続きだよ。旅行記最終回。
もう次の日に帰るのでなるべく長崎観光をしたい!ということで、オランダ坂から出島にやってきた。
出島の建物が再現されていて当時の貿易や文化が学べる。
出島の入り口。当時の格好をした門番がいる。(≧∇≦)
当時の出島の再現ジオラマ。
ここから西洋文化や医学などが入ってきたんだね。
日本最古のプロテスタント(聖公会)の神学校、旧出島神学校。
この建物だけは江戸時代ではなくキリスト教が解禁になった明治時代に建てられたんだって。
カピタン部屋。出島商館長の住居兼事務所であり、日本の賓客が出島を訪れた際の接待の場所として使われた。
和洋折衷な一番船船頭部屋。外国人が使っただろうベッドが置いてあった。でも、そのわりになんだか小さかった。子供用?と思えるくらい。これは当時襲撃に備えて横になって寝ていたとか、冬は寒いので習慣で丸まって寝ていたとか説がある。
出島を後にし、とうとうこの旅行の最後の観光地にきた。
日本二十六聖人殉教の地。下の写真は記念碑「昇天の祈り」
もう、夕暮れ。もっと早くくればよかった。資料館はとっくに閉まっていた。26聖人の事は父の歴史の本や学校の教科書で知っていた。処刑される絵が載っていて子ども心に恐ろしかったことを覚えている。
実際のこの地に立ってみて、言いようのない気持ちになった。信仰を守ったこの26聖人を見てやっぱり涙が出てくるのだった。
キリストを救い主として信じていたから、洗礼名が付いていたから、たったそれだけで捕縛され、拷問され、冬の寒い中、裸足で京都から長崎まで歩かされ、長崎まで連れてこられて磔にされ、槍で貫かれ殺されてしまった。
最年少のルドビコ茨木は12歳だった。(ルドビコを含め子供は3人)、改宗を求められても応じなかった。なんと強い信仰だろう。でもあまりにも悲しい。
私達夫婦の他に外国人が3人ほどいた。彼らはこのレリーフを見て、何を感じただろうか?
「人若しわれに従はんと欲せば己を捨て十字架をとりて我に従ふべし。」
この言葉はマルコの福音書8章34節にある。現代語訳(新改訳)の文も紹介しておこう。
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」
とても静かだ。422年前、この地で恐ろしいことが起こったなどととても考えられないくらい穏やかだ。
資料館と記念碑の背後に建っている聖フィリッポ西坂教会。
実は最初に訪れた大浦天主堂はこの日本二十六聖人殉教の地に向けて建てられている。
そう、大浦天主堂は殉教した二十六聖人に捧げられた教会なのだ。
大浦天主堂の正式名称は日本二十六聖殉教者天主堂。
今回の旅では信仰について色々と考えさせられた。一人一人が聖書もない時代、口頭でイエス・キリストの福音を聞いた当時の人たちが禁教令の中にあって命を落としてまでも信仰をまもった。殉教しなかった人たちも、その後潜伏して家族に代々伝え250年間信仰を継承した事は物凄いことだ。
自分がその立場であったら信仰を守り通せただろうか?
今は信仰の自由がある、自分の聖書を持つことができる、集うことのできる教会がある、そこで牧師先生(プロテスタントの場合)を通して神様からのメッセージを聞くことができる。信徒どうしの交流もできる。自由意志が与えられている。これらは全て恵み。
私たちの信仰の自由は、当時命がけで信仰を宣べ伝えて殉教したの方々の尊い犠牲の上にある。信仰が許されること、礼拝ができることが当たり前ではないのだとそんなふうに思った。
そして、ここまでキリシタンを弾圧に駆り立てたものはなんなんだろう。
弾圧した側を悪魔のように思ってしまうけど、きっかけは知らない事柄への警戒心とか権力欲とか自分の思い通りにならないことへの怒りとか…そんなことがエスカレートしたのではないだろうか。
自分と違う価値観をもった人や違う事をするとその人を排除しようとする心、それは私達の心にもある。悪魔に心を奪われないように主イエス様にしっかり目を向けていたいと思う。
今回の旅では、特に長崎・五島列島では、自分の信仰を省みる良い機会になった。こんな機会をくださった神様に感謝します。連れていってくれたパパにも感謝!
旅行記を最後まで読んでくれた方々、ありがとうございました!😊