「江戸和竿」
江戸和竿の概要
1.江戸和竿とは
江戸和竿は、江戸時代に江戸で誕生し、研鑽を積み重ねた竿師により育まれ伝承された釣竿です。タナゴ竿やフナ竿、ハゼ竿、キス竿など、太さや長さ、継ぎの本数など、釣る魚の種類によって様々なタイプの竿を使い分けるのが、江戸の庶民の粋な文化だったのです。
2.江戸和竿の特徴
江戸和竿には、3つの特徴があります。1つ目は、竿1本1本に個性があるということ。天然の竹を使う和竿は、竿の調子や長さなど、1つとして同じ物はありません。
2つ目は、見た目の美しさです。江戸和竿には漆を塗りますが、この漆が竹に強度と見た目の美しさを与えます。
3つ目は、長く使えるということです。素材が天然の竹のため、使って行くうちに曲がりが生まれることもありますが、再度火入れをすれば直すことが出来ます。漆は熱に強いため、高温で処理することが出来、機能面でも優れた塗料と言えます。しっかりとメンテナンスすれば、長く付き合えるのが江戸和竿の魅力です。
江戸和竿の材料
1.日本特産の竹
主に布袋竹(ほていちく)、矢竹、真竹などを用い、それぞれの特徴を生かして使い分けます。
2.絹糸
継ぎ口の補強のために日本特産の絹糸を巻き付けます。
3.国産の漆
表面に漆を塗ることで、見た目の美しさと強度を兼ね備えた竹の竿として仕上がります。
江戸和竿の歴史
1.発祥
江戸和竿は、江戸時代の天明年間(1781~1788年)に泰地屋東作が上野広徳寺前に開業したのがその発祥とされています。
2.発展
江戸時代末期、二代目東作のもとで修業し、後に独立して明治期に和竿作りで活躍したのが釣音こと中根音吉です。その釣音の長男が名人の誉れが高い竿忠こと中根忠吉で、この竿忠が活躍した明治から昭和初期頃が、江戸和竿の名作が多く誕生した全盛期と言えます。
3.現代の江戸和竿
戦後、グラスファイバーやカーボンなどの軽くて強い新素材が釣竿に使われるようになり、竹竿の需要は急激に落ち込み、多くの竿師が廃業に追い込まれました。現在では、こだわりを持った釣り師の贅沢品として、愛好家の間で親しまれているのが江戸和竿の実情です。
4.国の伝統的工芸品に指定
平成3年、江戸和竿は通産大臣(現経済産業大臣)より伝統的工芸品に指定されました。
*https://www.japan-kogei.com/wasao-about.html より
*https://kougeihin.jp/craft/0608/ より
江戸和竿は、江戸前の海と川の豊かさの象徴
巷では、欧米由来のバスフィッシングやフライフィッシングが盛んらしい。それらに使われるロッド(竿)の素材は、ほとんどがグラスファイバーやカーボンファイバーといった量産のきくケミカルなもの。対して日本で竿といったら、本来何はなくとも竹、である。竹には縦の繊維が通っているから、魚を釣り上げたときの横ぶれがない。その感触は、新素材では味わえない竹独特のものだ。が、それだけではない。漆と絹糸を使って加工を施した和竿は、単なる実用品の枠を超え、工芸品として見ても美的感覚にあふれている。
釣りは日本全土で行われてきたから、各地に竿の産地はある。京竿、紀州竿、庄内竿、郡上竿、いずれの竿も銘品には違いない。それらと江戸和竿とが一線を画するのは、圧倒的な種類の多さだ。はぜ竿、磯竿、きす竿、たなご竿、鮎竿、ふな竿……。それはとりもなおさず、江戸和竿発祥当時の、江戸前の海と川の豊かさを象徴していた。
竿作りに使われるすべての道具
「お前のおやじはすごい竿師だった」その言葉がきっかけとなって
名人の誉れ高い初代竿忠、そのひ孫にあたる4代目竿忠・中根喜三郎さん(江戸和竿協同組合理事長も兼ねる)を、荒川区は南千住に訪ねた。東京に一路線だけ残るチンチン電車(都電荒川線)を三ノ輪橋で降りる。下町の情趣あふれる町並みをのんびり歩きながら、中根さん宅へ。玄関先には、晒し竹が足の踏み場もないほど積み上げられている。店の奥に胡座する中根さん、そのたたずまい、パキパキした語り口は江戸っ子そのものだ。
