風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

善き隣り人になってともに生きよう

2007-07-29 16:08:54 | キリスト教(行事、他)
この頃、隣り人について考えさせられている。
記事のタイトルは今日の宣教のタイトルだ。とても祝福された礼拝だったのでそのお話をシェアしたい。

今日の礼拝は特別礼拝で日本国際飢餓対策機構特命大使の方のお話を聞くことができた。今日の聖書箇所は以前にだれが善き隣人なのかという記事の中で紹介した「善いサマリア人」の箇所だった。

主なお話はエチオピアでの食糧支援だった。子ども達が集まってしゃがみこみ何かをしている。遊んでいると思ったら小さな小石を飢えを満たすために食べていたそうだ。食料が不足している発展途上国では1分に17人が飢餓で死んでいる。

そしてとりわけ心を打ったのはゴンダールでの支援の時の話だった。この大使の体験したこの話をもとに「ゴンダールのやさしい光」という絵本ができた。

文は みなみ ななみ、絵は 葉 祥明。

この絵本は全国学校図書館協議会選定都書になっていて、絵本の収益の一部は国際NGO・日本国際飢餓対策機構の活動を通じて世界の飢餓に苦しむ人々のために使われる。もし興味がある方は読んでみてほしい。

大使がゴンダールで食料を配給している時のことぼろぼろの服を着た女の子やってきた。話をきけば4千m級の山を超えて3日間のまず食わずでやってきたのだという。父親は餓死し、母親は栄養失調のため失明した。ゴンダールというところに行けば食べ物をもらえるときいてやってきたのだった。何とかしてあげたいと1人1袋ずつといわれている粉ミルクととうもろこしの粉をあげようとした時、兵士がやってきてライフルの先でその子ども達を突き飛ばしたという。「これはゴンダールの人々の物だ!」といって。子どもは怖がって逃げていってしまった。

兵士がいなくなってからその子たちを探したが見つからない。夜の寒さの中でどうしているんだろうと安じながら次の朝を待って探したら、在る人の家で一晩とまらせてもらったということがわかった。さっそく会いに出かけた。その家のぼろぼろの服をきたおじさんが、笑顔で答えた。みんなと夕食を食べてぐっすり眠っていたよと。そしておじさんに食料をわけてもらって今朝早く村へ帰って言ったということだった。

それを聞いて大使はショックを覚えた。
1人一袋ずづの少ない食料、それがなくなればこの家のものは餓死してしまうかもしれないのに。「あれしかない食料をわけてあげたんですか?」とびっくりして問う大使にそのおじさんはこういった。「あんた達がきて、食料をくれたとき、本当にうれしかったんだよ。だからあの子達にも同じようにしただけだよ。」と屈託なく笑っていうのだった。「だってこうあるじゃないか?自分にしてもらいたいことをしなさいって。」

彼の中には主イエスの言葉があったのだ。そしてその御言葉を実践していた。

大使は自分が飢え死にするかもしれない時にゴンドールのこの男は当たり前のように言うが果たして自分が同じ立場に置かれたら彼のようなことができるだろうかとショックを覚えたのだった。そして大使はこういわれた。

「みんながみんなゴンドールのおじさんのように自分が嬉しかったから人にもしたんだという心がもてたなら飢餓はなくなる。これが個人ではなく国と国だったたら平和になるよね。」

この話を聞いていた私達もみんなショックだった。みんな泣いていた。あちこちからすすり泣きが聞こえた。感謝の祈りをした男の人も自己中心名私達の生活を悔い隣人となれるよう泣きながら祈っていた。自分達もゴンドールの男の人のような事ができるだろうか。本当の隣人愛とということをもう一度考えさせられた。

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

それで、何事でも、自分にしてもらいたい事は、他の人にもそのようにしなさい。(マタイ7:12)

頭ではわかっているようでも実際には食事の時の祈りに彼らのために祈っているだろうか。主の祈りには「我らの日ごとの糧を今日もおあたえください。」というのがはいっている。

何年も前になるが長男の学校のチャプレンが食前の祈りの時、感謝とともにこういった。「食べられない人の事も覚えて・・・」その時「あ、」と思った。そうだ、「我らの」中に彼らのことも入っているんだと。

そのあと大使は小さな募金箱を紹介した。落穂募金と読んでいるのだそうだ。ミレーの有名な落穂ひろいは聖書の話が題材になっている。畑のある人は落ちている麦の穂を拾ってはならない。貧しい人のためにとっておくようにという話がレビ記に書かれている。そしてだれでも1円や5円がなければ生きていけないような人々はおそらくこの日本にはいないでしょう。だから1円はこの募金箱に寄付してください。5円あれば子ども達はいきていけるのです。といって。

