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<四国八十八箇所> 第79番札所 天皇寺

2024-06-18 07:36:20 | 巡礼

 「天皇寺」

 天皇寺(てんのうじ)は、香川県坂出市西庄町八十場にある真言宗御室派の寺院。山号は金華山(きんかざん)、高照院(こうしょういん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所第七十九番札所。

 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
 ご詠歌:十楽(じゅうらく)の浮世の中をたずねべし 天皇さえもさすらいぞある
 納経印:当寺本尊、奥之院摩尼珠院
 概要
 境内は崇徳上皇を祀っていた白峰宮に隣接し、白峰宮が崇徳天皇社であったときその別当寺であった。現在は、崇徳上皇を祀ってはいないが歴史的経緯から天皇寺の名称を持つ。また、過去の経緯から院号の高照院で呼ばれていたこともある。

 歴史
 伝承によれば、古代に南海の大魚を退治しに向かった讃留霊王ら88人の兵士が大魚に船を呑まれて倒れたとき、横潮明神が金山の麓にある泉の水を持ってあらわれ、その水を兵士に飲ませた。すると、全員が命を吹き返して助かったという。それからこの泉は「八十場(やそば)の霊水」と呼ばれるようになったという。(弥蘇波から転じたとの説もある)

 その後、寺伝によると、天平年間に行基は、カナヤマビメとカナヤマビコが鎮座する金山に薬師如来を本尊とした堂宇を開創した。さらに後、空海(弘法大師)が八十場の泉を訪れたとき、金山権現の化身である天童が現れ閼伽井を汲み大師に給仕し、この山の仏法を守るようにと宝珠を預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋め、荒廃していた堂舎を再興し、その寺を摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいん みょうじょうじゅじ)と号した。 また大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置した。そして、金山ノ薬師は札所[2]となり、それらの霊験著しく七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛した。

 時代は下って、崇徳上皇は、保元の乱(1156年)で敗れ讃岐国に配流となり、最初の約3年は雲井御所で過ごし、その後、情勢の変化により厳しく管理するため当所に移され、約6年余り幽閉された後の長寛2年(1164年)旧暦8月26日に崩御した。上皇の亡骸の処遇について京から返事の使者を待つあいだ、金棺を冷たい八十場霊泉に浸し、清水をかけ続けたところ、21日間過ぎたのちも上皇の顔はまるで生きているごとくだったという。その間、霊泉から東へ約200 mの所にあった上皇の御所の辺りから毎夜神光が放たれ森が光ったという。やがて返事が届いて上皇は白峯山に葬送され旧暦9月18日山上で荼毘に付された。そして、二条天皇は、崩御の地に一堂を設けるよう沙汰を下しており[3]、上皇が最期に住んだ終焉の地であり神光が光った上皇の魂が宿る御所跡である当所に、霊を鎮めるためその年の内に御廟が建てられた。また、寛元2年(1244年)後嵯峨天皇の宣旨により崇徳天皇社は再建され、摩尼珠院はその別当職に任じられ崇徳院永代供養の寺という役割を担わされた。そして、いつの頃か札所は金山ノ薬師から崇徳天皇社とその別当摩尼珠院となった。ゆえに人はみな摩尼珠院は「天皇寺」と呼び、崇徳天皇社は「天皇さん」と親しまれるようになった。また、このあたりを「天皇」という地名で呼ぶようになったが、恐れ多いので「八十場の霊水」から名をとり、現在は「八十場」と呼んでいる。江戸時代末期の納経帳には「奉納経 本尊十一面観音 崇徳院御鎮座所 讃州 摩尼珠院」と版木押しに十六八重菊の御紋の朱印がされている。

 明治維新直前、明治天皇の宣旨により崇徳院御霊は京都白峯宮へ戻され、崇徳天皇社は崇徳上皇を祀ることを廃止し白峰宮と改名された。さらに、明治初年の神仏分離令により、神社境内にある寺院は移転か廃寺を迫るものであり、さらに寺請制度の寺院に新政府は厳しく、摩尼珠院は廃寺となった。ただ、初代神官には摩尼珠院主が赴任し、79番札所は筆頭末寺の奇香山仏乗寺高照院(約2 km北の林田町にあった)が引き継ぐことになった。その後、神仏分離令の嵐がおさまった明治20年(1887年)高照院は、摩尼珠院跡の現在地に天皇寺高照院として移転した。

 伽藍

 三輪鳥居:扁額は「崇徳天皇」[注釈 6]が掛かり、「享保19年(1734年)衆力合成惣 氏子中 現住 法言代」と柱に刻まれている。
 本堂:2016年2月17日より1年間、本尊と脇仏日光月光菩薩は本坊にて御開帳された。本尊の中には伝弘法大師作の十一面観音が胎内仏として納められていると云われている。正面表には「金剛界説法」裏には「胎蔵界説法」の扁額が掛けられ、両方で参拝するようになっている。
 大師堂:大師像の拝観は不定期、基本的には無し。
 地蔵堂
 金比羅祠(大物主大神、そしてオオナムチノミコト)
 摩尼珠院大師堂(神社側)
 稲荷堂
 茶堂
 本坊
 衛士坊の坂(えじぼうのさか):三輪鳥居から塀沿いに北へ下る坂で、当地に幽閉された崇徳上皇を監視する国府の衛士が毎日この坂道を通っていた。
 境外地
 八十蘇場の清水(八十場野沢井)
 弥蘇場地蔵堂

 四脚の赤い三輪鳥居をくぐり、正面奥は白峰宮であり、その手前を左に行くと天皇寺の本堂とその左に大師堂がある。先ほどの三輪鳥居を出て左から入って行くと本坊がありその右側に納経所がある。駐車場が本坊にあるために三輪鳥居をくぐらず境内を行き来する人達がいるため中門を閉鎖した。白峰宮本殿の向って右を通り境内を通り抜け裏に通ずる車道を500 mほど行くと八十蘇場の清水と地蔵堂がある。

宿坊:なし
駐車場:境内に普通車用が200円であり。

 天皇寺 香川県坂出市西庄町字八十場1713番地2

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第78番札所 郷照寺

2024-06-17 07:54:23 | 巡礼

 「郷照寺」

 郷照寺(ごうしょうじ)は、香川県宇多津町にある時宗と真言宗の寺院。仏光山(ぶっこうざん)、広徳院(こうとくいん)と号す。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所第七十八番札所。

 本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
 ご詠歌:踊りはね念仏申す道場寺(どうじょうじ) 拍子(ひょうし)をそろえ鉦(かね)を打つなり
 歴史
 寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55 cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として道場寺の名で開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。仁寿年間(851年 – 854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年 – 987年)には恵信僧都が釈迦如来の絵図を納め釈迦堂を建立した。正応元年(1288年)には一遍上人が遊行の折に3か月逗留し踊り念仏の道場を開いた。その後も栄えたが天正の兵火(1576年 – 1585年)で堂宇を焼失するも寛文4年(1664年)高松藩主松平頼重により再興、その時の住持と徳川家の関係により、時宗に属し郷照寺と改称した。しかし、『四国遍礼名所図会』(1800年刊)にも1826年の納経帳にも道場寺となっている。

 四国八十八箇所では珍しい異なる時宗と真言宗の2つの宗派が共存する寺になっている。

 伽藍
 山門
 本堂:向かって右脇陣に一遍上人像がある。
 大師堂:多くの信徒が厄除祈願をする。
 万体観音堂:大師堂の左前から洞窟に降りるとおびただしい数の観音像がある。
 庚申堂:本尊・青面金剛
 粟島明神堂
 常盤明神祠
 大吉地蔵:元は本堂前に鎮座していた
 ぽっくり地蔵:下の画像の向かって左から二番目の石像で、讃岐三大ぽっくり地蔵。他は高松市鬼無の安楽院と高瀬町の地蔵寺のもの。
 庭園:本坊の裏に池を配した庭園を自由に望める。
 鐘楼:高台に境内があるため瀬戸大橋方面の展望がいい。
 不動明王堂(御祓所):2024年建立。不動明王坐像、両脇には弘法大師像と不動明王立像。
 山門をくぐり、左側の石段を上がると駐車スペースになっていて左側にある鐘楼と手水舎の前の数段の石段を上がると左に納経所、右向こうに本堂がある。本堂左の通路を通り石段を上がると正面に大師堂がある。