喜三郎さんは、初代に劣らず名人の誉れ高かった3代目竿忠・中根音吉さんの三男。竿忠では長男だけの一子相伝と決まっていたから、喜三郎さんは父から何も教わってはいなかった。が、東京大空襲で一家は被災。喜三郎さんと妹さん(海老名香葉子さん)だけが遺された。兄弟を不憫に思った父のなじみ客であり釣り仲間でもある、先代・三遊亭金馬師匠が喜三郎さんに父の贔屓(ひいき)の客を紹介したことから、人生が大きく動いた。
「お前の親父はすごかった、こんなにいい竿は二度と手にすることはできないと、だれもが父の作った竿を見せてくれる。そんなこんなを見聞きするうちに、無性に自分も竿を作りたいと思うようになってね」
中根喜三郎さん。「初代の頃は、上野の山にいい竹があったそうだよ。だけど今じゃ地方まで調達しにいかないとね」
ものづくりの基本は、それが好きでたまらないこと
19歳で竿師に内弟子入り。生半可な気持ちでは修行などできないと、頭を丸めた。身を切られるほど寒いなか、堀割で竹洗いをしたこともある。それでも、つらい、苦しいという気持ちより、とにかく仕事を覚えたい、立派な竿作りになりたいという気持ちのほうが勝っていた。竿忠の看板に恥じない竿を作れるようになるまで襲名はすまい、心に誓った。
「はじめはとにかく、初代や父の仕事を真似しながら、腕を磨いたよ。30歳、40歳、50歳、60歳、年をへるうち、その年齢なりの見方ができるようになった。同じ親の竿を見ても、自分の見方のほうが変わってくる。ものの奥行きが見えるようになってくるんだねえ」
そうしてしだいに、自分にしかできない独創を入れていくようになった。
「もの作りの基本は、それを作るのがたまらなく好きだということ。いやいやじゃあ、何だってできやしないよね」
中根さんに後継者はいない。が、注文品以外にも後世に残すための竿をつくっている
世界で1本、自分のためだけの品を手に入れる幸せ
喜三郎さんの腕にほれ込んだお客は多く、注文は全国から入ってくる。受注するときは、一度だけでいいからお越しくださいとお願いするという。何をどこで釣りたいのか、その人がどんな好みをもっているのか、膝を交えてじっくり話をきくためだ。難しい注文であればあるほど、やりがいがある、とも。
「あたしの竿が好きで贔屓にしてくれるお客様がいる限り、作り続けていきますよ。釣竿は大人の玩具。実用的なだけじゃだめ、見た目にもきれいで楽しい竿じゃなくっちゃ」
世界でたった1本、自分の好みに合わせて作られた自分だけの逸品を手に入れる幸せ――。江戸和竿、何と贅沢な大人の遊び道具だろう。
鮒竿。釣りは鮒に始まって鮒に終わる、という格言も
同じ鮒竿でも、注文主の好みによって色合いや漆塗りを変える
職人プロフィール
中根喜三郎
1932年生まれ。
51年、19歳のとき竿師の道に入り、56年に独立して「竹の子」を名乗る。74年、4代目「竿忠」を襲名。
こぼれ話
幻の逸品に出会う
江戸和竿が作られ始めたのは、江戸は享保(1716~36)年間の頃。その後、天明年間(1781~88)に初代・泰地屋東作が竿師の店を開いて以来、質も量も飛躍的に伸びました。現在活躍している竿師の元をたどれば必ずこの人にたどりつくという江戸竿師の祖です。
時は明治に移り、名人と呼ばれる竿師が生まれました。3代目東作、初代竿忠、初代竿治です。ここでは、伝説の竿師・初代竿忠がつくった幻の釣り具ともいわれる逸品を紹介しましょう。竿から釣りに必要な小道具まですべてが煙草入れ仕立てにまとめられた、粋の極致のような携帯釣り具一式。竿は尺2本継ぎと尺5寸3本継ぎの2本、印籠継ぎの芯には象牙が使われ、箱は桑材製です。もちろん、竿には一寸たりとも狂いはありません。
*https://kougeihin.jp/craft/0608/ より
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