風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

大エルミタージュ美術館展 「16世紀・ルネサンス」

2012-05-28 23:23:14 | 
セザンヌ展を見終わったら、いざ、大エルミタージュ美術館展へ!!


先日、TVでこの展覧会の特集番組を見たこともあって、本物が見られるというのはうれしいかぎり!

入口のところにティツィアーノ・ヴェチェリオの「祝福するキリスト」が出迎えてくれる。

それを見た途端やっぱり聖画はいいなと思う。ダンナもそう思っていたんだって。何かほっとする。クリスチャンになってから聖画を見るのが好きになった。聖書のどの箇所かというのがよくわかるから。

このブログで紹介するのは私の心に残った気になる作品だよ。

「祝福するキリスト」

まるでイエス様の肖像画のように画面いっぱいに描かれた大胆な構図。暗い色調の背景に鮮やかな赤と青のころも、顔は輝いているみたいに明るい。右手を挙げて祝福するイエス様の視線は多分見たすべての人が自分を見ていると思ったんじゃないかしら?そんな風に見えてくるもの。左手には球形のガラスを持ち、これは万物の支配者を象徴しているそうだ。

「キリストと姦淫の女」パルマ・イル・ヴェッキオ

この場面も聖書の中でよく知られるところ。でもこの絵を見たとき私のイメージとはかけ離れていた。というのもこの聖画が物静かで美しすぎるから。

聖書の中の姦淫の女の場面はこんな話。

ある日、女が律法学者とパリサイ人に姦淫の現場でとらえられキリストのもとにつれてこられる。そして、彼らはキリストにこう問うのである。モーセの律法の中で、こういう女を石打ち(死ぬまで大きな石をその人に向けて投げる死刑のひとつ)にするように命じています。ところであなたは何と言われますか。」彼らはイエスを試してこういったのだ。

慈悲深いイエスが許してやれといえばモーセの律法を守っていないことになり、石打にしろと言えば、当時ローマ支配下にあり、死刑執行権がないのでローマの法律を無視することになる。どちらにしても前者は法律違反者、後者は反逆罪で告発できるのだ。また、姦淫の罪は男女両方が裁かれるのに、この時、女だけがとらえられているのをかんがえると律法学者とパリサイ人の罠とも思われる。

イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられたが、彼らが問い続けてやめなかったので、身を起こして言われた。「あなた方のうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい。」とイエスが言うと、年長者たちから初めてひとりひとり出ていってだれも彼女を裁けなかったというお話。

この時の女の気持ちはどうだっただろう。衣服も乱れていただろうし、相手はいない、今まさに石で死ぬまで打たれるか話し合いがもたれている。恥ずかしさと心ぼそさはやがて恐怖に変わっていく。律法学者、パリサイ人は女の命をもののようにしか見ていないのだ。女は地べたに投げ出されていたかもしれない。だから絵を見たとき違和感があったのだ。

このはイエスと姦淫の女を中心に周りに3人の律法学者、パリサイ人が立った状態で描かれている。姦淫の罪でとらえられた女は凛として顔つきも何か強さが感じられる。キリストと女の顔だけが光るように描かれていることから正しさを強調したかったのだろうか。なんて思ってしまった。


「エジプト逃避途上の休息と聖ユスティナ」ロレンツォ・ロット

東方の3博士からユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに来たといわれたヘロデ王は恐れ惑って、場所を突き止めるように言い3博士が戻らないと知ると、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺すように命じる。あらかじめ天使が夢でヨセフに現れてエジプトへ逃げなさいと知らせていたのでこの聖家族はエジプトへ逃げていたところだったのだ。聖書には聖ユスティナの記述はないが、この絵には6世紀、迫害によって剣で胸を貫いた聖ユスティナが組み合わされている。ユスティナは胸に剣が突き刺さった状態で描かれている。鮮やかな色調の絵。


「聖カタリナ」ベルナルディーノ・ルイーニ

穏やかな顔の聖カタリナ、彼女の後ろにいる愛らしい幼児の天使。(天使のほほえみがなんともかわいらしい。)
しかし、あれ、これダヴィンチの作品じゃないの?と思うほど似ている。ルイーニのことを調べたらダヴィンチに影響を受けた人で、ダヴィンチと一緒に仕事もしたことがあるらしい。


「聖家族と洗礼者ヨハネ」バルトロメオ・スケドーニ

母マリアに抱かれているキリストを見守る洗礼者ヨハネと父のヨセフ。暗い中で暖かな柔らかい光が聖母子を中心に絵全体を包んでいる。
赤ちゃんのキリストの表情がかわいい~!


