吹き荒れた風に倒されたカラーを使って、挿してみました。 あと2輪は頑張って咲いています。
今は午後10時をまわっています。 お迎え火は風で焚けませんでしたが、お膳を供えての夕食でした。
11日のお墓まいりの帰りに座った電車の壁に見つけた言葉を何度も読み返していたのですが、
手帳をだしてメモしてきました。
何処かのPRに使われているのかしら? どんな意図の企画かしら?と全体を注意したのですが、
広告主が私には見えませんでした。
でも、夏休み、お盆を意識したのでしょうか、この時期なので...って、考えたりして。
ちょっと引用させていただきますと、
親が子どもを思う情はいつの世も永遠の片思いであるという。
片思いに答えられる年齢になったとき、親はいない。
墓前にたたずめば人は誰もが<ばか野郎>となじってもらいたい
親不孝な息子であり、娘であろう。
最初は何かの応募作品なのかしら...と思ったりもしたけど、明確な意思表示がなく
縦書きで記されていた。
電車の揺れにまかせながら、文章を区切りながら考えていた。
たしかに若いときは親の愛があってこその上に成り立っていた自分だったのだけど、
そんなに深く考えることもなく、嫁ぐときも、子育てのときも先を考えることが
あっても、振り返ってしみじみ感謝するようなことがあっただろうかと...。
今、そのときの親の年齢をとうに越して生きていると、振り返って懐かしむことも
多く、思い出に支えられているところも多いと感じている。
その思い出は育った家庭環境だったり、友人との交流だったり、家庭をもってからの
はじめての経験への戸惑いだったり、喜び、悲しみだったり...と、
脈絡ははっきりしていないけど、折々にかいつまんだように思い出している。
この文章は<親孝行したいときには親はなし>が根底にあっての文章なのかとも考えられるし、
どこかで<そうそう、そうなのよ>とはなっていない自分なりの解釈と現実が絡み合って、
咀嚼されないままに今日になっている。
ひとつの語りかけよ...ぐらいのことだったのかもしれないけど、
時期だけに気になった文章だった。