畑沢でも、薪から石油に変わった「燃料革命」が起きるまでは、木炭作りは盛んに行われました。昭和30年代は、まだ真っ盛りでした。しかし、木炭は畑沢の自宅で使われるものではなくて、囲炉裏を置かない町で大量に消費されていました。畑沢で作る木炭は、町へ売るために作られたのです。畑沢では、囲炉裏に薪を燃やして(木をくべで)いましたので、家の中が煙だらけでした。畑沢で木炭を使うときというのは、あまりありませんが、それでも来客時に火鉢を使う場合、大勢の人が集まる公民館の中、畑沢分校の大きな四角い火鉢で子どもたちの弁当を温めるときなどだけです。寒い冬の布団の中を温める「行火(あんか)」にさえ、滅多に使われることはありませんでした。畑沢で作られる木炭は、あくまでも大事な売り物だったのです。
木炭作りは、何百年にもわたって行われましたので、どこの山に入っても直ぐに「炭窯」の跡を見ることができます。私は背中炙り古道を調査していますので、その周辺の山中でも炭窯の跡に出会います。背中炙り峠周辺の炭窯の跡は、他の場所と比べようもないほど、尾根のいたるところにります。峠を越えて楯岡へ売りに行くのに、最も便利な場所だったのでしょう。それでも、今回、投稿する炭窯の跡のように保存状態の良いものはありません。今回、投稿する炭窯は、背中炙り峠と尾根続きの場所にありました。5月8日に石切り場の跡「ローデン」の入口にありました。私の元気すぎる先輩「大戸H氏」が発見しました。
普通の炭窯の跡は地面の窪みだけですが、今回のそれには「石材」と「煤」が残されていました。次の写真の石材で黒くなっているのが、煤です。実にリアルです。
ところで、この炭窯跡では石材が残っているのに、何故、他の場所では石材が残っていないのでしょうか。炭窯の作り方は、どこでも同じはずですから、異なる形で残されているのが不思議です。
炭窯を作る場所は、適当な大きさに成長した広葉樹が生えている場所です。材料がある場所にその都度、炭窯を作ります。材料がなくなれば、そこの炭窯を捨ててしまいます。しかし、ただ窯を捨ててしまうのではなくて、石材は再利用していたものと思います。いくら山中とは言え、炭窯に適する石材を簡単に手に入れられないはずです。だから炭窯に石材が残らないで、窪みだけが残っていたのではないかと思います。
それでは、今回、投稿している炭窯には、何故、石材が残されているかが逆に不思議になります。石材が残っているということは、もう再利用する必要がなくなったということではないでしょうか。つまり、畑沢の炭焼き時代の「最後の炭窯」の一つを意味するものと思います。時代の変遷を語る「記念すべき炭窯」に遭遇したことになります。それを発見した先輩は、やはり只の人物ではありません。
しかし、木炭が使われた時代は終わりを迎えます。石油ストーブが入ってくると、きつい労働を伴う薪の使用はがたんと落ちてしまいました。並行して木炭も使われなくなりました。