本当の隣人になるためにできることからはじめよう。
そして困っている人たちのことを絶えず祈ろう。神様は御心にかなった祈りならば聞いてくださるのだから。


主よ・・・・

2007-07-26 23:24:12 | キリスト教(行事、他)
とうとう犠牲者がでてしまった・・・・。

解放されたとかニュースはあったけどのこる22人は未だ囚われの身である事もわかった。

10発の銃弾を身に受けて牧師が殺されたという。ニュースを見ていたら悲しいのと卑怯なテロリスト達に怒りをおぼえた。

キリストは十字架にかけられた時、自分をいやしめ、殺そうとしているもののためにこう祈った。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分ではわからないのです。」

タリバンは何が罪なのかそれさえもわからくなっているのだろう。
でも私にはとても彼らを赦してくださいなんていのれない。

もう、気分がぐちゃぐちゃ。

主よ、決して悪を赦さないでください。
もうこれ以上、犠牲者がでませんように。
殺された牧師、その家族や信者達の上に主の慰めと平安がありますように。
その死が無駄にならずあなたの栄光を表すことができますように。

祈って、泣いていたらアルバがひざに乗ってきた。
アルバもアーメンっていってくれるの?


善き隣人とは誰なのか?

2007-07-24 23:33:35 | キリスト教(行事、他)
タリバンに拉致された韓国人の23人の命が心配だ。
殺人はしないという約束など交渉が進展しているようだがまだ楽観はできないだろう。

日本人が3人拉致された時のように韓国メディアの一部は彼らを非難する意見があるという。

彼らはキリスト教徒だが、ボランティア活動のために入国したと報道されている。タリバン側を刺激しないために布教活動はしていない事を強調しているらしいとか、報道のされかたが当然のごとくイスラム教対キリスト教を匂わせている。

彼らの笑顔の写真を見て「こういう事態を考えなかったんでしょうか?」とかいかにも危険地域に行く事をピクニックに行くような感覚のように彼らを見てとらえて意見を述べている人がいる。はっきりとはいわないがバッシングに近い意見だった。

危険地帯と知っていて出かけているということはそれだけの覚悟があってのことだと思う。彼らのやっていたボランティア活動は悪い事なのだろうか。こういった報道を見るとその人にこう問いたくなる。

「危険な紛争地帯に行って困っている人たちに支援することは悪い事ですか?あなたにはできることですか?」と。

聖書の中でイエス・キリストがこんなたとえ話をしている。

当時、祭司長や律法学者のような権威者達はイエスを妬み、嫌っていた。そこでいろいろな質問を投げかけて陥れようとしていた。そんな背景の中でのたとえばなしである。

ルカの福音書10章25~37節

するとある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠の命を自分のものとして受ける事ができるでしょうか。」

イエスは言われた。「律法には、なんと書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

すると彼は答えて言った。「「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。」

イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば命を得ます。」

しかし、彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもはその人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

たまたま祭司が1人、その道を下ってきたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

ところがあるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうにおもい、

近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

当時サマリヤ人とユダヤ人の関係は険悪であった。互いに口を利くこともなければ助け合う事などなく、時には戦う事もあったようである。



韓国のキリスト教会からボランティアに言った人々はこの御言葉を実践したのではないだろうか。

アフガニスタンでは政府機能がまだ確立されていない。現地の人々はリーシュマニアという病気に苦しんでいる。生活すら整っていない。学校さえボランティアの手によって立てられているのが現状だ。国と国の政府間の支援もあるがそれにも限りがある。場合によっては草の根の交流や支援のほうが役立っている事だってあるのだ。

彼らは支援の必要な国に、文化も宗教も超えて支援をしているだけなのだと思う。彼らをその地へ向わせたものは隣人愛だ。他国の文化に入る時の心得は必要としても、彼らのように実践できないものが批判をすべきではないだろう。

彼らの無事を心から祈る。





脱走アルバにゃん

2007-07-22 23:02:00 | 我が愛猫たち
こまったもんです。
アルバは一回目の脱走に味を占めて脱走する全事6回。

アルバの脱走対策に100均ショップで売っている猫よけのとげとげを隙間という隙間に張っているのにあのちび猫アルバたんがもうベランダを飛び越えられるくらい成長したのだ!その姿はまるでヒョウのよう・・・。


