本日は、最後の第6項目です。
◦ 北海道への巡幸についての記述 頻繁に登場
◦ 船で津軽海峡越え 治安当局も難色
◦ マッカーサー最高司令官 「しばらく延期して頂く事だ」
◦ ソ連の脅威も
◦ 私が行けば北海道を 何かの時見捨てぬと言う証拠に
◦ 専門家 「戦後巡幸の政治的な効果について、極めて自覚的だった」
【 専門家「戦後巡幸の政治的な効果について極めて自覚的だった」 】
〈 成城大学 瀬畑源非常勤講師の話 〉
・戦後巡幸の目的は、戦後復興の支援と戦争で傷ついた人たちを励ますことで、昭和天皇は、講和条約発効の前にできるかぎり全国を訪ねたいと述べていた。
・北海道も含めて、占領が終わる前に訪ねて皆を励ましたいというのは、戦争の道義的な責任を感じていた、昭和天皇なりの戦争責任への、決着の付け方だったのだと思う。
戦後巡幸に詳しく、『拝謁記 』の分析にも加わった瀬畑氏だと、NHKが紹介しています。将来のある身で氏が、このような犯罪報道に参加するのは惜しい話です。
氏のおかげで、田島氏に止められても北海道行きを諦められなかった陛下は、やはり身の危険を顧みておらなかったと、知ることができました。
・占領期に北海道に行けなかったのは、治安の問題や朝鮮戦争が理由だということは分かっていたが、 『拝謁記』 で朝鮮戦争が起こってからも、昭和天皇が北海道行きを希望し続けていたことが分かった。
ここまで陛下のお気持を理解できるのなら、氏もまた秦氏と同じく、「掃き溜めの鶴」かと思いましたが、次を読みますと、左傾学者の仲間なのかと思えてきます。
・北海道は樺太や北方領土に近く、ソ連から極めて狙われやすいという状況の中で、ソ連が攻撃してくるかもしれないとか、炭鉱が多く労働運動が盛んな北海道の治安は大丈夫かと、
・周囲が気にかけていても昭和天皇自身は、自分が行けばそうした活動を抑え込めるので、むしろ自分が行ったほうがいい、という考えだった。
・自分が行って北海道内を回れば、天皇は北海道のことをちゃんと考えている、ということを示せるし、北海道の人たちも、自分を歓迎してくれるはずだと考えていたが、
・そうは言っても、ソ連が何をしてくるか予測がつかないので、それは危険だと、周囲に止められていたことがよく分かる。
お言葉を理解しながら、田島氏のメモを肯定し、氏は何を言おうとしているのでしょうか。巡幸の専門家にしては、曖昧な説明です。
皇居前広場で激しいデモをしていた群衆が、皇后陛下のお車を見て、静かになり頭を下げたと、陛下は皇后陛下からお話を聞かれています。
もしかすると陛下には、そのようなお気持ちがあったのかもしれませんが、それは国民を信頼されていると言う証拠になっても、氏が説明しているような、「陛下の一方的な思い込み」にはならない気がします。
続きを読みますと氏は曖昧でなく、反日・左翼教授の仲間でした。
・昭和天皇が戦後巡幸の政治的な効果について、極めて自覚的だったことが分かった。
・昭和天皇は『拝謁記』の中で、北海道を見捨てないという言い方をしているが、自分が行くことによって、北海道の人たちの意識を高めたい、天皇や日本国に対する忠誠心のようなものを高めて、共産主義運動を抑え、ひいては今の体制を維持して国を守るため、自分も役割を果たしたいという強い考えが見て取れる。
陛下を批判すれば、古株の吉田氏から「新進気鋭の若手学者」と褒められます。反日左翼が支配する学界ですから、先輩に褒められ、NHKに喜ばれると、将来が約束されます。
過去には、それで変節した著名な学者が沢山いますから、氏ばかりを責められません。
・治安維持に対して貢献することができるという、ある種の君主意識から、北海道巡幸を希望していたことが分かる。
・天皇の訪問というものの政治的な効果や、戦後の象徴天皇制の中で果たしてきた役割と、そこに込められた意図について天皇自身が語っているという意味で、今回の 『拝謁記』 は非常に興味深い。
・天皇がどういう思いで、各地を訪問しているかというのは、天皇と国民との関係や、今の天皇の役割と直結している問題なので、今後象徴天皇制を考えるうえで、1つの手がかりになるのではないか。
息子たちに言います。非常勤講師でも学者と呼ぶのかどうか知りませんが、「歪んだ物差し」で、陛下のお気持ちを図ろうとした人間の意見と父は思います。
批評するに値しませんので、意見の紹介をここで終わります。長い『拝謁記』のシリーズも、終わりが見えてきました。