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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-ロバート・プラント

2021-03-27 09:11:13 | MUSIC

 「ロバート・プラント」

 1948年8月20日生まれの72歳

 ロバート・プラントが語る「ツェッペリン以降」の音楽人生、亡きジョン・ボーナムの思い出 Kory Grow |2020/10/17 10:00

 ソロ集大成アンソロジーを発表した、ロバート・プラントの最新インタビュー。レッド・ツェッペリン以降のキャリアを振り返りながら、映画『あの頃ペニー・レインと』における「俺は輝ける神だ!」発言や、亡きジョン・ボーナムの思い出についてなど、数々のエピソードを明かしてくれた。

 パンデミックで世界中が閉鎖されてから半年以上が経過したが、わりと順調だとロバート・プラントは言う。「今もちゃんと生きてるし、ひねくれたユーモアも健在だ。歌もまだ歌える」と、何食わぬ顔で言った。「だがそれ以外は何も聞かないでくれ。今日が何曜日だろうと、毎日変わり映えしないんだから」

 2020年の年明け、ロバート・プラントはアメリカにいて、この先1年のスタジオ制作やライブの予定を立てていた。自ら率いるバンド、セイヴィング・グレイス(Saving Grace)とともに、本人曰く「すごく小さくて地味な、こじんまりしたステージで『サイケデリック・フォークロック、アパラチア山脈へ行く』みたいな感じ」の小規模ライブをやれればと思っていた。5月に予定していたツアーはじきに10月に延期され、今では話は宙に浮いたままだ。「明らかに誰もが、そのうち解決して、このパンデミックもどこかに消えるだろうと思っていた。でもよくよく考えれば、どこかに消えるなんてことは到底ありっこなかった」と彼は言う。「あらゆることが先送り、立ち消え、中止、保留だ」


 彼はたくさん本を読んで過ごしているが、ここまでのところ新しい曲を書く気にはなれないという。「どんな形であれ、ものを書く気分にはなれない。少なくとも曲という形ではね。あまりにも多くの出来事や状況に囲まれて、対応に追われ、影響も受けている。作品のアイデアがあまりにも漠然としていて、大衆音楽などまるっきり場違いだ」と彼は言う。「これほど四面楚歌の状態になったことは今までなかったんじゃなかろうか――少なくとも、1世紀前にスペイン風邪が蔓延して以来だ」

 新作をリリースする代わりに、彼は普段やらないことをしている――回想だ。昨年プラントは『Digging Deep』というポッドキャストでこれまで手がけた楽曲の裏話を語り始め、そしてレッド・ツェッペリン解散後の作品を2枚組のアンソロジー『ディギング・ディープ:サブテラニア』としてまとめた。未発表作品3曲を含む楽曲は、年代とは関係なく並べられ、立て続けて聞くと1982年以来のプラントのソロ作品をつなぐ糸が透けて見えてくる。

 ロックの新たな立ち位置を確立した『イン・ザ・ムード』にせよ、バンド「ザ・センセーショナル・スペース・シフターズ」と世界各地の音楽を融合した『エンブレイス・アナザー・フォール』にせよ、はたまたバンド・オブ・ジョイとブルースに挑戦した『チャーリー・パットン・ハイウェイ』にせよ、1曲1曲に懐かしい影や抑揚がうかがえる。プラントはつねに一筋縄ではいかないアーティストだった。ちょくちょく新しい方向性に挑戦し、詳しくは音楽を聴けといわんばかり。だからこそ、本人が歩みを止めて過去の作品を振り返るのは大きな意味がある。

