のほほん自転車日記

早く走るより、回りの景色をみながらのんびりゆっくり。
自分の人生も介護ものほほんと…

自転車でストレス解消

2008-09-16 21:03:17 | 自転車

 

思わず本屋に寄って買ってしまいました

特にシェイプアップという言葉に惹かれた、、、と言ってもいいですねぇ。

この本を読んで、自転車に乗ることで痩せるということがはっきりわかりました

実際広島に行き、足がしまったのは確かなことです。

以前は“自転車に乗ると足が太くなる”などと言われ、それは困ると思ったものですが、この本を読んでいて、ママチャリに乗っていると自転車のスタイルからして、足の前面に筋肉がつきやすくなってしまい、足が太くなるということがわかりました。

それに競輪の選手などは自転車に乗ってはいるけれども、無酸素運動をして負荷をかけているので、あれだけ太い足になるとか。

しかし、スポーツ自転車(ロード、クロスバイク、マウンテンバイク)で普通に楽しみながら道を走るのは、無酸素・有酸素運動を適度に繰り返し、バランスのとれた筋肉をつけて痩せることができるようなのです。もちろんストレスも解消できます!!

となると、わたしもこうなったら続けるしかありません

無理せず楽しみながらで痩せれるなんて、ちょっと嬉しかったりして

さぁて、来年はどうなっていることやら…

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月6日(水) No6

2008-09-15 09:58:39 | ピースサイクル

盛り沢山のフィールドワーク。

なかなか見ること、知ることができなかった場所を訪れ、説明もいろいろと聞くことができ、かなり充実した時間を過ごすことができました。

乗り込んだバスも出発場所まで送っていってくれたおかげで、市街を迷い歩くこともなくよかったです

さて、自転車に乗って広島駅へ。

電車の時間までまだあったのでお土産を買ったり、夕食をしたりして過ごしました。

あとは、初めての輪行ということで、ドキドキしながらタイヤを外したりしました。

正直、わたしが乗っていた自転車は、輪行のことを考えてあるわけでもなかったので、荷台はついているし、泥除けがついているし、輪行するにはいろいろはずさなくてはならなくなってしまいます。ましてや、自転車に対しての豊富な知識があるでもなし…。ということで、超速FIVEという輪行袋を使用しました。なんといっても、前輪(と、泥除け)をはずすだけでいいのが有り難いです。

とはいえ、慣れないことをしているので、時間がかかってかかって…あ~恥ずかしいとも思っていられないので、とにかく必死でした!なんとか自転車を袋に入れ、駅構内へ。

10K近くある自転車と、自分の10日間あまりの荷物が入っているリュック。

肩にずっしりと重みがきます

それほど苦労しなくても、自転車も荷物も送ってしまえばいいのではないかと言われてしまいそうですが、今回の旅でお金も使っているので、自力できそうなことにお金を使う気になれないんですよね。最も輪行も今後のことを考え(えっ?まだ行くの?)経験もしておきたい気持ちもあったのも確か。

駅のホームで電車が来るまで、ちょっとドキドキ。

22時過ぎで人気(ひとけ)もないかなぁと思いきや、家族連れのひとが待ってたり、何か子ども会かわからないけど、子どもの集団がいたりと賑やかでした。

いよいよ寝台列車がホームに入ってきました。みんなカメラ片手に列車を撮影。わたしはカメラを出して撮る気力もなかったですが、近くに座っていた紳士的な格好をしている男性までもが、急に写真を撮りだしている姿をみたとき、あ~このひと電車オタクだったんだぁと驚きました。でも、来年にはこのブルートレインも廃止され、非常に貴重な写真となるのでしょうからそれも仕方無いですね。

さて、寝台列車の入口は意外にも狭く、輪行袋が何度も壁にぶつかりそう…いえ、ぶつかってましたね。自分の部屋(個室)までなんとかたどり着き、やっとこさ輪行袋を押し込み落ち着くことができました。この寝台列車の個室は1階と2階と別れているのですが、本当に1階でよかったですでなきゃ、どうなってたことやら・・・