 宿坊:なし
 駐車場:普通車用が無料で境内にあり、大型は少し離れた所にある。

 文化財
 県指定有形文化財
 木造阿弥陀如来坐像(本尊):檜材寄木造り、玉眼入りで右足を上に結跏趺坐し来迎印を結んだ阿弥陀如来像。温雅な定朝様の像で小像であるが正統的な寄木の技法を示し、中央作で台座、光背は鎌倉時代末期の作である。昭和47年5月23日指定。
 絹本著色釈迦三尊二声聞図:鎌倉時代後期の作で、宋様式が十分に取り入れられた優作である。普賢と文殊の両菩薩を従えた釈迦如来の説法を聞く二声聞と、さらに上方に二仏が侍立している画像である。香川県立ミュージアム寄託。昭和47年5月23日指定

 郷照寺  香川県綾歌郡宇多津町字山下1435番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第77番札所 道隆寺

2024-06-16 08:11:52 | 巡礼

 「道隆寺」

 道隆寺(どうりゅうじ)は、香川県多度津町にある真言宗醍醐派大本山の寺院。桑多山(そうたざん)、明王院(みょうおういん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第七十七番札所。

 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
 ご詠歌:ねがいをば 仏道隆(ぶつどうりゅう)に入りはてて 菩提の月を見まくほしさに
 納経印:当寺本尊、七ヶ所参り寿老人
 歴史
 天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90 cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。 そして、第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。 しかし、貞元年間(976年 – 978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返した[1]。(ただし、同寺所蔵の道隆寺温故記では天正期に焼かれたとの記録はない。天正3年、天正10年、天正16年、17年、18年と何事もなく行事を行っている。)

 伽藍
 山門(仁王門)
 本堂:本尊の薬師如来立像は50年に一度御開帳の秘仏で当年にあたる令和5年に一年間開帳された。脇に日光・月光菩薩立像、さらに四天王立像。
 大師堂:大師像を拝顔できる。前方には、衛門三郎が大師に懇願する像がある。
 多宝塔:時間帯によっては納経所に頼めば中に入れる。
 位牌堂:新しい建物で、阿弥陀如来坐像と脇仏に観音菩薩立像・地蔵菩薩立像が拝観できる。
 潜徳院殿堂(目なおし観音):目のお札を授けてもらえる。
 粟島堂
 妙見宮

 以下 小さい祠

 加茂稲荷大明神
 もどり観音
 愚痴きき地蔵
 普賢延命大菩薩
 交通安全千躰観音堂
 日本全国百七十観音お砂ふみ
 厄除け観音
 道隆公・朝祐御廟…
 仁王門を入ると参道一番奥に本堂があり、その手前の右に大師堂、左に納経所がある。小さいさまざまな祠は本堂を取り巻くように点在する。本坊は、仁王門の門前の右にある遍路用品店と境内の間の道を進み突き当たりを右に行くとある。

 宿坊:なし
 駐車場:山門前と大型用が境内の後ろにあり、いずれも無料。
 本坊:境内と離れた所にある
 護摩堂:五大力明王が祀られ年に数回だけ護摩が焚かれる

 文化財
 重要文化財
 絹本著色星曼荼羅図:明治34年3月27日指定
 多度津町指定有形文化財
 絹本著色法華経曼荼羅図:南北朝時代作、法華会の本尊として用いられている曼荼羅図。法華経に説かれている諸仏や菩薩などを円形に配列した構図となっている。
 絹本著色不動明王立像図:室町時代作、全身を赤く彩られた赤不動。
 新続古今和歌集(写本):最後の勅撰和歌集。後花園天皇の命により永享11年(1439年)に完成したもので翌年の永享12年に写本されたもの。
 森長見一族の墓および森長見の墓碑:「国学忘れ貝」を著作した多度津藩小物成奉行を務めた人物とその一族の墓。
(参考)道隆寺旧蔵の仏像
 木造天部立像:平安時代前期、9世紀末から10世紀初めの作。四天王像のうち1体で、像の向きから増長天ともいわれるが、他の3体の所在は不明。第二次世界大戦後はアメリカのパワーズコレクションにあったが、近年里帰りし日本の個人が所蔵

 道隆寺 香川県仲多度郡多度津町北鴨一丁目3番30号

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第76番札所 金倉寺

2024-06-15 06:57:47 | 巡礼

 「金倉寺」

 金倉寺(こんぞうじ)は、香川県善通寺市金蔵寺町にある天台寺門宗の寺院。鶏足山(けいそくざん)宝幢院(ほうどういん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第七十六番札所。

 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
 ご詠歌:まことにも神仏僧を開くれば 真言加持(かじ)の不思議なりけり
 納経印:当寺本尊、七ヶ所参り弁財天
 概要
 入唐8家で、讃岐5大師であり、延暦寺第5代座主を868年より24年間務め、天台寺門派の宗祖である円珍(智証大師)の生誕地として知られ、また、乃木希典が明治31年(1898年)から3年間当寺の客殿を仮住まいにしており、客殿には乃木ゆかりの品々が展示され、境内には銅像もある。

 歴史
 宝亀5年(774年)景行天皇の子孫の和気道善(円珍の祖父)が金輪如意(如意輪観音)を祀って一堂を建立し自在王堂と呼ばれていた。仁寿元年(851年)道善の子である和気宅成の上奏により、自在王堂を官寺とし道善寺と名付けた。その後、宅成の子である円珍が承和13年(846年)に入唐、天安2年(858年)帰朝した後、故郷の当寺に訪れて長安の青龍寺に倣した伽藍を造営、薬師如来を彫像して本尊とした。861年伽藍の造営を終え、落慶の斎会に円珍が再訪する。延長6年(928年)醍醐天皇の勅命により金倉郷(かなくらごう)から名前をとり現在の「金倉寺」[注 3]、山号は釈迦十大弟子の迦葉尊者が入定した山名の「鶏足山」と改め隆盛をきわめた。

 その後、幾多の兵火により重要文化財の自画像と本尊などの宝物以外は焼失、慶長11年(1606年)それまで無住寺になっていたが、近くの真言寺院に後見してもらい一時期真言宗になるが、窮状を知った高松藩主の松平頼重により、天台宗に戻り再興、慶安4年(1651年)には、智証大師御影堂を始め、諸堂や客殿、庫裏にいたるまで再建し現在に至る。

