風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

梅永雄二先生、佐々木正美先生の講演会に行ってきたよ。

2010-10-05 07:44:31 | 発達障害・アスペルガー症候群
先日の星槎教育研究所主催の講演会は良かったなぁ。梅永雄二先生も佐々木正美先生もめったにきけるもんじゃない。

梅永先生は臨床心理士で特別支援教育士スーパーバイザーで専門は発達障害者の就労支援である。
佐々木先生はとても著名な児童精神科医である。

土曜日はお昼をまたいで一日、著名な、お2人のそれぞれの専門分野から環境調整の視点からの支援の在り方を勉強させていただいた。


就労における発達障害者の課題はまさに長男そのもの。

学習障害、注意欠陥多動性障害、アスペルガー症候群・高機能自閉症の3つから就労に関してのそれぞれの問題点があげてあった。

長男の場合、書くことがうまくできない学習障害(LD)があり、注意に問題があるADHDである。だからメモがとれなかったリ、指示が入らないとかやることを忘れてしまうとか問題をようやく出来ないとかの問題がある。またアスペルガー症候群という障害が一番彼の障害をしめているのでコミュニケーション能力に問題があり、相手にどう伝えたらいいのかわからないとか、不必要なことをしゃべるとか、特定のこだわりとか社会性がうまくいかないなどが考えられる。


実際仕事を辞めた理由というところではまさに長男が言っていたことが挙げられていた。

・仕事がつまらなかった。
・自分のペースではたらけなかった。
・自分に合わない仕事だった。
・期待にこたえようとがんばったが、疲れた。

などなど。

一番大切なのはマッチング。その子供の特性と仕事があっているか。

長男が好きな分野、強い分野は植物や自然の中の生き物。専門学校に入ってからは森林保護の勉強をしていたのでてっきり林業かレンジャーかと思ったんだが、そうではなくてビオトープ管理士だった。

しかし、この手の求人は少ない。長男も管理士認定の試験で受かるまで就職が考えられないみたいなのだ。何でも手順を踏まないと気が済まない。あたりまえのことだけど。

ビオトープがやりたいなら造園業だ。そういうところで働きながら資格を取るってことは頭にないらしい。今までなぜ物流のバイトだったのかわけがわからない。私がいろいろアドヴァイスしてもうるさがって「強制されてやるのはいやなんだよ!」である。

バイトを2日でやめて自分にはあわないと判断したようだ。事実合わなかったんだろうと思う。

でも親としてはもうちょっと頑張れないのかとちょっとがっかりしてしまった。これからの自立だとか、このご時世にバイトに受かっただけでもいいのにとちょっと怒っちゃった。。。「おまえは甘すぎる!お母さん安心させてよ」って。

お金の大切さとかくどくど説教してしまったんだ。


でもこうやって障害の特性を理解せずに責めたりすると、家族も分かってくれないと引きこもってしまう原因になるのだそうだ。それが家の中だけではなく、家族に会いたくないから外でぶらぶらしだすと犯罪に巻き込まれるとか。

私には耳の痛い話だった。まさに同じことやってるんだもの。理解しようと思ってはいても、長男は見るからに普段は障害を感じさせない。時々これくらいの事ならできるのではなんて思ってしまうのだ。

また、佐々木先生の言われる「自閉症の人が自閉症のまま幸福に生きる。」という社会が出来上がれば本当にすばらしい。

でも悲しいかな、今の日本ではどこまでそれができるんだろう。障害があるとカミングアウトするだけでいじめがはじまったりするんだもの。

普通に健常者と言われている人達は自閉症なんて言葉があってもどれだけの人がそれを知ろうと思うだろうか。
どれだけの人が理解し、サポートしようと思うのだろうか。

アメリカでは一般の人がスペシャルニーズということをよく理解しようとしていた。そしてサポートがあたりまえにあったのだ。
日本に帰ってから、私の価値観も覆ってしまった。この子はこの子でいいんだ。守ってやらなきゃとおもっていたのに、いつの間にか「いずれ社会に出るんだから一般社会のやり方にあわせるように教育しなければ」とふと考えていることに気がつく。。

講演会ではお2人の対談もあり、本当に自閉症スペクトラムやADHD,LDの子供たちへの温かいまなざしが判った。お2人ともSSTは発達障害者ではなくその周りの人に必要という。お2人が言うように社会の人みんなが発達障害の特性とニーズを学び、理解があればいいのにと思う。

その反面、理解して、支援することが甘やかすことにもつながらないか?とも思う。ちょうどにそれに似たような質問が出た時、佐々木先生がいった。「この子たちは誠実で、努力家です。私は今までこの子達とかかわってきて堕落してしまった子なんていません。」