写真は、寝台列車内ですが、自転車は奥の窓側についている小さな机?にどかっとタイヤをのせてます。でないと入りきりません右側はすぐベッド、幅は70cmくらいかなぁ?右上は2階個室部屋のベッド部分か、荷物置き場かも。

車掌さんが切符の確認にみえ、明日名古屋に着く時間が早いので声をかけましょうか?と言って下さったので遠慮なくお願いしました。爆睡して降り忘れたら悲惨ですから。

寝台列車は、うるさくて眠れないよ、、と友だちに言われていたけれども、疲れと酔い止めの薬のせいか、気持ちよく寝れました。初めての寝台列車体験は、狭いけれども、その空間が心地よく(飛行機のあの空間は絶対好きじゃない)、ちょっとジメジメ感があったのは、空調のせいでしょうか?でもわたしにとって楽しかったですね。できることなら、もうちょっと乗っていたかったなぁというのが感想です。

朝名古屋にもうすぐ到着というとき、車掌さんがドアをたたく音が聞こえました。まだ他のひとは眠っているので、静かに荷物を移動。

降り立った名古屋はいつもと違って人通りもほとんどなく、とっても静か。

改札口をでて、自転車を組み立てて家に帰ろうかと思ったとき、ブレーキの部品のねじが飛んでしまいました。一生の不覚です!20K以上ある家まで帰ることに対してさすがに不安に感じたので、再度袋に自転車を詰め込み、出したり入れたりで時間をくってしまいましたが、なんとか早い時間にJRの電車に乗り込むことができました。

実は、JRの電車に乗ろうと改札口に行ったとき、駅員さんからそれは持ち込みできません、と言われすっごくあせってしまいました若い駅員さんだったようなのでわからなかったようですが、ちゃんとタイヤをはずしてあるので、と説明し持ち込みOKになりました。

通勤列車の時間帯だといやだなぁと思っていたものの、なんとかその時間帯にかち合う少し前であったのと、名古屋発→高蔵寺→豊田市駅行きに乗ったのが正解でした。

家の近くの駅に着くと、友人から迎えにいくよぉというありがたいメールがはいりました。こういうとき持つべきものは友。。嬉しかったですねぇ

でも、近かったし、自転車も1K程度なら問題もなかったので家まで乗って帰りました。

これが名古屋の途中だったら、助けを求めてたかも…

こうして広島までの旅を無事に終えることができたわけですが、、、あとはこの旅のまとめをしたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9月12日(金)

2008-09-12 16:41:51 | 自転車で豊田市外へ(日進・長久手方面)

ってことで、今まで近いのに行ったことがなかった五色園に行ってみました。

我が家からまずは、八草駅に向いました。車で走ると平坦に思えるところですが、自転車で走ると微妙にゆるやかな上りになります。そして、駅で左折。上り道ではあるもの広くて走りやすいです。ですが、ゴミが気になります…明日?か明後日?にモリコロパークでゴミ拾いのボランティア活動があるようですが、ここまで来て拾うのかしら???↓

ちょっと急な上り坂ですが、途中左手にリニモの車庫をみることができます。春にはここでイベントやっているんですよね。

 

このリニモの車庫を過ぎるとすぐにモリコロパークが見えてきます。そして、自転車と歩行者のための広い道がしばらく続いていきます。車庫を少し過ぎたあとからは、ほとんど下りなので、快適です

公園西駅側からみたモリコロパークです。9月20、21日あたりに夜まつりがあるようなので、観覧車もライトアップされてきれいかもしれませんね。

さて、どんどんモリコロパークも過ぎていくと、今度は右手にトヨタ博物館がみえてきます。

イベントに合わせてリニモを利用すると無料で見学ができることもたま~にあります

さて、目指すは五色園。長久手古戦場駅から左折し、さらに左折。。。こちゃこちゃした道を通り、やっと五色園に到着しました。

人気(ひとけ)が全くないので、本当に静か…。入口を入ると左手にこんな人形が立っていました。

 

ここは親鸞のことを視覚的に感じとることができる場所で、説明書きがあり、結構ふぅ~んと感心しながら見ていました。左の写真は“月見の宴”で、親鸞が2歳まで言葉を発しなかったのに、月見のときに「なみあみだぶつ」と言葉を急に話したことに対し、驚き歓喜したということです。他にもさまざまなエピソードが綴られ展示されていましたが、もうちょっときれいに整備しておくといいのにもったいないなぁと思ってしまいました。