それに先日の回覧板で猫は室内飼いでお願いします。なんていうのが回ってきてしまったところ。家の中だけだとかわいそうという気がする。でも室内外のメリットも在る排泄物等で隣人とのトラブルは避けられる。すぐ前に大きなとおりがあるので車に惹かれる心配がない。猫のみ、ダニなどの被害がない。とにかくアルバはもうすでに2回は脱走しているので・・・・策をこうじねばならない。

脱走する時は必ず私の顔をチラッと見てマンションの中庭に飛んでいってしまう。そして10分くらい散策してから帰ってくる。その後長男からいたずら防止スプレーを嫌というほどかけられて脱走も収まったかのように思えたのだったが・・・・。隙をつかれた。。。。それから3回も・・・・・。大脱走。
仕方がないのでベランダに出たがる時はハーネスの紐を長くしてださせてやるのだが・・・・みてください。この抗議の顔を!



(ニャンだよ~、おいらこんなひもなんかきらいだよ!、とっておくれよぉ~!)




さぁ~これでだっそうできまい!

(ちぇ、こんな紐つけやがって!つまんにゃいの・・・・。)

ぶーたれるアルバたんなのでした。

長男の詩

2007-07-18 16:11:56 | 長男のこと
久しぶりに気分がすっきりしているので昨日と今日と部屋、ベランダの片付けをしていた。

そうしたら懐かしいものが出てきた。

長男が現地校の4th gradeの時の文集である。その文集に長男の詩がのっていた。
これを初めて読んだとき泣けて泣けてしょうがなかった。

この年は2,000年、父が死んだ年であり、長男のパニックがひどい時、セラピストを変えた年、私も長男のパニックにうまく対応できずに多分つらく彼に当たっていた時であったと思う。

この詩を作った時、彼はなぜこんなにも穏やかで優しい気持ちになれたのか。「神様!助けて!」と叫んでいた一番つらいときだったのに。



「Mama」(原文のまま)


Nice, Warm, Beautiful,

Loving, Working, Caring.


She is like a flower.

That is my favorite.

I always give her my big love.


The kindest person in the universe.


I love you.



また、涙がでてきちゃったよ。







効いてないのかな、効いているのかな。

2007-07-11 20:50:41 | Weblog
不安を訴えると薬の量が増える。
増えてから眠気があるものの少し気持ち的に楽になって積極的に何かをしようなんて気もしていたのに。またここのところ気持ちが沈んでいる。天気のせい?

日曜日の礼拝は本当に祝福されて受付の奉仕もできたし、教会員の人と一緒にお茶を飲みながら話もできていたのに・・・。

今、処方してもらっている抗うつ剤。処方量としてはマキシマムみたい。
お医者にはこれでよくならないようなら別の薬に変えましょうといわれている。

なんなんだろ、このアップダウン。

なんか泣きたい。すごく怖い。
もう、こんなのやだ。


キィ~!!!!

2007-07-03 18:25:23 | Weblog
今日はいい気分だったのに。

一挙に不愉快になった。

自分に愛がないのはわかる。心が狭いのも。でも・・・。

もう、あなた達の意見を押し付けないでくれ!!
一種の洗脳だよ、それ!
嫌いなんだよ、そういうの!

私、「ごめんね、急いでるから」って言ったよね~!!
それなのに何でずぅっと話し続けるかなぁ!
あれもこれも00さんがやってくれたのよとかさ。良い事する人は全部私達の推薦する人。あの党は逮捕者が過去何人でたとか。

やんわりと断ってるのわかんないかなぁ?!
前も長い話をずぅっときかされ続けて「私は自分でこの人がいいって思う人に入れるから絶対その人に入れるって言う約束はできないよ」っていったじゃん。

だから今回言っちゃったよ!はっきりと。
私達もおとなんだからちゃんと投票する人ぐらい自分で決められるからさ。
はっきり言ってわるいんだけどもう選挙のたびに来ないでほしいんだ、ごめんねって!

あ~やだやだ、嫌なものはいや!


あ~、まただんなに「敵をつくるようなことして」って怒られそう・・・・。
いいもん。

でも、神様、愛がなくてごめんなさい。(傷ついたかなぁ、彼女・・・)





アルバの災難2

2007-07-03 13:38:51 | 我が愛猫たち
やっと口の傷が治ったと思ったのに。。。。。
今度は・・・・・おしっこがでない!