 「実際に聞いてみて、この歌詞を書いて歌ってるやつは休むことを知らないんじゃないか、と自分でも疑問に思うよ」。コンピレーションについて彼はこう冗談を言った。「休暇を取ったことはあるのか? ちょっとはおとなしくして、応用数学とか天文学とか新しいことを勉強すりゃいいのに?ってね。だけどまぁ、(『ディギング・ディープ』は)とにかく勢いにのってるよな。大胆不敵。ただ実際は、たぶん心の奥では自信なんてこれっぽっちもなかった。次から次へと仕事に取りかかって、さあどうなるか見てみようぜ、という感じだった。ここには(ボブ・ディランの)「戦争の親玉」とかに匹敵する曲はひとつもない。ある時ふと、ウェールズの辺鄙なリハーサルルームで生まれたような曲ばかりだよ」

 とある土曜の午後遅く、現在住むイギリスで、プラントはたっぷり1時間――お気に入りのサッカーチームの試合中継が始まるまで――ローリングストーン誌の取材に応え、音楽人生の数々の節目をひもといた。現在72歳のシンガーは物思いにふけり、現在に至るまでの道程をしみじみ反芻する場面もあった。

 「いまは不確かなことばかりだが、団結の精神にもあふれている」。イギリスの現状について彼はこう語る。「だが悲しいかな、みんなをまとめるルールブックがない。1973年にヘプトーンズが『Book of Rules』を収録したのが最後だ」

 70年代に別れを告げること

—シャットダウンが敷かれて以来、日々をどのように過ごしているんですか?

プラント:仲のいい友達や支えてくれる家族、近くや遠くにも友人がいる。だがずっと気心の知れた連中に囲まれて暮らしているから、同胞意識や楽観的な雰囲気がある。俺自身もこの時期強くいられるのは、知人に囲まれているからさ。コミュニティとして機能しているんだ。みな良心的で、思慮深く、それほど強くない人たちを思いやる。自分の存在を実感させてくれるんだ。最高だよ。

 それから歌も歌う。いいだろ。歌わなきゃやってられない。エルヴィスばっかりじゃないぜ、今じゃほとんどパブで歌うことはできないからな。何人かおとなしい連中と一緒にソーシャルディスタンスしながらやってる。いい感じさ、暇を持て余すってことはないよ。

—ツアーができなくなって今回の『ディギング・ディープ』アンソロジーを出すわけですが、ソロ時代初期の曲も収録されています。ソロ作品はレッド・ツェッペリン時代とはまったく違いますよね。いま振り返ってみて、バンドが解散した後ご自身はどうやって前に進んだのでしょう?

プラント:俺は32歳だった。あの当時メディアでは、当然といえば当然だが、32になったら一線を退いて次の奴らに道を譲るもんだと思われていた。明らかにツェッペリンは(バンド)メンバーの誰よりも大きな存在だったから、バンドの全体像をとらえるのが難しかった。それとは別に、しばらくはある種の依存状態――慣れ親しんだ顔ぶれ、習慣、気心――それを変えるとなると、全体のバランスが一気に崩れてしまう。俺はやりたいことは何でもできた。実際にやってみなきゃならなかった。それがころころ変わるもんだから、一箇所に落ち着くことはなかった。


 70年代に別れを告げることに関してはとくに意識した。あの年代は、ものすごく大きな躍動感にあふれていた。辛いなことに、もちろん楽しいこともたくさんあった。だが前に進まないとな。

—当時コラボレーションした人々は、ソロ黎明期のサウンドにどんな影響を及ぼしましたか?

プラント:最初の2枚目かその途中、おそらく(1985年の)『シェイクン・アンド・スタード』辺りまで(が一区切り)かな。それからまるっきり違う方向に向かった。ローウェル・ジョージが死んだあとリッチー・ヘイワード(リトル・フィートのドラマー)が加入して、そのあと俺はアーメット・アーティガン(アトランティック・レコード創業者)とニューヨークへ渡り、ハニードリッパーズの仕事を始めた――そこでも別の奴らが加わった。俺にしてみれば、多彩なミュージシャンの才能と音楽が入り乱れる巨大な万華鏡だった。それまで11年、ずっと4人で最高の関係を築いてきたから、他のやり方はまったく分からなかった。いわば秘密結社の一員として引きこもっていたから、大勢のミュージシャンと付き合っていく上でのごたごたとは無縁だった。