それにしても、金曜日だからか本当に静かで…場所も広いし、半分もみずに終わってしまいましたが、夜に来たら怖い場所かもしれませんね

さぁ、五色園をみたあとは、高速道路脇を走りながら、愛知牧場へと向かいました。

高速道路と並行に走ったりしたのですが、高速を走っている車の音と勘違いして、後ろから猛スピードで車が来たぁ!!と思って、ついつい冷っとした気持ちになってしまいます

やっと着いた愛知牧場です。

 

ここは、金曜日ではありますが、若い人や子ども連れや、いろいろなひとが訪れていました。

さぁここまで来たら絶対食べて行きたいジェラード。

生いちごバニラ?を頼みましたが、形そのままのイチゴは入ってませんでした残念~。

しばしここで休憩し、いよいよ家まであと少し。

黒笹からいっきに三好ヶ丘へ、、そして豊田に。

と道路をスイスイと自転車で行きたいところですが、ここは路肩も狭いし、トラックもよく通り、自転車が通るには非常に危険です。三好までは自転車も通れる歩道があるのですが、豊田に入るといきなり歩道がなくってしまいます。ということで、ちょっと大回りだけどトヨタスポーツセンター内を通ることにしました。

 

広い道の両サイドには、陸上競技場や、グランパスの練習場、プールなど、とにかくいろいろな施設があります。10月18日には、ここでBIGHOLIDAYが開催されます。夜の花火は、小規模ながらにもお勧めです

今日の総走行距離…16・6K

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月6日(水) No5

2008-09-12 09:22:03 | ピースサイクル

旧軍港宇品港…過去(日清戦争から太平洋戦争)ここの場所から兵士が輸送船に乗り、戦場に送りだされていき、多くの戦士が再びもどることはなかったそうです。

日清戦争凱旋碑…小さな公園にあり、碑には「平和塔」と書いてあります。

でも、写真をよくみてください。何か不思議に感じませんか?

わたしは、これをみた瞬間に違和感を感じました

塔の上部に飾られているのはトビです。(わたしは最初鷹かなと思いました)平和の象徴といえばやっぱり鳩だと思いますが…。

戦勝記念碑として置かれた鉄像のトビ(金鵄勲章の金鵄)は、太平洋戦争中も金属徴発を免れました。しかし、その後進駐軍にとがめられるのを恐れて、「日清戦争凱旋碑」の文字を落として「平和塔」と文字を入れたという話でした。

広島鉄道被爆電車…当時、運転士も車掌も多くは女性で、犠牲者もひときわ女性が多かったそうです。まだ現役で走っているといわれる「651、652被爆電車」を倉庫で今回はみることができました。ちょうどこの日に、被爆電車爆破予告があったということをあとで知り、その影響で倉庫で休ませていたんでしょうか?わたしにとってはラッキーでした。

日本赤十字原爆病院…爆心地から1500M。鉄筋コンクリート3階建てのこの病院は外郭のみを残す無残な姿になったものの、多数の負傷者で埋まり混乱を極めたそうです。

 

現在は、原爆でゆがんだ窓枠部分が、L字型に切り取って高さ1.5Mの台座に据え付けられているだけとなっていました。

浄国寺…原爆で一家全滅となった無縁の墓、S20年8月6日と記された墓などがあり、そのなかでも無縁墓の前にある「おこりじぞう」を連想させる被爆地蔵をみていると、怒りと悲しみが入り混じった感情が湧きあがってくるようでした。

多くの戦争跡を訪ね、年配の男性が汗をかきながら必死に説明する姿に、平和を維持するためにもこの過去の忌まわしい出来事を風化させてはならないという熱意が伝わってきました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月6日(水) No4

2008-09-11 08:34:31 | ピースサイクル

フィールドワークは、バスから乗ったままでみたり、実際に降りてみてまわったりました。

全部で26ヵ所。そのうちの15ヶ所はバスから降りて見て回りました。

多聞院…このお寺さんは、爆心地から離れている場所ではあるものの、鐘楼のハリは折れ、原爆のすごさを感じさせられました。つり鐘には「ノーモアヒロシマ」と刻まれています。