 大正14年(1925年)、龍川村の地主が差し押さえた農地の競売をめぐり小作争議が激化。金倉寺の伽藍に地主、小作人、警官が集まり仲裁が行われた。

 境内
 山門(仁王門)
 本堂 - 本尊薬師如来のほか、不動明王、阿弥陀如来を安置する。現在は西明寺をヒントに1983年11月に再建している。毎年、正月三が日、本尊が開帳される。
 祖師堂(大師堂) - 元の金堂で慶安4年(1651年)建立されたものを移築。智証大師(円珍)像が中央に弘法大師(空海)像が右脇陣に神変大菩薩(役の行者)が左脇陣に安置されている。智証大師の両脇仏として伝教大師と天台大師が大きな宮殿に納まっている。四国八十八箇所の寺院で、大師堂に弘法大師以外の「大師」を中央に祀るのはここだけ。大師堂の奥に続く奥殿にもその三尊の仏像が祀られている。
 訶梨帝堂 - 享保元年(1716年)奥殿、明治14年(1881年)拝殿を建立。訶梨帝母(鬼子母神)を祀る堂。円珍が5歳の時に現れたことから、「訶利帝母日本最初出現之地」とされる。「おかるてんさん」と呼ばれ、子授け・安産のご利益がある。
 観音堂 - 秘仏の十一面観音を祀る堂。
 大聖歓喜天堂(小堂)
 弁財天(祠)
 天満宮(祠)
 忠魂社(祠) - 昭和22年8月、現在地に移転。
 乃木将軍妻返し松(二代目)
 巡礼七福神 - 境内に点在している七福神の石仏を巡りながら参拝する。
 牛の石像 - 昔、牛の市場として栄えていた。
 お砂踏み道場 - 88の札所の本尊仏画の掛け軸と大師像。駐車場側にある。
 客殿 - 乃木将軍遺品展示室など。
 円珍初湯の井戸 - 東へ約3 kmの境外にある。下に記述。
 新羅神社(神仏分離以前は新羅明神社) - 山門の西隣り。智証大師を園城寺へ導いた老翁(新羅明神)と唐へ行くことを勧めた山王権現を祀っていたが、神仏分離により現在は素戔嗚尊を祀ることとなる。
 句碑歌碑 - 北原忠司「お遍路の鈴の法楽誕生寺」裏には「妻返し松・・お里し百舌」が鐘楼堂の左にあり、芭蕉「名月や門にさし来る汐かしら」がさらにその左にある。弁財天の池の手前右に句碑「人乃世能・・」がある
 山門から入り、参道を進むと正面に本堂、本堂の右手に納経所、左に進むと大師堂がある。

 宿坊:なし
 駐車場:あり、普通車で200円(午後5時で閉門)

 文化財
 重要文化財
 絹本著色智証大師像 有賛 - 明治34年(1901年)3月27日指定。
 善通寺市指定有形文化財
 絹本著色両界曼荼羅 - 昭和62年(1987年)7月21日指定。
 (参考)県指定無形民俗文化財
 シカシカ踊り(シカシカ踊り保存会) - 昭和48年5月12日指定
 シカシカの意味は「然り然り」とも、「しっかりしっかり」とも言われている。当寺で行われる円珍・乃木まつりで奉納される。
 行事
 円珍・乃木まつり:9月第1土日。土曜日午前10時~午後4時まで「乃木将軍の部屋・遺品公開」(有料200円)、日曜日午後1時30分より採燈大護摩供。
 訶利帝母例祭:5月第2土日。訶利帝母の開帳が2日間ある。
 石土入峰修行:札所番号にちなみ毎年7月6日石土山(瓶ヶ森)への登山。神変大菩薩が開山した四国の修験道の聖地へ入峰修行。
 坐禅会:毎月10日午前10時からと、25日午後7時から。誰でも予約なしで参加可。

 金倉寺 香川県善通寺市金蔵寺町字本村1160番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第75番札所 善通寺

2024-06-14 07:23:12 | 巡礼

 「善通寺」

 善通寺(ぜんつうじ)は、香川県善通寺市にある寺院。真言宗善通寺派総本山。屏風浦五岳山(びょうぶがうらごがくさん)、誕生院(たんじょういん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第七十五番、真言宗十八本山一番札所。

 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
 ご詠歌:我すまば よもきえはてじ善通寺 ふかきちかいの 法(のり)のともしび
 納経印:当寺本尊、真言宗18本山(弘法大師)、讃岐三十三観音(礼参本山)、七ヶ所参り(布袋尊)、仙遊寺(延命地蔵)、四国八十八箇所「満願」の証
 概要
 和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられる。平安時代初頭の807年に真言宗開祖空海の父である佐伯田公を開基として創建された。広大な境内は創建地である東院(伽藍)と、空海生誕地とされる西院(誕生院)に分かれている。

 歴史

 空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。『多度郡屏風浦善通寺之記』によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯田公(さえきの たぎみ、諱:善通(よしみち))から土地の寄進を受け、大同2年(807年)に建立し始め、弘仁4年(813年)に落成したという。空海の入唐中の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったという。寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ、山号の五岳山は、香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(がはいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)[注釈 2]の5つの山の麓にあることから命名された。

 善通寺の文献上の初見は、『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)』に収められた寛仁2年(1018年)の「讃岐国善通寺司解」(さぬきのくにぜんつうじしげ)という文書である。ここで善通寺は、東寺の末寺として登場し、「弘法大師御御建立」「大師御霊所」とされ、空海の先祖による創建だとする伝えが古くから存在したことがわかる。境内からは白鳳から奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しており、善通寺は実際には佐伯一族の氏寺として創建されたのではないかと推定されている。

 本格的に興隆をむかえるのは鎌倉時代に入って、天皇や上皇からの庇護や荘園の寄進を受けてからである。この保護の背景には、平安後期に広まった弘法大師信仰があり、誕生の地に伝わり空海の自筆とされる「瞬目(めひき)大師像」への崇敬がある。建長元年(1249年)道範のとき誕生院が建立され、東の伽藍、西の誕生院という現在の形式が出来上がった。鎌倉時代の善通寺の本寺は、東寺、随心院、大覚寺、再び随心院と変転しつつも、室町時代以降は足利氏の庇護を受けつつ自律的経営を目指した。 元徳3年(1331年)より中興の祖と云われた宥範が居住し、五重塔などの諸堂を再興し、暦応4年(1341年)には初代誕生院住職となる。

 永禄元年(1558年)三好実休の兵火に遭い伽藍を焼失するが、天正16年(1588年)に生駒親正から28石、生駒一正から35石の寄進を受けたことなどで立ち直る。近世には高松松平家や丸亀京極家の庇護を受けて大いに栄えた。近世の善通寺の史料は少ないが残された絵図類などから、金堂や五重塔などの再建に奔走する傍ら、西院の御影堂を中心に参詣空間を充実させ、19世紀前半には完成したのが見て取れる。また、明治に入ると付近に陸軍基地が置かれ、軍都として発展した。現在も陸上自衛隊善通寺駐屯地がある。江戸時代まで現在の東院である善通寺と現在の西院である誕生院は別の寺院であったが、明治初年に単一の寺院となった。 昭和6年(1931年)大本山に昇格して管長寺となり、真言宗小野派を真言宗善通寺派と改称し、昭和16年(1941年)には真言宗善通寺派総本山に昇格している。

 善通寺には数万点にも及ぶ文書・記録類が所蔵されているが長らく手付かずであった。しかし、平成12年(2000年)から創建千二百年記念事業として地元の香川県立ミュージアムにより調査、リスト化が進められており、調査報告書などが刊行されている。

 境内
 東院(伽藍)

 南大門(みなみだいもん) - 日露戦争戦勝を記念して1908年頃再建された正門。屋根の四隅に四天王像、上の向かって左から龍・迦陵頻伽2体・鳳凰がいる。

 金堂(本堂) - 元禄12年(1699年)再建。堂の中に入って本尊の周りを後ろまで回って間近に拝観できる。この堂の背後にはかつて講堂があった。
 本尊薬師如来坐像(仏師・北川運長の製作、檜材寄木造、漆箔、玉眼、像高約3 mの丈六仏、元禄13年作)

