茎に出来る氷の結晶の事です。
多年草のシソ科の植物「シモバシラ」は冬になると地上部は枯れてしまいますが、地下茎は残っており水分を枯れた茎に吸い上げます。
その水分が氷点下の朝に茎から染み出て凍って氷の結晶となるのです。
自然の創り出す芸術です!
今朝(18日)は冷え込みました。
赤塚植物園ではシモバシラの氷華が出来ました。
シモバシラ(霜柱)と言う植物の枯れた茎に出来る氷の結晶の事です。
多年草のシソ科の植物「シモバシラ」は冬になると地上部は枯れてしまいますが、地下茎は残っており水分を枯れた茎に吸い上げます。
その水分が氷点下の朝に茎から染み出て凍って氷の結晶となるのです。
自然の創り出す芸術です!
足立区都市農業公園から芝川を渡ると埼玉県川口市(領家)です。
この当たりから笹目橋の辺りまで荒川を挟んで東京と埼玉の県境となっています。
板橋生まれ板橋育ちの私にとって埼玉は荒川の向こうと言うイメージでした。
夕暮れの荒川の先に富士山が見えます。
富士山の手前には岩淵水門が見えます。
風が強く空気が澄んでいるので、富士山の輪郭がくっきりと見えます。
富士山に向かって夕日が沈んで行きます。
頂上ではありませんが、富士山に夕日が落ちて行くので一応、ダイヤモンド富士です。
空がオレンジ色に染まります。
今月の19日(日)と20日(月)には足立区都市農業公園前の荒川土手でダイヤモンド富士が見られるかも知れません。
13日(月)の足立区都市農業公園です。
この日は「成人の日」で新成人を祝う様なきれいな青空が広がりました。
園内にある古民家「旧和井田家住宅」は足立区花畑(はなばた)から移築された建物で江戸時代後期に建てられたそうです。
まだ、ウメの花も咲いていなく、園内は人もまばらです。
荒川土手にはフユザクラ(冬桜)の花が咲いておりました。
白い花が青空に映えます。
今月の終わり頃には早咲きのウメの花やフクジュソウが楽しめそうです。
赤塚植物園の万葉薬用園です。
カンツバキ(寒椿)の花が入れ替わり立ち替わり咲いています。
冬の庭園に彩りを与える貴重な花です。
ツワブキ(石蕗/艶蕗)の花も少なくなってきました。
ツワブキの花の手前にはヒガンバナの細長い葉がたくさん生えています。
タチバナ(橘)の実もすっかり熟しました。
みかんよりも小さな実です。
そして、ナンテン(南天)の実もまだ残っています。
小さな赤い実がきれいです。
最後はホオズキ(酸漿)です。
枯れた茎に実が1つだけ残っていました。
引き続き、日曜日(12日)の赤塚植物園です。
ニホンズイセン(日本水仙)の開花が進みました。
その近くに真っ赤なマンリョウ(万両)の実があります。
冬枯れの木にはセンダン(栴檀)の実がまだ残っています。
センダンの実はあまり美味しくない様で木の実の中で最後まで残っています。
何でも食べるヒヨドリが食べ物がなく仕方なしに食べるくらいです。
足元を見るとヒヨドリが落としたセンダンの実が落ちています。
最後は万葉薬用園のフクジュソウの芽です。
先週からあまり成長していないように見えますね。
今月中に花が見られるでしょうか?
昨日(12日)の赤塚植物園です。
鉛色の空に冬枯れの木々・・・。
時折、日が差しますが寒いです。
池の横にあるロウバイ(蝋梅)の花が咲きました。
ソシンロウバイ(素心蝋梅)も咲き始めました。
蕾もたくさん出来ています。
蕾もきれいです。
一方、サザンカ(山茶花)の花はそろそろ終わりです。
サザンカの花は傷みやすいのですが、きれいな花がも少しだけ残っています。
引き続き、5日の赤塚植物園です。
花の少ない中、キク(菊)の花が目立ちます。
控えめな白い花です。
竹林の横の白いツバキ(椿)もきれいです。
ニホンズイセン(日本水仙)の花も白いです。
良い香りが漂います。
真っ赤なマンリョウ(万両)の実とのコラボは紅白で縁起が良いです。
帰りには隣にある乗蓮寺に寄って初詣・・・。
東京大仏のあるお寺です。
「大仏様におさいせんをぶつけないで下さい」と書いてありました。
年が明けて、初めて赤塚植物園に行きました。
万葉薬用園ではフクジュソウ(福寿草)の芽がたくさん出てきました。
一番早く出た芽も順調に成長しています。
カンツバキ(寒椿)の花もまだまだきれいです。
そして、フユイチゴ(冬苺)の実もきれいです。
日差しを浴びて鮮やかです。
フユイチゴの実は木イチゴの様な甘酸っぱい味がするそうです。
鳥にとっても美味しいと思うのですが、低い位置にある為か、鳥に食べられずに長い期間残っています。
最後はナンテン(南天)の実です。
緑の葉と赤い実がお正月らしいです。
引き続き、富岡製糸場です。
2014年に富岡製糸場と絹産業遺産群として世界遺産に登録されました。
富岡製糸場には正門を入って正面にある東置繭所、裏側にある西置繭所、そして東西にある置繭所を結ぶように南側に建つ繰糸所の3棟の国宝に指定さた建物があります。
何れも明治5年(1872年)の創業当時からある建物です。
木造煉瓦造りの建物は和洋折衷で造られており、フランス人技師により設計された図面を尺貫法に直して日本人の大工が建てたそうです。
レンガも瓦職人により焼かれた物でレンガの繋ぎや壁には日本古来の漆喰が使われたそうです。