比治山陸軍墓地…門をくぐった瞬間。わたしは異様な感じを受け取りました。この墓は、日本人だけでなく海外のひとの墓もありました。歴史上での関係で墓の大小があるようでした。さらに、亡くなってもなお、生きていた時の地位が影響を受けて墓が建てられているというのも、悲しいことだと感じました。

陸軍被服支厰(ひふくししょう)跡…爆心地から2700M。強烈な爆風のため、大きな鉄製の窓枠や扉は内側に向かってまがっています。

  

閉じられている鉄の窓をみていると、恐ろしく感じます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月6日(水) No3

2008-09-10 20:26:06 | ピースサイクル

宿泊施設に預けてある荷物は、午前中いっぱいは置いておいても大丈夫ということだったのですが、フィールドワークは13時からなので、荷物を取りに行って移動

ということで、遅めの朝食(ほとんど昼食に近い?)を、広島城前のベンチ(買っておいたパン)でとり、しばし休憩。このピースサイクルで覚えたことのひとつ、“たそがれ時間”を過ごしていました。

あんまりゆっくりしていて遅れてしまうといけないので、広島駅に行き荷物をロッカーに入れ、集合場所まで自転車でひたすらエンヤコラ。

前日とは違う集合場所。

ちゃんと着いたものの、自転車置き場がない~

こういうのって案外あせりますですが、車の駐車場の管理をしているひとに聞いて、駐輪場を教えてもらいました。あってよかった~っと安心をしていたら、今度はフィールドワークのガイドのひとりが、ここには戻ってこないので、もし戻ってくるなら電車で戻らないといけません、などということを言われ、非常にあせりました内心、そんなぁ~と泣きたい気持ちでしたよ。

そう思ったら、今度はバスがほぼいっぱいみたいで…。本当に乗れるか心配になりました。っが、なんとか補助席も使い大丈夫でした…そんな感じで波乱含みの始まりで不安いっぱいでしたが、このフィールドワークの内容はとても充実したものでした。

ーつづきー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月6日(水) No2

2008-09-09 15:08:34 | ピースサイクル

ダイ・インが終わり、グランドゼロのつどいが開かれました。

そこでは、関東から来た小学生が平和への想いを話し、長崎から来た高校生たちの活動紹介を聞いたりしました。若いひとたちの話を聞いていると、まだまだ捨てたもんじゃないな、と希望を抱かせるものでした

そのあとは、中国電力までのピースウォーク。

ですが、わたしは限られた時間の中で行っておきたいところがあったので、ピースウォークには参加しませんでした。。。

ですので、ここでおおさかピースサイクルのひとたちとは本当にお別れいろいろお世話になりました

気持ちを切り替え、早速原爆の子の像へ。

若い人も年配者も多くの人が千羽鶴を持ってきていました。この人の多さと千羽鶴の多さは、平和への想いが強いということなんでしょうね。わたしも豊田のひとたちの想いをしっかり届けましたさて、この千羽鶴の行方ですが、いったいどれくらいのひとが考えているのでしょう。いまのところここにささげられた千羽鶴は保存展示という形をとっています。しかし中には千羽鶴未来プロジェクトといって千羽鶴を再生(費用のことや解体作業をするためのボランティア労力が気になりますが)し、世界平和と再生を象徴として世界に羽ばたかせようとしているNPO団体もあります。この団体の活動に賛同するものとして、この活動のことをより多くのひとに知ってもらいたいし、我が家に訪れる海外のひとに再生ノートとペンを渡したいと思っています。あとは、娘がお世話になった高校がインドと交流があるので、なんとか再生ノートとペンを持っていってもらえないかと考えているところです。

原爆の子の像に訪れたあとは、この再生ノートとペンを購入するために、平和記念公園1階のレストハウスに行きました。っが、どこにあるかわかりづらく、結局お店のひとに聞いてしまいました