「若い女性の肖像(横顔)」ソフォニスバ・アングィソーラ

花が入った花瓶を持った若い?女性の肖像画。この絵を見てすごいと思ったのは洋服の装飾。ヴィクトリア調?の装飾だろうか?実に細かい模様で金の糸?の刺繍が施されているのがわかる。


17世紀・バロックへ続く。。。。



セザンヌ展

2012-05-28 09:05:53 | 
土曜日、ダンナと一緒に新国立美術館に行ってきましたよ。

初めはダンナが会社で当たったセザンヌ展のチケットがあったのでセザンヌ展を見にいったんです。でも同じ場所でやっているエルミタージュ美術館展が面白そうで、これも見たい!ということで今回は美術展のはしごなのだ。

セザンヌって学校の美術の教科書必ず乗っているイメージで今までちゃんと見たことがなかったかもしれない。

初期のセザンヌ作品の中でひときわ引きつけられた作品は、「四季」と名付けられた作品。「セザンヌってこういう絵もかくんだ」と意外だった。それぞれに女の人が描かれており、ひとりひとりの女の人に四季のイメージを象徴している。とても明るく繊細な感じを受ける。

また、風景画もよかったなぁ。風景画の部屋は緑一色、部屋の入り口には 「緑はとても快活な色で 目に最も良い色」とセザンヌ自身の言葉が書いてあったよ。本当に緑は、ああ、落ち着く・・・・。


私が風景画の中で一番好きな絵が、「首吊りの家・オーヴェール・シュル・オワーズ」。
題名はなんだか穏やかではないけれど、絵は穏やかで日の光が当たっている明るい田舎町の様子が描かれている。

またフォンテーヌブローの森!私はこの題材がすきだったなぁ。
緑豊かな森。その中の大きな岩場。繊細というよりは何度も筆で色を重ねた荒々しさとも違うセザンヌ独特の重厚な感じをうける。

またサント=ヴィクトワール山の絵は山の線、木の枝の線、道、など、見るものの目をいざなうように計算されて描いているような印象を受けた。というのも、私はとある出版社の通信教育の絵画スクールでプロッフェッショナル・アート・コースを3年間学んでいたことがあるのだけれど、その時にこういった技術を学んだことがある。そういった技法はセザンヌによって構築されたのかしら?なんて思ってしまった。


そして肖像画。プロヴァンスで描かれた農夫や庭師の肖像が特によかった。なんだかセザンヌのプロヴァンスでの生活が垣間見える感じ。頑固というイメージのセザンヌだけれども、プロヴァンスの素朴な人たちとの交流もあって、割と周りの人に好かれていたのかもしれない。(庭師のヴァリエは晩年にも作品に描かれている。)

そして、忘れてはいけないのがやっぱり静物画!セザンヌと言ったらやっぱり静物画なんだな。

「りんごとオレンジ」
この作品は静物画なのにとても華やか!絨毯の模様とか果実の色彩、布のしわなどで洗練された感じの絵になっている。

セザンヌが制作した1000点もの油彩画の中で、静物に関するものは約200点にもおよぶとか!そして「私は1つのりんごでパリを驚かせたい」と言ったとか!独自の造形に対する探究心はすごいね。

今度のセザンヌ展は依然のイメージががらっと変わってしまうところもあってそういった意味でいい機会だったな。


そしてエルミタージュ展へと続く・・・。

熊谷守一美術館

2010-02-24 20:16:31 | 
そういえば土曜日にダンナと熊谷守一美術館に行ってきたんだ。
ダンナは最近見た新聞の特集記事でいたく守一の生き方に感動したらしい。