そうなんだ、いい子なんだ。本当に。長男を信じて待つしかないだろうな。



長男はやっとビオトープ管理士の勉強を始めたところだ。バイトはまたまた先になりそう。。。

Down to Worship 賛美集会

2010-10-04 00:32:46 | キリスト教(証)
9月からまた、Down To Worship賛美集会に参加している。


前記事でこの集会のご案内をした7月31日(土曜)お茶の水クリスチャンセンター8Fで開かれたDown to Worshipの賛美礼拝。

この賛美集会についていつも記事を書きたいとおもっていた。でも、賛美集会について私が抱いている思いが伝わるのだろうかと思ってなかなか書けなかった。どう表現していいかわからないのだ。この思いがみなさんに伝わったらいいな。

それほどこの集会はすばらしかったから。

面白いことに先日集まった賛美仲間が全く私と同じ思いを抱いていた。
どう表現していいかわからないけど・・・・とにかく素晴らしかった。賛美バンドも会衆も一体となって賛美をささげていた、何かとても温かいものが流れていたと・・・。みんな私と同じ思いをもっていたのだ。




去年の9月からこの集会が始まり、つどっている教会も、教派も、国籍も違う賛美者たちがともに集まり、ともに賛美し、神様から出る賛美について考えてきた。

「賛美は捧げるのではなく、受ける。それは神様のものだから。主の導きで集まったみんなで主の十字架に共にくだりたい。弱さをかかえ、苦しみがある場所。人の呻きがある、その場所から始まる賛美がある」

One Musicのmotoさん、逃れの町ミニストリーの穣さんがそんな思いから始めた集会だった。このお2人からお誘い受けた時、私は賛美についてとても悩んでいたのだ。

牧師との賛美の見解の違い。フェルマータに対する音楽的理解の違い。

でも何もしなくても見事に一つでもあるかのように一致する賛美があるのだ。だから曲によってフェルマータを伸ばす伸ばさないなどと決めるのはおかしい。

私はストレートに物を言ってしまうたちである。おかしいことはおかしいと。それによって少なからず軋轢が生じた。過去ログ「ダブルパンチ」はその時の話し合いの一部。

賛美は私たちがプロデュースするものではなく神様のなされるものだ。

思いは同じなのになんでこんなにこじれてしまうのか。

こだわりと自我の強い人と思われてしまったようだ。執事会でも結構激しく言ってしまったので高慢な人だと思われたかもしれない。そして、結局この件に関して私は何も言えなくなった。



しかし、賛美の学びをしているうちに気がついたこと、それは最高の賛美を神様に「ささげたい」という思いが日に日に強くなりすぎ、「私中心」の賛美になっていたのではないかと感じ始めた。

「7月に賛美礼拝を」という話があり、2つの賛美バンドができた。

その頃、私は自分勝手で、人を愛せない、許せないという罪を示されており、こんなものが賛美なんかできないんじゃないかとおもっていたんだ。そしてそのバンドに入って賛美することはできないと思っていた。

私は譜面を見て主旋律を奏でる事があっても自分でアレンジして奏でるということはなかったからそんなことはとてもできないと思っていたのだ。それも周りの方々は皆すごい方ばかりなのだ。自信がなかった。

断るつもりだったのに、集会に行かないつもりだったのに、この集会にはいつもすがるような思いで、なんといっていいかわからないけど行かずにおられないという思いから集会にいき、そこでフルートをもって参加していた。

祈っていた。心の中で。神様、メロディーを与えてください。他の人と調和するような決して邪魔にならないメロディーを。

バンド練習の時、自然とメロディーがでてきたのだ。



そんな風に練習の時はすぎ、本番のとき。


バンドのメンバーは、ギターは韓国人のK君、ボーカルは美しい声のKさん、凄腕のピアニスト,Jさん、
バーカッションはmotoさん、フルートの私。

曲:「おそれなく近寄れ」
  「主は導きをもって」
  「勝利を望み」(原題~We shall over come~この曲はアメリカの公民権運動の時に歌われた賛美歌。私が辛い時この曲に励まされたんだ。)

本番はいつもある震えが全く出ず、落ち着いて吹くことができた、

この時のことはなんと表したらいいだろう。

温かいものが心の中、この空間をながれる。会衆とバンドは一つになって賛美をささげていた。これは自己満足とかでは決してないし、集団の心理による陶酔でもない。

賛美の中に主は住まわれるという。確かに主の臨在がそこにあったのだ。

もうひとつの賛美チームも同じだ。何一つ自分の力でできたことなどそこにはなかったのだ。

それは私たちが捧げるのではなく主から受けた賛美だったのだ。


すばらしい。本当にただそれだけ。