もうちょっとなにかアピールするといいなぁと思いつつ、千羽鶴再生?というのを見て気分を慨するひともいるかも…とちょっと思いました

そのあとは、広島平和記念資料館に訪れました。10年以上前にも訪れましたが、そのときとは変わっていて、さらに資料が充実していました。しかし、13時からのフィールドワークの時間があるので、ゆっくりみてまわることはできずちょっと残念でしたが、とりあえず見ることができたことはよかったです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月6日(水) No1

2008-09-08 19:50:59 | ピースサイクル

明け方早くから、同室になった女性のひとりが慌ただしく準備をして出かけていくのを、布団の中から見送りました。集合時間までまだまだあったので、わたしはゆっくりとしていましたが…

でも、いつまででも寝ていられないので布団を片付け始めていると、同室の女性が声をかけてくれ、少しだけ話をしました。

こういってしまうのもなんですが、活動家と言われるひとは本当にアツい人が多い気がします。そして、近寄りがたい存在であることもたまにあります。いつも自分がかかわっている福祉のボランティアとはあきらかに違う雰囲気。やはり、普段から世の中と闘っているせいなのでしょうか

それはさておき、朝起きて食欲もないので、集合場所である原爆ドームへ直行。

座ってボーッと考え事をしていると、チラシ配りを手伝ってと言われて、早速チラシ(9条を守る新聞)に。いろいろなひとがいろいろなチラシを配っていました。外国のひとも配っていましたでも、慣れないみたいでなかなかひとに手渡すことが難しそうでした。わたし自身英語ができるわけでもないんで、がんばれ~大丈夫さぁって心で言いながら、笑顔でその外国のひとをみると、笑顔で返してくれましたたぶん、なんとなくわかったんじゃないのかなぁ。だって、手渡せた時になんとなく合図をくれましたからね

8時過ぎ、手元にあるチラシもなくなり、配布も終わり。

いよいよダイ・インのための座り込みです。原爆ドームまわりには、いろいろな市民活動団体の人がいて、ピースサイクルのメンバーのひとは、朝5時くらいから場所取りにでかけていました。

実はこのとき、愛知のピースサイクルで一緒だったI田さんが会いに来てくれて、なんだかふと気が抜けて泣けて来てしまいました。被爆したひとたちのことを考えたり、目的を果たすために走ってきたこと、そしてお世話になったおおさかピースサイクルのひとたちとのお別れがいよいよ近づいていること…。いろいろな想いが交錯していました。

8時15分 ダイ・イン

このときのことは6日のブログにも書きましたが、祈らずにはいられませんでした。

コクリコHPの管理人部屋「のほほんと…」の詩の中に、ちょっとこのときのことを込めて書いてみました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月5日(火) No7

2008-09-07 20:52:44 | ピースサイクル

フィールドワークも途中から離脱し、自転車でエンヤコラ

翌日のこともあり、少し広島駅の場所と荷物を置いておくためのロッカーを確認しました。

翌日も午後からフィールドワークがあるのですが、荷物を宿泊場所に置いてはおけないので、駅のロッカーに預けようと思ったからです。帰りもそのまま寝台列車なので、荷物を置いておくにはちょうどよいのです。

しっかり場所も覚え、宿泊場所に帰るとしばらくして宿泊先で“8・6広島平和のつどい2008”が始まりました。

「平和を求めるなら9条を鍛えよう~核・基地・グローバル化~」ということで、2部構成になっていて、わたしたちは1部の各市民活動団体によるスピーチを聞きました。

難しいことはわからなかったのですが、長崎ピースウィーク実行委員会の教授(長崎大学)の話がわたしの中ではとても心に残りました

教授は教育学部ということで、若い生徒たちに戦争についていろいろ話してきたつもりだけれども、いまはまた昔とは違って物事の捉え方、考え方が変わってきているということでした。

「やられたらやり返す…」“報復”するということは、わたしの中では何も生まないと思っていますが、若い人のなかではそうではないようです。でも、これは若い人の中だけでは決してない気もします。社会全体がそんな雰囲気をもたらしている…そんなふうに思えて仕方ありません。

