唯のブログ。

病気の体験、療養生活や日々思いついた事などを書き留めているブログ。時々毒吐き。楽しめれば最高、無理なら受け流す。

見えないマスター?

2013-08-21 13:46:46 | インポート
見えないマスター?
誰もいないのだけれど、色々な場面を見せられ、誰かが本質を教えてくれるような感じ。

全ては繋がっていると言う事、一時的に良くても内容が伴わないものは後で逆の結果が待っている。

商売していて儲からないのは当たり前。笑ってない。もしくは裏で笑ってない。

商売をしている夫婦を見ながら。 「上手くいかないのは当たり前だよ、顔を見てみろ、全然楽しそうじゃないだろう。苦虫噛み潰したような顔の人と関わり合いたいと思わないだろう。自分が楽しくないのに客を楽しませることはできないよ。」 笑顔でやっていれば必ず商売は上手くいく。
 その後、トラックの運転手や露天の店員、便利屋、風呂屋、芸能リポーターなどを観察して成功、不成功の理由を聞く。 ほとんどが相手の立場になって商売するか、笑顔で商売しているか、という観点での説明。

他人にしてあげた事が自分に還る。他人によくできない人間は成功できない。

不機嫌な人は上手くいかない。 明るい人は成功する。 人を恨まない。
嫌っていれば当然嫌われる。

利益を不当に得ればいつか逆に理不尽な形で取られる。

義理を大切にしないといけない。それは商売に繋がってくる。

黒猫の葬式。 若い女の人に(芸能関係者?)諭す。その世界の実力者が可愛がっていた黒猫が死んだので、弔問に行きなさいと。 自分にとってはタダの猫かもしれないが、その人にとっては大切な家族のような存在でショックは大きいのだよ。 そういう時に気遣いができる人間は可愛がられて出世するんだよ。
本人も、猫も喜ぶ。それが自分に還る。

黒猫の葬式は続く。 ほとんどの人が猫の処分に困り葬儀屋にお願いするが、葬式中に代金を払わず逃げてしまう。 何度も同じ風景を見ている自分は、スタッフに「お金をはらわないで逃げていくから気をつけな。」と、言ってあげるが葬式が忙しくて取り合ってもらえない。

葬儀場は地下、階段が10段くらい有り、黒幕が張ってある。セットも人も黒づくしの空間。自分も何度も弔問し、線香の匂いがしていた。 

たくさん持っているのが必ずしも良い事とは限らない。身奇麗にしておいた方が良い。
全ては借り物、死ぬときに返す。死ねば誰でも0になる。

持たない不安もあるが、持っている不安もある。持てば維持費がかかる。それを収入で賄わないといけない。 
 稼げる能力と定期の収入を持つことが大切。

野球互助会。
実は、本人たちは知らないが、王、長嶋を中心にしたプロ野球界の互助会がある。選手寿命を長くしたかったら、王、長嶋にならう事。二人を敵に回すと周りが黙っていない。
 実力勝負をしていたら持たない。お互い持ちつ持たれつでそこそこの成績を修められるようにする。 中には実力勝負をする選手もいるが持たない。反対勢力は擦り切れる。
組合に入って生きていくか、実力勝負するか?

冷たいものを取らない。翌朝急に冷える時、前日に体を冷やすもの(生物で名前は?)を食べさせて、次の朝ポックリ死。 



夢物語。

2013-08-21 13:44:40 | 劇症心筋炎
夢物語。(2012.11.19―2013.3.10)

柳瀬さんと飲み会。
1. 東京に出て行って柳瀬さんが参加の飲み会に一緒に参加。 店ではなく、つまみ、酒、持参で車座の飲み会。 落語家やレポーターなどがいた。つまみで勧められたのは、真空パックの刺身。 持ってきた人に、業者を紹介するから使ってと言われた。

2. 新酒発表のイベントに参加。 多分サントリー。 ビールみたいな炭酸系の気軽に楽しめるお酒。 場所はどこかの庭園。広くてライトアップされた開放的な空間。 新酒だけでなく、他のお酒のブースもたくさんあり飲み放題。 柳瀬さんに色々とお酒の話を聞きながら試飲。 コンパニオンがたくさんいてお酒を勧められる。その他にイベントのブースが沢山有りゴルフや、音楽のステージが楽しめる。 コンパニオンとも仲良く出来る。

3. 高級中華料理店にて食事。 中国風の作りのお店の中には川が流れている。 シェフが注文を聞いて料理を作る。 お客はみんな個人できているというよりは一体化して同じような料理を食べている。食道楽の集まりといった感じ。 太った金持ちが豚の頭を丸ごと料理させ一人でカブリついている。 何故か、ここに義理の姉のお父さんが一緒にいた。 その後、豚にかぶりついていたデブがゴルフ対決することに、なんとこのデブ、飛距離は出ないがアプローチとメンタルが強くて負けない。

