畑澤聖悟さんという現役教師が描いた「親の顔が見てみたい」という劇を見たことがある。私はこの劇を見る前、勝手にコミカルな劇かなぁと想像して楽しみにしていたのだが…楽しい演劇への期待は無残にも打ち砕かれた。これがとても重いテーマだったのだ。
しかし、たった一度見ただけなのにその劇は鮮明に頭の中に残っている。それだけ引き込まれる物語だった。
テーマは「いじめ」。いじめた側の子どもたちの親が必死にその罪を隠そうとする様子が描かれている。
私立女子中学校の会議室が舞台になっている。
ある日数人の保護者たちが会議室に集められる。
聞けばある女子中学生が自殺をしたという。自分たちには全く関係がないと思っていた保護者達はそこで自分たちの娘がいじめの加害者だということを聞かされるのだ。自殺をした生徒の遺書に加害者のクラスメートの名前が書かれていたからだった。
バックグラウンドが全く違うそれぞれの親たちだが、必死に子どもをかばおうとする。いじめをなかったことにしたかった彼らだったが自殺した生徒のまわりの人たちが次々事実を明るみにしていく。そのいじめのひどいことといったら!事実を認めない親、知っていた親、事実を知って隠蔽しようとする親。現場の教師は対応に戸惑うばかり。。。
現実に起こり得る話。とても演劇の物語の世界とは思えない。
事実、今も大津市のいじめの問題、北本市のいじめの問題がニュースで毎日のように取り上げられている。このニュースを聞くたびにこの劇を思い出していた。教育委員会は自殺の練習をさせられていたことを隠し、北本市の事件でも裁判所も自殺といじめの因果関係をみとめず、学校側の怠慢もみとめない。
いやだな毎日こんなニュース、やるせなくなってくる。
私も中学生の時いじめを受けたことがある。言葉によるいじめ、あるいはクラス中からの無視。いじめの首謀者たちが陰で「自殺すればいいのに」と言っていたのを聞いてしまったことがある。悔しかったから「思い通りになってやるもんか!」と学校は一度も休まなかった。休み時間は誰とも話さず、本を読んで過ごした。何か嫌なことを言われても無視を通した。
心配した母が担任に相談した。「どうしてなんでしょうかねぇ」だけだった。その後担任はクラス全員にアンケートを書かせた。私は書くのをためらった。書くのにためらってけれど、やっと書き始めたころに時間切れになってしまい、いじめられていますとまでかけなかった。が何か悩んでいることぐらいはその文章の途中までよめば先生はわかってくれるだろうかと少し期待したが、助けてはくれなかった。教師なんてそんなものだなとあきらめた。私の場合はまだ言葉や態度によるものだからなんとかなったのかもしれない。
そしてもう一つ、私はいじめに加担してしまったこともあるのだ。いじめられたことがどんなに嫌なものだったかわかっているのに。
その子は私が小学校の頃から仲良くしていた子だった。何が原因だったのか、たぶん私の心の中に誰からも好かれる彼女へのねたみがあったのかもしれない。誰かが彼女の悪口を言った。「あの子はこういうところがあるよね」陰でひそひそ話。くすくす笑う。それに私はおろかにも乗ってしまったのだ。その時の変な一体感がなにか妙に心地よかった。
でもさすがに罪悪感が付きまとった。馬鹿らしくなりほどなくしてやめた。そして自分も加害者になり得るのだと痛感した。私は友達を裏切った最低の人間。
しかし、この後、幸運にも彼女とはまた仲よくすることができた。私に普通に接してくれて、赦してくれた彼女にはとても感謝している。今もいい友人、いや、こんな私が友人とよんでいいのかな・・・・?ありがとう、あの時は本当にごめんなさい!
それから何年もたって結婚し、子供ができて、今度は子供のいじめで悩んだ。子どもには発達障害があったから、その言動が理解されず、みなと一緒のことができないことがいじめの原因になっていた。それはアメリカの日本語補習校に行ってた頃、帰ってきて気づいたことは彼のバックパックに無数の足跡が付いていたこと。そして帰国して通学していた地元中学でも障害児という意味で「ガイジ」とからかわれた。ノートが破られた。机が所定の位置から隅のほうへ追いやられる。そんなことが続いたから地元の学校へはいかせず、フリースクールで学ばせた。
これは余談だけど、もちろんアメリカの学校でも彼をよく思わない生徒はいたらしい。ちらほらとそんなことを聞いたので先生に相談するとそれが発達障害によるものだということ先生自ら特別授業という形で生徒らに説明してくれた。お互いに理解しあうべきであるという先生の配慮だった。
なんだろうな、この違い。少なくともアメリカの教師たちは問題をそのままにはしない。それにスクールカウンセラーが常駐している。また、困ったとき助けを求めることを最初からおしえられていたから、子どもはいつでも助けを呼びやすい環境にあるのかもしれない。(これは私が住んでいた街の話だけれど。)
いじめをしている人は気づいてくれ。自分の心の中の汚さに。人をいじめる人たちの一体感なんてまやかしのもの。人を悲しませるな、悪いことに加担するな。人の心も自分の心も傷つけることになる。いじめを正当化するな!