前回の記事、タンポポミニストリーの集まりから家に帰ってくると、いつも私の足元にゴロニャーんとするのにクローゼットの中に入って出てこない。

なんかだるそう。

夜になって何回もトイレに行くのにおしっこをしていない。
!!!!大変!朝はおしっこの後があったし・・・・いつからなのか。
かわいそうにその後もトイレに行って目をしょぼしょぼさせていた。

次の日は日曜日。
あ~、また礼拝にいけないかなと思いながら尿毒症になったら命に関わると思い朝一番に動物病院へ。

こういうときに限って混んでいる。アルバは怖がってニャオニャオいうし。。。
検査に異常に時間がかかる。多分アルバが怖がって抵抗していたんだろう。アルバの鳴き声と金属のものがカラーンと大きな音を立てていた。どうやらおしっこを採取していたらしい。

結果はストラバイト尿石症。

どうやらエサが悪かった様で・・・・。カリカリしか食べさせていないし・・・何が悪かったのか。。。先生の話だと美味しいとCMでやっていた「シー0」という高いキャットフードが悪かったみたい。「猫大好き0000-」でおなじみのもだめだとか。よく食べるからあげていたんだけど。こうなると何をあげたらいいかわかんないね。

しばらく結石を溶かす特別なキャットフードと錠剤で様子をみることになった。
その後おしっこはでるようになったが。。。。

錠剤をのんでくれない・・・・。先生のやるようにしたんだけど失敗。苦かったらしくはいてしまった・・・。

それに食事療法のキャットフードが気に入らないらしくたべてくれない。(もうアルバと私の根競べである。)おなかがすくと仕方なくちょこっと食べているがほんのちょこっとでおしまい。それでも子どもをほめるように「よく食べたね~!アルバ!えら~い」と褒めちぎるのだが・・・・。アルバは「フン!)というように横目でみている。

もうこまっちゃって。。。。

どなたか猫を買っている方でストラバイト尿石症について詳しい方、またこうやったら食べてくれたとかお薬飲んでくれたとかありましたら教えてくださ~い。





リ・ユニオン-Reunion

2007-07-03 00:32:39 | キリスト教(行事、他)
30日の土曜日、御茶ノ水クリスチャンセンターでアメリカで私が洗礼を受けた日本人教会の帰国者の集まりがあった。

私達の日本人教会は小さな群れだったが、教会員のほとんどが駐在員家族として滞在していたから帰国にともない、流動が激しく3、4年で教会員のほとんどが入れ替わってしまう事もあった。しかし、毎年2回は洗礼式がおこなわれるなど、それぞれの人に働く神様の導きには本当に驚くばかり。牧師先生は最初この流動に心を痛められていたがこうして海外で信仰を与えられたものが帰国していくすがたに、タンポポの種が風に乗って飛んでいく姿にイメージをもたれて、日本でしっかりとクリスチャンとして根付く事を願いその働きをタンポポミニストリーとよんでいる。

こうして毎年帰国者が共に賛美し、集まりその頃の話をしたりそれぞれの神様の恵みをわかちあったりするのである。今回はスライドを通して宣教の10年をふりかえった。


私達家族がその教会に集ったのは2年と本当に短い間であったがその間に数え切れないほどの恵みを受けクリスチャンホームとなれたのは感謝である。(興味のある方はカテゴリーの証をよんでね)

スライドでは牧師家族の宣教の開始から、クリスマスやイースター、洗礼を受けられた方々の写真が写され、その時、その時、神様がときにかなって奉仕者を与えられたり、必要な物事が与えられていた事がわかる。

もちろん私達の洗礼時の写真もあった。写真を見るとそのときの気持ちや教会に行くようになったいきさつがよみがえり胸が熱くなった。

そして、ワーシップソングでの賛美。
日本の教会ではまだまだ聖歌・讃美歌が多く使われているが当時の私達はワーシップ・ソング(コンテンポラリーゴスペル)を用いての賛美だった。みんなの歌声は一つになり心も一つになり神様に賛美をささげる。そういう時、単に気持ちが高揚しているわけではなく、自分たちの歌声に酔っているわけではなく、なんともいえない気持ちになる。そこに神様の臨在を感じるのだ。

久しぶりに会ってたくさんの兄弟姉妹(クリスチャンたち)とお話しすることができた。ただ、たくさん話したい事があったのにここのところ人との交わりを避けていたので、ちょっとうまく話せなかったかな。

アメリカから帰ってきて何年もたつとあの時の事が夢のような感覚になってくるのだが、久しぶりにその頃のメンバーに会えて時が戻ったようだった。ただ私が教会学校の教師として教えていた子ども達はすっかり大きくなってびっくりしてしまった。その頃赤ちゃんだった子もいるのにもうお話ができるくらい大きくなった。

しゃべった事で少し疲れが出たが、それとは逆に心の中に何かパワーをもらったような気がする。

神様がくれた最高の時。感謝。