この美術館は東京都豊島区千早町にある。
熊谷守一の次女で芸術家の榧さんが私設として創立した。
小さなとてもかわいらしい美術館である。

前々から行ってみたいとは思っていた。
以前熊谷守一の絵と言葉がのっている「へたも絵のうち」という本を絵の好きな次男のために買ったのだけど、すごく面白い本で私が夢中になってしまったのだ。

猫や、蟻、木や草花、蝶、自然の生き物が独特の画風で描かれている。面白い。それともう一つの理由、まぁ…旧姓が同じってことで・・・。女優やってる従姉妹も見に行きたいと言っていたっけ。

周りの仙人と言われたというが本当にそんな風貌。

熊谷って名前から東北から北海道か、広島県あたりの人なのかと思っていたが、意外と岐阜の出身だった。(なんでかって?熊谷直実の子孫は南と北に分かれたってきいているので・・・ちなみに私の祖父は宮城だ)

面白い人物だ。
守一の行った言葉とか、略歴なんか見てるとすごく面白い。

たとえば二科の書生さんに(どうしたらいい絵が描けるか)と聞かれた時、「下品な人は下品な絵をかきなさい。馬鹿な人は馬鹿な絵を書きなさい。下手な人は下手な絵を描きなさい。」といったそうだ。その理由として守一は「結局絵などは自分を出して自分を生かすしかない。自分にないものを無理に出そうとしてもろくなことにならない。」といっている。

なんかこれはフルートを吹くときにもすごく共感する。この頃本当にそう感じているところ。自分に与えられているものを感謝しつつ出して、生かす。

また、壊れたレンズを友人からもらってカメラを作ってしまうとかマルチな才能の持ち主。

それにキン蠅が好きだそうだ。守一はあれがいるとにぎやかだといっている。

守一は金銭欲も所有欲なかったらしいが、この話にはおどろいてしまった。
85歳の時、国から文化勲章を授与するという話が来るが、「私は別にお国のためにしたことはないから」とこの勲章を辞退してしまうのである。これ以上人の出入りが多くなっては困るとも言っていたらしい。

なんて自由な精神!

時に頑固で自由で自分の時間を大事にしていた人。生きていることが好きだから生き物の命を愛した人。その生涯の中で5人のお子さんのうち3人も亡くなるなど波乱万丈な人だったけど生きざまを見ていると魅力的である。


美術館で守一の絵を堪能し、美術館の中にある喫茶室で次女榧さん作のコーヒーカップを目で楽しむ。

守一に興味を持った方は3月14日(日)NHK教育テレビ、「こころの時代」で特集があるそうなので見てみるといいかも。

今回見た絵はほんの一部なのでまた日を改めてもう一度訪れたい。















世田谷美術館

2006-11-02 22:02:38 | 
今日は長男の3ヶ月に1度の検診のため世田谷の病院へ行った。完全予約制なのにいつも2時間近く待つ。我が家からその病院まで1時間半以上はかかる。だから病院へ行く日は1日つぶれてしまうのだ。しかし、今日は珍しく早く診察が終わったので病院の近くにある世田谷美術館へいってみようということになった。

世田谷美術館でアンリ・ルソー展がやっている。
アンリ・ルソーと彼の画風に影響を受けた素朴派、アンリ・ルソーに魅せられた日本人美術家の作品が展示されていた。

ルソーの作品をはじめて見たのは小学校の図工の教科書だったが、今回改めてルソーの作品を堪能する事ができた。

ルソーの作品を見たとき、感じたものは「静寂」「素朴」「不思議」。
後期の作品「熱帯風景 オレンジの森の猿たち」は熱帯植物と4匹の猿が生き生きと描かれていた。初期の風景画も素朴で好きだったがこの作品は凄く伸びやかな感じを受けた。

長男も感じるところがあったと見える。なぜなら、彼は熱帯植物が大好きなのだから。いつも図鑑を持ち歩き時間さえあれば図鑑を見ている子だ。解説を見る前に「この猿はキンカジュウだよ」と教えてくれた。また、長男は素朴派のアンドレ・ボーシャン「楽園」という作品が気に入ったらしい。この作品は熱帯植物と美しい鳥達が非常に細かく描かれていた。