 俺はたいていの場合、ミュージシャンとはかなり上手くやっている。それもあって、変化を続けるほうが刺激的だと感じるんだろう。来る者もいれば去る者もいる。別の者がやってきては、再び戻ってくる者もいる。それが自然な流れになった。だから誰も長期間拘束されることなく、プロジェクトに取り組める。そうしてると、たまにものすごいアイデアがひらいめたり、ものすごいことが起きたりするんだ。

—ソロとしての最初のヒットは「ビッグ・ログ」でした。あの曲を書いたとき、ヘヴィじゃなくてビッグにしたかった、と最近どこかでおっしゃっていましたね。なぜですか?

プラント:「ビッグ・ログ」はインパクトがあったが、とても美しい曲だったとも思う。開放感もあった。あの時の俺は、今までやってきたことから敢えて離れようと過剰に意識していたんだと思う。おかしなコンセプトだった、70年代にずっとやってきたことから逃れようとして、1982年になって、「いやいや、アンディ・ウィリアムスってわけじゃないが……」って感じさ。

 あらゆることを、かたっぱしからヘヴィにしようとした。ただしああいうヘヴィじゃなく……ちょっとばかりギアを上げるみたいな感じさ。180度方向転換して、いままでと正反対のことをしようとして、大胆で無茶なこともたくさんやった。当時世間が求めていたものとは違っていたかもしれないが、あれが今の俺の礎になった。そのおかげで、去年の今頃サンフランシスコのHardly Strictly Bluegrassでスペース・シフターズと最後のギグをするところまでこれたんだ。つねに紆余曲折しながら、常に全力で、たまにはバカもやりながら、流れに身を任せてやってきた。それはそれで良かったと思う。

「ポスト・トリップホップ」時代

—アンソロジーの曲目は年代順に並んでいませんが、ヴォーカルの背後に曲と曲をつなぐ音楽の糸が見えます。ご自身は気付いていますか?

プラント:ああ、エネルギーが充満して、相当パワーが凝縮されている。初期のころは、その時々で最高だと思ったものは何でもかんでも取り入れていた。80年代のテクノ革命も……今思えば恐ろしいがな。いや、恐ろしいとは違うか。今振り変えれば、「おいおいロバート、なんでまたあんなクソにわざわざ首つっこんだんだよ?」って言いたくなるが、答えはずばり「強い好奇心とやかましいノイズのせい」。本当、笑えるよ。だが中にはそれなりにうまくいったものもある。俺も長いことこっぱずかしかった。とくに1993年の『フェイト・オブ・ネイションズ』をリリースしてからはね。あれが大きな転換点だったな。つまり、誰しもその時はとくに深く考えてなくて、ただ気の向くままに次々いろんなアイデアや陽気な考えに没頭してるだけなのさ。

—2002年の『ドリームランド』もターニングポイントでしたね。ティム・バックリィの「ソング・トゥ・ザ・サイレン」やヤングブラッズの「ダークネス、ダークネス」などをカバーしていますが、深みを増し、音楽的にも幅が広がりました。当時ご自身の中で何か変化があったんでしょうか?

プラント:90年代中期から後期は、ジミー・ペイジと『ノー・クォーター』プロジェクトや『ウォーキング・イントゥ・クラークスデイル』をしばらくやっていた。確かにあの頃の俺にとって、ビッグなサウンド――オリジナルかどうかはさておき、とにかくビッグなことに挑戦すること――が、なんとなく自然な流れだったんだろう。それで別の道を模索し始めた。Priory of Brionっていう少人数の(カバー)バンドを組んでいたんだが、あれはゴドーを待ちわびる1万5000人をひき連れてジャーマン・インダストリアルな連中の前でプレイすることからの逃げ道だった。当時のマネージャーにも言われたよ、「こいつはひどいな、これじゃあんたから委託料を取るなんて無理だろうな」って。だから俺は言ってやったのさ、「そりゃ良かった、どのみち俺たちは一晩で200人相手にしかプレイするつもりはないからな」って。