 五重塔 - 1902年完成。4代目。高さ43 m(礎石上〜相輪頂上)。五智如来の内4如来が1層に中尊大日如来は5層に祀られる。毎年5月の連休中に2層目まで入れ、4如来と心柱が拝観でき、2層目から境内を見渡せる。
 釈迦堂(勅願常行堂) - 延宝年間(1673年 – 1681年)再建。江戸時代作の釈迦如来坐像を拝顔できる。元は御影堂で天保2年(1831年)御影堂が新築されたときに移築された。
 鐘楼 - 江戸時代末期再建。袴腰型式。梵鐘は昭和33年(1958年)作。撞くことはできない。
 赤門 - 本来は東門の名称だが朱色であるがゆえ赤門と呼ばれる。
 天神社 - 1914年建立。
 龍王社 - 1808年建立、1861年改修。池の小島にあり雨乞祈願のための社で善如龍王を祀る。
 経蔵 - 経典を収めた六角形の塔の形をした輪蔵が置かれている。
 佐伯祖廟 - 佐伯善通卿「佐伯明神」と玉寄御前「玉寄明神」を祀る。
 五社明神 - 周辺の鎮守神を祀る。北社殿に大麻明神・大歳明神・蕪津明神、南社殿に雲気明神・広浜明神。
 三帝御廟 - 後嵯峨天皇・亀山天皇・後宇多天皇、1964年に北100 mより移される。
 法然上人逆修之塔 - 高さ約130 cmの石造の五輪塔。
 旅大師堂 - 上部に弘法大師を彫った石柱で、遍路道にあった道標。
 足利尊氏利生塔 - 高さ2.8 mの角礫凝灰岩の五重石塔。南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔う。
 西国・坂東・秩父各霊場の写し石仏が五百羅漢の石仏と共に現代になって、東院伽藍の周りに配置された。
 中門 - 江戸時代末期再建、2018年改修。
 南大門から入ると右に五重塔が聳え、正面に本堂がある。本堂手前を左にまっすぐ進むと、中門で東院を出て塔頭寺院の間を行くと、西院(御誕生院)に至る。廿日橋を渡り仁王門、回廊を経て正面に大師堂がある。納経所は仁王門をくぐってすぐに右に行けばある。

 西院(誕生院)

 廿日橋 - 昔は毎月20日にのみ通行できたということから。
 弁天社 - 1867年建築。極楽堀の中に建つ。
 仁王門 - 1889年再建。金剛力士像は南北朝時代・応安3年(1370年)の製作。
 御影堂前回廊 - 1915年建築。全長9間。十二支の動物と鳳凰の彫物が上部に、空海の生涯を表した17枚の絵が。
 御影堂(大師堂)拝殿・奥殿 - 1831年建立、1937年改修。「弘法大師御誕生所」とされている。
 奥殿:本尊・目瞬大師画像(50年に1度開帳の秘仏で厨子内)その前に木造弘法大師像、堂内には四天王像・稚児大師像・佐伯善通像・玉寄御前像。
 地下:「戒壇めぐり」真っ暗な先に、金剛界大日如来と稚児大師像・佐伯善通像・玉寄御前像を祀る空間。
 産湯井 - 空海が誕生の折に用いられた産湯の井戸とされている。
 宝物館 - (8〜17時)500円、戒壇めぐりと産湯井の拝観と共通で拝観できる。昭和48年建築。

 御影池(みかげのいけ) - 大師立像・弥勒菩薩石像・両親の石造を中央に、向かって右に不動明王二童子・文殊菩薩石像、左には七ヶ所参りの布袋石像。寺伝では、空海が唐に渡るとき母のために自画像(瞬目大師像)を描いた際に我身を写したという池。
 聖霊殿 - 昭和15年(1940年)建築。
 五百羅漢 - 金堂内から移された。
 ほやけ地蔵堂 - 昭和15年(1940年)建築。あざや病気の平癒に功徳があると信仰されている。
 護摩堂 - 昭和15年(1940年)建築。不動明王坐像を拝顔できる。
 閻魔堂 - 昭和33年(1958年)再建。閻魔王など13体は宝永2年(1705年)北川運長によって製作。
 親鸞堂 - 昭和28年(1953年)建築。法然は当寺に来たが親鸞は来れなかった、その親鸞を祀る。『鎌田の御影』と呼ばれる親鸞像を拝顔できる。

 鐘楼 - 昭和53年(1978年)作。吹放し型式。自由につける。
 納経所
 勅使門 - 1936年再建。
 大玄関及び小玄関 - 1907年建築。
 宸殿 - 1907年建築。南北各四室からなる八間取で、北面に畳廊下を付設する。
 光明殿 - 平成21年(2009年)建立。納骨永代供養施設、大師像や十三仏を安置。
 聖天堂 - 平成16年(2004年)再建。歓喜自在天を祀る。
 遍照閣 - 昭和59年(1984年)建立。一階玄関に釈迦如来坐像と十大弟子立像、奥に八十八ケ所本尊と等身大の大師立像、二階は大師坐像が祀られ大広間で講演会などに利用される。無料で拝観可能。
 十二支守り本尊石仏・七福神石仏・和合蛙
 パゴダ - 昭和45年(1970年)8月15日建立。金色の釈迦像が鎮座している。

 正覚門 - 昭和53年(1978年)建設。
 済世橋 - 昭和53年(1978年)建設。中国の天津橋を模して石のアーチ橋とし[9]、欄干の左右共に真言伝持の八祖の名号をあらわす種子ある。
 空海記念碑 - 昭和58年(1983年)建設。中国西安市の青龍寺跡に建てられたものを縮小復元したもの。
交通安全祈願殿まおてらす - 令和5年(2023年)正月竣工。
 句碑歌碑 - 高浜虚子「咲きみちてこぼるゝ花も無かりけり」、高浜年尾「お遍路の美しければあはれなり」、 稲畑汀子「風少しあり梅の香を運ぶほど」が御影池の横にある。与謝野鉄幹「善通寺秋の夕にわかたつも 大師若くてふみませる土」が遍照閣の中にある。また、法然上人逆修之塔の案内石板の側面に「月影の至らぬ里はなけれども 望むる人の心にぞすむ」「寒くとも袂に入れよ西の風 弥陀の国から吹くと思えば」が刻まれている。

 備考
 宿坊:あり(70室、200人)宿坊名は「いろは会館」、温泉が湧出する大浴場“大師の里湯温泉”がある。夕食・朝食付きで、素泊まりもあり、一人から宿泊でき遍路以外の客でも受付ており電話でのみ予約できる。12月25日〜1月5日および寺行事で休業あり。
 駐車場:宿泊者用は無料であり。西院の正覚門の前に大駐車場あり、普通車で300円。

 文化財
 国宝
 金銅錫杖頭(こんどう しゃくじょうとう) - 長さ55 cm、空海が唐から持ちかえったものとされる。昭和56年6月9日指定
 一字一仏法華経序品(いちじいちぶつほけきょうじょほん - 平安時代(11世紀)。縦29.4 cm、横2124.2 cm。縦横に線を引いて方眼を作り、1マスごとに経文1字もしくは1仏を配して、経文と仏坐像の行を交互に並べた珍しい装飾経。1字が1仏に対応し敬虔さを感じさせるが、書が古様で格調高いのに対し、絵は素朴で自由闊達に描かれている。昭和28年11月14日指定
 重要文化財
 金堂(附:棟札1枚) - 入母屋造、本瓦葺き。外観は二層に見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、方三間の身舎(もや)の周囲に一間の裳階をめぐらす(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。粽(ちまき)付の円柱を用い、貫を多用し、組物を詰組とし、桟唐戸、花頭窓、波連子の欄間、海老虹梁を用いるなど、禅宗様の構造や意匠を多用するが、天井を鏡天井でなく小組格天井とするのは和風の要素である。柱には粽を設けるが礎盤は省略している。垂木は身舎を禅宗様の扇垂木、裳階は平行垂木とする。内部は敷瓦を四半敷き。平成24年12月28日指定