屋根にはトラス構造を用いて柱の少ない広い空間をつくりました。
国家事業と言うことで最初から大規模な施設として造られたお陰で増改築がされず、当時の奇跡的に現在まで残ったそうです。
1987年(昭和62年)まで片倉工業(株)富岡工場として稼働していました。
東西の置繭所には大量の繭玉が保管されていたそうです。
蚕(カイコ)が繭をつくる時期は限定されており、1年中生産を行うためには、これだけの巨大なスペースが必要だったと言うことです。
繰糸所が生糸を生産する場所で中に入ると両サイドに繰糸機が並んでいます。
ここで工女たちが繭から糸を紡いでいたのです。
創業当時は電気もなく、外からの光を取り入れるために大きな窓が並んでいます。
窓ガラスは当時の日本では製造することが出来ず、フランスから輸入された物を使っていたそうです。
創業当時は外の明るい日中にしか製造できなかったそうです。
創業当時は「あゝ野麦峠」で描かれている様な過酷な長時間労働は無かったでしょう。
他にも繰糸機の動力源として使われた蒸気エンジン(ブリュナエンジン)の復元模型や生産の際に使用する水を溜めていた鉄製の巨大水槽など見どころが多数あります。
場内をくまなく見ると2~3時間は掛かります。
見応えがありましたし、当時の様子を知ることが出来、勉強にもなりました。
最後は帰りの電車で食べたおやつです。
群馬と言えばガトーフェスタ ハラダのラスクです。
コーヒーと良く合います。
年末年始はお酒を飲み過ぎたので、この日は休肝日にしました。
1月3日のJR線利用距離は186.9km、料金は3290円です。
12月28日から1月3日の「北海道&東日本パス」有効期間中にJRの普通列車で移動した距離は1675.4kmで、料金は28750円となります。
「北海道&東日本パス」の料金が11330円でしたので17420円分得したことになります。
群馬県富岡市にある富岡製糸場へ行ってきました。
年末に東北へ行った際に購入した「北海道&東日本パス」の有効期限が今月の3日まででしたので、これを利用して行ってきました。
「北海道&東日本パス」はJR北海道とJR東日本管内限定の「青春18きっぷ」の様な物で普通列車が乗り放題のきっぷです。
有効期間が7日間で「青春18きっぷ」より長く、料金も11330円で「青春18きっぷ」の5日間用(12050円)より安いお得な切符です。
このキップで12月28~30日の東北旅行、31日の熱海日帰り旅行、明けて1月2日の袋田の滝(茨城県大子町)、そして今回の富岡製糸場と元旦を除いて利用しました。
富岡製糸場へ行く前に高崎線の深谷駅で途中下車、近代日本経済の父と言われる渋沢栄一さんに合いに行ってきました。
渋沢栄一が政府の役人だった当時、富岡製糸場の建設にも関わっていたそうです。
東京駅舎を建築した際に使ったレンガは深谷で焼かれた物と言うことで駅舎は東京駅を模した造りになっております。
ミニ東京駅ですね。
再び、高崎線に乗り終点の高崎で下車、先ずは腹ごしらえ、次の列車の接続まで20分ほどしかなかったので、立ち食いそばを食べました。
昔ながらの立ち食いそば(天ぷらそば)です。
久々に食べましたが、これはこれで美味しいのです。
本格的な手打ち蕎麦とは別ジャンルの食べ物です。
高崎からは上信電鉄に上州富岡駅へ向かいます。
高崎-上州富岡間の往復運賃と富岡製糸場の入場券がセットになったキップを購入、料金は2200円で別々に買うより420円お得でした。
乗車した電車は西武鉄道のお古ですが、何と車内Wi-Fiが使えました。
高崎駅のホームにあるベンチもレトロです。
40分ほど電車に揺られて上州富岡駅に到着です。
駅前には冨岡市のご当地キャラクターのお富ちゃんが立っています。
早速、駅前にもレトロな建物がありました。
旧富岡倉庫です。
写真の第一倉庫は明治34年頃(1901年)に建てられたそうです。
今は亡き母方の祖母が明治34年生まれでした。
富岡製糸場は駅から歩いて10分ほどです。
途中のお店にもお富ちゃんがいました。
しばらく歩くと富岡製糸場に到着しました。
冨岡製糸場は明治5年(1872年)に日本政府により建てられた官営の工場です。
フランス人技師により設計された工場は当時は世界最大のハイテク製糸工場だったそうです。
製紙工場ではお富ちゃんの様な工女が主役です。
当時は多くの工女が住み込みで働いており、ここで習得した技術を日本各地に広めて行ったそうです。
工女たちはもしかしたら、明治時代のキャリアウーマンだったのかもしれませんね。
日本各地で製糸業が栄え、明治末期には世界一の生糸の生産国となりました。
日本製の絹糸は品質が優れており人気があったそうです。
技術大国日本の礎を築いた陰の立役者は工女たちだったのかも知れません。
彼女たちは10代前半の幼さの残る頃から親元を離れて必死に働いたのでしょう。
長時間労働に厳しい指導と現代で言うとブラック企業を思わせる労働環境だったのでしょうが、衣食住が確保され食べるものにも困らないので当時としては良い環境だったのかも知れません。
優秀な工女は1年で家が建つくらい稼いだ人もいたらしいです。