 ストレンジ・センセーション(当時のバックバンド)を結成したころ、チャーリー・ジョーンズ(Ba)から、ロニ・サイズのところにいたクライヴ・ディーマー(Dr)を紹介された。彼はポーティスヘッドの『ダミー』にも参加していたんだが、ビートの刻み方が独特で、俺の音楽にも取り入れたいと思った。他のメンバーはもちろんだが、彼のドラムはすごく重要だった。それで自分が本当に好きな音楽に立ち戻って、その雰囲気を再現したいと思ったんだ。ジェシ・コリン・ヤング(ヤングブラッズのヴォーカル)の声や彼の歌はどれも60年代後期を代表する曲であるだけじゃなく、単刀直入で重みがある。それで「ダークネス、ダークネス」のような曲をやってみることにした。ティム・バックリィの曲に関しては、コクトー・ツインズが4ADからティス・モータル・コイルとして出てきて、バックリィの「ソング・トゥ・ザ・サイレン」をカバーしたんだが、それがまたすごくいい出来だった。

 昔だったら、こういう音楽は絶対やれなかっただろう。当時の環境や音楽業界やミュージシャンの状況は、こういう曲にはそぐわなかっただろう。あのころイギリスにもポスト・トリップホップ系のミュージシャンが出てきていたおかげで、俺も60年代後期のトリップ時代に好きだった曲を再発見することができたんだだけじゃなく、自分でやってみることができた。ここまでくるのに相当長かったよ。おかげでどっぷりつかって、こういう曲を出すことができた。ストレンジ・センセーションは今やスペース・シフターズだけど、何人か交替ややめた人間もいた。柔軟性があったからこそ、俺たちもこういう音楽を取り入れ、再構築することができた。

ツェッペリンとソロ、作風の繋がり

—個人的に気になったのは、レッド・ツェッペリンの歌詞をはさみこんでいますよね。「ダンス・ウィズ・ユー・トゥナイト」では“ダンシング・デイズ”と歌っていますし、「グレイト・スピリット」では"祝祭の歌”(sing in celebration)とか“永遠の偶然”(the accident remains the same)といったフレーズが出てきます。前作の「メイ・クイーン」という曲も、「天国への階段」を思い起こさせます。意識的に過去を引き合いにしているのですか?

プラント:ああ、その通りさ。だがメイ・クイーンは俺にとって、歴史や民族芸術、民話という意味でも俺にとって大きな存在だった。(『ディギング・ディープ』の中では)「チャーリー・パットン・ハイウェイ」が最高だと思う。「この車は堂々巡り、永遠の道のり」(This car goes ’round in circles, the road remains the same)

—私も気づいていました。

プラント:君、さすがだな。俺も「こいつはウケるな」と思った。本当のことを言うと、あの曲は(曲を書いた日に起きた)実話なんだ。あの日俺はミシシッピー州コモにいて、クラークスデールに向かって車を走らせていた。そしたら「ぐるぐる回ってばかりじゃねえか、おいおい、日が暮れちまう」。そしたらちょうど聞いていた地元のラジオ局で(チャーリー・パットンの音楽が)流れてたのさ。

 だが、そういうことをするのは確かに好きだ。一貫性をもたせる――いや一貫性というより、別のタイミングで触れる、というのがな。そういうのは山ほどある。いろんな曲でね。

—「ニュー・ワールド」は現代版「移民の歌」という印象を受けました。ご自身ではどう思いますか?