 五重塔(附:棟札2枚) - 総欅造、三間五重塔婆、本瓦葺。天保11年(1840年)先代は再建後わずか36年で焼失。2年後に厳曉が再建発願するも安政元年(1854年)になり着工し、3代の棟梁が携わって明治35年(1902年)に竣工した。二重〜五重の内部にも床板を張り人が登れる。また、心柱は鎖でぶら下げられているがどことも接続されていない構造になっている。平成24年12月28日指定
 木造地蔵菩薩立像 - 木造、素地、像高115.5 cm、平安時代後期、明治34年3月27日指定
 木造吉祥天立像 - 檜の一木造、古色、像高135.0 cm、平安時代後期、明治34年3月27日指定
 善通寺伽藍並寺領絵図 - 鎌倉時代中期、昭和60年6月16日指定
 国の史跡
 讃岐遍路道 善通寺境内 - 東院と西院とそれをつなぐ参道と香色山の一部を除く全山など約22.53 haが対象。平成29年10月13日追加指定
 国の登録有形文化財
 東院の以下6件は2009年11月2日登録

 釈迦堂 - 桁行五間、梁間六間、入母屋造、本瓦葺軒唐破風付向拝。
 天神社 - 木造平屋建、瓦葺、一間社流見世棚造。
 龍王社 - 木造平屋建、瓦葺、一間社流造。
 鐘楼 - 桁行三間、梁間二間、入母屋造、本瓦葺、初層袴腰、上層は擬宝珠高欄付縁。
 南大門 - 木造、本瓦葺、高さ9.7 m、間口7.6 m、左右袖塀付。高麗門形式の平唐門。
 中門 - 木造2階建、入母屋造、本瓦葺。

 西院の以下19件は2010年4月28日登録

 誕生院奥殿 - 木造平屋建、瓦葺。
 誕生院御影堂 - 木造平屋建、瓦葺。
 誕生院御影堂前廻廊 - 木造平屋建、瓦葺。
 誕生院聖霊殿 - 木造平屋建、銅板葺及び檜皮葺。
 誕生院護摩堂 - 木造平屋建、銅板葺。
 誕生院護摩堂廻廊 - 木造平屋建、銅板葺。
 誕生院地蔵堂 - 木造平屋建、銅板葺。
 誕生院閻魔堂及び渡廊下 - 木造平屋建、瓦葺。
 誕生院仁王門 - 木造、瓦葺、間口3.2 m。
 誕生院廿日橋 - 石造桁橋、橋長6.8 m。幅員5.4 m、脚柱付
 誕生院勅使門 - 木造、銅板葺。
 誕生院勅使橋 - 石造桁橋、橋長6.5 m、幅員3.6 m、脚柱付。
 誕生院弁天社 - 木造平屋建、瓦葺、一間社流造。
 誕生院宸殿 - 木造平屋建、入母屋造桟瓦葺。
 誕生院大玄関及び小玄関 - 木造平屋建、入母屋造桟瓦葺、及び入母屋造。
 誕生院南土蔵 - 土蔵造2階建、切妻造桟瓦葺。
 誕生院番所 - 木造平屋建、瓦葺、入母屋造。
 誕生院太鼓塀 - 木造、瓦葺。
 誕生院極楽堀石積 - 石造、延長193 m、柵付。

 県指定有形文化財
 木造毘沙門天立像 - 平成18年2月10日指定
 仏説観仏三昧海経 巻第六 - 平成19年3月30日指定
 県指定天然記念物

 境内の大グス - 東院の南大門入って左の大楠(30 m)と五社明神大楠(40 m)の2本、 昭和46年4月30日指定
 善通寺市指定有形文化財

 善通寺石造物群(三帝御廟3基・足利尊氏利生塔・御影堂西側層塔・善通寺先師墓内中世宝塔・同中世五輪塔5基・同近世五輪塔9基)1件20基 - 平成23年4月11日指定
 香色山1号経塚出土遺物 - 平成10年4月1日指定
 (参考)県指定無形民俗文化財
 シカシカ踊り(シカシカ踊り保存会) - シカシカの意味は「然り然り」とも、「しっかりしっかり」とも言われている。9月上旬に金倉寺で行われる円珍・乃木まつり、隔年の11月3日に当寺で行われる善通寺空海まつりで奉納される。昭和48年5月12日指定

 善通寺 香川県善通寺市善通寺町三丁目3番1号

*Wikipedia より 

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<四国八十八箇所> 第74番札所 甲山寺

2024-06-13 07:25:42 | 巡礼

 「甲山寺」

 甲山寺(こうやまじ)は、香川県善通寺市にある真言宗善通寺派の寺院。医王山、院号は多宝院と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第七十四番札所。甲山(かぶとやま)の麓に位置する。

 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
 ご詠歌:十二神(じゅうにしん)味方に持てる戦(いくさ)には おのれとこころ甲(かぶと)やまかな
 納経印:当寺本尊、多聞天堂毘沙門天、うさぎの朱印(200円)
 概要

 伝説では、壮年期の空海が寺を建立しようと幼きとき遊んだこのあたりを探索していると老翁が現れ、この地にお寺を建立すべしとお告げをした。この地の岩窟に住む毘沙門天の化身と悟った空海はこの岩窟に毘沙門天を祀った。 その後、嵯峨天皇の勅命を受け別当として満濃池の修築を命じられた空海は、この地で薬師如来を刻み修法すると数万の人々が集まり、無事に築造を完成に導いた。弘仁12年(821年)その功績に対して朝廷から二万銭が与えられ、その一部によって堂を建立したのが当寺の始まりであるという。

 天正年間の兵火により本尊とわずかの寺宝が残ったのみで、『四国徧礼霊場記』(1689年刊)には、「むかし大伽藍の所といえども荒涼せり盛衰は世の数ある・・」と記されている状況であったが、享保20年(1730)に本堂、寛保2年(1742)に大師堂が再建され、『四国遍礼名所図会』(1800年刊)の挿絵では現在の形に近い形に復興している。

 甲山(標高87.2 m)には、室町時代に天霧城の出城があったと云われていて、山頂に石舞台跡があり、頂上には神武天皇孝明天皇震儀石がある。また、当寺から山頂に向かう山道には江戸時代末期に開かれたという西国三十三所の石仏が並んでいる。

 伽藍

 山門:2008年落慶
 中門:旧山門を中門として修築。
 本堂:本尊を拝観できる(脱履物)。
 大師堂:2014年と2020年に大師像が開帳された。
 護摩堂
 多聞天堂:境内左奥の岩窟内に毘沙門天が祀られている
 子安地蔵:大師堂に向って右前にいて、前掛けを持ち帰ると子供が生まれたというエピソードから。
 淡島大明神
 ウサギが16羽:本尊脇仏の月光菩薩の持物にウサギが描かれていることから、山門や中門の内側および茶堂の屋根と手水舎の前にいる。
 山門をくぐり右に手水舎を越え、左に曲がり中門をくぐると右手に納経所、わずかな石段を上がると本堂その右の続に護摩堂、左に数段上がると大師堂があり、鐘楼がその先にあり、その向こうに毘沙門窟入口があり、中に毘沙門天の石像が祀られている。

 宿坊:なし
 駐車場:無料大駐車場が山門前にあり

 甲山寺 香川県善通寺市弘田町1765番地1

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第73番札所 出釈迦寺

2024-06-12 07:43:52 | 巡礼

 「出釈迦寺」

 出釈迦寺(しゅっしゃかじ)は、香川県善通寺市にある真言宗御室派の寺院。我拜師山(がはいしざん)、求聞持院(ぐもんじいん)と号す。本尊は釈迦如来。四国八十八箇所第七十三番札所。

 本尊真言:のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
 ご詠歌:迷いぬる六道衆生(ろくどうしゅじょう)すくわんと 尊き山に出づる釈迦寺(でら)
 納経印:当寺本尊、奥之院捨身嶽跡、七ヶ所参り恵比寿神、奥之院粟嶋社、奥之院蛭子社、久延毘古神(山田のかかし)
 概要
 弘法大師が真魚と呼ばれていた7歳の時に身を投じた山は奥の院捨身ヶ嶽禅定として、また、大師が虚空蔵菩薩求聞持法を修めたところとして、大師出家の原点であり一代記の中には必ず記される霊跡として大師信仰の重要な大願成就の場所となっている。

