「三河武士の鑑 鳥居元忠」
鳥居 元忠(とりい もとただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。下総矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると(会津征伐)、伏見城を預けられる。6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「わしは手勢不足のため、伏見に残す人数は3000ばかり。そなたには苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要でございます。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい」と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。
家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと矢作等から徴発した1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。元忠は最初から玉砕を覚悟で、三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し、戦い続けた。13日間の攻防戦の末、8月1日、鈴木重朝と一騎討ちの末に討ち死にした。享年62。元忠の首級は京橋口に晒されたが、親交のあった京の商人佐野四郎右衛門が知恩院の内である長源院に葬ったといわれている。 その忠節は大久保忠教より「三河武士の鑑」と称された。
*Wikipedia より
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