ルソーは素人画家として最初は馬鹿にされていたらしいが、彼の作品はたくさんの画家達に影響を与えた。ピカソ、アンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ、藤田嗣治や岡鹿之助、松本竣介、加山又造、などなど。。。

ルソーの描いた建物、木や葉の描き方を見るとアメリカで習ったトールペイントの技法に似ているようにおもわれた。これだけ影響を与えたルソーの作品なのだから、もしかしたらルソーの作品をみて影響されたトールペイント作家がすくなからずいたのかも?なんて考えてしまった。


世田谷美術館は世田谷の砧公園の中にある。こじんまりとしているが、緑に囲まれた落ち着いたたたずまいの美術館だった。

紙きり~切り紙~切り絵

2006-05-19 17:07:51 | 
紙きり好きが高じてこうなりましたというお話。

古典芸能の紙きりがすきなのは前日の日記や「池袋演芸場」にも書いてある。4月の寄席で見た林家正楽師匠の紙きりはすごかった!!

そんなにすごいのはできないけれど、見よう見まねで雑誌載っていた写真のカラスを切ってみた。


正楽師匠のように短い時間ではできません・・・。
正楽師匠のように切り抜いて、あとの形を見せられません・・・。残った紙は切り抜いた形はなく、ジャギジャギです・・・。

そして、こちらはアメリカの老人ホームでご披露した?ちょっとおデブなミッキーマウス。


カラスのように時間はかけられないし、万が一失敗してなんだかわからないより、ミッキーだったら多少変でもわかるだろう。折り紙を半分にして左右対称になるように切るほうが手っ取り早い。眉と口は後で切って付け足した。

そして最近では切り絵に凝っている。もともと教会で影絵を作ったのがきっかけで、その後、今つどっている教会の掲示板を飾りたくてはじめたものだ。題は「放蕩息子」。

これはもちろんハサミではできない。おおかた下絵を書いてカッターで切り抜いていく。

放蕩息子はイエスのたとえ話として新約聖書に出てくる話だ。親が生きているうちに財産を分けてもらって放蕩三昧、財産はすぐに尽き、友達だと思っていた取り巻きもいなくなる。基金が重なり食べるのにも事欠く息子。悔い改めて使用人の1人として雇ってもらおうと父の元に帰ってきた息子。父は、これだけ自分勝手な生き方をしていた息子を拒絶することなく「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と大喜びして迎えるという話。場面は父が帰ってきた息子をかわいそうに思い駆け寄るところをあらわした。

ちなみに、この話は神からはなれて自分勝手に生きている人間が、どんなに罪を犯しても、どんなにだめなやつでも悔い改めて神に立ち返れば赦してくれる、無条件で受け入れられ祝福してくれるという例えである。

という事で紙きり転じて今は切り絵となっている。どちらも楽しいが、やっぱり話術と芸術とが一体となった正楽師匠の紙きりは圧巻。紙きりは見るのが一番!

プラド美術館展

2006-05-03 02:02:21 | 
月曜日にだんなと上野の東京都美術館でひらかれている「プラド美術館展」へ行ってきた。エル・グレコ、ティッツィアーノ、ルーベンス、ベラスケス、ムリーリョ、ゴヤなどの巨匠達の作品が全81作品、見ごたえのある展覧会だった。

さて、当然のことながら、私が惹かれたのは聖画の数々。

その中から特に気になった作品。

「十字架を抱くキリスト」ーエル・グレコ

映画「パッション」を見たときの十字架を背負うキリストは血まみれで息も絶え絶えでとても見ていられないような映像であった。聖書の記述も途中で担ぐことができなくなり、途中でクレネ人シモンに無理やり背負わせている。それほど大きく重い十字架なのだが、この絵では十字架もさほど大きくなくそっと携えているようだ。そしてキリストの顔は天を仰ぎとても穏やかな表情。まるで天の父なる神の御心を願い、その栄光を仰ぎ見ているように見える。

「聖ベルナルドゥスを抱擁するキリスト」ーリバルタ、フランシスコ

私はプロテスタントのクリスチャンなので聖ベルナルドゥスがどんな人なのかは知らない。誰かカソリックのクリスチャンの方いましたら教えてください。

十字架から聖ベルナルドゥスを慈愛に満ちたまなざしで抱擁するキリストと信頼し安心しきってすべてゆだねきっているような聖ベルナルドゥス。バックは暗い色でキリストとベルナルドゥスだけが明るく浮き上がって見える。この絵を見たとき聖ベルナルドゥスに自分を置き換えたくなってしまった。