4. 柳瀬さんに、周りから中が全く見えない木造作りの料亭に連れて行って頂く。黒くて歴史ある建物。 周りもいかにも歓楽街という感じで大勢の人でごった返している。 中では大学運動部OBと現役が飲み会をやっている。 話題は大学スポーツの活性化。 OBは大学スポーツで儲けようとイベントの仕掛けや八百長案まで話し合っている。 要は、国内需要は早慶対決、他の大学も大学スポーツイベントの恩恵を受けたいなら、早慶が最終対決するような盛り上がりを作る方が得である。









甥がプロゴルファーを目指す。(実際は中2、ゴルフは近所の練習場で毎日手伝い、練習)

1. 中学卒業後、鍛えるためにイジメが激しい全寮制の高校のゴルフ部へ入部。 ローカルTVで取り上げられCMでプロモーションビデオが流れる。このいじめに耐え抜けばプロになれる根性がつくだろう。(自分を鍛えてもらうために全寮制の高校に通うプロゴルフアーを目指す少年。 田舎の田んぼ道を自転車で走っていて、田んぼの中にもぐらされ根性を鍛える絵、) 
このCMが何度も流れて本当にやっているものと思っていた。

2. 甥が家を出て知らないおじさんの元へ。 そこへ帰って食事をすることもあり。ゴルフはイマイチ伸びない。 やる気も中途半端。 でも続けている。 淡々と。

3. いつの間にかプロに。 食べられなくてバイト。辛くて厳しい道。でもいつの間にかなんでもやるようになる。 ゴルフを誰かに怒られて技術を磨くようになる。
段々と腕が上がりプロらしくなっていく。

4. 何故か、ここに綿花(日本綿花と言って日本古来の優れた綿花、軍事利用などもでき中韓に盗まれないように個人が守りながら育てている。この綿花がトーナメントコースにあって微妙なタッチが必要なので技術に差がでる。)

5. 甥は、1年目は全く歯が立たなく撃沈、2年目やっと少し攻略、3年目には自信を持って望み新人賞獲得。 東京まで自転車で言って祝賀会に参加。引きで物、スポンサーのお土産、地元特産品などで帰ってからお酒飲み。

6. ゴルフDVD販売のための宣伝端末がベットの横に有り、そこで甥の出ているDVDの人気ランキングが上がるように自分が何度も推薦のボタンを押す。結局年間600万円の収入を確保。
    ベットの横には、帽子を被ったオジさんが自分と同じようにその端末を見ている。
   おじさんは、なにも言わないが、喫茶店のマスターと感じる。

7. 大学ゴルフ部に収入源としてDVD販売を提案。 ゴルフじゃなくて企画で稼げ、とアドバイス。 「早稲田の主将は性格が悪い。」DVD売上No.1になる。




8. プロバイオテイクス。 アメリカで理論を学び甥の肉体改造。 あるサプリメントを効果的に取ることで、第2次性長のような効果が現れる。体も脳も大空に羽ばたく鳥のように成長していく。  これが潰瘍性大腸炎にも有効でサプリを大量にとる。
アメリカンの研究施設は広大で大学のキャンパスのような感じ。ここにアスリートが集まっていて自分の成長のためにサプリをとって肉体改造に励む。 

9. 甥は成績と関係なくカジュアルメーカーから契約の話有り。イベントなどに出る。

   甥の母方の実家が支援。ゴルフを普及させるイベントなどを開く。

自分が姪と会いたいが、受験で忙しくて来れない。
 受験が迫り、専属の医者がついて、風邪をひかない漢方薬などを処方してもらっている。

夜間使用の体育館の電気を消したりする管理のお手伝いをしているときその話をした利用者から是非漢方薬を分けて欲しいと言われ、分けて上げる。 受験生は医学部に合格、固い制服で挨拶にきた。

潰瘍性大腸炎(UC)の治療の権威が来日。 何故か柳瀬さんが、引き寄せの達人と言われる作家を紹介してくれて、その作家のつてで自分が見てもらえるようになる。
(関東土方病院。意識が戻った2日目の土曜日、研修医の女医に予約が入っているので行かないといけないと言うと、女医が気を利かせ、今は動けないので私の方で連絡しておきますと嘘をついて対応してくれた。 後で大笑いだった。)

暗い地下室のようなところで見えにくい映像を壁に移して診断。 兎に角、怖がらないでステロイドを使うこと。 大量に使う事。 そこにはプロゴルファーが沢山いて、みんなUCが治ったという。 甥の智哉もUCで一緒に治療する事になり看護婦に智哉はどこにいるのかを聞いていた。

夢の中でステロイドを使いなさい、ステロイドを使うことは悪いことではない、怖がらずに一度に大量に使いなさい。 こういう感じのことを何度も言われた。 ステロイド大嫌いだった自分の考えと真逆。 コンクリートにも混ぜると強くなるよう話。 

柳瀬さんが維新の会から、衆議院選挙に立候補。 都会で街頭演説。 最初は普通にやっていたが、石原慎太郎が代表を受けると、「若い人の為に身を捨てて協力すると言っていたのにおかしいじゃないか。」と言って堂々と批判。 メデイアが飛びついて一躍時の人になる。 スポーツ新聞やネット上で沢山取り上げられるようになる。 

都会の政治家などが集まる夜の街で飲み会。 若山富三郎がいた。 誰かに6千万円を借りて踏み倒している。 その他、政治家志望の若手など、お金の工面をしている。


飲み屋で相席の女と何故か結婚の約束をした。 その後、自分が入院して連絡が取れなくなってしまっていたが、退院するときに病院事務所でその女が働いていた。 自分を記憶喪失だと思って相手も声をかけない。 そのまま出てきた。


新潟の山間部には、満月の夜は独身既婚に関わらずみんなでワイワイ楽しむ風習があって、既婚の女性と関係を持っても良いことになっている。 もちろん旦那も納得で参加。 自分も誘われて参加。 

沖縄サミット見学。 具志堅の結婚式、高級ホテルでのセレモニー、仕事をもらうために強烈にアピールする地元民。税金をいかに呼び込むか必死の地元。

 

訪問介護に帯同し地域を訪問。 田舎道を明るい老人集団がトラクターや軽トラで暴走族のように走っている。先頭は自分の乗っている車。 何故か道なき畑の中などを浮いたように走っている。 他の地域では、おもちゃの飛行機のようなもので空を飛んで遊んでいる人たちも。
 訪問介護には色々なサービルがあって安いので、髭剃りや体洗いを健康な人も頼んでエステ感覚で利用している。

地下室で肉体労働者の出発準備のバイト、看護婦さんが出勤前にやっているので、自分も参加。
何故か、職人さんがそこから出勤。


不動産売買の値段が壁に写っていて、若いカップルが売買を繰り返している。 男がやっていて、女が後ろで不安そうに見ている。 自分も寝ている個室の中で、何故か自転車が置いてある。後ろの女はTV台に収まるくらい小さい、隠れている感じ。不気味だった。

虎ノ門病院が外資に買収されるとの噂が有り、実際に入札がされて売られた。 虎ノ門の経営者は医療に興味なし。自分たち入院患者はどうなるのか不安になる。その後落札者が売りに出すため売買の対象になり値が上がったり下がったりして損した人が困っている。

皇室がTVで会見、何故か今の天皇、皇太子などではなく若い人ばかり。
自分たち皇室の資産、財政状況を具体的にはなして、厳しいので国民の皆さんと節制していくと宣言。 それとなく中國批判。

皇室で研究している綿花(日本綿花)の栽培に成功し、今後は実用化を目指す。戦時中に開発が進められていた、綿花でできた移動できる空飛ぶ城。 

オリンピックにグループランニングと言う種目が有り、日本代表の練習を見ている。グループ走行で、申告したタイムで、どれだけ効率よく走れるかを競う競技。 個人競技でうまくいかない日本にとっては力を入れる競技。 みんなで山道をタイムを計りながら走っている。

アルコール度数の高い酒を売りにしたサワー安売りの店。元アイドル?がそこで稼ぐ。アル中のように引っ掛けてすぐに酔っ払う若い女性多数。 客が多くて繁盛。何故かそのドリンク方式が検挙の対象で地下化する。

栃木の実家の周辺が田舎の飲みスポット化。 背丈の半分位の長い草の草原。そこに集まって飲む若者。 場所場所で人種が違い縄張りがある。  道路沿いに出ている、川を向いて飲める店。 祭りの夜のように栄えている。
いつも強い風が吹いていて寒い感じ。

動いてはいけないのに地下室に降りる。地下室には警察があり忘れ物の置き場になっている。その荷物を片付けるバイトに行っているが、階段を登れずに助けてもらう。

いつもベットに寝ている事はなく。ベットを背に立ちながら休んでいる自分。

病院の隣は看護学校の建設工事中。(これは事実。)
 大きなクレーンが2機、自在に動き、1機はキューティーハニー、もう1機はハヤブサと呼ばれていて曲芸を競っている。 大空に大きく広げて色々な技を出し、最後にものすごく小さくなって着地する。 その着地を競っていて地元で人気。 

窓からの風景は北欧の湖みたいな感じ。湖畔はスタジアムみたいになっていて大きなホテルが立っていて結婚式を挙げたカップルが展望フロアーから手を振っていた。 



入院しているのは、義理の姉の実家が経営する病院。家族もこのビルに住んでいる。経営は順調でかなり儲かっている。
関連会社が提供する空気清浄機で香りを出す機械が置いてある。関連会社はその機械を他の企業等にも卸し、メンテナンスで儲けている。 (目覚めるとその機械は点滴の機械だった) 



ドクターヘリで運ばれて。

2013-08-21 13:42:55 | 劇症心筋炎
劇症心筋炎(好酸球性)

ドクターヘリで運ばれて。
湯沢の保険センターでの受診の結果は心電図の異常波形。医師がすぐにドクターヘリを呼んで長岡中央総合病院へ運ばれることなった。
 新潟にドクターヘリが導入されたのはつい1ヶ月前の事、 そして、たまたま診ていただいた医師が心臓に詳しく自分の状態を的確に判断してくれた事。 本当に運が良かったと思う。

 待合室で結果を待っていると
先生がいきなり、「これからヘリコプターで長岡の病院まで緊急搬送します。」 びっくりするやら、
訳も分からず、車はどうするのか、入院するのですか?準備しないと何もありません。
などと言っていたが有無を言わさずに救急車に乗せられて近くのヘリポート
へ運ばれた。 ヘリの中では意識があって大丈夫なのだが、付き添いの医師が盛んに心電図や血圧を気にしていた。

運ばれた長岡中央総合病院では、医師、看護師、技師など総勢10名位の方が体制を整えて待っていてくれた。 後で知ったが自分が当病院でのドクターヘリ搬送1号だった。 そしてその中には、循環器内科の医師3名全員が揃っていた。

この時も意識があり、あまりの物々しさに冗談でも言いたいような感じだった。 なんで俺にこんなに人が付くの。  まして、ヘリコプターで運んで、税金の無駄使いではないですか?? 

 寝かされたまま、検査着に着替えてくれ、血圧、心電図などをとったあと、すぐにカテーテル検査をすることになった。 途中までは意識があったが、すぐに寝たらしいい。

その後、意識が戻り医師の説明を受ける。夜になって、家族(兄、妹、母)が来ていた。
劇症心筋炎の疑いが濃く、このままだと時期に心停止するため、人口心肺をつけて、いつ起きられるかわからないけど麻酔で寝てもらいますと言われた。 しかし自分は意識がない時に治療方針について判断できないじゃないですかと言って拒否していた。 
 医師は、家族が適正に判断してくれるからと言っていたが、家族に判断などできないよと、押し問答が続く。 心電図などから意識があるのが信じられないような状況なんですよ、一刻を争うんですよ、と説得されていた。

 もう起きることはなく、このまま死ぬのか?
 どうも最近 色々な人と会う機会が多かったし、なんとなくそういう運び方をしていた。一年前位から母方の実家で過ごす時間が増えて親交が深まっていた。
震災、竜巻などがあり実家に帰る事が多くなり絶縁状態だった親との関係も少し良くなった。  
そのままあちらの世界に行くような気がして麻酔で寝るのが嫌だった。 

敦子、智哉ともう会えないのか。 もっと色々としてあげられる事があったのになんで何もしてあげられないまま死ぬのか? お礼を言いたい人がたくさんいる。
妹を呼んで、何か重大な判断を迫られた時は神保さんに聞いてくれ。 と頼んだ。
 結果がどうなっても自分としては納得できるから、それが一番だった。

親の判断に任せるのだけはどうしても許せなかった。 
ほとんど半べそ状態で、一人にしてくれと言って、自分で心の整理をした。

最初は意識もあり拒否していたが次第に気分が悪くなり説得に応じた。

その後は、集中治療室で寝ていた。 心臓の炎症を抑える為の大量のステロイド、その他心臓の機能を上げる薬や 免疫力が下がった体を守るための抗生剤、栄養剤など点滴の管は数十本もあったらしい。 その他に、大動脈から人口心肺(PCPS、大動脈バルーンパンピング)を繋ぎ左右の太ももに固定されていた。 言葉を発せられないように金属が鼻から入っていて出来るだけ動けないようにベットに固定されていた。

人口心肺PCPSは 途中凝固した血液がつまり一度交換したらしい。 免疫力が下がった中での動脈からの装置の交換はリスクがあって危ないそうだがうまくいった。 人口心肺を付けてなんとか保っているが、
その後、予想取り心臓の機能低下、一時はほとんど停止状態(通常状態の5%)になり、除細動の電気ショックや心臓マッサージが施された。 ギリギリでなんとか動き続け大量の投薬もあり心臓が少しずつ動き出してきた。  ただ、 PCPS の寿命は2週間。 今度は心臓の回復まで装置が持つかが問題になるが、心臓が動き出してからPCPSの寿命ギリギリでなんとか離脱自力回復し外すことができた。

その間、医師の先生は薬の微調整しながら状態を回復させ、技師は様々な機器と自分の体の位置関係に気をつけながら状態を見守ってくれた。 看護師の皆さんは自分の健康状態を保つため24時間体制で看護してくれていた。 病院に前例がないので先生はあらゆる方法で可能性を探り対処してくれたようだった。 不眠不休に近かったようで、その様子を知っている親族は先生のおかげで助かったんだよ、誠実な真面目な先生に当たってよかったね。と言っていた。 そして、 18日間寝ていて床ずれが全くなかった。
右膝にパイプの跡が2本あるがこれは床ずれには入らないだろう。 私の大きな体を4.5人で寝返りを打たせてくれていた。 しかも、装置がついているため自由には動かせない。 技師の許可の範囲内で少しずつ少しづつ何度も姿勢をかえて床ずれから守ってくれた。 後で知って、ありがたくて感謝の気持ちで一杯だった。 看護師はすごいと、つくづく感じた。
普段接している看護婦は、タダの軽傷患者モード。 重症患者モードですごいことをしていたとは、知る由もなかった。 恐れ入った。 


自力で心臓が動き出し、人口心肺を外す手術に向かう時、ベットと装置を10人ほどの医師、スタッフで移動していただいたようだが、エレベータに入り切らずに苦労したと言っていた。 大動脈を縫う為に、血管外科という血管専門医がきてくれた。

なんとなく目が覚めて、集中治療室で肺から血を抜いてもらうのが辛かったのを覚えている。 炎症を抑えるためステロイドで好酸球を一時的にほとんど0にした。当然免疫力は下がり感染しやすくなっている。 途中肺炎になり肺に血が溜まっていた。 その後は少し残った血がかたまり、3ヶ月後まで少しづつ血痰として出てきた。 よくあるのが薬の治療で病気は治るが免疫力が落ちて逆に感染症で死ぬということ。 そんなことも避けられて良かった。
 

集中治療室から個室へ移動。 夢の中では退院だった。 動けるはずもないのに。
起きた時はほとんど自分がわからないような状態だった。多分モルヒネが効いていたのだと思うが3日目くらいまでほとんど眠れなかった。 現実と妄想とを繰り返して訳のわからない事を言っていて看病している妹や叔母に呆れられたり、たしなめられたりしていた。
それが、馬鹿にされているようで少し嫌でもあった、

初めての食事はムース食だったが、全部の品 ひと口も食べれば十分だった。 食べない方が体にもいいと思っていたので気にしてなかったが、先生が、食べないと体力がつかないから食べたほうがいいと言う。
 2日目の昼から全て完食。 きつくても関係ない。 食べればいいんでしょう。なら食べます。 俺が戻ってきたような感じ。 口も動かない。 もちろん箸など持てない、スプーンも持てない。 歯磨きも全部やってもらう。 動けない。

初めてお見舞いに来てくれたのは富田さん、庄ちゃんの顔を見たとたん涙が込み上げてきた。「いやいや、居ても立ってもいられなくて来ちゃったよ。」いつもの調子で言われて。 きんちゃんは腰が曲がって歩くのもきつそうなのに、 一美さん、奥さん遠いところ本当にありがとうございました。 頂いたのは大きないちご。 一粒、で十分な存在感を出してくれました。

その後、お見舞いに来てくれる方々の様子から自分がどんな状態だったのかを十分に認識することができました。
 順行叔父さん、恵美子叔母さん。病室をのぞき込んで信じられないような顔で入って来てくれました。
 操叔父さん、ヨシヱ叔母さん。元気になってからも、忙しいのに治療のことで何度も相談に乗って頂きました。
 山本俊彦叔父さん、俊子おばさん。本当に心配そうな顔を忘れられません。

 神保さん、英子叔母さん、宗博さん、由美子さん、宗太くん。 英子叔母さんと明子さんは意識がない時にお見舞いに来てくれたのを覚えている。 別な形だったが、確実に覚えていた。 お二人も目でわかったと言っていたそうだ。 英子叔母さんとははっきり目があった。吹き抜けの2階から見ていて、入口から入ってくる時確実に。 明子さんは、個室へ移るとき微笑んでいた。 自分は立っていた。立ち話をしようとしたが、いつになく何も喋らなくて変だと思っていた。
明子さんは寝ている時に何度も来てくれた。なんとなく覚えている。

 一美さんが最初に見舞ってくれた時、俺が微笑んだと言う。 純子が初めて微笑んだとびっくりしていたそうだ。これもなんとなく覚えている。

意識がないとき、たくさんの親族が俺を見ていてくれた。 今までほとんど疎遠だった人でも来てくれた。 

 その後も、古俣先輩、 柳瀬雄三様、 赤座様 青木夫妻。 
柳瀬さんは何度もいらしてくれて、陣中見舞いは元気を頂きた。
赤座さんは退院後も気を使ってくれて、寿司の差し入れなどを頂いた。  善行叔父さん。

充子叔母さん、恭子叔母さん、純子 の3人が 交代で看病してくれた。 わざわざ東京と宇都宮から 長岡まで来てくれて。 簡易ベットで病室に寝て、大変だったと思う。
 一生感謝を忘れたらいけない。

兄貴も何度も何度も来てくれた。 意識がない時も何度も来てくれた。 退院前も、治療の説明を聞きにわざわざ何度も来てくれた。
幸子さんにもお世話になった。惣菜を持って湯沢に来てくれ、食事を作るのが辛かったから助かった。兄貴が家を空けることも多かったと思うから迷惑がかかった。
 家の方も親父のことで大変だったから、本当に迷惑をかけた。

敦子と智哉にも心配をかけた。 そして、生きる力になった。 

 たくさんのお見舞いを頂き、心配を頂いた。 自分が生きているのはみなさんのこころの力のお陰だと思う。 多くの思いが見えない力となって俺を救ってくれた。

栃木の伏木様。斎藤様、コト叔母さん、悦郎さん。 佳雄叔父さん、靖君、達夫君。 冨山マサ様 瑞夫さん。  剛規君。 悦子叔母さん、功君。 蜂須賀様。 松井恵子様。 
 松谷順さん。 ヒルズの森島さん。 
小堀さん、三村さん。  ビル管理公社。
 頂いたお見舞いをまとめると49万円、偶然だろう、しかし数字に鳥肌が立った。助けて頂いたのだ。 死はそちらに行ってくれた。

  その他にも純子の知り合いの方からもお気使いをもらいました。
熊野牛王御神符。

純子は伊勢神宮へ、 高野山へ。 富田さんは茨城出雲大社。

多くの方方に感謝。  お陰様で 岩崎直樹 は生きていられます。



ドクターヘリ。

2013-08-21 13:42:36 | インポート
劇症心筋炎(好酸球性)

ドクターヘリで運ばれて。
湯沢の保険センターでの受診の結果は心電図の異常波形。医師がすぐにドクターヘリを読んでNTS病院へ運ばれることなった。
 新潟にドクターヘリが導入されたのはつい1ヶ月前の事、 そして、たまたま診ていただいた医師が心臓に詳しく自分の状態を的確に判断してくれた事。 本当に運が良かったと思う。

 待合室で結果を待っていると
先生がいきなり、「これからヘリコプターで長岡の病院まで緊急搬送します。」 びっくりするやら、
訳も分からず、車はどうするのか、入院するのですか?準備しないと何もありません。
などと言っていたが有無を言わさずに救急車に乗せられて近くのヘリポート
へ運ばれた。 ヘリの中では意識があって大丈夫なのだが、付き添いの医師が盛んに心電図や血圧を気にしていた。

運ばれたNTS病院では、医師、看護師、技師など総勢10名位の方が体制を整えて待っていてくれた。 後で知ったが自分が当病院でのドクターヘリ搬送1号だった。 そしてその中には、循環器内科の医師3名全員が揃っていた。

この時も意識があり、あまりの物々しさに冗談でも言いたいような感じだった。 なんで俺にこんなに人が付くの。  まして、ヘリコプターで運んで、税金の無駄使いではないですか?? 

 寝かされたまま、検査着に着替えてくれ、血圧、心電図などをとったあと、すぐにカテーテル検査をすることになった。 途中までは意識があったが、すぐに寝たらしいい。

その後、意識が戻り医師の説明を受ける。夜になって、家族(兄、妹、母)が来ていた。
劇症心筋炎の疑いが濃く、このままだと時期に心停止するため、人口心肺をつけて、いつ起きられるかわからないけど麻酔で寝てもらいますと言われた。 しかし自分は意識がない時に治療方針について判断できないじゃないですかと言って拒否していた。 
 医師は、家族が適正に判断してくれるからと言っていたが、家族に判断などできないよと、押し問答が続く。 心電図などから意識があるのが信じられないような状況なんですよ、一刻を争うんですよ、と説得されていた。

 もう起きることはなく、このまま死ぬのか?
 どうも最近 色々な人と会う機会が多かったし、なんとなくそういう運び方をしていた。一年前位から母方の実家で過ごす時間が増えて親交が深まっていた。
震災、竜巻などがあり実家に帰る事が多くなり絶縁状態だった親との関係も少し良くなった。  
そのままあちらの世界に行くような気がして麻酔で寝るのが嫌だった。 

敦子、智哉ともう会えないのか。 もっと色々としてあげられる事があったのになんで何もしてあげられないまま死ぬのか? お礼を言いたい人がたくさんいる。
妹を呼んで、何か重大な判断を迫られた時は神保さんに聞いてくれ。 と頼んだ。
 結果がどうなっても自分としては納得できるから、それが一番だった。

親の判断に任せるのだけはどうしても許せなかった。 
ほとんど半べそ状態で、一人にしてくれと言って、自分で心の整理をした。

最初は意識もあり拒否していたが次第に気分が悪くなり説得に応じた。

その後は、集中治療室で寝ていた。 心臓の炎症を抑える為の大量のステロイド、その他心臓の機能を上げる薬や 免疫力が下がった体を守るための抗生剤、栄養剤など点滴の管は数十本もあったらしい。 その他に、大動脈から人口心肺(PCPS、大動脈バルーンパンピング)を繋ぎ左右の太ももに固定されていた。 言葉を発せられないように金属が鼻から入っていて出来るだけ動けないようにベットに固定されていた。

人口心肺PCPSは 途中凝固した血液がつまり一度交換したらしい。 免疫力が下がった中での動脈からの装置の交換はリスクがあって危ないそうだがうまくいった。 人口心肺を付けてなんとか保っているが、
その後、予想取り心臓の機能低下、一時はほとんど停止状態(通常状態の5%)になり、除細動の電気ショックや心臓マッサージが施された。 ギリギリでなんとか動き続け大量の投薬もあり心臓が少しずつ動き出してきた。  ただ、 PCPS の寿命は2週間。 今度は心臓の回復まで装置が持つかが問題になるが、心臓が動き出してからPCPSの寿命ギリギリでなんとか離脱自力回復し外すことができた。

その間、医師の先生は薬の微調整しながら状態を回復させ、技師は様々な機器と自分の体の位置関係に気をつけながら状態を見守ってくれた。 看護師の皆さんは自分の健康状態を保つため24時間体制で看護してくれていた。 病院に前例がないので先生はあらゆる方法で可能性を探り対処してくれたようだった。 不眠不休に近かったようで、その様子を知っている親族は先生のおかげで助かったんだよ、誠実な真面目な先生に当たってよかったね。と言っていた。 そして、 18日間寝ていて床ずれが全くなかった。
右膝にパイプの跡が2本あるがこれは床ずれには入らないだろう。 私の大きな体を4.5人で寝返りを打たせてくれていた。 しかも、装置がついているため自由には動かせない。 技師の許可の範囲内で少しずつ少しづつ何度も姿勢をかえて床ずれから守ってくれた。 後で知って、ありがたくて感謝の気持ちで一杯だった。 看護師はすごいと、つくづく感じた。
普段接している看護婦は、タダの軽傷患者モード。 重症患者モードですごいことをしていたとは、知る由もなかった。 恐れ入った。 


自力で心臓が動き出し、人口心肺を外す手術に向かう時、ベットと装置を10人ほどの医師、スタッフで移動していただいたようだが、エレベータに入り切らずに苦労したと言っていた。 大動脈を縫う為に、血管外科という血管専門医がきてくれた。

なんとなく目が覚めて、集中治療室で肺から血を抜いてもらうのが辛かったのを覚えている。 炎症を抑えるためステロイドで好酸球を一時的にほとんど0にした。当然免疫力は下がり感染しやすくなっている。 途中肺炎になり肺に血が溜まっていた。 その後は少し残った血がかたまり、3ヶ月後まで少しづつ血痰として出てきた。 よくあるのが薬の治療で病気は治るが免疫力が落ちて逆に感染症で死ぬということ。 そんなことも避けられて良かった。
 

集中治療室から個室へ移動。 夢の中では退院だった。 動けるはずもないのに。
起きた時はほとんど自分がわからないような状態だった。多分モルヒネが効いていたのだと思うが3日目くらいまでほとんど眠れなかった。 現実と妄想とを繰り返して訳のわからない事を言っていて看病している妹や叔母に呆れられたり、たしなめられたりしていた。
それが、馬鹿にされているようで少し嫌でもあった、

初めての食事はムース食だったが、全部の品 ひと口も食べれば十分だった。 食べない方が体にもいいと思っていたので気にしてなかったが、先生が、食べないと体力がつかないから食べたほうがいいと言う。
 2日目の昼から全て完食。 きつくても関係ない。 食べればいいんでしょう。なら食べます。 俺が戻ってきたような感じ。 口も動かない。 もちろん箸など持てない、スプーンも持てない。 歯磨きも全部やってもらう。 動けない。

初めてお見舞いに来てくれたのは富田さん、庄ちゃんの顔を見たとたん涙が込み上げてきた。「いやいや、居ても立ってもいられなくて来ちゃったよ。」いつもの調子で言われて。 きんちゃんは腰が曲がって歩くのもきつそうなのに、 一美さん、奥さん遠いところ本当にありがとうございました。 頂いたのは大きないちご。 一粒、で十分な存在感を出してくれました。

その後、お見舞いに来てくれる方々の様子から自分がどんな状態だったのかを十分に認識することができました。
 順行叔父さん、恵美子叔母さん。病室をのぞき込んで信じられないような顔で入って来てくれました。
 操叔父さん、ヨシヱ叔母さん。元気になってからも、忙しいのに治療のことで何度も相談に乗って頂きました。
 山M叔父さん、俊子おばさん。本当に心配そうな顔を忘れられません。

 J保さん、英子叔母さん、宗博さん、由美子さん、宗太くん。 英子叔母さんと明子さんは意識がない時にお見舞いに来てくれたのを覚えている。 別な形だったが、確実に覚えていた。 お二人も目でわかったと言っていたそうだ。 英子叔母さんとははっきり目があった。吹き抜けの2階から見ていて、入口から入ってくる時確実に。 明子さんは、個室へ移るとき微笑んでいた。 自分は立っていた。立ち話をしようとしたが、いつになく何も喋らなくて変だと思っていた。
明子さんは寝ている時に何度も来てくれた。なんとなく覚えている。

 一美さんが最初に見舞ってくれた時、俺が微笑んだと言う。 純子が初めて微笑んだとびっくりしていたそうだ。これもなんとなく覚えている。

意識がないとき、たくさんの親族が俺を見ていてくれた。 今までほとんど疎遠だった人でも来てくれた。 

 その後も、古俣先輩、 柳せ様、 赤座様 青木夫妻。 
柳瀬さんは何度もいらしてくれて、陣中見舞いは元気を頂きた。
赤座さんは退院後も気を使ってくれて、寿司の差し入れなどを頂いた。  善行叔父さん。

充子叔母さん、恭子叔母さん、純子 の3人が 交代で看病してくれた。 わざわざ東京と宇都宮から 長岡まで来てくれて。 簡易ベットで病室に寝て、大変だったと思う。
 一生感謝を忘れたらいけない。

兄貴も何度も何度も来てくれた。 意識がない時も何度も来てくれた。 退院前も、治療の説明を聞きにわざわざ何度も来てくれた。
幸子さんにもお世話になった。惣菜を持って湯沢に来てくれ、食事を作るのが辛かったから助かった。兄貴が家を空けることも多かったと思うから迷惑がかかった。
 家の方も親父のことで大変だったから、本当に迷惑をかけた。

敦子と智哉にも心配をかけた。 そして、生きる力になった。 

 たくさんのお見舞いを頂き、心配を頂いた。 自分が生きているのはみなさんのこころの力のお陰だと思う。 多くの思いが見えない力となって俺を救ってくれた。

栃木の伏ギ様。斎藤様、コト叔母さん、悦郎さん。 佳雄叔父さん、靖君、達夫君。 冨山様 MOさん。  剛規君。 悦子叔母さん、功君。 蜂須賀様。 松井さん。 
 松順さん。 ヒルズの森島さん。 
小堀さん、三村さん。  BILL公。
 頂いたお見舞いをまとめると49万円、偶然だろう、しかし数字に鳥肌が立った。助けて頂いたのだ。 死はそちらに行ってくれた。

  その他にも純子の知り合いの方からもお気使いをもらいました。
熊野牛王御神符。

純子は伊勢神宮へ、 高野山へ。 富田さんは茨城出雲大社。

多くの方方に感謝。  お陰様で生きていられます。