 歴史
 寺伝によれば、空海(弘法大師)が7歳の時に倭斬濃山(わしのやま)(現、我拝師山)に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと飛び降りた。すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。成人の後に空海は思い出の霊験の山に再度登って、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」と名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたという。

 現在の当寺の奥之院である我拝師山山上のお寺は、かつては曼陀羅寺の奥之院であった。1653年巡拝の澄禅のとき麓に寺はなく、屏風を立てたる様の山上に登って少なき平らな所の昔の堂の跡に釈迦如来・石像文殊・弥勒の石像など有りと表現される所に参拝していて、ここに近年お堂を造立しようとしたが一夜にして吹き崩れ割れた板や瓦が多しという状態であった。その後、麓に宗善(~1690年寂)が寺を建立し、山上が札所であるが麓の寺で納経するようになっていた。そして、1920年(大正9年)に札所は麓の寺に移された。

 2023年、弘法大師生誕1250年を記念して、大正時代に札所と本尊を麓に移したとき造られたとみられる奥の院安置の秘仏・釈迦如来坐像、地蔵堂安置の宗善のとき造立の弘法大師像[4]が麓の本堂横で初公開され、あわせて奥の院安置されていた市文化財・不動明王立像も公開され、また、大師堂の弘法大師像の顔が目まで見えるまですだれを引き上げられた。

 伽藍

 境内への参道:信者寺ゆえ、参道の左側には多くの寄進された石像や記念石や句碑(山頭火「山あれば山を観る」など4基)が並び季節の花が咲く。
 山門:2008年落慶。
 本堂:すだれ越しにうっすらと本尊釈迦如来坐像が浮かび上がる。脇陣に虚空蔵菩薩坐像(着色であったが修繕のとき金箔貼に)と不動明王立像(身体は青色で衣は赤に着色)。軒下のホウキは、釈迦の十代弟子の愚鈍な周利槃特(チューダ・パンタカ)は自分のことを愚かだと知っておりいつもホウキで掃除ばかりしていたが、優秀な兄の摩訶槃特(マハー・パンタカ)より先に悟りを得た解脱者になったという逸話から。
 大師堂:鼻から下の顔が拝顔できる。大師像のまとう緋色の衣は定期的に新調される。
 地蔵堂
 鐘楼堂:2017年5月21日開眼
 奥之院遥拝所(おくのいんようはいじょ)
 奥の院である捨身ヶ嶽禅定の遥拝所。石碑には、身を投げる空海とそれを救う釈迦如来と天女の図が描かれている。この場所で念仏を唱えると、捨身ヶ嶽禅定に登ったのと同じ利益(りやく)が得られると言われており、捨身ヶ嶽禅定の建物を望める。
 山門を進み右に折れると左に納経所があり、正面に本堂、その右側が大師堂と並置されている。本堂の左の石段を上がると赤い壁の地蔵堂があり、その先に奥之院遥拝所と大きな石の台座に虚空蔵菩薩石像があり、眼前に奥の院のある我拝師山がそびえる。

 宿坊:なし
 駐車場:山門に上がる参道手前に広い駐車場が無料であり。

 文化財

 善通寺市指定有形文化財
 木造不動明王立像 - 平成21年12月25日指定。
 檜の寄木造り、彫眼、像高103cm、平安後期作。2009年10月16日に初めて公開されるまでは、絶対秘仏だった。
 禅定石造層塔 - 平成23年4月11日指定。
 造立時期は8〜10世紀と推測

 出釈迦寺  香川県善通寺市吉原町1091番地

 *Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第72番札所 曼荼羅寺

2024-06-11 06:40:41 | 巡礼

 「曼荼羅寺」

 曼荼羅寺(まんだらじ)は、香川県善通寺市吉原町曼荼羅寺にある真言宗善通寺派の寺院。我拜師山(がはいしざん)、延命院(えんめいいん)と号す。本尊は大日如来。四国八十八箇所第七十二番札所。

 本尊真言:おん あびらうんけん ばさらだどばん
 ご詠歌:わずかにも曼荼羅おがむ人はただ ふたたびみたびかえらざらまし
 納経印:当寺本尊、七佛寺薬師如来、七ヶ所参り福禄寿
 歴史
 寺伝によれば、空海(弘法大師)の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古天皇4年(596年)に創建され、当初は世坂寺(よさかじ)と称したという。

 空海が唐より帰国後、請来した両界曼荼羅を奉納し、大日如来を本尊として安置し再興、母(伝承では玉依御前)の菩提寺とし、曼荼羅寺と改称したと伝える。鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えた。

 しかし、永禄3年(1560年)阿波の三好実休によるの兵火で焼亡、さらに慶長年間(1596年 – 1615年)に戦火を受けたが復興している。

 空海の手植えとされた「笠松(不老松)」は、平成14年(2002年)に松くい虫による被害で伐採された。

 伽藍

 山門(仁王門)
 本堂:毎年、彼岸の入りの日に、本尊金剛界大日如来が開帳される。
 大師堂:大師像を拝顔できる。
 観音堂:聖観音立像(県文化財)と金色の胎藏大日如来像を拝顔できる。
 護摩堂:中央に不動明王坐像・両脇に五大明王像(木肌)の小ぶりな二体ずつを配す。
 八幡宮:平成2年5月移転改築、拝殿と奥殿、鎮守。
 地蔵堂(小堂):延命地蔵立像(彩色小像)
 愛染堂(朱色の祠)
 水子地蔵石像(屋根付)、石像地蔵半跏趺坐石像(屋根付)、ブロンズ地蔵菩薩、金剛界大日如来石像、七ヶ所参り福禄寿石像
 西行の昼寝石とその背後にある石碑:「笠掛桜 笠はありその身はいかになりぬらんあはれはかなきあめが下かな」
 山門をくぐり進むと本堂、その手前を左に行くと大師堂、右に進むと納経所がある。

 宿坊:なし
 駐車場:山門横に有料であり、普通車で200円。
 以前は寺の上に無料であったが、廃業した旅館跡を駐車場にしたため有料になった。

 文化財
 県指定有形文化財
 木造聖観音立像 - 1955年(昭和30年)4月2日指定[1]。平安時代後期。

 曼荼羅寺 香川県善通寺市吉原町字曼荼羅寺1380番地1

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第71番札所 弥谷寺

2024-06-10 06:37:38 | 巡礼

 「弥谷寺」

 弥谷寺(いやだにじ)は、香川県三豊市三野町にある大本山の寺格を持つ真言宗善通寺派の寺院。剣五山 (けんござん)、千手院(せんじゅいん)と号す。本尊は千手観音菩薩。四国八十八箇所第七十一番札所。

 本尊真言:おん ばさら たらま きりく
 ご詠歌:悪人と行き連れなむも弥谷寺(いやだにじ) ただかりそめもよき友ぞよき
 納経印:本尊印、奥之院御学問所、七ヶ所参り大黒天
 概要
 弥谷山(標高382 m)の中腹225 m辺りに本堂があり、その背後の岩盤には創建時に千手佛が納められた岩穴が残る。また、山全体が霊山であるとの信仰があり、日本三大霊場(他は恐山・臼杵磨崖仏)の一つに数えられたといわれる。

 歴史
 寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔うため、大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。また、空海(弘法大師)は7 – 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。

 807年(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し獅子之岩屋にて護摩を修し千座満願のとき蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴と五柄の剣を納め、山号を剣五山、仏の住む山である弥山から仏の谷という意味とされる弥谷に改めたと伝わる。

