風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

病者の祈り

2011-01-25 22:51:34 | Weblog
この祈りは本・「心のチキンスープ」で知った。

すごく心に残る詩だった。その時の題名は無名戦士の祈りと書かれてあったような気がする。

先日、礼拝の後で、教会の老婦人が「病者の祈り」はしってる?とプリントを見せてくれた。それはこの無名戦士の祈りだったのだ。
ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩なのだそうだ。
そこで、また、再びこの詩を味わってみたくなった。


こんな祈りである。




大事を成そうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で
最も豊かに祝福されたのだ



この詩を読むと自分にもぴったりとあてはまる。

大きなことを成し遂げたいめの 力が欲しかった。
偉大なことができるように健康を求めた。  
幸せになりたいから富を求めた。
世の人々の賞賛を得たいと成功を求めた。

本当言うと今だってほしい。
 
でも私にこれらのものがすべて与えられたらどうなっていたか。

力があったら、きっと人を見下す嫌みな人間になっていたかもしれない。
病気を知らなかったら、人の痛みなんてわからなかったかもしれない。
巨万の富があったら感謝なんてしない人間だったかもしれない。
いつも賞賛を受け、成功していたら、きっと高慢で神様なんていらないといっていたかも。


>神の意にそわぬものであるにもかかわらず 
>心の中の言い表せない祈りは すべて叶えられた
>私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ

アーメン

(そのとおりのという意味)


最近感動しちゃった曲~TENEMOS ESPERANZA~

2011-01-13 22:59:07 | 音楽
アルゼンチンタンゴスタイルの讃美歌きいたことあります?

あるコミュニティで見つけたんですが、とにかくちょっとこれを聴いてみてください。


「TENEMOS ESPERAZA~だから今日希望がある」

作詞:アルゼンチンのメソジスト教会のF・J・パグーラ監督
作曲:H・ペレーラ


聴いていてなんだか泣けました。すごく泣けました。


歌詞の内容はイエス・キリストがこの世に光として来られたから、すべての人々の苦しみ・病気を担ったくださったから、すべての人の(罪の)ために死なれたから、だから私たちに今日希望があると歌っています。

サンパウロでは<路上生活者のためのメソジスト・コミュニティー>があり、路上生活者たちと共に、毎年盛大にクリスマスを祝うのだそうです。
その時に必ず歌われるのがこの賛美歌なのだそうです。



苦しみの中にあってもこんな風に力強く賛美できればいいですね。
主は賛美を住まいとしてくださいます。
だから私たちには今日希望がある。
ハレルヤ!




年の初めの神様の恵み

2011-01-05 00:14:23 | キリスト教(証)
皆さん、明けましておめでとうございます。

mixi関係ではお祈りいただいてありがとうございました。

年末、大晦日の日から、ずっと落ち着かなかったのです。
というのもダンナのおばあちゃんが亡くなったんです。

96歳でした。3日にお通夜に田舎へいくことになりました。

ダンナのおばあちゃんが亡くなったのは悲しい。ダンナはそのおばあちゃんにとっては初孫だったので思い出はたくさんあったでしょう。悲しみは人一倍あったはずです。(仏教徒とキリスト教徒の死生観は違いますが、人の死はこの世的にキリスト教徒でも悲しいです。)

悲しみと同時に、私たち夫婦にはある恐れがありました。
葬儀の時に私たちの信仰が理解してもらえるのかどうか・・・。

クリスチャンにとってお焼香、線香をあげるということは特別な意味をもちます

仏教では焼香はなくなった霊魂への供養というこですが、聖書の中で「香」は「神への捧げもの」だからです。

その意味を考えると、私たちの信仰の核心に触れる部分なので、私たちはお焼香、線香を故人にあげるということはできません。(しかし、これはクリスチャン個人、個人にゆだねられていることなのでクリスチャンでもする人はいるようです。)

だから、いつもそのような時、代わりに故人の家族の慰めのためにお祈りをしますが、それが受け入れられるとは限りません。


ダンナの母が亡くなった時、焼香をしないこと、線香をあげないことでダンナは叱責をうけ、強要されたこともあったのです。
その時は近くの教会に行って祈ってもらい、私たちの教会の牧師に祈っていただいていました。そしてまさにそんな時、ダンナの兄弟たち(ノンクリスチャン)がとりなしてくれて、焼香をしなくても気持ちは同じなのだと説得していただいてたことを後で知りました。

その時は焼香はせず、献花という形をとることでことなきを終えました。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って、召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)まさに、聖書の御言葉のとおりでした。


そんな恵みを受けていたのに、また私たちの心はまたもや揺れていました。

私たちもできるなら、みんなと同じようにしたい。そうしたら、私たちも悲しんでいることがわかるだろうか?

でも、イエス様の愛を親せきみんなに知ってもらいたい、しかし、みんなと同じようにしないことで、かたくなな印象を与えてしまい、福音につながらなのではないか?

故人や親戚に失礼なのではないか?

他のクリスチャン達で焼香する人もいるのにあなたたちはなぜしないの?と実際に言われたときの顔が浮かびます。

いろいろと考えました。


でも、何を基準に考えるのか?それはイエス・キリストです。
礼に反するということは人間を基準にしたときのこと。

だから、私たちはやはり信仰を選ぶ。
そうしてお祈りを皆様にしていただいていたわけです。





お通夜当日の朝、とても不思議な夢を見ました。

キリスト教の異端の集団の中で私は他の人々と一緒にとらわれているのですが、その集団の集会でワーシップソングを歌っているのです。
それはよく知っているワーシップソング「我らの主にむかって」でした。

しかし、イエスを主と認めないその集団は「イエスは主」の部分を歌いません。その部分だけ黙っているのです。
それまで見ていただけの私はたまらずに「イエスは主」と賛美しているのです。

そして私は解放されるという夢でした。


大晦日からずっと思い気持だった私は、神様が励ましてくださっていると思えて、とても晴れ晴れとしてその日を迎えることができたのです。

ダンナと子供たちと田舎に向かう前に祈り、この夢に出てきた「我らの主に向かって」を賛美し、出発しました。

私はお通夜式にだけ参加し、旦那は2日続けて告別式まで参加しました。

施主の叔父がとても小さく見え、なんだかかわいそうに思い、涙がでました。
どちらの式も私たちがお焼香をあげることはありませんでしたが、親戚の方々は理解していただいたようです。
穏やかに、和やかにお式も、そのあとの会食も終えることができました。皆さんに嫌な思いをさせなかっただろうかと最後まで気がかりでしたが、親戚の皆さんにも、祈ってくださった皆さんに感謝しています!

皆さん、本当にありがとう!!

そして神様、主イエスよ、ありがとう!!