いじめられている人は我慢なんてしないで。親に、先生に、まわりのだれでもいい信頼できる大人に相談して。誰が何と言おうとあなたを作られた神様が「あなたは高価で尊い。」と言っているのだから自分を大切にしてほしい。
生きろ!そんな奴らのために命をすてるな!あなたの世界は学校だけじゃない。あなたが安心して学べるところが一番の学び舎。
今日もテレビでこの話題。テレビ番組で紹介された教師の意見は「いじめはなくならないと思う」だった。それはそうだろう思うけど、ひどくならないように食い止めることはできる。いじめはあったと認めることもできる。そこをなんとかするのも教育じゃないのか。
もう「いじめは難しい問題だから」でかたづけられない。
しかし、たった一度見ただけなのにその劇は鮮明に頭の中に残っている。それだけ引き込まれる物語だった。
テーマは「いじめ」。いじめた側の子どもたちの親が必死にその罪を隠そうとする様子が描かれている。
私立女子中学校の会議室が舞台になっている。
ある日数人の保護者たちが会議室に集められる。
聞けばある女子中学生が自殺をしたという。自分たちには全く関係がないと思っていた保護者達はそこで自分たちの娘がいじめの加害者だということを聞かされるのだ。自殺をした生徒の遺書に加害者のクラスメートの名前が書かれていたからだった。
バックグラウンドが全く違うそれぞれの親たちだが、必死に子どもをかばおうとする。いじめをなかったことにしたかった彼らだったが自殺した生徒のまわりの人たちが次々事実を明るみにしていく。そのいじめのひどいことといったら!事実を認めない親、知っていた親、事実を知って隠蔽しようとする親。現場の教師は対応に戸惑うばかり。。。
現実に起こり得る話。とても演劇の物語の世界とは思えない。
事実、今も大津市のいじめの問題、北本市のいじめの問題がニュースで毎日のように取り上げられている。このニュースを聞くたびにこの劇を思い出していた。教育委員会は自殺の練習をさせられていたことを隠し、北本市の事件でも裁判所も自殺といじめの因果関係をみとめず、学校側の怠慢もみとめない。
いやだな毎日こんなニュース、やるせなくなってくる。
私も中学生の時いじめを受けたことがある。言葉によるいじめ、あるいはクラス中からの無視。いじめの首謀者たちが陰で「自殺すればいいのに」と言っていたのを聞いてしまったことがある。悔しかったから「思い通りになってやるもんか!」と学校は一度も休まなかった。休み時間は誰とも話さず、本を読んで過ごした。何か嫌なことを言われても無視を通した。
心配した母が担任に相談した。「どうしてなんでしょうかねぇ」だけだった。その後担任はクラス全員にアンケートを書かせた。私は書くのをためらった。書くのにためらってけれど、やっと書き始めたころに時間切れになってしまい、いじめられていますとまでかけなかった。が何か悩んでいることぐらいはその文章の途中までよめば先生はわかってくれるだろうかと少し期待したが、助けてはくれなかった。教師なんてそんなものだなとあきらめた。私の場合はまだ言葉や態度によるものだからなんとかなったのかもしれない。
そしてもう一つ、私はいじめに加担してしまったこともあるのだ。いじめられたことがどんなに嫌なものだったかわかっているのに。
その子は私が小学校の頃から仲良くしていた子だった。何が原因だったのか、たぶん私の心の中に誰からも好かれる彼女へのねたみがあったのかもしれない。誰かが彼女の悪口を言った。「あの子はこういうところがあるよね」陰でひそひそ話。くすくす笑う。それに私はおろかにも乗ってしまったのだ。その時の変な一体感がなにか妙に心地よかった。
でもさすがに罪悪感が付きまとった。馬鹿らしくなりほどなくしてやめた。そして自分も加害者になり得るのだと痛感した。私は友達を裏切った最低の人間。
しかし、この後、幸運にも彼女とはまた仲よくすることができた。私に普通に接してくれて、赦してくれた彼女にはとても感謝している。今もいい友人、いや、こんな私が友人とよんでいいのかな・・・・?ありがとう、あの時は本当にごめんなさい!
それから何年もたって結婚し、子供ができて、今度は子供のいじめで悩んだ。子どもには発達障害があったから、その言動が理解されず、みなと一緒のことができないことがいじめの原因になっていた。それはアメリカの日本語補習校に行ってた頃、帰ってきて気づいたことは彼のバックパックに無数の足跡が付いていたこと。そして帰国して通学していた地元中学でも障害児という意味で「ガイジ」とからかわれた。ノートが破られた。机が所定の位置から隅のほうへ追いやられる。そんなことが続いたから地元の学校へはいかせず、フリースクールで学ばせた。
これは余談だけど、もちろんアメリカの学校でも彼をよく思わない生徒はいたらしい。ちらほらとそんなことを聞いたので先生に相談するとそれが発達障害によるものだということ先生自ら特別授業という形で生徒らに説明してくれた。お互いに理解しあうべきであるという先生の配慮だった。
なんだろうな、この違い。少なくともアメリカの教師たちは問題をそのままにはしない。それにスクールカウンセラーが常駐している。また、困ったとき助けを求めることを最初からおしえられていたから、子どもはいつでも助けを呼びやすい環境にあるのかもしれない。(これは私が住んでいた街の話だけれど。)
いじめをしている人は気づいてくれ。自分の心の中の汚さに。人をいじめる人たちの一体感なんてまやかしのもの。人を悲しませるな、悪いことに加担するな。人の心も自分の心も傷つけることになる。いじめを正当化するな!
いじめられている人は我慢なんてしないで。親に、先生に、まわりのだれでもいい信頼できる大人に相談して。誰が何と言おうとあなたを作られた神様が「あなたは高価で尊い。」と言っているのだから自分を大切にしてほしい。
生きろ!そんな奴らのために命をすてるな!あなたの世界は学校だけじゃない。あなたが安心して学べるところが一番の学び舎。
今日もテレビでこの話題。テレビ番組で紹介された教師の意見は「いじめはなくならないと思う」だった。それはそうだろう思うけど、ひどくならないように食い止めることはできる。いじめはあったと認めることもできる。そこをなんとかするのも教育じゃないのか。
もう「いじめは難しい問題だから」でかたづけられない。