 室町時代には天霧城主・香川氏の庇護を受け、東院・西院・中尊院と6坊を備えて大寺になっていたが、天正期に兵火により荒廃し、現在の中尊院のみが存続、のち丸亀藩主京極氏の帰依により1600年(慶長5年)復興された。

 また、縁起によると「此岩窟大師四十二歳ノ契天下泰平五穀豊壌或ハ四十二歳厄除衆生ヲ救為千座之護摩修行シ跡伝ワレリ」とあり、これを聞いた後の住持が大師堂再建の折に弘法大師42歳の姿を刻み、奥之院本尊として厄除大師を祀ったといわれ、その後(焼失・盗難を恐れたなど諸説あり)、岩屋の中に石仏の厄除大師像・佐伯善通卿像・玉寄御前像を建立し、それまで祀っていた木像を秘仏としたことから、石造と木造の2体の厄除大師像が祀られている。また、澄禅の『四国遍路日記』(承応2年・1653年)には、木像がお祀りされていると記述され、寂本の『四国遍禮霊場記』(元禄2年・1689年)には、「いにしヘは木像にてありけるを石にて改め作り奉る」と記されている。2014年、大師堂厨子内に安置されているその秘仏木造厄除大師像が元禄2年以来320年ぶりに、同時に江戸期以来300年ぶりに本堂に安置されていた木造伝持の大師像、また、金銅四天王五鈷鈴(重文)も公開された。

 伽藍(ここでは下から記する)

 山門(仁王門)
 賽の河原:参道で灌頂川を渡る法雲橋付近で、昼でも暗く鬱蒼としたところ。
 金剛拳菩薩:十六大菩薩最後の一尊・元禄時代建立の約6 mの立像。
 百八階段
 大師堂:堂内に座って参拝できる。納経所もあり。
 奥之院 獅子之岩屋:弘法大師御学問所。大師堂と同じ建物で、秘仏木造厄除大師像の厨子のある内陣の背後に回った空間に拝所と岩屋がある。岩屋には奥之院本尊厄除大師石像、佐伯善通卿石像、玉依御前石像を10体の摩崖仏が囲んでいて、「明星之窓」から明かりを取り込む。「弥谷寺月のさしいる石室に修法大師のみ聲聞かまし」の扁額が入口に掛かる。現在は、中央に木造伝持の大師像、向かって左端に木造行基像、入口両脇には木造増長天と木造持国天。
 洞(ほら)地蔵尊:大師堂の背後の斜面の約10 m上方に鎮座し、大師堂内から拝む。
 護摩堂:大師堂とのつづき棟で、鉄筋コンクリートで造られ、木造不動明王立像と二童子・木造地蔵菩薩立像・木造愛染明王坐像と信者達の夥しい数の位牌が祀られている。
 経堂:石積みの石室で上に修行大師像がいる。
 鐘楼堂
 観音堂:本尊・聖観音菩薩と西国三十三所観音を祀る。
 十王堂:閻魔大王と地蔵菩薩半跏像と諸仏を祀る。
 多宝塔:内部は天女の絵や天井画の装飾が施されている。
 稲荷社(祠)
 岩窟の護摩堂:不動明王・弥勒菩薩・阿弥陀如来・道範の各石像を祀る。
 永代供養堂
 水場の洞窟:須弥山への入口とも極楽浄土の入口ともされ当山の霊山信仰の中心で、枯れることなく流れ出る水で経木を洗い清め願掛けする。
 弥陀三尊磨崖仏(比丘尼谷の磨崖仏)約12 mの岩壁に阿弥陀如来(約1 m)・観音勢至両菩薩(約0.9 m)が陽刻され、その両脇に九行刻まれた南無阿弥陀仏の名号が陰刻。
 本堂:ここまで570の石段がある。当初は、今の本堂の背後の岩壁中央にある四角い窟に大師作の石像の本尊が納められ、現在は獅子之岩屋の中に置かれている不動明王と毘沙門天が彫られた二枚の鉄板の扉が付いていて脇仏としていたといわれ、本堂は岩壁に張り付くように背面の無い建物が建てられ中から岩壁に彫られた仏像や五輪塔を拝んでいた。しかし、火災や落石で何度か再建され、現在の本堂は弘化5年(1848年)建立で背面壁もあり前年に造られた木造の千手観音像を本尊とし両脇仏の不動明王・毘沙門天と共に拝顔できる。向かって右脇陣には秘仏・胎蔵大日如来像、左脇陣には木造伝持の大師像(獅子之岩屋に移されている)。
 鎮守堂:本尊・深沙大将で別名を捲簾大将であるが当寺では蔵王権現と観念する。秘仏、平安時代作、等身大で倚像の大将像は国内唯一。境内で一番高所にある。
 少し上ると山門(標高140 m)があり、灌頂川に沿って長い石段の参道を登っていくと大きな金剛拳菩薩が迎えてくれる。その先に赤い手すりの108階段を上り詰めると目の前に大師堂(標高190 m)がある。右に進むとすぐ左上に多宝塔があって稲荷社はその脇にある。鐘楼は正面にあり、その前の石段を上って行くと途中の右に観音堂、左に十王堂があり、上り詰めると正面に岩窟の護摩堂がある。その護摩堂の右脇の急斜面に荒れた激急坂歩道の上に権現堂が見える。護摩堂を左に進むと水場があり、石段は二手に分かれ右の方に上がると途中、岩壁に弥陀三尊磨崖仏があり、それを過ぎるとやっと本堂がある。納経所は大師堂の中にあり、洞地蔵尊は大師堂中央あたりから山側を見ればある。なお、寺を去るとき、決して振り返ってはいけない、それは死者を背負って帰ってしまうからとの云い伝えがある。

 宿坊:なし
 寺進入路先の石段下の駐車場は無料であり。百八階段下の中腹にある駐車場までなら普通車で500円。大師堂のある400段目への送迎バスは休止中。
 名物の俳句茶屋は2018年閉鎖になった。

 文化財
 重要文化財
 金銅五鈷鈴 (伝空海将来) - 1901年(明治34年)3月27日指定。
 奈良国立博物館寄託。唐時代、弘法大師が唐より請来したとされる。
 国の史跡

 讃岐遍路道 曼荼羅寺道 - 弥谷寺へ向かう石段下分岐(三豊市三野町大見)から蛇谷池の堤(善通寺市碑殿町蛇谷)までの0.9 km。2014年(平成26)10月6日指定。
 香川県指定有形文化財
 仏説観仏三昧海経 巻第二 - 2007年(平成19年)3月30日指定。
 香川県指定史跡
 弥谷寺信仰遺跡 - 1968年(昭和43年)6月4日指定。以下、遺跡。
 賽(さい)の河原 - 仁王門から法雲橋までの参道
 獅子窟
 比丘尼谷の磨崖仏
 比丘尼谷の墓地大小無数の五輪塔

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第70番札所 本山寺

2024-06-09 07:52:55 | 巡礼

 「本山寺」

 本山寺(もとやまじ)は香川県三豊市にある高野山真言宗の寺院。七宝山(しっぽうざん)、持宝院(じほういん)と号す。本尊は馬頭観音菩薩(秘仏)。四国八十八箇所第七十番札所、四国三十六不動霊場第29番札所。鎌倉時代再建の本堂は国宝。

 本尊真言:おん あみりと どはんば うん はった そわか
 ご詠歌:本山(もとやま)に誰か植江(うえ)ける花なれや 春こそたをれたむけにぞなる
 納経印:当寺本尊、導(みちびき)不動、阿閦如来、五如来、本尊馬頭明王
 歴史
 寺伝によれば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという。この時、本堂はわずか一夜でできたという「一夜建立」の伝説がある。