プラント:まあそうだな、ある意味ではそうだ。確かに、ペイジと俺が(「移民の歌」を)書いたのは、アイスランド公演を終えた後だった。もちろん、子供のころからずっとこういう島国の(侵略の)歴史、民族運動や文化運動にはずっと興味があった……北部イングランドもすべて、ずっとバイキングの領地だったんだ。リバプール北西部のマン島も、たしかデンマークの王様が14回だかそこら入れ替わり立ち代わりしていた。だから確か、そうかもしれない。

 だいぶ経って「ニュー・ワールド」を書く前に、サウスダコタを旅してケント・ネルバーンという作家と会ったことがある。『Neither Wolf Nor Dog』から始まる3部作の小説を書いた作家だ。俺も彼の作品に相当傾倒したよ。ネイティヴ・アメリカンとアングロサクソン文化の一部を扱った作品だ。俺もアメリカに来てからずっとアメリカの構造や複雑さついてそれなりに考えていた。だがそれぞれの州に都市や地方がいくつもあって、世界中のいたるところから人が集まって暮らしているから俺も本腰入れて考えたことはなかった。オースティンの中心で数年間滞在してみて初めて、とくに南北ダコタやワイオミングの実際の状況の概要や詳細に目がいくようになった。おかげで現実や実際の状況が前よりもずっと理解できるようになったよ。

トニー・アイオミとの再会

—最近お気に入りの音楽は何ですか?

プラント:いまイギリスのラジオは非常に厳しい。完全に終わったとは言わないが、ラジオはもはや時代遅れだ。ニューオリンズにはいくつか素晴らしいラジオ局があって、アプリをダウンロードすれば多彩なルイジアナの音楽を聞くことができる。最近ずっと聞いてるのはロウ・アンセムだ。パワフルな高音のメロディが気に入っている。それから地元の音楽もチェックしている。ちょっと前にナッシュビルにいたんだが、地元の若いシンガーや作曲家の曲をたっぷり聞かせてもらった。全体的に、いまは新旧の音楽が入り混じる万華鏡のようなものだ。ディランの最新アルバムはかなりポイントが高かった。オープニング曲にはガツンとやられたよ。人生の幕引きであり、同時に幕開けのような感じだ。あれは本当に良かった。

—パンデミック中、一緒にレコーディングはしなかったものの、ともに過ごしたアーティストがいましたね。ブラック・サバスのトニー・アイオミですが、2人でギターをオークションに出して、マスク姿で写真に写っていました。彼との再会はいかがでしたか?

プラント:1月か2月にナッシュビルにいて、空港で偶然ばったり会ったんだ。彼はギター関連の仕事があって、俺は歌のほうの仕事があった。イギリス行きのフライトを待っていたら誰かが近づいてきて「こんにちは、2人とも再結成したんですね」と言ってきた。「おそらく俺も変わったし、この男もレッド・ツェッペリンかブラック・サバスのどっちかが再結成したと思ったんだろう」と思った。ガンズ・アンド・ローゼズのメンバーがAC/DCに加わるみたいにさ。懐古主義な奴らがあっちからこっちのバンドを渡り歩くことがあるから、推理ゲームのような感じで、世間は「なるほど、OK、そういうことか。しがらみは関係ないんだな」となる。それが俺にはすごく面白くて、こう言った。「それもありかもしれないな。お前が『カシミール』を弾いて、俺が『パラノイド』を歌うとかさ」。そんな感じで冗談を続けているうちに、募金活動の話になったんだ。すごいよな。


 (ギターのチャリティオークションに関しては)彼は大真面目に、(2012年にリンパ腫と診断されたあと)快復して健康でいられるのは自宅からそう遠くない病院の医療関係者のおかげだ、と考えていた。それでチャリティ活動とかを熱心にやっていた。俺もここ最近、地元の国民健康サービスに対しては思うところがあった。普通なら常備してあるような医療品、誰でも持っていそうなものが、緊急事態にほとんど底を突いてたって言うんだから、それはもう驚愕だった。国民健康サービスや、相当危険な情報で保護具なしに長時間働いていた人々への感謝の年が高まっているんだ。それで俺たちも、オークションをやろうということになった。本当に彼はいい奴だよ。たぶん言い出したのは彼のほうだったと思う。

亡きジョン・ボーナムの思い出

—最近『あの頃ペニー・レインと』のキャメロン・クロウ監督にインタビューしたんですが、ジミー・ペイジとあなたに映画を見てもらったときのことを語ってくれました。ビリー・クラダップが「俺は輝ける神だ」(I am a golden god)と言うシーンで、ペイジが「俺あんなこと言ったか?」と言うと、「俺が言ったんだ」と叫んだそうですね。「俺は輝ける神だ!」と発したのはなぜですか?

