感動した作品がおおすぎる!たくさんの作品のレビューを書きたいのだけど、無理だな。
それではつづきを・・・・。
「ゴリアテの首を持つダヴィデ」ヤコプ・ファン・オーストI世
あどけない少年ダヴィデ(のちのダヴィデ王)がペリシテ軍の巨人ゴリアテの首を持っている図。
どんな場面を描いているのか?
これは旧約聖書の第一サムエル記17章の場面。
ゴリアテはペリシテ人軍の代表戦士として登場する。背の高さが3mに達するかと思われるほどの巨人であり、50kgをこえる鎧で完全武装していたというその戦士に少年ダヴィデが戦いに挑む。巨人と、かたや羊飼いであり、音楽療法士として王に召し抱えられていた少年。
ダヴィデは羊飼いの持ち物の石投げと石をもって立ち向かった。石投げで投げた一つの石がゴリアテの額に命中、石は額に食い込みゴリアテは倒れた。そしてゴリアテの剣でもってとどめを刺して、首をはねた。
この場面は信仰による勝利を描いている。ドラマティックなこの主題を描いている画家は多い。カラヴァチォ(3作品も!)、ティッツィアーノ、ミケランジェロ、グエルチーノ、グレド・レーニ、ストロッツィ、などなど。比較して鑑賞するのもいいけど、やっぱり恐ろしい絵だな・・・。
「牛飼いの女」ヤン・シビレヒツ
あつい夏の午後なのか、牛を放牧している牛飼いの女が木の根元に座り休んで汗を拭いているのどかな風景。こういう日常生活が垣間見える風景画はいいな。じつにのどか。
「農婦と猫」ダーフィト・ライカールト3世
農婦のおばあちゃんが猫にご飯を食べさせようとしている。まるで猫を赤ちゃんのように「おくるみ」に来るんで、その顔はとても愛情にあふれた優しく微笑んでいる顔。でも猫は身動きがとれなくて迷惑そう。。。その迷惑そうな表情がとてもいい。。。
「ヤコブに長子の権利を売るエサウ」マティアス・ストーマー
これも旧約聖書(創世記25章の話)。
長子の権利とは親から受け継がれる神様からの祝福。ある日狩りから帰ってきたエサウは空腹から、双子の弟のヤコブが作っていた豆の煮ものがほしいために、「今すぐ長子の権利を私に売りなさい」というヤコブの言葉にのって誓いを立て長子の権利を売ってしまうのである。ほんの一時の空腹のために神の祝福を軽蔑したのだ。
この絵にはヤコブ、エサウ、彼らの母親のリベカが描かれている。兄弟が前面にほのかなろうそくの光によって顔が照らされている中、リベカはヤコブのそば、それも奥のほうに描かれ、薄暗い中にリベカの顔が浮かんでいる。この場面ではただの兄弟の口約束にすぎなかったのだが、この話の後半はヤコブを偏愛するリベカがヤコブに入れ知恵をして兄のエサウから本当に神の祝福をだまし取ることになるのだ。
だからこの絵の暗闇の中のリベカはヤコブの影で祝福を奪い取るようにまるでヤコブを操っているように実にその表情が興味深い。
「パレルモ港の入り口、月夜」クロード=ジョゼフ・ヴェルネ
夜のパレルモ港の風景。夜の海に満月が雲の切れ目から顔を出し、大きな帆船のシルエットを浮かび上がらせてる。右下のほうには船を待つ人々だろうか、たき火をしてその光にうす暗くぼんやりと人々の様子がわかる。暗い色調なのに美しい絵だ。パレルモ港があるのはシチリア島。ああ、行ってみたい。
「エカテリーナ2世の肖像」リチャード・ブロンプトン
絹のような髪の毛、澄んだ青い瞳、バラ色の頬、美しさと威厳に満ちた肖像画。
エカテリーナ2世の文化戦略のひとつが、積極的な美術品の収集だった。ロシアの財力と文化水準をヨーロッパ諸国に誇示するために海外から多数の美術品を購入し、宮殿内の美術ギャラリーに展示し、それがエルミタージュ美術館の礎となるのである。
「死の天使」オラース・ヴェルネ
ベッドの傍らに祈る人がいる。壁にキリストの肖像画、机の上には聖書。美しい白い服の女性(少女?)が天上を指さし、黒い天使に支えられて今まさに天に召されようとしている。女性の顔は白く輝き、穏やかな顔をしている。とても美しい絵なんだけど・・・。
天の御国に帰るのだから穏やかな顔をしているのはわかるのだが、なんで天使を黒くしてしまったのか。この天使、天使というよりは死神に見える。まるでハリーポッターに出てくるデス・イーターのように不気味。本当に天国につれって行っていってくれるの?と思ってしまった。どうせならその女性のような美しい天使がいいと思うのだが…。この作品はヴェルネ自身の娘の死が影響されているという。
「廃墟(内なる声)」ジェイムス・ティソ
実はこの作品が一番心に残った作品。この絵を見たとき涙がでてきた。
廃墟のがれきの中で疲れている農民夫婦。荷物が前方にあるのは彼らが巡礼者だから。行き場がない人たちのようにも見える。その一人によりかかるように寄り添う傷だらけのキリスト。茨の冠をかぶり、悲惨なまでに傷だらけのキリスト。瀕死の状態のようにも見える。それはグリューネヴァルトのイーゼンハイムの教会に掲げられていた祭壇画の磔刑のキリストの絵をほうふつとさせる。キリストの衣にはアダムとエヴァの原罪、ユダの接吻の場面が描かれている。
キリストはいつも弱い者とともにおられる、友なき人の友であり、行き場のない人、迷える人を導かれる。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。」と言われ、暗闇の中に光をもたらし、恐れがあるとき、いつも「恐れるな私はあなたと共にいる」といわれる方なのだ。
衣にアダムとエヴァの原罪とユダの接吻が描かれていたが、罪ある私たちをそのまま愛し、赦してくださる、またユダのように裏切っても悔い改めれば赦してくださる深い愛の神ということを描きたかったのだろうか。
この作品は1885年パリのゼードルマイヤー画廊に出品した《パリの女・15点シリーズ》の最後の作品《聖なる音楽》(所在不明)を制作中に,サン・シュルピス寺院のミサで,キリストの聖霊が現れたのを目にし、その神秘的な経験によって彼は《内なる声(廃墟)》を描いた。以後,ティソは世俗の主題から離れ,《キリストの生涯》の挿絵を描くことを決心した(ただし依頼された肖像画は例外)という。
きっとイエス・キリストを知らない人がこれを見たら気持ちが悪いと思うかもしれないが、この絵は何を意味してるのと思うかもしれないが、クリスチャンの私にとっては涙がでるほど心が揺さぶられる絵だったのだ。
大エルミタージュ美術館展!よかったよ!