 中世には寺領2,000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。

 永安から天正年間(1573年 – 1593年)の戦乱により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けたが、当寺は香川氏の勢力下にあり、早くに長宗我部と婚姻同盟しており「不戦協定」が結ばれていて、また、埋蔵文化財センターによる発掘でも焼かれた跡は見つかっていない。しかし、伝承ではこの境内に攻め入る兵士を斬られながらも止めようとする住職を振りきり攻め入ったが、本堂内陣の厨子を開いたところ阿弥陀如来の体から血がしたたり落ちるのを見て驚き、本堂(国宝)と仁王門(重要文化財)は焼かずに撤退したという。その阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれるとある。 澄禅『四国遍路日記』(1653年)や真念『四国辺路道指南』(1687年)には、本堂と仁王門と鐘楼しか記されていないが『四国遍礼名所図会』(1800年)には、大師堂(1795年建立)・十王堂(1759年建立)・大日堂・鎮守堂・庚申堂(1730年建立)が描かれ、1700年台に五重塔以外は現在とほぼ同じ伽藍が造られた。

 江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され、天保年間(1830 – 1844年)には地名から本山寺と改称された。

 文化2年(1805年)3月3日より4月3日まで本尊および全ての堂宇と仏像が開帳され村をあげてのイベントが行われた。

 嘉永7年(1854年)には方丈・庫裏が全焼するが、慶応3年(1867年)に再建された。

 明治29年(1896年)8月五重塔着工、同31年11月一層、同33年9月二層、同36年2月三層、同43年3月四層五層完了、同年12月10日には五万人の観衆を集めて落慶法要が行われた。

 五重塔の修理が2019年4月9日竣工し、本尊の五智如来のうち失われていた中尊胎蔵大日如来が新造され令和5年11月5日落慶法要。

 伽藍

 大門:旧伊予街道側からの入口にある門。大正3年(1913年)宝光寺(岡山県瀬戸内市牛窓町)より移設。
 二王門
 本堂:毎年7月の土用の丑の日にきゅうり加持があり、その時に本堂内陣まで入れる。本尊と脇仏は宮殿に密閉され開くことができない。
 * 本尊前仏(お前立ち)の馬頭観音:善通寺金堂本尊を造った仏師・北川運長が当寺に来て、本尊馬頭観音を横に置き、姿大きさを写したと云われる馬頭観音像が2014年に公開された。平素は本堂宮殿の向って右横に秘仏として安置されている。江戸時代中期作
 大師堂:2014年に大師像が開帳された。その後は、毎月21日開帳。
 五重塔:明治29年(1896年)着工、明治43年(1910年)完成。2015年9月17日解体修理着工、2019年4月9日竣工。初層に明治期作の五智如来(檜材一木造り、彫眼、古色)が祀られていた。
 赤堂(大日堂):室町時代中期建立。金剛界大日如来と持国天・多聞天(いずれも鎌倉時代作)を祀る。
 鎮守堂:五所権現を祀る。

 十王堂(護摩堂):宝暦9年(1759年)建立、護摩堂は平成8年建立。向かって右に十王像、左に説法阿弥陀如来坐像と三面大黒天を祀る。奥は護摩堂で、近藤泰山が昭和10年に刻んだ不動明王立像(四国三十六不動霊場の本尊)で毎月28日午前9時より護摩が焚かれる。
 四国三十六不動霊場お砂触れ道場:2020年12月11日開眼。
 満州開拓慰霊堂(阿弥陀堂):奥殿の阿弥陀如来坐像は阿弥陀院本尊の客仏。
 一畑薬師堂:舟形石仏を祀る。島根県の一畑寺から勧請。
 鐘楼: 釣鐘は戦争供出により失われたため昭和24年に再鋳造された。
 客殿: 江戸時代末期の嘉永5年(1852年)焼失後の再建
 庫裏: 江戸時代末期の嘉永5年(1852年)焼失後の再建
 句碑歌碑:三浦恒禮子「ゆるぎなき空輪しぐれ雲の面」が大師堂の左背後に、その左に歌碑「五重の塔老樹のしけり鐘楼も 法のみ乃里の満てる寺庵」がある。
 二王門をくぐると正面奥に本堂があり、その手前右に大師堂がある。納経所は本堂の左側を通過し奥に進み本坊の門をくぐり中に入って左にある。

 宿坊:なし
 駐車場:仁王門前に無料あり。
 文化財

 国宝
 本堂(附 厨子3基、棟木の部分1枚):昭和30年6月22日指定。
 正安2年(1300年)に京極氏と佐々木氏の寄進によって再建された。棟木と礎石に残された墨書から、正安2年の建立が裏づけられる。桁行(正面)五間、梁間(側面)五間の寄棟造、本瓦葺(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す用語)。円柱を用い、建築様式は純和様に近いが、側面と背面に桟唐戸(さんからど)を用い、外陣に渡した虹梁上に大瓶束(たいへいづか)を用いる点など、細部には禅宗様を取り入れている。平面構成は手前の梁間二間分を外陣とし、奥は中央の桁行三間・梁間二間を内陣、その周囲を脇陣ならびに後陣とする。正面の五間の柱間装置はいずれも蔀戸(しとみど)である。外陣は中央よりに2本の大虹梁(だいこうりょう)を渡し、その上に大瓶束を立て、入側柱2本を省略している。内陣は大型厨子内にさらに3基の厨子を置き、中央に本尊馬頭観音、左右に薬師如来と阿弥陀如来を安置する。いずれも秘仏であるが、文化2年(1805年)3月3日から4月4日までこの本尊脇仏ほか全ての堂宇の諸仏を盛大に開帳した記録がある。1955年に修復工事を実施。
 重要文化財

 二王門(重要文化財)
 二王門:明治37年8月29日指定。
 室町時代中期建立の三間一戸八脚門。切妻造、本瓦葺。主柱、前後の控柱ともに円柱とする。建築様式は和様を基調とするが、柱の下部に礎盤を設ける点など細部に禅宗様を取り入れている。
 香川県指定有形文化財

 鎮守堂(県の有形文化財)
 鎮守堂:天文12年 (1543)・16年の墨書、平成元年2月28日指定
 木造善女龍王像 :檜の寄木造り、玉眼、像高47.5 cm、南北朝時代作、彫像としては稀有の作、鎮守堂に祀られていたが宝蔵に移されている。昭和63年2月26日指定
 木造金剛力士立像:平成9年5月23日指定
 木造愛染明王坐像:檜の寄木造り、彫眼、彩色や飾りは江戸時代のもの、本堂の向かって左奥に鎮座、平安後期作、平成9年5月23日指定
 本山寺蔵経文板木 83枚:平成11年2月23日指定
 本山寺蔵経文板木 4枚:平成22年3月30日追加指定
 三豊市指定有形文化財

 五輪塔 5基:大師堂の背後にある。昭和42年1月1日指定。
 五重塔:礎石から相輪先端までの高さ31.75 m。当時の住職は頼富実毅(よりとみじっき)総工費10万111円22銭7厘、平成改修の費用は4億円と云われている。平成26年1月指定。
 国の登録有形文化財
 大師堂:寛政7年 (1795) 建築、明治16年改修、入母屋造屋根の三間堂。平成26年12月19日指定
 十王堂:宝暦9年 (1759) 建築、平成5年改修、五間堂。平成26年12月19日指定
 大日堂:江戸時代中期建築。平成26年12月19日指定
 宝蔵:天保4 (1833) 建築。平成26年12月19日指定
 鐘楼:江戸時代中期建築。平成26年12月19日指定
 大門:江戸時代後期建築、大正3年岡山県から移築。平成26年12月19日指定
 冠木門:明治43年建築。平成26年12月19日指定

 行事
 「きゅうり加持」毎年 土用の一ノ丑、土用の二ノ丑
 一人につきキュウリ1本を持参し。本堂外陣で法話とお勤めの後、内陣にてお加持。

 本山寺  香川県三豊市豊中町本山甲1445番地

*Wikipedia より

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