父の戦争体験記が出てきました。少年だった頃、軍事工場で働いていた時のことが書かれています。20年前に地元の小学校の子供達に戦争体験を話して欲しいとお願いされた時の原稿です。平和がゆるがされ、今の不穏な情勢を亡き父はどう思うだろう。
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昭和17年北海道士別市から東京蒲田の興亜工業と言う軍事工場に入りました。飛行機の機関砲の弾丸一日4百個、朝8時から夕方5時まで、ご飯どんぶり一杯です。
戦争が始まりまして約10ヶ月位で日本は不利になったのです。だんだん戦争が不利になりますと食料が足りなくなります。ご飯も底の方に三はり位その上は豆粕です。それでも1ヶ月に1回くらいはお茶飲み会と言うのがありました。決められた食事では足りないのです。それで少ない金でサツマイモを買いましてよく生で食べました。
昭和20年3月9日本所深川大空襲、あの時は、B29、350機位、焼夷弾爆弾が夜空を真っ赤に染めていました。丁度私達は蒲田におりました。
そして4月15日、今度は蒲田が空襲されまして、私達は着の身着のまま羽田飛行場の側にあります森ケ崎高射砲陣地に行ったのです。
その空襲の最中に赤ちゃん産んだ女性もいたのです。人間の自然の力と言うものは本当に強いものだと知りました。
鉄板の焼けたのが赤くなって飛んできます。私達はただ地面に頭をつけておりました。
B29が焼夷弾を落とす時は大きな入れ物の中に焼夷弾35本入っております。途中で分解します。焼夷弾は長さ約35センチあります。その先に布が2本くらいついております。分解した時その先に火がつきます。だんだん燃えて管の中の油に火がついて中の油はこんにゃくのような油でぐらぐらに。だから家に落ちた時は火力で燃え上がります。焼夷弾1本あれば家庭のお風呂がたけたのです。
B29飛んで来て落ちる時もあります。夜ですと低空で5000メートル位で、たまに高射砲の弾丸があたりますと真赤な炎の塊となって落ちて行きます。
米軍の飛行機は先進国ですから非常に性能がいいので高度12,000メートルも飛んでいるのでは日本の高射砲ではあたりません。みんな下でバンと音がしておりました。私のいた蒲田も一夜明けますとまわりは焼け野原でした。どこをどう帰ったか4、5人で帰ったのですが、不思議にもまったくそのままでありました。
第二回目の空襲はもっとすごい大空襲でした。B29、100機、艦載機500機、波状攻撃して来るのです。
その頃の米軍はサイパン諸島にいたのです。航空母艦に帰っては爆弾積んで日本に行って落として、また帰ってまた爆弾を積んでその繰り返しです。ちょうど寄せては返す波みたいなものです。
飛行機と爆弾の落とした煙、焼夷弾の燃える煙、空は真っ黒、どこをどう見ても夜のようなくらい感じでした。
私の側に焼夷弾が落ちたことがありました。不発弾でした。中でジンジンという音がしておりました。まさに屁っ放り腰ということでしょう。軍手をはめその上にボロ(軍)手をはめて投げました。いや本当に怖かったのです。私達の寮も焼けました。寮の側に川があります。6メートル位の幅なのですが、その中を丸太のように死人が流れて行くのです。
そしてこの戦争のために数え切れない多くの人命が失われ、ありとあらゆる人類遺産が破壊されたのです。グアム島戦死者2万1000名あまり、サイパン島玉砕で戦死者4万3千余り。食料も本土から輸送船が途中で米軍のために米、水、その他のものが沈んで行ったのです。飲むに水なく、食べるに食なく、カタツムリや草の根を食べていったのです。
私もサツマイモを生で食べたり、えびがに(ザリガニ)を食べたり、お米を生で食べたり、その私達は蒲田で食べるものも無いので、皆さん成田山ご存知ですね、そこに行きますとまだ食べ物がありました。サツマイモの団子つまり芋団子ですね。えびがに(ザリガニ)の茹でたのもです。それはたまに行って食べるのが本当に楽しかったです。
今でも50年前が昨日のように思い出されますが、京浜蒲田という駅です。そこは死人の山でした。その臭いが鼻について離れませんでした。私はしばらく山梨に疎開しました。東京と山梨に連絡員がおりましたがP51という小型飛行機にやられました。
戦争が終わって東京に帰っても、たまに米軍の飛行機が飛んでくると先入観でまた撃たれるのではと思わず腰をかがめたものでした。でも白人の飛行士は手を振って行くのです。
いよいよ田舎に帰ることになりました。9月3日間かかって北海道に帰りました。家に着きますと母親も父親もただびっくりしておりました。私が仏さんになっておりました。ご飯をたくさん食べた時の幸せ、今でも思い出します。
これからは皆さんの時代です。一生懸命勉強して良く遊び、身体をつくり、悔いの無い人生、また、素晴らしい人生を作り上げてください。
皆さんの貴重な時間を頂きまして本当にありがとうございました。