プラント:初期のレッド・ツェッペリンのころは、その都度出てきた発言は単なる面白半分さ。あれも何かふざけていた時だったと思う。多分ボンゾの誕生日パーティをビバリーヒルズかどこかでやって、誰かが3段重ねのケーキを作ったんじゃなかったかな。俺たちが何かやってるところに、ジョンが部屋中の人間にケーキを見せて回っていて、たしかジョージ・ハリスンがケーキに空手チョップを食らわせた。ボンゾがただじゃ置かないぞと思って騒ぎが起きて、よくある子供じみた悪ふざけが始まった。ただ、さらにナンセンスなことを言ってその場をまとめる人間がいなかった。それで俺が両手を広げて高らかに宣言したのさ。そのあとケーキのかけらを鼻の先っぽに食らったけどな。

—今年の9月25日はジョン・ボーナムの没後40周年でした。当時の彼の印象はいかがでしたか?

プラント:すごいのひとことさ。長年親しくして、もう死んでしまった人間は大勢いるが、彼の存在はいつも案じている。一緒に冒険に踏み出した仲だったからな。ツェッペリンをやる前にも、2~3のプロジェクトでかかわったことがある。いつも揉めて、最後はどっちかが痛い目を見る羽目になったがね。でもツェッペリンではいつも一緒で、同じ車に乗って、空港から帰って、故郷のウェールズの田舎の家へ戻っていた。最後の最後までずっと一緒だった。まさに同じ釜の飯を食った仲間だよ。


俺は今も彼と生まれ育った場所に住んでいるから、彼の存在はいつも感じている。俺の知り合いと同じように、彼の昔からの知り合いも大勢いる。事情があって離れる以外は、このあたりを出たことはない。だから彼の存在はいまもしっかり残っている。地元の連中とともに。彼の物理的な存在や彼の個性が記憶に残っているのはもちろんだが、彼の業績、彼がリズムとドラムで世界に貢献したことは、他の誰よりもずば抜けていた。彼とジョーンジー(ジョン・ポール・ジョーンズ)のおかげで、レッド・ツェッペリンは当時の他のバンドとは一線を画すことができた。2人が重要な要だったんだ。もう40年、俺たちにとって彼がいなくなったことは今も大きな損失だ。でも夜中に曇り空を見上げると、きっとどこぞのパブで冗談をかましてるんだろうなと思うよ。もちろん比喩的な意味でね。

—本当に才能あるドラマーでした。

プラント:ああ、本当に。あの感覚は最高だ。彼の感覚は万能だった。ある晩シカゴのサウスサイドのバーニング・スピアでボビー・ブルー・ブランドを一緒に見に行ったことがあるんだ。奇妙な薄暗いクラブでオーケストラが演奏してて、俺たちが入っていくと、ジョンは立ち上がって「ファーザー・アップ・ザ・ロード」とか「ターン・オン・ユア・ラブ・ライト」とかを演奏して、ものすごかった。奴がああいう感覚の持ち主だったから、ミュージシャン全員が彼のほうに身を乗り出すんだ。ボビー・ブルー・ブランドと演奏したときも、後年「フール・イン・ザ・レイン」を演奏したときも、当たり前のように演奏していた。あれはちょっとしたものだったよ。

From Rolling Stone US.

*https://rollingstonejapan.com/articles/detail/34792/1/1/1 より


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