「聖アンデレ」-リベーラ、ジュゼッペ・デ

光と影のコントラストが美しい。Xの形の十字架を持っていることからキリストの十二弟子の一人、アンデレだということがすぐわかる。この十字架を聖アンデレの十字架という。なぜなら、彼は殉教するときキリストと同じ十字架ではもったいないからとXの形の十字架にしてほしいと願い出たのだそうだ。また魚が、これはアンデレが漁師であったこと、キリストが「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」という聖書の話から象徴的に使われている。事実、聖書ではアンデレがいろいろな人々をキリストの元に連れてきている。

「天使により解放される聖ペテロ」-ペレーダ、アントニオ・デ

ペテロはアンデレの兄弟であり、アンデレとともにキリストについていった人だ。私はこのペテロという人物が好きだ。素直な心を持ち、臆病で衝動的であるが実行力がある。しかし、キリストが捕らえられたとき怖くなって3度もキリストを否定するなど人間的な弱さもある。そのペテロが復活のキリストにあって信じられないぐらいに変えられ、力強く宣教していくのである。

この絵は、宣教したペテロをヘロデが捕らえ、2本の鎖につなげられて牢にいるところに御使いがやってきて救い出す場面を描いたものだ。この絵を見たときなぜペテロ表情がぼんやりとしているのか不思議に思っていたが帰って新約聖書の使徒の働きを読んで納得。こう書いてあった。

「彼には御使いのしている事が現実の事だとわからず、幻を見ているのだと思われた。」

そう思ってもう一度絵を見ると表情がうまく出ているなぁと思った。肌、布、鎖の質感、また色彩が他の聖画に比べると豊かだ。魅せられてしまう作品だった。

「聖パウロの改宗」-ムリーリョ、バルトロメ・エステバン

構図が面白い。すっきりとしている。絵を斜め半分にして、下にパウロとその一行。上に復活のキリストという構図。色調が全体的に柔らかく新約聖書、使徒の働きのドラマチックな一面を的確に捉えていると思う。

この絵は最初はキリスト教徒を迫害していたサウロ(改宗後はパウロ)がダマスコに行く途中天からまばゆいばかりの光に照らされて復活のキリストに語りかけられる場面だ。

「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。」
「主よあなたはどなたですか?」
「私はあなたが迫害しているイエスである。」

この後サウロはキリストから町に入ってからしなければならない事が告げられると言われる。このときサウロは目が見えなくなっていた。そしてキリストから使わされたアナニヤが手を置いて「兄弟サウロ、あなたがくる途中でお現われになった主イエスが、私を使わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」というと直ちに、サウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった。余談だが、「目からうろこが落ちる」ということわざはこの話から来ている。

「サロメ」-ティツィアーノ、ヴェチェッリオ

私の好きな画家ティツィアーノの作品だが、この絵は不気味な作品だ。それもそのはず王女サロメが盆の上に乗せているのは斬首された洗礼者ヨハネの首だからである。

この話は新約聖書のマタイの福音書に書かれている。
ヘロデに捕らえられたヨハネはヘロデの犯した罪ー自分の兄弟の妻ヘロデヤを妻としている事を不法だと言い張ってヘロデヤの恨みを買う。ヘロデヤの恨みはヨハネを殺したいと思うほどになりその機会をうかがっていたがついにそのときがきた。ヘロデ王の誕生日の祝宴のとき、娘サロメが踊りを踊り王は褒美に何でも与えると誓う。そこで母ヘロデヤに「何を願いましょうか?」とたずねるとヘロデヤはこういったのだ。「バプテスマのヨハネの首」。

ヘロデはヨハネの話を当惑しながらも喜んで耳を傾けていたのでこの申し出に非常に心を痛めたが、列席の人々の手前もあってそれを許してしまうのである。

この絵を見て、罪がわからない事の怖さや憎しみにより罪を重ねていく怖さ、善悪の判断をプライドをまもるために状況に任せてしまう愚かさを感じる。

「ノアの箱舟に乗り込む動物たち」ーバッサーノ、ヤコボ

有名な旧約聖書、創世記の中の「ノアの箱舟」の話。地上に人間の悪が栄え、人間を作った事を後悔した神様が大洪水を起こしすべてのものたちを滅ぼそうとしたが、ノアとその家族だけは神様の御心にかなっていたので助けられた。そのとき大きな箱舟を作り、動物をひとつがいずつ乗せるようにと命じられ、載せている場面である。

動物たちが実に写実的。大小さまざまな動物がいるのだが配置もバランスがよく、あまりごちゃごちゃ感がない。動物の流れが自然と箱舟へといざなわれる。

「聖ステファヌスの殉教」-カヴァッリーノ、ベルナルド

ステファヌスはステパノとも呼ばれる。ステパノはキリスト教最初の殉教者である。新約聖書・使徒の働きにはこうある。

「ステパノは恵みと力とに満ち人々の間で、すばらしい不思議な業としるしを行っていた。ー中略ーしかし、彼が知恵と御霊によってかたっていたので、それに対抗する事ができなかった。」

議論をして負けた人々は、ねたみに駆られ、律法学者や民衆、長老をあおり、とうとうステパノを捕らえ、偽りの証人を立てるが、逆にステパノが話すほうがことごとく正論だった。そのため、彼らはらわたが煮えくり返るほど悔しがり、ステパノが

「見なさい。天が開けて、人の子が、神の右に立って折られるのが見えます。」

というのをきくや否やその思いは爆発してステパノを石打ちの刑(死ぬまで大きな石を投げつける当時の刑)にしてしまうのである。

死ぬ前にステパノはひざまずき大声で叫ぶのだ。
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」

絵は、薄暗い背景(群集も含めて)にステパノだけが鮮やかな赤い衣を着て天の栄光を仰ぎ見ている。自分を殺す人々をとりなすステパノの顔は輝いて見える。こんな祈り、私だったらとてもできない。

「サムソンとライオン」-ジョルダーノ、ルカ

サムソンは旧約聖書・士師記に出てくる一人だ。サムソンは神に聖別された人でペリシテ人からイスラエルを救う使命があったが、肉体的誘惑に弱くデリラという女に自分の怪力の秘密が長い髪にあることを話してしまう。髪の毛を切られてサムソンは捕らえられ、目をつぶされ牢に入れられてしまう。しかしそこで神に悔い改めると髪の毛はまた伸び始め、もとの怪力も戻る。祝祭のとき、ペリシテ人がサムソンを嘲笑するために牢から引き出すとその怪力でペリシテ人の家の柱を引き倒して倒壊させ、多くのペリシテ人を滅ぼした。

絵の場面は、サムソンの武勇伝のひとつ。素手でライオンを倒し、引き裂くところだ。この絵は一度見たら忘れられない。それほどダイナミックな構図なのだ。絵からまるで飛び出しそうなほど全体を覆う。大きく荒々しく動きがある。すごい!としかいいようがない。

「聖トマスの懐疑」-ストメル、マティアス

なんとなくラ・トゥールの絵を彷彿させる。光と影のコントラストが美しい。

聖トマスはキリストの12使徒のひとり。この場面は新約聖書・ヨハネの福音書に出てくる。他の弟子たちが復活のキリストに出会ったとき、彼はそこにいなかった。弟子たちが口々に復活のキリストに会ったというと、トマスは「私は、その手に釘のあとを見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れて見なければ、決して信じません。」というのである。

その8日後キリストが現れ、トマスにこういわれたのだ。
「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じないものにならないで、信じるものになりなさい。」
そこでトマスは「私の主。私の神。」というのだ。
キリストはさらにこういわれた。
「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じるものは幸いです。」

トマスのような人はたくさんいるのではないか。私のその一人だった。自分が納得しなければ信じるものかと思っていたのだから。でも、信仰って実際はそうじゃなかった。

他にもたくさんのすばらしい絵画の数々だった。
美の世界を堪能させていただきました~!!

気がつかなかった・・・・すごく長くなってしまっていた。ここまで読んでくれた方ありがとう!