世界には、その“報復”の応酬で、永遠に解けることのない呪縛のように多くのひとが亡くなっていきます。本当に「やったらやり返す」ことで終結するんでしょうか

そうやって考えつつ1部が終わり、2部は時間の関係で欠席。ピースサイクルの懇親会に参加しました。

各地からみえたピースサイクルのメンバーのスピーチがありました。皆さん、このヒロシマを目指して各都市に申し入れをしながら走ってきたんですね。すごいことです

呉で出会った高校生の女の子とも再開できて嬉しかった~

もしっかり飲み、翌日に備えて早々と就寝…ですが、同室になった女性の方々(他の市民活動団体メンバー)は遅くまで話をしていたようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月5日(火) No6

2008-09-06 10:06:16 | ピースサイクル

ここで、少しだけ原民喜詩集から一部をほ~んの少しだけ紹介します。。。

「コレガ人間ナノデス」

コレガ人間ナノデス 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ 肉体ガ恐ロシク膨張シ 男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル ・・・・・・

詩はもう少し続きますが、インターネット上ですべてを公開するのはよくないのでこれくらいまでで

この詩を読んでいて、淡々と描写してあるんですが、とても迫ってくるものがあります。

さて、被ばく柳をみて、次の場所に移動していく途中、サダコさんが元気であれば卒業していたであろうという中学校を通りました。

 

碑の内容を少し書きます。

この「折り鶴の碑」は、日本各地からだけでなく、外国からもヒロシマに寄せられるようになった無数の折り鶴に込められた平和への願いを、広島の子どもたちが受けとめた証しとして建立されたものです。

(中略)

それらの折り鶴の一羽ずつにこめられた願いを、わたしたちは大切に受け継ぎます。そして、貞子さんの命日である10月25日には、ヒロシマの子どもの堅い意志をあらわすこの黒御影石の碑に折り鶴を置き、世界に平和を築く決意を明らかにします。

2000年3月 広島市立幟町中学校 生徒会

平和であることなんて、日常の生活、特に日本にいると当たり前のように感じてしまうことの方がおおいでしょうが、こうやって振り返りながら「築く」ための決意をすること、、それはわたしにも必要なことだと思いました。

この「折り鶴の碑」も通りすぎ、今度は縮景園に行きました。

この縮景園は、広島藩主が1620年から別邸の庭として築成されたものですが、原爆により壊滅状態になりましたが、現在は戦災前の景観に復元されています。

ここで、しばし休憩…のはずだったんですが、わたし自身かなり疲れがピークで。。。

暑さと歩き疲れ、そしてまた帰りは自転車に乗って宿泊所に向かわねばならず、いったいどこまで歩いていかなければならないんだろう?という不安もあり、情けないですがここでリタイアすることにしましました

でも、わたしの疑問は残っているので、原民喜の研究者である女性の方になぜ自裁したか尋ねてみました。

すると女性から、原民喜は「生に対しての欲がなかった」という返事がかえってきました。

もともと被災する前に愛するひとを亡くし、死を決意していたのですが、被爆したことでその時間が少し伸びたといってもいいのかもしれません。

この原爆の状況を残すことが彼の使命・ミッションであったということも言われていました。

ですが、ここでもうひとつわたしには疑問がありました。

彼は幼少のころとても慕う姉の影響でクリスチャンにはならなかったけれどもキリスト教の教えに傾倒していたようですが、最後まで洗礼を受けることもなくクリスチャンにはならなかった…。

このことも尋ねてみたら、組織に入ることがクリスチャンになることとは違う、という考えをもっていたのではないかと、推測だけれどもということばを添えて女性は言っていました。

確かに…。わたしも共感するところがあります。

組織に属すものではなく、常に個が神とつながっていると考えた方がいいでしょう。組織となった時点で、残念ながらひとはひとをみて、神をみることがなくなることも儘にある気がします。

でも、それが悪いわけではないですが…。ひとの世に生きる限り、組織も必要ですからね。

原民喜が惜しげもなく、自分の命をたつことができたことは、ある意味全力で生きてきたからなのかもしれません。もしかしたら、死の向こう側に希望を見出していたのでしょうか?

わたしはわたしであり、当然のことながら原民喜ではありませんので本当のところはわかりませんが、彼が見て書き残したもの…それを読んで個々がいろいろと感じるということが大切なのかもしれませんね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする