もう前の事だけどBSでやっていた映画だった。
なぜか長男と2人で見た映画。
アカデミー賞作品。
1930年代、黒人差別が活発な時代が背景となっている。サリー・フィールド主演、他にジョン・マルコビッチが盲目の役で出演している。
「サリーフィールド演じる未亡人がたくましく生きていく話。」と何かの記事に紹介されていたけど、この映画を見ていたとき一体何を訴えようとしているのだろうと不思議に思ってみていた。社会的な弱者の人権なのか、未亡人の人生なのか、その時代の問題点なのか。
しかしこの映画の一番言いたい事は最後のシーンに集約されているといってもいいと思う。
映像は当時ファニー・クロスビーによって作詞の救いの喜びを歌った聖歌の232番「罪咎を赦され」または賛美歌「主に罪を赦され」
「This is my story, this is my song.
Praising my Savior all the day long.」
の賛美が響いてくる教会からはじまる。
黒人少年が誤って主人公の夫を銃で撃って死なせてしまい、その後少年も銃によって死んでしまう。その後のシーンには思わず目を背けたくなったほどだ。犯罪者ときめつけられ、黒人少年の死体を車で引きずりまわし木につるされる。
歌手のビリーホリディは「奇妙な果実」という人種差別を告発する歌での中でこの情景をうたっている。
また聖書の中で木につるす、かけられるとは「神にのろわれたもの」という意味があるそうだ。
未亡人になった主人公は子ども2人を養うべく1人の黒人男性モーゼスを雇う。その頃の差別、黒人に夫を殺されたということもあって心をかたくなに閉ざしている主人公の元へ銀行員の男から言葉巧みに盲目の青年を預かってくれと頼まれる。この男にとって盲目の青年は厄介者だったのである。こうして未亡人と黒人男性、盲目の男性(この頃は障害者も差別されていた)という社会的な弱者の共同生活が始まる。
綿で生計を立てようと奮闘する主人公、心の通い合わなかった3人が次第に通わせていく。綿の生産、収穫の喜び、未亡人と黒人達との間には隔ての壁がなくなっていく。モーゼスが未亡人に価格の取引の仕方を教えた事でそれを良く思わない人物達によって黒人男性は凄惨な虐待を受ける。異変に気付き必死で黒人男性を守ろうとする白人の盲目の青年。盲目の青年には声でその者達が、町の、しかも自分が良く知っている人物だとわかって愕然とする。リンチのおそろしさから黒人男性は町を去らなければならなくなる。
そのほかにも町の人々の暮らしが物語と平行して映し出される。不倫、不正、法律にふれないような様々な小さな罪。
最後のシーンは教会の聖餐式(キリストの十字架を覚えるための聖礼典)。町の人々がそれぞれパンの切れはしと葡萄液を笑顔でまわしていく。
牧師が聖書の第一コリント人への手紙13章(愛の章と呼ばれている)を読んでいる。
やがて未亡人、子ども達、そしてなぜか去ったはずの黒人男性がすわっていて・・・そして・・・
最後になんと!亡くなったはずの主人公の夫が自分を殺した黒人の少年と微笑を交わしながらパンと葡萄液をとっている。
そして牧師の朗読している聖書の言葉はこの言葉でおわる。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です。」
言い知れない感動があった。 涙がこぼれてしかたなかった。
このとき長男がはじめて泣いた。
何かに感動して泣くということがなかった子だったのでびっくりした。
彼はしゃくりあげながら「お母さん、僕なんだか感動した。。。」
この映画のテーマは「赦し」なのではないだろうか。
最後のシーンは神様が見ている視点なのかなと思った。
そして神様は最後のシーンのように赦すことをのぞんでおられる。
人間は平等であり、それぞれが罪がある。
でもお互いの違いを認め、尊敬しあい、愛を持って思いやり、赦す事が大事なのだと。
「しかし、私はあなた方に言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。」(マタイ福音書 5章44節)
「もし、人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の罪をお赦しになりません。」(マタイの福音書6章14,15節)
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(レビ記19章18節)
聖書でとりあげられている罪とは不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、ねたみ、酩酊、遊興こういった類のものだ。
しかし神様が望んでおられる事は次のようなこと。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。
最後のシーンは神様があなた方は互いに愛し合いなさいよと厳しく戒めているのではなくかえって見守るような暖かさまでかんじられる。
本当に人間の罪深さと人権、赦しあうことの大切さを考えさせられる映画だった。
この映画を見て感動して泣いたいた頃より、大人びてきた長男がこの頃また不安定になっている。
昔のいじめのフラッシュバック、他人に対するねたみ、世の中の不条理が赦せないといっては泣くのだ。
「ぼくは他人の長所しか見たくないのにどうしても短所ばかりを見てしまう。憎んでしまう。そんな自分がどうしても赦せない。このままでは憎しみのために何かしでかしてしまうのではないか。ぼくは一体何のために生れてきたんだろう。」
と涙をぽろぽろこぼしながら言う。そしてだれを憎んでいるのか何に苦しんでいるのかは具体的には教えてくれないのだ。
「もちろん、あなたは神様に愛されるために生まれたんだよ。ママもパパも君とケンカする時悪い事言ってしまうけど本当は愛しているんだよ。大好きなんだよ。大切な子供なんだよ。」
「私達は不完全だから十字架が必要なの。それに私達は神様ではないし、世の中の全ての事がわかるわけではないんだよ。」
「罪をおかしつづけてこのままでは滅んでしまう人間を神様は哀れんでイエス様を遣わしてくださったんだよ。不完全な私達の変わりに十字架にかかって神様とのとりなしをしてくれて、3日後によみがえられた。それを信じる者は神様の御前に正しい人とされているんだよ。君はそれを信じているでしょ。だから今のままでいいのよ。」
「ママは刺繍が好きでしょ。刺繍の裏側を知ってる?ほら見てごらん、糸がごちゃごちゃになってる。どう見ても汚いじゃない。でも表を見て。きれいな葉っぱになってるじゃない。今はねOOはその裏側を見てるのよ。今わからなくてつらいことだらけでも、いつかはこのために苦しみがあったんだってわかるようになるよ。」
と聖書を開いて御言葉を読んだり、必死で長男に話した。(最も刺繍の話は何かの本の受け売りだけど・・・・。)
こんなやり取りが3日間あった。今は落ち着いているので一安心だけど。。。
赦すということは罪を認めることよりも難しいと思うな。
もちろん私もその不完全なものの1人。自分勝手ですぐ人を憎んでしまう自分がいる。そんなもののためにイエス様の十字架があるのだ。
長男よ、ママだっておなじなんだよ。。。。。。
ああ、映画のレビューのつもりだったのになんだかすっごく長くなっちゃった。
ここまで読んでくれた方ありがとうございます。
なぜか長男と2人で見た映画。
アカデミー賞作品。
1930年代、黒人差別が活発な時代が背景となっている。サリー・フィールド主演、他にジョン・マルコビッチが盲目の役で出演している。
「サリーフィールド演じる未亡人がたくましく生きていく話。」と何かの記事に紹介されていたけど、この映画を見ていたとき一体何を訴えようとしているのだろうと不思議に思ってみていた。社会的な弱者の人権なのか、未亡人の人生なのか、その時代の問題点なのか。
しかしこの映画の一番言いたい事は最後のシーンに集約されているといってもいいと思う。
映像は当時ファニー・クロスビーによって作詞の救いの喜びを歌った聖歌の232番「罪咎を赦され」または賛美歌「主に罪を赦され」
「This is my story, this is my song.
Praising my Savior all the day long.」
の賛美が響いてくる教会からはじまる。
黒人少年が誤って主人公の夫を銃で撃って死なせてしまい、その後少年も銃によって死んでしまう。その後のシーンには思わず目を背けたくなったほどだ。犯罪者ときめつけられ、黒人少年の死体を車で引きずりまわし木につるされる。
歌手のビリーホリディは「奇妙な果実」という人種差別を告発する歌での中でこの情景をうたっている。
また聖書の中で木につるす、かけられるとは「神にのろわれたもの」という意味があるそうだ。
未亡人になった主人公は子ども2人を養うべく1人の黒人男性モーゼスを雇う。その頃の差別、黒人に夫を殺されたということもあって心をかたくなに閉ざしている主人公の元へ銀行員の男から言葉巧みに盲目の青年を預かってくれと頼まれる。この男にとって盲目の青年は厄介者だったのである。こうして未亡人と黒人男性、盲目の男性(この頃は障害者も差別されていた)という社会的な弱者の共同生活が始まる。
綿で生計を立てようと奮闘する主人公、心の通い合わなかった3人が次第に通わせていく。綿の生産、収穫の喜び、未亡人と黒人達との間には隔ての壁がなくなっていく。モーゼスが未亡人に価格の取引の仕方を教えた事でそれを良く思わない人物達によって黒人男性は凄惨な虐待を受ける。異変に気付き必死で黒人男性を守ろうとする白人の盲目の青年。盲目の青年には声でその者達が、町の、しかも自分が良く知っている人物だとわかって愕然とする。リンチのおそろしさから黒人男性は町を去らなければならなくなる。
そのほかにも町の人々の暮らしが物語と平行して映し出される。不倫、不正、法律にふれないような様々な小さな罪。
最後のシーンは教会の聖餐式(キリストの十字架を覚えるための聖礼典)。町の人々がそれぞれパンの切れはしと葡萄液を笑顔でまわしていく。
牧師が聖書の第一コリント人への手紙13章(愛の章と呼ばれている)を読んでいる。
やがて未亡人、子ども達、そしてなぜか去ったはずの黒人男性がすわっていて・・・そして・・・
最後になんと!亡くなったはずの主人公の夫が自分を殺した黒人の少年と微笑を交わしながらパンと葡萄液をとっている。
そして牧師の朗読している聖書の言葉はこの言葉でおわる。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です。」
言い知れない感動があった。 涙がこぼれてしかたなかった。
このとき長男がはじめて泣いた。
何かに感動して泣くということがなかった子だったのでびっくりした。
彼はしゃくりあげながら「お母さん、僕なんだか感動した。。。」
この映画のテーマは「赦し」なのではないだろうか。
最後のシーンは神様が見ている視点なのかなと思った。
そして神様は最後のシーンのように赦すことをのぞんでおられる。
人間は平等であり、それぞれが罪がある。
でもお互いの違いを認め、尊敬しあい、愛を持って思いやり、赦す事が大事なのだと。
「しかし、私はあなた方に言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。」(マタイ福音書 5章44節)
「もし、人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の罪をお赦しになりません。」(マタイの福音書6章14,15節)
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(レビ記19章18節)
聖書でとりあげられている罪とは不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、ねたみ、酩酊、遊興こういった類のものだ。
しかし神様が望んでおられる事は次のようなこと。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。
最後のシーンは神様があなた方は互いに愛し合いなさいよと厳しく戒めているのではなくかえって見守るような暖かさまでかんじられる。
本当に人間の罪深さと人権、赦しあうことの大切さを考えさせられる映画だった。
この映画を見て感動して泣いたいた頃より、大人びてきた長男がこの頃また不安定になっている。
昔のいじめのフラッシュバック、他人に対するねたみ、世の中の不条理が赦せないといっては泣くのだ。
「ぼくは他人の長所しか見たくないのにどうしても短所ばかりを見てしまう。憎んでしまう。そんな自分がどうしても赦せない。このままでは憎しみのために何かしでかしてしまうのではないか。ぼくは一体何のために生れてきたんだろう。」
と涙をぽろぽろこぼしながら言う。そしてだれを憎んでいるのか何に苦しんでいるのかは具体的には教えてくれないのだ。
「もちろん、あなたは神様に愛されるために生まれたんだよ。ママもパパも君とケンカする時悪い事言ってしまうけど本当は愛しているんだよ。大好きなんだよ。大切な子供なんだよ。」
「私達は不完全だから十字架が必要なの。それに私達は神様ではないし、世の中の全ての事がわかるわけではないんだよ。」
「罪をおかしつづけてこのままでは滅んでしまう人間を神様は哀れんでイエス様を遣わしてくださったんだよ。不完全な私達の変わりに十字架にかかって神様とのとりなしをしてくれて、3日後によみがえられた。それを信じる者は神様の御前に正しい人とされているんだよ。君はそれを信じているでしょ。だから今のままでいいのよ。」
「ママは刺繍が好きでしょ。刺繍の裏側を知ってる?ほら見てごらん、糸がごちゃごちゃになってる。どう見ても汚いじゃない。でも表を見て。きれいな葉っぱになってるじゃない。今はねOOはその裏側を見てるのよ。今わからなくてつらいことだらけでも、いつかはこのために苦しみがあったんだってわかるようになるよ。」
と聖書を開いて御言葉を読んだり、必死で長男に話した。(最も刺繍の話は何かの本の受け売りだけど・・・・。)
こんなやり取りが3日間あった。今は落ち着いているので一安心だけど。。。
赦すということは罪を認めることよりも難しいと思うな。
もちろん私もその不完全なものの1人。自分勝手ですぐ人を憎んでしまう自分がいる。そんなもののためにイエス様の十字架があるのだ。
長男よ、ママだっておなじなんだよ。。。。。。
ああ、映画のレビューのつもりだったのになんだかすっごく長くなっちゃった。
ここまで読んでくれた方ありがとうございます。